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腐れ縁とか、家族とか 後編
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「広信さん、これ、いなり寿司です。このまま冷凍をしてもらえれば」
ひとつずつラップに包まれたいなり寿司が、フリーザーパックの中にびっしりと入っている。
可南子はそれを二袋、大きなタッパに、入れて持ってきてくれた。
受け取りながら、広信は、にこりと笑う。
「ありがとう」
可南子が微笑み返してくると、その場の空気が、和(やわ)らいだ。
結衣は会社で『可南子のいなり寿司が、食べたい……』と、我侭(わがまま)を言ったらしい。普段の会社の結衣は活(い)き活(い)きしているのだろう。つわりが始まってからの変化が、可南子には心配らしい。
結衣の我侭に付き合い、律儀に週末に作って持ってきてくれたのだ。
可南子は玄関まで迎えに出た、顔色が悪い結衣を見て、心配に顔を曇らせた。勝手に台所に入りますと言い、結衣をすぐにリビングのソファに座らせる。広信は、まるでお母さんみたいだと思った。
素直に従う結衣を見て、完全にかなちゃんを身内扱いしているよな、と広信は苦笑する。
「結婚、朝子さんがすごく喜んでたよ。すぐにメールが来た」
その結衣が、横に座っている亮一の厚い肩を押すように突いて、にやにやと笑っている。
亮一は避けもせずにそれを当然と受け止め、その接触が、これがまた自然で、広信は横目でじとりと見た。
「ああ。あれ、引くよな」
「独身貴族から、孤独死コースだと諦めてたから。しかも、相手が可南子だし」
亮一はまんざらでもない様子で笑った後、結衣に具合を聞いている。結衣が平らのお腹を触りながら、いろいろ話しているのを、耳をダンボにして聞きながら、広信は目の前の可南子に柔和な顔を見せた。
「いつもごめんね。嫌なら嫌だって言ってやって」
「はい」
にこりと笑った可南子は、黒い髪を一つにまとめて、黒のタートルネックのセーターを着ていた。黒との対比で白い肌がさらに白い。白と黒のコントラストがはっきりした、清らかで強い目と相まって、どこかモード系のファッション雑誌から抜け出したような感じだ。
可南子の耳にある、花柄のピアスが光った。それがアクセントになって、ただの黒い服装にはなっていない。
「それ、亮一からの、婚約の、贈り物?」
広信が聞くと、可南子は耳のピアスに触れた。頬を桃色に染めながら、頷く。
「はい。その、頂きました」
そのピアスの大きさや、石のカットとデザインを見て、広信はおおよその値段を推測した。結衣との結婚でいろいろな宝飾を見てきたので、相場がまだ記憶に新しい。
広信は冷凍庫にいなり寿司を入れながら、可南子に聞く。
「指輪もいるかって、聞かれなかった?」
「それはお断りしました」
亮一なら無理やりでも、見える所に独占の印を付けたかっただろうに。本当は、二人で選ぶつもりだったのではないかと思った。
「何で、って、聞いても良い?」
警戒心を抱かせない笑顔なら、大得意だ。広信は、心の内側に触れられても不愉快じゃない、絶妙な距離感と表情で可南子を見た。
すると、可南子は結衣と話している亮一をちらりと見た後、口元を隠すようにして、広信に顔を近づけた。
透明感のある白い肌が近くまで寄り、紅珊瑚色の唇が迫ってきて、広信のほうが焦る。
「手袋、無くしちゃったんです」
ん? 何の話かな?
広信は首を傾げると、可南子はきれいな顔を顰めて、重大な告白でもするように重々しく口を開いた。
「亮一さん、毎朝、私の手をじっと見るんです……。私、手袋をする習慣が無いから、置いた場所を忘れてしまって。落としたわけでは無いと思うので、探しています」
「えーっと、つまり?」
「指輪も、料理とか掃除で外しますよね。置いた場所を、忘れそうで……。それに、ピアスがすごく嬉しいから、これだけで十分」
可南子は自分でした想像に真っ青になった後、ピアスに触れて、濃い睫を僅かに伏せると、口角を柔らかく持ち上げた。
久しぶりに間近で見たその可愛さに、広信は本気で亮一に同情した。
……本気で言い寄る男の、気持ちがわからないでもない。
男は亮一に恋をしている可南子に惚れるのだろうが、第三者がそんな事を知る由も無い。
ただ、カワイイ!と思って、ついつい近寄ってしまうだろう。
「亮一が、手袋をしろって言ってるの?」
「……はい。でも、していないの。無いから……」
「単に、新しい手袋を、買えばいいんじゃないの? ていうか、亮一に無くした事を、ばれたくない?」
「うん、そう」
突然、敬語が取れた可南子に、大きな瞳で上目遣いに見られて、広信は気持ちだけ後ずさりする。
広信は、完全に安全圏だと思われているのだろう。
……だけど、これは、駄目!
距離が必要だった可南子が、自分から距離を縮めてきた。
これの百分の一でも、他の男へのハードルが下がってるのは、やっぱり危険すぎる! と実感を伴って広信は心の中で叫ぶ。
「あのね、かなちゃん。もう、ばれてると思うよ」
「やっぱり、ですよね。早急に、買います……」
避けたかった事実を見たようで、可南子は目を細めて、痛々しい顔をした。
広信は「落ち着いて」と、可南子の背中をぽんぽんと叩く。可南子は嫌がった風でもなく、心細そうに広信を見上げた。
「怒らないでしょ、亮一。そんなことで」
「でも、無くしたって言ったら、買ってくれそう」
「つまり、買ってくれるのを避けてるってこと?」
「お金、出してもらいすぎなんです、私。手袋の話が出る前に、買わないと」
おおぅ……と、広信は声を漏らしてしまう。
……亮一が、囲い込むはずだよ。
困ったような、物憂げな表情は、亮一でなくても手を差し伸べたくなる。
つい、背中に触れて、広信は優しい声を掛けた。
「夫婦になるんだよ。申し訳ないって思うよりも、ありがとう!って、笑顔で受け取った方が良いよ」
広信は視線を感じてソファの方を見ると、結衣と亮一が顔を、険しい顔でこちらを見ている。
……へぇ。
広信は心の中で、ニッと、人の悪い笑みを浮かべる。
……積年の、僕の気持ちを、思い知っていただきましょうか。
「かなちゃん、指輪は欲しいの? 欲しくないの?」
広信は自分の結婚指輪を可南子に見せながら、二択で迫る。
すると、可南子は、広信から目をそらさずに、はっきりと言った。
「……亮一さんとの、結婚指輪なら欲しいです」
「オッケイ。で、僕にも協力して欲しいんだ。ね、手に触れても良い?」
「……手?」
可南子が何の警戒心も無しに、広信に手を差し出すと、広信はその手を優しく握り、そのか細さに驚いた。
この細さを亮一は抱き潰し、可南子は受け入れているのかと思うと、恋とは恐ろしいと思った。
瞬間、ソファの座っている結衣の目がカッと開いて、広信を睨み付けた。
亮一は怒りの形相でソファから立ち上がると、足早に近づいてくる。
……二人とも、そんな顔をするのに、よくもまぁ、僕に「家族だー」とか「腐れ縁だー」とか言ったもんだよね。
あっという間に目の前に来た、凄んでくる亮一と相対しても、広信は可南子の手を離さずに、にこりと笑む。
そして、握ったままの可南子の手を、ゆっくりと、亮一の方に差し出した。
「かなちゃん、手袋を無くしたんだって」
「広信さん!」
「ついでに、婚約指輪はいらないけど、結婚指輪は今すぐ欲しいってさ」
亮一は広信から奪い取るように可南子の手を握り、そのまま腕で肩を抱き寄せる。亮一の胸の中で、可南子は顔を真っ赤にさせた。
「手袋を無くしたのは、とっくに気づいてる」
「ですよね……」
二人の、人の家だというのに距離の近いやりとりを背後に、広信は先ほどまで亮一が座っていたソファに腰をかけた。
じとりと睨んでくる結衣の耳元に口を寄せる。
「結衣、大好きだよ」
結衣は頬を、ぴくりを痙攣させた。だが、亮一と可南子がいる手前、表情を崩そうとせず、平常心を保とうとしている。
かわいくて、追い討ちをかけたくなった。
「嫉妬した?」
息を吹き掛けるように耳元で囁くと、結衣がゆっくりと目を瞑った。
広信は可南子の手を握っていた手で、結衣の指の際を小指から一本一本辿り、結衣の呼吸が乱れるのを耳で捉える。
結衣はふぅと息を吐いて、気配も立てずに近づいてくる猫のような、しなやかで動じない目を向けてきた。
「今日、したい」
広信の頭の中に、でも、だって、が浮かんで、消えた。
「喜んで」
笑みを浮かべて手の甲をなぞった後、結衣の手を真綿のように、柔らかく握る。
「優しくする」
結衣が肩に頭を預けてきて、湧き上がってきた罪悪感。
具合の悪い結衣を試した。
「……ごめん」
「ううん。言いたいことはわかった。けどね、私たちは」
「家族なんだろ」
「聞き飽きた、という感じが、伝わってくる」
広信は結衣に微笑みかけて、亮一の方を見た。
亮一は、広信が握っていた可南子の手をずっと握って、何かを言っている。
可南子はずっと、俯いていた。時々、手を引こうとしては、亮一に強く握られ返されている。
どうしていいかがわからないといったようで、気もそぞろな感じが伝わってきた。
広信は肩に抱いた結衣に視線を落として、「ああ」と声を漏らす。
人の家で近い距離から亮一を見るわけにも、かといって、お取り込み中な先輩夫婦を見るわけにもいかず、動揺に混乱しているのだなと思った。
それなのに、亮一は焦(じ)れたように、可南子と目を合わせようと懸命に何かを小声で言っていた。
……周りが、見えていない。
結衣に視線を落とすと、そんな亮一を「気持ち悪い」といった目で見ている。
「亮一、積もる話があるなら、僕の書斎を使いなよ。その間に、僕は昼食の準備でもしておくから」
「私、手伝います」
可南子は、広信にほっとしたような顔を向けてきた。
「あ、いいのいいの。買ってきた惣菜を皿に移すだけだから」
「でも」
「行くぞ、可南子。広信、部屋を借りる」
勝手知ったる、人の家。亮一は可南子の手を掴んだまま、玄関から入ってすぐにある部屋へと足を進め、リビングから出て行った。
それを呆れたように見ながら、結衣は口を開いた。
「……いかがわしい事、しそうだと思うのだけど」
「それに関して、僕らは何も言えないよ」
「……」
「若気の至り」
「ストップ」
結衣は珍しく耳まで赤く染めて、顔を手で覆った。
大学の時、亮一が祖父の遺言でマンションを相続した時、そこを友人の溜り場には決してしなかった。当時の彼女さえも入れなかった。
だが、仲の良かった広信と結衣だけは例外だったらしく、うんざりした顔をしながらも迎え入れてくれた。
玄関から入ったすぐの部屋。殺風景な部屋の中の簡易ベッド。終電が無くなった時間。亮一の寝室は、リビングの向こうの、絶対に声が届かない場所。若い、二人。
「ああっ、広信。ほら、可南子が出てくる前に、惣菜をお皿に移そうよ」
「亮一、あれ、気づいてたよね。気づいていて、何も言わなかったんだ」
「ああ、やめて」
結衣はそう言って、真っ赤な顔のまま耳を塞ぐ。
「ところでさ、あのマンションで、亮一がかなちゃんと住んでるという奇跡。かなちゃん、意味がわかってないよね」
「わかるはずもないでしょう。自分からペラペラ話すことでもないし」
「一貫して、僕たちしか入れてなかった。あんな事もしてたのに、黙認してたし」
「やめてやめて」
結衣はそう言って、立ち上がった。そわそわして、座っていられなかったらしい。
広信も一緒に立ち上がると、申し合わせたように台所に足を進める。
結衣は思い出すように、静かに口を開いた。
「お爺様の遺言を守ったね。可南子をあの部屋に入れたって聞いたとき、大事な約束も軽視しはじめたのかと、一瞬、疑った」
亮一に残された遺言のせいで、志波家はしばらく親族にチクチクとやられていた。
志波本家は、資産家らしい。出入りしていた広信が話を漏れ聞く限り、事業をするなどで、親族はそれぞれに、援助をしてもらっていたようだ。だが、堅実なサラリーマンである三男の晃は、そいうことが皆無らしい。
それなのに、孫への配分が違いすぎると、自分のせいで親が嫌味を言われている姿を見て、亮一は参っていたのだろう。元々、孫の中で一番出来のいい亮一は、何かと目立つ存在だったようで、羨望が噴出した形になっていた。
たった一度、亮一は酒の勢いを借りて、広信と結衣に弱音を吐いた。
『俺と戦死した義兄を重ねて見ている。生まれ変わりだと言ってる。だから、結婚して、子供を作って、幸せになって欲しいらしい』
義兄が、果たせなかったことを、お前がしてくれ。
亮一の祖父は婿養子の立場だと、資産のある志波家で、常に謙虚だったらしい。
慕っていた義兄と容貌が瓜二つの亮一に、しわしわの手を重ねて、涙を流しながら、まるで義兄に話しかけているようだったと、思い出し泣きをしながら、亮一は言った。
そういう顔を見せたのは、後にも先にも、それ一回きりだった。
あの後、亮一の付き合う女への態度が変わったわけでもない。ただ、あのマンションにだけには、女を入れなかった。
結衣は、冷蔵庫を開けて、惣菜のパックを取り出そうとしたが、広信が上から代わりに取り出す。
「お爺様も、浮かばれるね」
志波家と瀬名家が、家族ぐるみで和気藹々(わきあいあい)と、助け合っている様子を、亮一の祖父は「まことによろしい」と言って、ニコニコと見ていたらしい。
お菓子を持ってきてくれたり、入学祝をくれたり、気にかけて貰っていたと結衣は言った。
「……ねぇ、結衣。あの二人、今、いかがわしい事、してると思う?」
「想像もしたくない」
「賭けない?」
「ない」
「僕、覗きに行こうっと」
止める結衣を振り切って、音を立てずにさっと走り寄り、広信は書斎のドアの前に立つと耳を寄せた。
中の様子が、耳を立てずとも聞こえる事に、こみ上げて来た笑いを抑えられなくなった。
……あらら。
すぐに台所に戻って、腕を組んで仁王立ちで立っている結衣に微笑みかけると、批判される。
「……悪趣味」
「パンを切らないといけないね。どれくらいの厚みにする? あ、ちゃんと耳も切るからね」
バターと牛乳がたっぷりと使ってある、柔らかい食パンを手に持って、亮一は結衣に聞く。
口どけがよく、いつでも齧(かじ)れるので、ハード系のパンの替わりに常備するようになった。
書斎の報告してこない広信に痺れを切らしたように、結衣は広信の顔を覗き込んだ。
「……大丈夫だった?」
「気になるなら、ドアの前に立ってきなよ。それだけで、十分(じゅうぶん)だ」
「なにそれ」
「だから、ドアの前にどうぞ」
かなちゃん、かわいい声を出すのだなと思ったが、やっぱり僕は結衣が好きだと、広信は思う。
「なにそれ」
赤くなったり青くなったりする結衣の顔色が良い。
何か、気を紛らわすことがあれば、気分が良くなりやすいのかと、広信はネットでみた知識と結びつける。
「また、二人に遊びに来てもらおうね。今度は、こっちからもお邪魔しよう」
「ああ、うん、そうなんだけど。え、その、してるの?」
「だから、ドアの前に立てばわかるって」
広信は笑いながらそう言って、パンを木のカッティングボードの上に乗せて、パン切り包丁を当てた。
……二人はどんな顔で出てくるのかなぁ。
視界の隅に、我慢ならなくなった結衣が書斎へ行くべく、リビングから出て行くのが映りこんだ。
広信は笑いそうになるのを、パンの上だからと、必死に堪える。
……面白いなぁ。
こんな日々が続くといいなぁと、広信は切ったパンの端を、ぱくりと食べた。
「広信さん、これ、いなり寿司です。このまま冷凍をしてもらえれば」
ひとつずつラップに包まれたいなり寿司が、フリーザーパックの中にびっしりと入っている。
可南子はそれを二袋、大きなタッパに、入れて持ってきてくれた。
受け取りながら、広信は、にこりと笑う。
「ありがとう」
可南子が微笑み返してくると、その場の空気が、和(やわ)らいだ。
結衣は会社で『可南子のいなり寿司が、食べたい……』と、我侭(わがまま)を言ったらしい。普段の会社の結衣は活(い)き活(い)きしているのだろう。つわりが始まってからの変化が、可南子には心配らしい。
結衣の我侭に付き合い、律儀に週末に作って持ってきてくれたのだ。
可南子は玄関まで迎えに出た、顔色が悪い結衣を見て、心配に顔を曇らせた。勝手に台所に入りますと言い、結衣をすぐにリビングのソファに座らせる。広信は、まるでお母さんみたいだと思った。
素直に従う結衣を見て、完全にかなちゃんを身内扱いしているよな、と広信は苦笑する。
「結婚、朝子さんがすごく喜んでたよ。すぐにメールが来た」
その結衣が、横に座っている亮一の厚い肩を押すように突いて、にやにやと笑っている。
亮一は避けもせずにそれを当然と受け止め、その接触が、これがまた自然で、広信は横目でじとりと見た。
「ああ。あれ、引くよな」
「独身貴族から、孤独死コースだと諦めてたから。しかも、相手が可南子だし」
亮一はまんざらでもない様子で笑った後、結衣に具合を聞いている。結衣が平らのお腹を触りながら、いろいろ話しているのを、耳をダンボにして聞きながら、広信は目の前の可南子に柔和な顔を見せた。
「いつもごめんね。嫌なら嫌だって言ってやって」
「はい」
にこりと笑った可南子は、黒い髪を一つにまとめて、黒のタートルネックのセーターを着ていた。黒との対比で白い肌がさらに白い。白と黒のコントラストがはっきりした、清らかで強い目と相まって、どこかモード系のファッション雑誌から抜け出したような感じだ。
可南子の耳にある、花柄のピアスが光った。それがアクセントになって、ただの黒い服装にはなっていない。
「それ、亮一からの、婚約の、贈り物?」
広信が聞くと、可南子は耳のピアスに触れた。頬を桃色に染めながら、頷く。
「はい。その、頂きました」
そのピアスの大きさや、石のカットとデザインを見て、広信はおおよその値段を推測した。結衣との結婚でいろいろな宝飾を見てきたので、相場がまだ記憶に新しい。
広信は冷凍庫にいなり寿司を入れながら、可南子に聞く。
「指輪もいるかって、聞かれなかった?」
「それはお断りしました」
亮一なら無理やりでも、見える所に独占の印を付けたかっただろうに。本当は、二人で選ぶつもりだったのではないかと思った。
「何で、って、聞いても良い?」
警戒心を抱かせない笑顔なら、大得意だ。広信は、心の内側に触れられても不愉快じゃない、絶妙な距離感と表情で可南子を見た。
すると、可南子は結衣と話している亮一をちらりと見た後、口元を隠すようにして、広信に顔を近づけた。
透明感のある白い肌が近くまで寄り、紅珊瑚色の唇が迫ってきて、広信のほうが焦る。
「手袋、無くしちゃったんです」
ん? 何の話かな?
広信は首を傾げると、可南子はきれいな顔を顰めて、重大な告白でもするように重々しく口を開いた。
「亮一さん、毎朝、私の手をじっと見るんです……。私、手袋をする習慣が無いから、置いた場所を忘れてしまって。落としたわけでは無いと思うので、探しています」
「えーっと、つまり?」
「指輪も、料理とか掃除で外しますよね。置いた場所を、忘れそうで……。それに、ピアスがすごく嬉しいから、これだけで十分」
可南子は自分でした想像に真っ青になった後、ピアスに触れて、濃い睫を僅かに伏せると、口角を柔らかく持ち上げた。
久しぶりに間近で見たその可愛さに、広信は本気で亮一に同情した。
……本気で言い寄る男の、気持ちがわからないでもない。
男は亮一に恋をしている可南子に惚れるのだろうが、第三者がそんな事を知る由も無い。
ただ、カワイイ!と思って、ついつい近寄ってしまうだろう。
「亮一が、手袋をしろって言ってるの?」
「……はい。でも、していないの。無いから……」
「単に、新しい手袋を、買えばいいんじゃないの? ていうか、亮一に無くした事を、ばれたくない?」
「うん、そう」
突然、敬語が取れた可南子に、大きな瞳で上目遣いに見られて、広信は気持ちだけ後ずさりする。
広信は、完全に安全圏だと思われているのだろう。
……だけど、これは、駄目!
距離が必要だった可南子が、自分から距離を縮めてきた。
これの百分の一でも、他の男へのハードルが下がってるのは、やっぱり危険すぎる! と実感を伴って広信は心の中で叫ぶ。
「あのね、かなちゃん。もう、ばれてると思うよ」
「やっぱり、ですよね。早急に、買います……」
避けたかった事実を見たようで、可南子は目を細めて、痛々しい顔をした。
広信は「落ち着いて」と、可南子の背中をぽんぽんと叩く。可南子は嫌がった風でもなく、心細そうに広信を見上げた。
「怒らないでしょ、亮一。そんなことで」
「でも、無くしたって言ったら、買ってくれそう」
「つまり、買ってくれるのを避けてるってこと?」
「お金、出してもらいすぎなんです、私。手袋の話が出る前に、買わないと」
おおぅ……と、広信は声を漏らしてしまう。
……亮一が、囲い込むはずだよ。
困ったような、物憂げな表情は、亮一でなくても手を差し伸べたくなる。
つい、背中に触れて、広信は優しい声を掛けた。
「夫婦になるんだよ。申し訳ないって思うよりも、ありがとう!って、笑顔で受け取った方が良いよ」
広信は視線を感じてソファの方を見ると、結衣と亮一が顔を、険しい顔でこちらを見ている。
……へぇ。
広信は心の中で、ニッと、人の悪い笑みを浮かべる。
……積年の、僕の気持ちを、思い知っていただきましょうか。
「かなちゃん、指輪は欲しいの? 欲しくないの?」
広信は自分の結婚指輪を可南子に見せながら、二択で迫る。
すると、可南子は、広信から目をそらさずに、はっきりと言った。
「……亮一さんとの、結婚指輪なら欲しいです」
「オッケイ。で、僕にも協力して欲しいんだ。ね、手に触れても良い?」
「……手?」
可南子が何の警戒心も無しに、広信に手を差し出すと、広信はその手を優しく握り、そのか細さに驚いた。
この細さを亮一は抱き潰し、可南子は受け入れているのかと思うと、恋とは恐ろしいと思った。
瞬間、ソファの座っている結衣の目がカッと開いて、広信を睨み付けた。
亮一は怒りの形相でソファから立ち上がると、足早に近づいてくる。
……二人とも、そんな顔をするのに、よくもまぁ、僕に「家族だー」とか「腐れ縁だー」とか言ったもんだよね。
あっという間に目の前に来た、凄んでくる亮一と相対しても、広信は可南子の手を離さずに、にこりと笑む。
そして、握ったままの可南子の手を、ゆっくりと、亮一の方に差し出した。
「かなちゃん、手袋を無くしたんだって」
「広信さん!」
「ついでに、婚約指輪はいらないけど、結婚指輪は今すぐ欲しいってさ」
亮一は広信から奪い取るように可南子の手を握り、そのまま腕で肩を抱き寄せる。亮一の胸の中で、可南子は顔を真っ赤にさせた。
「手袋を無くしたのは、とっくに気づいてる」
「ですよね……」
二人の、人の家だというのに距離の近いやりとりを背後に、広信は先ほどまで亮一が座っていたソファに腰をかけた。
じとりと睨んでくる結衣の耳元に口を寄せる。
「結衣、大好きだよ」
結衣は頬を、ぴくりを痙攣させた。だが、亮一と可南子がいる手前、表情を崩そうとせず、平常心を保とうとしている。
かわいくて、追い討ちをかけたくなった。
「嫉妬した?」
息を吹き掛けるように耳元で囁くと、結衣がゆっくりと目を瞑った。
広信は可南子の手を握っていた手で、結衣の指の際を小指から一本一本辿り、結衣の呼吸が乱れるのを耳で捉える。
結衣はふぅと息を吐いて、気配も立てずに近づいてくる猫のような、しなやかで動じない目を向けてきた。
「今日、したい」
広信の頭の中に、でも、だって、が浮かんで、消えた。
「喜んで」
笑みを浮かべて手の甲をなぞった後、結衣の手を真綿のように、柔らかく握る。
「優しくする」
結衣が肩に頭を預けてきて、湧き上がってきた罪悪感。
具合の悪い結衣を試した。
「……ごめん」
「ううん。言いたいことはわかった。けどね、私たちは」
「家族なんだろ」
「聞き飽きた、という感じが、伝わってくる」
広信は結衣に微笑みかけて、亮一の方を見た。
亮一は、広信が握っていた可南子の手をずっと握って、何かを言っている。
可南子はずっと、俯いていた。時々、手を引こうとしては、亮一に強く握られ返されている。
どうしていいかがわからないといったようで、気もそぞろな感じが伝わってきた。
広信は肩に抱いた結衣に視線を落として、「ああ」と声を漏らす。
人の家で近い距離から亮一を見るわけにも、かといって、お取り込み中な先輩夫婦を見るわけにもいかず、動揺に混乱しているのだなと思った。
それなのに、亮一は焦(じ)れたように、可南子と目を合わせようと懸命に何かを小声で言っていた。
……周りが、見えていない。
結衣に視線を落とすと、そんな亮一を「気持ち悪い」といった目で見ている。
「亮一、積もる話があるなら、僕の書斎を使いなよ。その間に、僕は昼食の準備でもしておくから」
「私、手伝います」
可南子は、広信にほっとしたような顔を向けてきた。
「あ、いいのいいの。買ってきた惣菜を皿に移すだけだから」
「でも」
「行くぞ、可南子。広信、部屋を借りる」
勝手知ったる、人の家。亮一は可南子の手を掴んだまま、玄関から入ってすぐにある部屋へと足を進め、リビングから出て行った。
それを呆れたように見ながら、結衣は口を開いた。
「……いかがわしい事、しそうだと思うのだけど」
「それに関して、僕らは何も言えないよ」
「……」
「若気の至り」
「ストップ」
結衣は珍しく耳まで赤く染めて、顔を手で覆った。
大学の時、亮一が祖父の遺言でマンションを相続した時、そこを友人の溜り場には決してしなかった。当時の彼女さえも入れなかった。
だが、仲の良かった広信と結衣だけは例外だったらしく、うんざりした顔をしながらも迎え入れてくれた。
玄関から入ったすぐの部屋。殺風景な部屋の中の簡易ベッド。終電が無くなった時間。亮一の寝室は、リビングの向こうの、絶対に声が届かない場所。若い、二人。
「ああっ、広信。ほら、可南子が出てくる前に、惣菜をお皿に移そうよ」
「亮一、あれ、気づいてたよね。気づいていて、何も言わなかったんだ」
「ああ、やめて」
結衣はそう言って、真っ赤な顔のまま耳を塞ぐ。
「ところでさ、あのマンションで、亮一がかなちゃんと住んでるという奇跡。かなちゃん、意味がわかってないよね」
「わかるはずもないでしょう。自分からペラペラ話すことでもないし」
「一貫して、僕たちしか入れてなかった。あんな事もしてたのに、黙認してたし」
「やめてやめて」
結衣はそう言って、立ち上がった。そわそわして、座っていられなかったらしい。
広信も一緒に立ち上がると、申し合わせたように台所に足を進める。
結衣は思い出すように、静かに口を開いた。
「お爺様の遺言を守ったね。可南子をあの部屋に入れたって聞いたとき、大事な約束も軽視しはじめたのかと、一瞬、疑った」
亮一に残された遺言のせいで、志波家はしばらく親族にチクチクとやられていた。
志波本家は、資産家らしい。出入りしていた広信が話を漏れ聞く限り、事業をするなどで、親族はそれぞれに、援助をしてもらっていたようだ。だが、堅実なサラリーマンである三男の晃は、そいうことが皆無らしい。
それなのに、孫への配分が違いすぎると、自分のせいで親が嫌味を言われている姿を見て、亮一は参っていたのだろう。元々、孫の中で一番出来のいい亮一は、何かと目立つ存在だったようで、羨望が噴出した形になっていた。
たった一度、亮一は酒の勢いを借りて、広信と結衣に弱音を吐いた。
『俺と戦死した義兄を重ねて見ている。生まれ変わりだと言ってる。だから、結婚して、子供を作って、幸せになって欲しいらしい』
義兄が、果たせなかったことを、お前がしてくれ。
亮一の祖父は婿養子の立場だと、資産のある志波家で、常に謙虚だったらしい。
慕っていた義兄と容貌が瓜二つの亮一に、しわしわの手を重ねて、涙を流しながら、まるで義兄に話しかけているようだったと、思い出し泣きをしながら、亮一は言った。
そういう顔を見せたのは、後にも先にも、それ一回きりだった。
あの後、亮一の付き合う女への態度が変わったわけでもない。ただ、あのマンションにだけには、女を入れなかった。
結衣は、冷蔵庫を開けて、惣菜のパックを取り出そうとしたが、広信が上から代わりに取り出す。
「お爺様も、浮かばれるね」
志波家と瀬名家が、家族ぐるみで和気藹々(わきあいあい)と、助け合っている様子を、亮一の祖父は「まことによろしい」と言って、ニコニコと見ていたらしい。
お菓子を持ってきてくれたり、入学祝をくれたり、気にかけて貰っていたと結衣は言った。
「……ねぇ、結衣。あの二人、今、いかがわしい事、してると思う?」
「想像もしたくない」
「賭けない?」
「ない」
「僕、覗きに行こうっと」
止める結衣を振り切って、音を立てずにさっと走り寄り、広信は書斎のドアの前に立つと耳を寄せた。
中の様子が、耳を立てずとも聞こえる事に、こみ上げて来た笑いを抑えられなくなった。
……あらら。
すぐに台所に戻って、腕を組んで仁王立ちで立っている結衣に微笑みかけると、批判される。
「……悪趣味」
「パンを切らないといけないね。どれくらいの厚みにする? あ、ちゃんと耳も切るからね」
バターと牛乳がたっぷりと使ってある、柔らかい食パンを手に持って、亮一は結衣に聞く。
口どけがよく、いつでも齧(かじ)れるので、ハード系のパンの替わりに常備するようになった。
書斎の報告してこない広信に痺れを切らしたように、結衣は広信の顔を覗き込んだ。
「……大丈夫だった?」
「気になるなら、ドアの前に立ってきなよ。それだけで、十分(じゅうぶん)だ」
「なにそれ」
「だから、ドアの前にどうぞ」
かなちゃん、かわいい声を出すのだなと思ったが、やっぱり僕は結衣が好きだと、広信は思う。
「なにそれ」
赤くなったり青くなったりする結衣の顔色が良い。
何か、気を紛らわすことがあれば、気分が良くなりやすいのかと、広信はネットでみた知識と結びつける。
「また、二人に遊びに来てもらおうね。今度は、こっちからもお邪魔しよう」
「ああ、うん、そうなんだけど。え、その、してるの?」
「だから、ドアの前に立てばわかるって」
広信は笑いながらそう言って、パンを木のカッティングボードの上に乗せて、パン切り包丁を当てた。
……二人はどんな顔で出てくるのかなぁ。
視界の隅に、我慢ならなくなった結衣が書斎へ行くべく、リビングから出て行くのが映りこんだ。
広信は笑いそうになるのを、パンの上だからと、必死に堪える。
……面白いなぁ。
こんな日々が続くといいなぁと、広信は切ったパンの端を、ぱくりと食べた。
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