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彼女のベッド ※R18(保険)
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◇
朝、カーテン越しに差し込む光で今日は晴れだとわかる。
亮一はベッドから起き上がろうとした可南子の腰を包むように抱き込んだ。小さな声を上げた可南子は、亮一の腕の頑丈さに大人しく従うように腕の中に戻る。
可南子は亮一のパーカーを着たままで、それがまた亮一の独占欲を満たしていた。
光が散っているような可南子の潤んだ黒い瞳を見つめて、亮一はこめかみに唇を落とす。
すると可南子に、頬を赤らめながら純粋に嬉しそうな顔を向けられた。
咲いたばかりのまだ柔らかい花のような笑顔に、心の中、夢か現か曖昧な淵から、喜びが湧き出る。
貴重な休みの日に両親と会う約束をしたことを、亮一は心から億劫に思った。平日の夕方に約束をすれば良かったと後悔する。
可南子の手がおずおずと伸びてきて、亮一の顎を撫でた。まだ剃っていない髭の、ざりとした感触に興味があるのかずっと触れてくる。
亮一は自分の肘を立てて枕にして頭を乗せたまま、横向きに寝ている可南子の肩、くびれ、骨盤と手を沿わせるように移動していく。なだらかに描かれる丘陵は、女性らしい。そして、どうしても最後に手は臀部の丸みを味わってしまう。
可南子の呆れたような視線を受けても、手が勝手に動くのだからしょうがない。
悪戯っぽく笑むと、可南子は少し身体を起こして亮一の頬に口づけた。
亮一は自分の顔が誰にも見せたくないくらいに緩んだのがわかって、誤魔化すように可南子の額に口づける。すると、可南子はまた嬉しそうに微笑んだ。
可南子が戸惑いをそのままに、幾重にも張り巡らしていた透明な壁が、急速に失われていっているのを亮一は感じていた。
それが勘違いじゃないという確信は、亮一の気持ちに爽やかな息を吹き込む。
昨夜、可南子から温泉旅行に行くと、一緒に暮らしたいとも言ってくれた。
亮一の三年の時間を掛けて重なっていった気持ちを、会って一ヶ月ほどの可南子に受け止めろというのは無理だとわかっている。でも、少しずつでも想いに応えようとしてくれていることがどんなに嬉しいか、可南子にどうしたら伝わるのだろうか。
本来なら、好きだと言って貰えていることに満足するべきなのだ。けれど、亮一は可南子を誰にも渡す気がない。手に入って満足するどころか、一緒に歳を取っていつまでもそばにいたいと、調和的なはずの理知が貪欲に唸る。
甘い時間を邪魔するかのように、亮一のスマートフォンが『親族』設定している着信音で鳴り出した。渋々ヘッドボードからスマートフォンを手に取ると画面には母親の朝子の名前が表示されていて、朝八時の母親からの電話にさすがに亮一は顔を顰めた。
「出なくていいんですか?」
鳴り止まない電話を睨み付けていると、可南子が心配そうに声を掛けてきた。亮一は溜め息をついて、可南子の気持ちを静めるように黒い髪を撫でる。
「すまん、母親からだ。あっちで出てくる」
可南子を引き止めたベッドから自分が出る状況に、亮一は気持ちが重くなる。この間に、可南子が着替える確率はほぼ百パーセントだろう。
リビングのソファに腰掛けながら、何の用だと憤慨にも似た気分で亮一は電話に出た。
「もしもし」
『おはよう。寝てた?』
「そう思うなら、もうちょっと遅くかけてこいよ」
口調が厳しくなるのは、母親だからというよりも可南子との時間を邪魔されたからだ。
『亮一が今日の約束をすっぽかさないか、心配になったのよ』
朝とは思えない明瞭な口調で機嫌良く朝子に言われて、亮一は思わず黙る。行かないという選択肢は無いが、気が進まないのも事実だ。
『ねぇ、そこに可南子ちゃんいるんでしょう。ちょっとお話しをしたいから代わってくれないかしら』
スマートフォンを持ったまま、亮一は硬直した。朝子の言葉がじわじわと全身を巡ると、亮一は眉間に深い皺を作った。
……無理に決まっている。
「何なんだ。朝から」
同棲したい彼女がいるとは言ったが、可南子の名前を出した覚えは無い。
……どこだ、どこから漏れた。
瀬名家からかとすぐに結論づいて、亮一は結衣の存在にうんざりとした。
筒抜けすぎるのはもう慣れているが、ここまですべてが風のように素早く回ってしまうのは、志波家と瀬名家の女でやっているお茶会とやらのせいだと思う。
『ほら、なんとか制度で結衣ちゃんがお世話した後輩さんよね。広君から、亮一の彼女がその『可南子ちゃん』だって聞いたの』
思っても見ない名前が出て、亮一は額を拳で押さえた。
広信はすぐに女の輪に入る。何故だか知らないが、知り合った頃から得意だった。
「なんで、広信の名前が出てくるんだ」
『大学時代からの亮一の彼女の話なら、広君が一番詳しいでしょう。だから、聞いてみたの』
「聞くなよ」
『……さっきから黙って聞いていれば、よくもまぁ、私にそんな口が聞けるわね。でも、その反応で可南子ちゃんがそこにいるということはわかったわ。ほら、代わってちょうだい』
居ないなんて嘘も付きたくなかったし、居ると正直に言いたくも無かったのが裏目に出た。
最初からいると踏んで電話をしてきたくせに、と亮一は苦々しく思う。
どういう理由だか知らないが、可南子と話しをしようと、朝の早い時間に狙い撃ちして電話をしてきたのだ。
朝子には彼女関係では迷惑を掛けている認識が亮一にはある。同棲のこととは別に、だからこそ紹介をしておこうと思っているのもあった。
亮一にしてみればかなり譲歩している。だが、朝子が亮一の彼女について、事前に広信に聞くという行動にでるとは思わなかった。
……広信は何を話したんだ。
広信が可南子の事をネガティブに伝えることはないだろう。けれど、亮一を面白がって、朝子に盛って話しをしている可能性は、大いにある。
……そっちだな。
亮一は頭を掻いた。広信は可南子との事を直接いろいろ聞いてくる事はないが、どうにもこうにも、亮一がボロを出すような引っ掛けをしてくる。
一人っ子の広信は可南子を『僕の妹』という目で見ているらしい。『結衣がお姉さんなら、僕はお兄さんなわけで、そうしたら妹だよ』と、真顔で返されて固まったことがある。
亮一は朝子からの代われコールをどう切り抜けようかと考える。ただでさえ、貴重な二人の時間の邪魔をされているのだから、さっさと終わらせたい。
すると、寝室のドアの縁(ふち)から、もう昨日着ていた赤いセーターに着替えてしまった可南子が、ひょこりと顔を出した。
……ほら、やっぱり着替えた。
可南子は黒い髪をさらりと肩から落としながら「だいじょうぶ?」と小さな桜色の唇を動かした。
亮一の落胆はあっという間に、そのかわいさに凌駕された。亮一は言葉を失って、耳元から聞こえてくる朝子の言葉を聞き逃す。
『ちょっと、聞いてるの』
亮一は可南子に大丈夫だと頷く。可南子は腑に落ちない顔で亮一が座っているソファのそばまで近寄ってくると、少しためらった後、亮一の横に腰掛けた。
相変わらず電話口から朝子の声が響いてきている。亮一はスマートフォンを持っていない方の腕で可南子の細い肩を抱くと、電話口を遠ざけて髪に口づける。
可南子が着ているセーターの襟元には亮一が昨日散らした赤い痕が見え隠れしている。亮一はその痕に、可南子の肩から回した指で触れた。
「……可南子と、話させろとうるさい」
口づけたまま小さな声で事情を説明すると、可南子は理由がわかってほっとしたのか亮一を見上げて微笑んだ。
「電話、かわります」
亮一は耳を疑った。
「何でだ」
「だって、私と話をしたいと仰ってるんですよね」
可南子に真っ直ぐに見据えられて、亮一は断る理由を失う。
「いいのか」
頷いた可南子を確認して、亮一は母親との電話を代わる。時折、可南子は驚くほどに行動を躊躇わない。
……俺と一緒に住むことくらいじゃないのか、 尻ごみしてるの。
苦い薬を飲まされたような感じに、亮一は顔を歪めて膝の上に肘をついた。
可南子が何か助けを求めてきたら代わろうとしていたのだが、まったくの杞憂だった。可南子は相槌を打っているだけではあったが、朝子と二十分は話していた。
しかも話しが終わった後、すでに切れたスマートフォンを差し出された。
「もう切ると仰って……」
朝子の用事は、本当に可南子と話すことだったらしい。申し訳なさそうにする可南子に「あっちが切ったんだ」と、亮一は苦笑いした。
可南子は話しの内容を、かいつまんで話しをしてくれた。
朝子は結衣からメンター制度の件で、可南子の話を聞いていたらしい。
結衣はどこでも可南子の事を話していたんだな、と亮一は面食らう。結衣の事だからいつか家に連れてくるかと思いきやまったく連れてこない。ずっと話をしてみたかったという、全般的に好意的な話だったようで、亮一はほっとする。
また、結衣の披露宴のお色直しの際、手洗いに席を立った可南子は、ロビーに居た瀬名家長男夫婦の双子の女の子と少し遊んでいた。それを朝子は見ていたらしい。結衣と広信の話を合わせ、その子が亮一の彼女だと判明してとにかく話しをしたくなったそうだ。
「……夕方の用意をしないとだめですね。帰らないと」
亮一にとっては聞き取るのが困難な「帰る」という言葉を、可南子はいとも簡単に口にする。
朝子と話して可南子が二人だけの甘い雰囲気から完全に脱してしまった。
春一番の突風が吹いたかのように、先ほどまでの親密な時間は四方八方に吹き飛ばされたように思えた。
すっと冷たい血が頭から降りてきて、腹の底から黒い粘着質の泉が沸く。
腹の中に煙が立っているような不快感に、亮一は奥歯を噛み締めた。
ソファから立ち上がった可南子の腕を掴んだのは、元々送るつもりだったのと、背を向けられるのが無性に嫌だったからだ。
……後姿は、もう嫌というほど見た。
きょとんとした様子で振り返った可南子の顔に目の下に隈がない事を確認すると、亮一は立ち上がって可南子を抱きしめた。
白い肌の目の下に青黒が薄っすらとあるのが、自分のせいだとわかっていても、衝動を止められなかった一週間前とはもう違う。
相変わらず細い体は力を込めると壊れそうな気がするのに、いつも柔らかく弾むように跳ね返してくる。その度に、感嘆の息を心の中で漏らす。
亮一にとっては三年の時間を掛けて重なっていった想いを、自分を好きだと言ってくれてまだ数週間の可南子に受け止めろというのは無理だとはわかっている。
けれど、その差をどうしても埋めたい。
親だろうと友人だろうと、誰にも邪魔をされたくない。
「送る。ジムはもともと行かないつもりだった」
ジムについて聞かれるともうわかっていたので先に手を打つ。
「……筋肉、落ちませんか」
「たった一週間で落ちるほど、生半可な鍛え方をしていない」
憮然と応えると、可南子は亮一の胸の中で愛らしい声を小さく立てて笑った。
「……じゃあ、甘えます。よろしくお願いします」
断られると思っていたので可南子の返事は予想外だった。
「ついでに、時間まで過ごさせてくれないか」
「うちですか?」
亮一は頷くと、可南子は困ったように黙った。
「……部屋、汚いですよ」
「なら、一緒に片付ける」
可南子が自分の胸の中でおかしそうに笑ってくれて、亮一は移ろう時間を止めたくなる。
顔を上げた可南子は、亮一に微笑んだ。亮一は、咲いたばかりの朝の白い花のようだと思う。
好きな相手に親しみを込めた顔を向けられて、湧き上がる感情が幸せだというなら、これがそうだ。
……誰にも、邪魔をされたくないんだ。
亮一は可南子を抱きしめる腕に力を込めた。
◇
可南子のシングルベッドは、甘い香りがした。洋服からも同じ香りがするから、洗濯洗剤の香りかもしれない。
家に入ってベッドが目に入ると、当たり前のように亮一は可南子を抱いた。昨日の夜は日付が変わる前には寝たし、今朝だって抱いていない。
遮光カーテンで閉められた部屋は仄暗く、可南子の息遣いと肌の温もりが、視覚を補うようにねっとりとした情感を漂わせている。
可南子という、たった一人に出会っただけで、今まで隠れていた欲望がどんどん湧き出てくる。大事にしたいという思いと、どんな体勢でも抱きたいという欲望は、混じりあわない。混濁した行動を受け入れてくれるか否か、可南子に委ねてしまっている。
抱こうとするだけで受け入れようとしてくれる可南子の身体に亮一は理性を失いかけて、緊張から強張る可南子のしなやかな肢体に我を取り戻す。
寄せてつけたベッド横の壁から、隣の家の不明瞭な生活音が聞こえてきている。
可南子は亮一の動きに合わせて声を殺した呼吸を漏らす。
……聞かせてやればいい。
隣の男と一度すれ違った。軽そうな男で明らかに可南子に興味があるような視線を送ってきた。亮一が睨んでも可南子から目をそらさなかった。
問題なのは、その視線にまったく無頓着な可南子だ。
挨拶をした後、その男をまるでいないかのように扱う。意識して無視をしているのなら、まだ良い。意識もせずにいるから、その男の視線との温度差が危なっかしい。
「声を、聞かせてくれ」
可南子は口を押さえたまま頬を染めて頭を振る。
「……そうか」
なら、声を出させるまでだ。
こんなにもいろいろなことを試したくなるのは、可南子が最初で、最後だ。亮一は体位を変える。さすがに抵抗を試みた可南子を、優しくだが力でねじ伏せる。
「二人だけで、過ごしたいな」
可南子の耳元に口を寄せて囁くと、可南子の肌が粟立った。
「り、りょう、……す、好き……」
腰を引き寄せて挿入を深くした時、吐息と一緒に可南子が漏らす。
決して物理的に縛りつけることなの無い言葉が、亮一を平穏の場所へと導く。
可南子の腕に落ちたのも、その腕に囚われるように自ら進んでいるのも自分だと、亮一は思う。
どこでも、自分を思い出すように。刻み付ける印は、呼吸が困難なほどの苦しい想いの証しだ。
けれど、亮一の心にも少しずつ穏やかさが広がり始める。
肯定的な関係を存続できる努力を、もう、決して惜しむつもりがない。
「俺も、好きだ」
シーツを握り締める可南子の白い手を上からしっかりと握って、亮一はその快楽の中に身を落とした。
朝、カーテン越しに差し込む光で今日は晴れだとわかる。
亮一はベッドから起き上がろうとした可南子の腰を包むように抱き込んだ。小さな声を上げた可南子は、亮一の腕の頑丈さに大人しく従うように腕の中に戻る。
可南子は亮一のパーカーを着たままで、それがまた亮一の独占欲を満たしていた。
光が散っているような可南子の潤んだ黒い瞳を見つめて、亮一はこめかみに唇を落とす。
すると可南子に、頬を赤らめながら純粋に嬉しそうな顔を向けられた。
咲いたばかりのまだ柔らかい花のような笑顔に、心の中、夢か現か曖昧な淵から、喜びが湧き出る。
貴重な休みの日に両親と会う約束をしたことを、亮一は心から億劫に思った。平日の夕方に約束をすれば良かったと後悔する。
可南子の手がおずおずと伸びてきて、亮一の顎を撫でた。まだ剃っていない髭の、ざりとした感触に興味があるのかずっと触れてくる。
亮一は自分の肘を立てて枕にして頭を乗せたまま、横向きに寝ている可南子の肩、くびれ、骨盤と手を沿わせるように移動していく。なだらかに描かれる丘陵は、女性らしい。そして、どうしても最後に手は臀部の丸みを味わってしまう。
可南子の呆れたような視線を受けても、手が勝手に動くのだからしょうがない。
悪戯っぽく笑むと、可南子は少し身体を起こして亮一の頬に口づけた。
亮一は自分の顔が誰にも見せたくないくらいに緩んだのがわかって、誤魔化すように可南子の額に口づける。すると、可南子はまた嬉しそうに微笑んだ。
可南子が戸惑いをそのままに、幾重にも張り巡らしていた透明な壁が、急速に失われていっているのを亮一は感じていた。
それが勘違いじゃないという確信は、亮一の気持ちに爽やかな息を吹き込む。
昨夜、可南子から温泉旅行に行くと、一緒に暮らしたいとも言ってくれた。
亮一の三年の時間を掛けて重なっていった気持ちを、会って一ヶ月ほどの可南子に受け止めろというのは無理だとわかっている。でも、少しずつでも想いに応えようとしてくれていることがどんなに嬉しいか、可南子にどうしたら伝わるのだろうか。
本来なら、好きだと言って貰えていることに満足するべきなのだ。けれど、亮一は可南子を誰にも渡す気がない。手に入って満足するどころか、一緒に歳を取っていつまでもそばにいたいと、調和的なはずの理知が貪欲に唸る。
甘い時間を邪魔するかのように、亮一のスマートフォンが『親族』設定している着信音で鳴り出した。渋々ヘッドボードからスマートフォンを手に取ると画面には母親の朝子の名前が表示されていて、朝八時の母親からの電話にさすがに亮一は顔を顰めた。
「出なくていいんですか?」
鳴り止まない電話を睨み付けていると、可南子が心配そうに声を掛けてきた。亮一は溜め息をついて、可南子の気持ちを静めるように黒い髪を撫でる。
「すまん、母親からだ。あっちで出てくる」
可南子を引き止めたベッドから自分が出る状況に、亮一は気持ちが重くなる。この間に、可南子が着替える確率はほぼ百パーセントだろう。
リビングのソファに腰掛けながら、何の用だと憤慨にも似た気分で亮一は電話に出た。
「もしもし」
『おはよう。寝てた?』
「そう思うなら、もうちょっと遅くかけてこいよ」
口調が厳しくなるのは、母親だからというよりも可南子との時間を邪魔されたからだ。
『亮一が今日の約束をすっぽかさないか、心配になったのよ』
朝とは思えない明瞭な口調で機嫌良く朝子に言われて、亮一は思わず黙る。行かないという選択肢は無いが、気が進まないのも事実だ。
『ねぇ、そこに可南子ちゃんいるんでしょう。ちょっとお話しをしたいから代わってくれないかしら』
スマートフォンを持ったまま、亮一は硬直した。朝子の言葉がじわじわと全身を巡ると、亮一は眉間に深い皺を作った。
……無理に決まっている。
「何なんだ。朝から」
同棲したい彼女がいるとは言ったが、可南子の名前を出した覚えは無い。
……どこだ、どこから漏れた。
瀬名家からかとすぐに結論づいて、亮一は結衣の存在にうんざりとした。
筒抜けすぎるのはもう慣れているが、ここまですべてが風のように素早く回ってしまうのは、志波家と瀬名家の女でやっているお茶会とやらのせいだと思う。
『ほら、なんとか制度で結衣ちゃんがお世話した後輩さんよね。広君から、亮一の彼女がその『可南子ちゃん』だって聞いたの』
思っても見ない名前が出て、亮一は額を拳で押さえた。
広信はすぐに女の輪に入る。何故だか知らないが、知り合った頃から得意だった。
「なんで、広信の名前が出てくるんだ」
『大学時代からの亮一の彼女の話なら、広君が一番詳しいでしょう。だから、聞いてみたの』
「聞くなよ」
『……さっきから黙って聞いていれば、よくもまぁ、私にそんな口が聞けるわね。でも、その反応で可南子ちゃんがそこにいるということはわかったわ。ほら、代わってちょうだい』
居ないなんて嘘も付きたくなかったし、居ると正直に言いたくも無かったのが裏目に出た。
最初からいると踏んで電話をしてきたくせに、と亮一は苦々しく思う。
どういう理由だか知らないが、可南子と話しをしようと、朝の早い時間に狙い撃ちして電話をしてきたのだ。
朝子には彼女関係では迷惑を掛けている認識が亮一にはある。同棲のこととは別に、だからこそ紹介をしておこうと思っているのもあった。
亮一にしてみればかなり譲歩している。だが、朝子が亮一の彼女について、事前に広信に聞くという行動にでるとは思わなかった。
……広信は何を話したんだ。
広信が可南子の事をネガティブに伝えることはないだろう。けれど、亮一を面白がって、朝子に盛って話しをしている可能性は、大いにある。
……そっちだな。
亮一は頭を掻いた。広信は可南子との事を直接いろいろ聞いてくる事はないが、どうにもこうにも、亮一がボロを出すような引っ掛けをしてくる。
一人っ子の広信は可南子を『僕の妹』という目で見ているらしい。『結衣がお姉さんなら、僕はお兄さんなわけで、そうしたら妹だよ』と、真顔で返されて固まったことがある。
亮一は朝子からの代われコールをどう切り抜けようかと考える。ただでさえ、貴重な二人の時間の邪魔をされているのだから、さっさと終わらせたい。
すると、寝室のドアの縁(ふち)から、もう昨日着ていた赤いセーターに着替えてしまった可南子が、ひょこりと顔を出した。
……ほら、やっぱり着替えた。
可南子は黒い髪をさらりと肩から落としながら「だいじょうぶ?」と小さな桜色の唇を動かした。
亮一の落胆はあっという間に、そのかわいさに凌駕された。亮一は言葉を失って、耳元から聞こえてくる朝子の言葉を聞き逃す。
『ちょっと、聞いてるの』
亮一は可南子に大丈夫だと頷く。可南子は腑に落ちない顔で亮一が座っているソファのそばまで近寄ってくると、少しためらった後、亮一の横に腰掛けた。
相変わらず電話口から朝子の声が響いてきている。亮一はスマートフォンを持っていない方の腕で可南子の細い肩を抱くと、電話口を遠ざけて髪に口づける。
可南子が着ているセーターの襟元には亮一が昨日散らした赤い痕が見え隠れしている。亮一はその痕に、可南子の肩から回した指で触れた。
「……可南子と、話させろとうるさい」
口づけたまま小さな声で事情を説明すると、可南子は理由がわかってほっとしたのか亮一を見上げて微笑んだ。
「電話、かわります」
亮一は耳を疑った。
「何でだ」
「だって、私と話をしたいと仰ってるんですよね」
可南子に真っ直ぐに見据えられて、亮一は断る理由を失う。
「いいのか」
頷いた可南子を確認して、亮一は母親との電話を代わる。時折、可南子は驚くほどに行動を躊躇わない。
……俺と一緒に住むことくらいじゃないのか、 尻ごみしてるの。
苦い薬を飲まされたような感じに、亮一は顔を歪めて膝の上に肘をついた。
可南子が何か助けを求めてきたら代わろうとしていたのだが、まったくの杞憂だった。可南子は相槌を打っているだけではあったが、朝子と二十分は話していた。
しかも話しが終わった後、すでに切れたスマートフォンを差し出された。
「もう切ると仰って……」
朝子の用事は、本当に可南子と話すことだったらしい。申し訳なさそうにする可南子に「あっちが切ったんだ」と、亮一は苦笑いした。
可南子は話しの内容を、かいつまんで話しをしてくれた。
朝子は結衣からメンター制度の件で、可南子の話を聞いていたらしい。
結衣はどこでも可南子の事を話していたんだな、と亮一は面食らう。結衣の事だからいつか家に連れてくるかと思いきやまったく連れてこない。ずっと話をしてみたかったという、全般的に好意的な話だったようで、亮一はほっとする。
また、結衣の披露宴のお色直しの際、手洗いに席を立った可南子は、ロビーに居た瀬名家長男夫婦の双子の女の子と少し遊んでいた。それを朝子は見ていたらしい。結衣と広信の話を合わせ、その子が亮一の彼女だと判明してとにかく話しをしたくなったそうだ。
「……夕方の用意をしないとだめですね。帰らないと」
亮一にとっては聞き取るのが困難な「帰る」という言葉を、可南子はいとも簡単に口にする。
朝子と話して可南子が二人だけの甘い雰囲気から完全に脱してしまった。
春一番の突風が吹いたかのように、先ほどまでの親密な時間は四方八方に吹き飛ばされたように思えた。
すっと冷たい血が頭から降りてきて、腹の底から黒い粘着質の泉が沸く。
腹の中に煙が立っているような不快感に、亮一は奥歯を噛み締めた。
ソファから立ち上がった可南子の腕を掴んだのは、元々送るつもりだったのと、背を向けられるのが無性に嫌だったからだ。
……後姿は、もう嫌というほど見た。
きょとんとした様子で振り返った可南子の顔に目の下に隈がない事を確認すると、亮一は立ち上がって可南子を抱きしめた。
白い肌の目の下に青黒が薄っすらとあるのが、自分のせいだとわかっていても、衝動を止められなかった一週間前とはもう違う。
相変わらず細い体は力を込めると壊れそうな気がするのに、いつも柔らかく弾むように跳ね返してくる。その度に、感嘆の息を心の中で漏らす。
亮一にとっては三年の時間を掛けて重なっていった想いを、自分を好きだと言ってくれてまだ数週間の可南子に受け止めろというのは無理だとはわかっている。
けれど、その差をどうしても埋めたい。
親だろうと友人だろうと、誰にも邪魔をされたくない。
「送る。ジムはもともと行かないつもりだった」
ジムについて聞かれるともうわかっていたので先に手を打つ。
「……筋肉、落ちませんか」
「たった一週間で落ちるほど、生半可な鍛え方をしていない」
憮然と応えると、可南子は亮一の胸の中で愛らしい声を小さく立てて笑った。
「……じゃあ、甘えます。よろしくお願いします」
断られると思っていたので可南子の返事は予想外だった。
「ついでに、時間まで過ごさせてくれないか」
「うちですか?」
亮一は頷くと、可南子は困ったように黙った。
「……部屋、汚いですよ」
「なら、一緒に片付ける」
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顔を上げた可南子は、亮一に微笑んだ。亮一は、咲いたばかりの朝の白い花のようだと思う。
好きな相手に親しみを込めた顔を向けられて、湧き上がる感情が幸せだというなら、これがそうだ。
……誰にも、邪魔をされたくないんだ。
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遮光カーテンで閉められた部屋は仄暗く、可南子の息遣いと肌の温もりが、視覚を補うようにねっとりとした情感を漂わせている。
可南子という、たった一人に出会っただけで、今まで隠れていた欲望がどんどん湧き出てくる。大事にしたいという思いと、どんな体勢でも抱きたいという欲望は、混じりあわない。混濁した行動を受け入れてくれるか否か、可南子に委ねてしまっている。
抱こうとするだけで受け入れようとしてくれる可南子の身体に亮一は理性を失いかけて、緊張から強張る可南子のしなやかな肢体に我を取り戻す。
寄せてつけたベッド横の壁から、隣の家の不明瞭な生活音が聞こえてきている。
可南子は亮一の動きに合わせて声を殺した呼吸を漏らす。
……聞かせてやればいい。
隣の男と一度すれ違った。軽そうな男で明らかに可南子に興味があるような視線を送ってきた。亮一が睨んでも可南子から目をそらさなかった。
問題なのは、その視線にまったく無頓着な可南子だ。
挨拶をした後、その男をまるでいないかのように扱う。意識して無視をしているのなら、まだ良い。意識もせずにいるから、その男の視線との温度差が危なっかしい。
「声を、聞かせてくれ」
可南子は口を押さえたまま頬を染めて頭を振る。
「……そうか」
なら、声を出させるまでだ。
こんなにもいろいろなことを試したくなるのは、可南子が最初で、最後だ。亮一は体位を変える。さすがに抵抗を試みた可南子を、優しくだが力でねじ伏せる。
「二人だけで、過ごしたいな」
可南子の耳元に口を寄せて囁くと、可南子の肌が粟立った。
「り、りょう、……す、好き……」
腰を引き寄せて挿入を深くした時、吐息と一緒に可南子が漏らす。
決して物理的に縛りつけることなの無い言葉が、亮一を平穏の場所へと導く。
可南子の腕に落ちたのも、その腕に囚われるように自ら進んでいるのも自分だと、亮一は思う。
どこでも、自分を思い出すように。刻み付ける印は、呼吸が困難なほどの苦しい想いの証しだ。
けれど、亮一の心にも少しずつ穏やかさが広がり始める。
肯定的な関係を存続できる努力を、もう、決して惜しむつもりがない。
「俺も、好きだ」
シーツを握り締める可南子の白い手を上からしっかりと握って、亮一はその快楽の中に身を落とした。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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