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入道雲を見上げたあの日 後編

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 浩二は目の前のデカイ男前を見て、はっと我に返った。

 ……絶対に、女遍歴が華やかなはずだ。

 もうちょっと、柔らかい男を選んで欲しかった。
 志波(しば)某(なにがし)は、ずっと浩二から視線を逸らさない。
 現実でしか生きていないような男が嫌がりそうな話を振って、姉との事を考え直させようと浩二は考える。

「姉は、昔からちょっと変だからやめておいたほうが良いですよ。貴方とは話が合わないはずだから」
「具体的には」

 この、論理的に詰めてくる感じが嫌いだと思いつつ、浩二は続ける。

「姉は、小さな頃に小人とか見えていた人ですよ。貴方みたいな人、無理でしょ、そういうの」
「……可南子らしいな」

 姉を可南子と呼び捨てにされて、ムカッとする。
 だが、志波(しば)某(なにがし)が表情を和やかにして笑んだ顔が、思いのほか優しく見えて浩二がどきっとする。

「他には」

 他にはと聞かれて、浩二の方が黙ってしまう。姉が手を上げられたことは、話せない。

「大学の時の事は聞いた」

 浩二はびっくりして顔を上げた。

「姉ちゃんが、話したってこと?」
「……成り行きで」

 ……成り行きで、話せることなのか。

 浩二は目の前の男を見るが、表情を変えない。大変でしたね、そんな風に同情をしてこようともしない。

 ……だから、選んだのか。

「姉は、たまに笑顔で毒を吐くし、本人気づいてないけどけっこうモテるし、今だって姉ちゃんの連絡先を教えろって」
「……教えているのか」

 ぶわっと、志波(しば)某(なにがし)の背中から不穏な迫力が揺らめいて、浩二は冷やりとした。
 幼馴染の涼太(りょうた)は姉を諦めていない。
 実家に帰ってくる時に連絡をくれるようにいつも言われている。

「いえ、教えていません」

 大きな切れ長の目で睨まれて、浩二は思わず敬語になった。気を取り直して、身を乗り出す。

「とにかく、俺は反対なんで。姉が幸せになれる気がしない」
「可南子が何を幸せだと思うかを俺には決められないし、押し付けられない」
「……なんだよ、それ」
「……俺は可南子を大事にする。それだけだ」

 浩二は志波(しば)某(なにがし)の目をじっと見た。
 その目の中にやばい色を見つける。
 幼馴染の涼太(りょうた)にも、未だにこの目をさせている。
 できれば、こういう目をしない奴と一緒にいて欲しいと思う。

「……とにかく、反対。俺は絶対に反対。あんたとは仲良くできる気がしないし、俺とあんたが仲良くしない事で、姉ちゃんが付き合いを考え直すならそれも良いと思う」

 浩二は空になったコーヒーの紙カップをコツンとわざと倒した。
 テーブルの上を転がって、亮一の置いていたアイスコーヒーのカップにぶつかって止まる。
 それを見ていた亮一が、小さく笑った。

「俺も仲良く出来なくてかまわない。何があっても、俺は可南子と別れない」
「……姉ちゃんが別れを望んだら、どうするんだ」

 志波(しば)某(なにがし)は、不適な笑みを浮かべた。

 ……だから、何でこういう目をする奴を、選んだんだ。

 浩二はため息をつく。

「うちの母親は曲者(くせもの)だよ。あんたが今、勤めている会社を辞めた途端に手のひらを返すだろうね。父親の地位とか当てにしてるなら、あれは雇われだから仕事の便宜とか無理だと思うよ。あんたほどならさ、他に女はいっぱいいるでしょ。言っておくけど、姉ちゃんの若さとか顔が目当てなら……今が一番女がノってる時だ。あと五年ほどで終わるんじゃないの。その時に振るとか勘弁して欲しいんだ。だからさ、今のうちに別れてよ」

 目の前の男の顔がすっと冷酷なものに変わったのを、浩二はじっと見続ける。
 浩二は志波の方に転がっていったカップを手を伸ばして取ると、もう一度転がして志波のアイスコーヒーに当てた。
 志波はそれをじっと見ている。

 むかついて、暴言を吐くなら吐け。いつか姉にも同じ事を言うと俺は姉に言える。
 その太い腕を使って、俺を殴れば良い。そうしたら、姉に別れる理由を作れる。

「浩二、だったか。お前、自分を落として、何を守ろうとしてるんだ」

 名前を呼ばれたことと心を触られたことに、不快感が湧き上がってこめかみが震えた。
 志波は転がってきたカップを立てて浩二に寄越すと、自分のアイスコーヒーを手にとってストローを口に運んだ。

「可南子は家族に申し訳ないとずっと思ってる。お前のせいだな」
「……どういう意味だよ」
「過去に囚われているのが、自分だけじゃないのを感じてるんだよ。お前が可南子を見る目に、態度に、滲み出てるんだ」
「……」
「お前が言うとおり、俺は女には困らない」

 姉の彼氏が、女に困らないと弟に堂々と宣言した。浩二はあんぐりと口を開ける。

「だが、俺が好きなのも、大事にしたいのも、一緒にいたいのも、……結婚したいのも可南子だけだ。今すぐ婚姻届を出せるなら出してる。それを望まれてないから、出していないだけだ。可南子は歳を取るタイプじゃないぞ。若さが取れても、どんどん綺麗になる。男が放っておかない。言っておくがな、俺が振られる方で捨てられる方だ」
「何だ、それ」
「可南子は、俺じゃなくても良いんだよ。だから、俺は焦って年甲斐も無く外堀を埋めている」

 目の前の男前は、自分が捨てられないために、彼女の親や兄弟を巻き込んで姉を囲い込んでいると言い切った。
 俺は外堀なのかと浩二は薄く笑う。
 志波が姉に惚れているのは、よくわかった。
 だが、と思う。

「その目、姉ちゃんを攫ってどこかに軟禁しそうな目だ。……同棲も、その一環なわけ?」

 志波は肯定も否定もせずに、口の端を少し上げた。
 姉は危ないのを選んでいると、浩二は苦く思う。
 だから、あのぽっちゃりとした眼鏡の見合いの男を選べば良かったんだ。
 あの、優しそうな目をした男となら、姉は姉らしくいられたはずだ。
 姉はこんな鋭い目で見続けられて、無理をしているのではないかと思う。
 
 志波は浩二の言葉にいちいち動揺しない。それがまた不快だ。
 その上、浩二の心臓を貫くような言葉を発した。

「可南子の過去は、過去だ。俺は可南子と今を作っていきたい。お前は、いつまで可南子を過去の延長で見るんだ。解放してやれよ」

 ストレートに言われて、反論の余地も無い。心臓が血を流したというよりも、固まっていた場所に血が一気に通ったような痛みだ。その奔流に対処できない。

 俺は、姉を守れなかった。
 あの時、父親に一人暮らし反対を言い続ければ良かった。
 母親と距離を取る為なら、俺が就職してから姉と一緒に暮らせば良かった。
 純粋培養に育ったのを誰よりも知ってたのは、俺だ。
 だから、俺が悪い。

 作った拳が真っ白になるまで握りこんで、浩二はそれを瞬きも忘れて見つめる。
 小さな姉が大きな黒い円(つぶ)らな瞳で、にこにこと見てきた事をいつも思い出してきた。
 あの笑顔を真っ黒に塗りつぶしたのは、俺だ。

「……お前、可南子のために自分を許せよ」
「俺は、許してる。許さない自分を、許したんだ。だから」
「……真面目な姉弟(きょうだい)だな。頑固さも一緒だ」

 志波は呆れたよう窓の外に視線をやって腕を組んだ。
 ゆっくりと浩二に視線を戻した時の目は、穏やかだった。

「可南子は進み始めているぞ。お前、俺の彼女の足を引っ張るのか」

 静かな口調は柔らかで、目に宿った光は優しい。
 姉を思い出しているのだと、すぐにわかった。
 そして、同じ気持ちを、今、浩二に持ってくれている。

 ……この大男は、こんな目もできるのかよ。反則だろ。
 
 俺たち家族に必要なのは、同情や好奇の目では無い。
 ただ、普通に接してくれる人間だ。
 
 浩二が遥(はるか)に惹かれたのは、全部知ってなお俺の普通に居てくれたからだ。
 そして、未だに浩二が抱えている闇をどうにかせずに、付かず離れず、のほほんとそばにいてくれる。

 ……くそ、遥(はるか)に会いたくなったじゃないか。

 同じように、姉はこの男のそばにいたいのかもしれない。
 だとすれば、俺が、反対する理由は無くなる。
 浩二は拳に入れていた力を抜いた。白かった手にピンク色の血色が戻っていく。
 手を閉じたり開いたりしながらそれを見る。

「……兄さんって、呼ぶぞ」

 姉を捨てるなよという意味でもあった。
 志波は何を言っても動じないのだから、反応なんて気にする必要も無い。

「俺が『兄さん』になれるように、協力して欲しい」

 志波の言葉に浩二は、にやけそうになる。
 姉はこの男前を相当に翻弄しているらしい。

「何だよ、弱気だな」
「弱気じゃなきゃ、外堀なんて埋めないだろ」
「確かにそうだな」

 姉は人の心の機微(きび)に疎いわけではないが、異性から向けられる好意には元々疎かった。
 父親も弟も姉に愛情を注いだから、異性に飢えていない。
 また、元々、自分の中に世界があるから、他人からの承認をそこまで必要としない。

 確かに、この男を捨てるのは姉かもしれない。
 けれど、付き合えばわかる、姉の独特な雰囲気を受け入れられる男がそうそう居るとも思えない。

 ……お互いが、唯一無二とか、ありえるのか。

 でも、もしそうなら、姉は幸せになれるのではないだろうか。

「……兄さん。姉をよろしく」

 浩二は義理の兄になる男に手を差し出すと、志波は嬉しそうな笑みを浮かべた。
 男から見ても大きくごつい手で握り返される。
 その後、でかい男前が小さなアイスコーヒーを飲みながら世間話を口にした。
 切り替えの早さに、浩二は舌を巻く。 
 浩二はふっと笑う。
 姉は、とんでもないのに掴まったらしい。

 ……あの人も認めるはずだな。

 温厚を装っている父親を思い出して、浩二は肩をすくめる。

 ……身長、ちょっと分けろよ。

 軽くなった心から出てきた、軽口はまだ口に出せない。
 でも、たぶん、すぐにそういう関係になれるはずだ。
 姉が同棲までしている男だ。
 俺が、仲良くできないはずがない。

「今度さ、うちに来いよ。父親が帰ってきてる土日にさ。母親がどれだけ面倒な奴かを見に来いよ」
「……よくメールは来る。『可南子は元気ですか』だそうだ」
「あの人とメル友かよ。お疲れ様、としか言えない。しかもそれ、結婚はいつですかって意味なんじゃないの」
「理解していないのは、可南子だけだ」
「あーー、それ、昔からだから。弟として謝っとく。すいません」

 幼馴染の涼太(りょうた)も、撃沈している。
 志波が笑った。もともとキツめの男前が笑うと、破壊力が半端ない。

 夏のあの日。
 顎をいっぱいに上げて、青い空にどこまでも、もくもくと立ち登る白い雲を見た。
 後ろに倒れそうになる浩二の腕を、姉は焦って掴んでくれた。
 姉が踏ん張ってくれたおかげで、何とか転げずに済む。
 二人はきょとんとした後に顔を見合わせると、大きな声で笑った。
 母親が大きな声でおやつよと自分たちを呼ぶ。
 母の「おやつよ」の中には、手を洗えという意味が隠れている。
 それにちゃんと気づいている姉が自分の手を引っ張って、洗面所へと連れて行ってくれる。
 お陰で、浩二は叱られずに済む。

 何もかもが安全で楽しかったあの頃に、やっと僕たちは帰れる。

 姉ちゃん、幸せになれよ。
 また、一緒に気持ちよく入道雲を見上げられるのは近い未来だ。

 浩二は久しぶりに胸の奥の奥まで空気を吸い込んで、大きく吐いた。
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