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1巻

1-2

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 菜々美はスマートフォンからイヤホンを抜いて片付けようとした。
 イヤホンを抜けば音は停止する仕組みになっている。さっき、アプリは停止させたから、完全に音は鳴らない。
 けれど、どこかでまだ安心を求める気持ちがあったのか、止まっているアプリを、さらに止めようと指を動かし、無意識にタップしてしまう。
 その瞬間、その場が地獄と化した。
 再生を押したのだ。

『姫』

 スマートフォンから音声が流れて、菜々美は凍り付く。

『いつも頑張っていらっしゃって、私は誇りに思っています』

 静かなオフォスに音声が響く。真顔の隆康と目が合った。その目はじっと菜々美を見ている。

『しかしですね、姫はいつも頑張りすぎていて、心配になります』

 震える手でアプリを終了させようとしているからか、指先がすっかり冷え切ってしまったせいか、まったく停止してくれない。

『抱き締めて差し上げた――』

 やっと止まったが、安堵はできない。時間はアプリのようには戻せないのだから。
 まばたきもできなければ、この壊れた空気を修復する気のいた言葉も出てこない。
 菜々美の精神が粉々に砕けそうになったとき、隆康が口を開いた。

「このハードの金額だが……」

 足を組んで、何事もなかったかのように振舞ってくれる隆康の腕を、菜々美はがしっと両手で掴む。

「もう、ほんっとに、そこは、スルーしないでください。ののしってください。馬鹿にしてください!」
「大丈夫だ、何も聞いていない」
「そんな見えいた嘘はやめましょうよ。聞こえましたよね!」

 涙目で隆康に訴える。笑うなりして欲しい、そして誰にも言わないで欲しい。
 すがる菜々美に、隆康は笑いをこらえるように目を細めた。

「気にしなくていい、――姫」
「い、い、いじわる」

 菜々美は手で顔を覆って座ったまま前屈みになる。恥ずかしさが突き抜けてもう自分の感情がわからない。

「姫、仕事だ、仕事」

 隆康の口元から悪戯いたずらな笑みは消えていない。そんな顔でパソコンを見つめたまま、姫だなんて口にされてしまえば、もう穴を掘ってでも入りたくなった。

「姫じゃないので、そこはどうにか勘弁してください」
「姫でいいじゃないか。今、手伝われてもミスが多くなるから、そこで見学しててくれ」

 その通りだと思う。クールな判断をする隆康が恨めしい。いや、それよりも会社でこの褒め褒めアプリを起動してしまった自分のアホさが何よりも痛い。
 それに『姫』と呼ばれたいのではなくて、褒められたいだけだ。
 好きな声とセリフが掛け合わさっているものを選んだら、たまたま呼称が『姫』になってしまったのであって、そこにこだわりはない。
 そんなことを説明できるはずもなく、菜々美は隆康が淡々とキーボードを打つ音を聞いていた。
 仕事を進める彼の隣にいると、段々と冷静になってくる。結局、菜々美は仕事をしていない。
 手伝おうにも動揺はまだ収まっておらず、足を引っ張りそうな気がして、やりますとも言えなかった。

「お任せしてしまって、申し訳ないです」
「そう思うなら、そんなのを聞いてる理由でも教えてくれ」
「えええ……。会社ではちょっと……」

 どこに耳があるかもわからない。これ以上の危険は冒せない、と菜々美が用心深い態度を取ると、隆康はディスプレイから菜々美へと目を向けた。

「会社じゃなければ、理由を話すって聞こえるぞ」

 頬杖をついて苦笑している隆康に、菜々美は急に色気を感じてしまう。節が出た手首、長い指、ヨレのないネクタイに、男らしい喉仏。
 菜々美は自分の視線が無遠慮に隆康の上を彷徨さまよったことに、頬を赤らめた。

「黙っていてもらえるなら、いくらでも、話します」

 急に渇いた喉を潤すように、菜々美は生唾なまつばを呑み込む。隆康は腕を組んで、椅子の背もたれに背中を預けた。

「なるほど。なら、焼き鳥屋でどうだ」
「焼き鳥って、隣の人と席が近いでしょう。話が誰かに聞こえるじゃないですか」

 菜々美は信じられないとばかりに隆康を見る。会話が途切れれば、横の人に話が聞こえてしまう距離の店は嫌だ。

「……話が聞こえない場所。ホテルにでも行かないと、無理だろ」
「ホテルのラウンジは、静かすぎます」

 ホテルのラウンジはプライベートスペースこそ広くはあるが、いかんせん夜は静かだ。
 菜々美が真顔で答えると、隆康はこらえきれないとばかりに笑い出す。今まで彼が声に出して笑ったところなんて見たことがないだけに驚いた。
 そもそも、菜々美は他の女子社員と違って、隆康を理想の男性として意識したことがない。
 隆康は、彼と親しくなりたい人に囲まれている、遠い人だ。彼はアイドルで、菜々美はそれを横目に通り過ぎる通行人という関係性。
 それが、どうしてこんなに親しく話しているのだろう、と不思議な気持ちになった。
 理由は褒め褒めアプリの利用を知られたからだ、と現実に戻ると気持ちがずんと暗くなる。

「なら、個室の焼鳥屋だな」
「どこでもいいです。黙っていてさえもらえれば」

 むしろ、理由も聞かずにただ黙っていてくれれば、それが一番ありがたい。

「どこでもいい、なんて軽々しく言わない方がいい」

 今までの会話の中で、初めて聞いた、たしなめる口調。
 驚いた菜々美が隆康を見ると、彼はディスプレイに視線を移し、すでに仕事に戻っていた。
 確かに、どこでもいいと言って昆虫や爬虫類を出す飲食店に連れて行かれるのは、さすがに遠慮したい。
 菜々美が反省していると、隆康は「でも、」と続けた。

「その『どこでもいい』は、取っておくことにする」
「取っておく」

 意味がわからず、菜々美は首をかしげる。

「焼き鳥は、この仕事を俺一人でやったことへの対価。『どこでもいい』は『姫』を黙っておくための、交渉の場とでもしようか」

 理由を話せば黙っていてくれる、と言うから、社外で話すという話ではなかったか。

「な、なんか、こう、ぐちゃっと、ごちゃっとされた気がするんですけど」
「交渉とは相手をけむに巻くことだろう。『どこか』を決めるのは、俺。どうする、呑むか呑まないか」
「黙っていてくれるなら、なんでもいいです……」
「なんでもいいってのもまた、あれだな」

 隆康が苦笑すると、複合機プリンタから印刷した用紙が出てき始めた。

「え、もうできたんですか」
「雛形があったじゃないか」
「初めてこの見積書を見るのに、すごい……」
「ここのデキが違う」
「それは知ってます」

 自分のこめかみ辺りを指でトントンと叩いた隆康を置いて、菜々美は椅子から立ち上がった。
 出てきた書類を揃えて、目を通しながら席に戻る。

「あとは私がチェックしますので、部長は飲み会へ行かれてください」
「二人で終わらせて、飲み会に顔を出すぞ」
「えええ……」

 部長と二人で飲み会に登場だなんて、そんな針山に裸足はだしで登りに行くようなことはしたくない。女の嫉妬の世界は深くて怖いのだ。
 隆康は笑みを浮かべたまま、肩をすくめるふりをする。

「よくそこまで嫌な顔を、本人の前でできるな」
「ご自分がどれだけモテてるか、認識された方がいいですよ」
「あれは、俺に興味があるんじゃない。地位や金が好きなんだ」

 隆康が菜々美に手を伸ばした。プリントした見積書を渡せ、ということなのはわかる。けれどすぐに渡せなかった。
 実は、会社での隆康の後ろ姿に孤独を感じたことがある。
 あれは隆康が冷静に俯瞰ふかんして自分を見つめているからなのだろうか。
 隆康を温もりのある人間として初めて意識をして、だからつい聞いてしまった。

「……部長にも、人に知られたくないことって、ありますか」
「ある」

 褒め褒めアプリよりも知られたくないことなんて、そうそうないだろう。それでも、ちょっとした期待を込めて、聞いてみる。

「何を、知られたくないんです?」

 菜々美はプリントした見積書を隆康に渡して椅子に座った。

「姫と呼ばれたい理由を教えてくれれば、教えるよ」
「姫って言わないで……」

 隆康の穏やかな声に、菜々美に平常心が戻ってくる。時計に目をやると、まだ飲み会には間に合いそうな時間だった。
 けれどまだ仕事は終わっていない。
 隆康の仕事に真剣な横顔と、くっきりとした喉仏が、瞼の裏に焼き付く。彼の唇が動いた。

「読み合わせをするぞ」
「はい」

 部長がモテるのは地位とかお金ではないと思います、と伝えるには、関係が遠い。
 いつもは電話や話し声でうるさいオフィスだが、今はそれもない。心地よく響く隆康の声が素敵で、何度も聞き惚れそうになった。
 文字通り二人きりだが緊張はしない。仕事という言い訳が自分を守ってくれていた。
 見積書の読み合わせを終え、ほっとして背伸びをしていると、パソコンの電源を落とした隆康が立ち上がる。

「飲み会にはまだ間に合うだろう。一緒に行こう」

 個人主義、と言われる世代で育ってきた自覚がある。
 同じく人は人、自分は自分という世界で誰よりも生きていそうな隆康に「一緒に」と誘われたことがこそばゆく感じた。
 女子社員ににらまれるかも、と思ったが、考えが変わる。
 そもそも、自分がライバルとして意識されると思っていること自体がおこがましいのだ。そう考えると、楽になった。
 菜々美は髪をたばねると、仕事に気持ちを切り替えて丁寧に頭を下げ、顔を上げる。

「本当にありがとうございました。ご一緒させていただきます」
「ああ」

 隆康の表情にさっとかげが宿って、消えた気がした。
 一瞬のことだったから、きっと見間違いだろう。




 二人で居酒屋へと向かい宴席の中へ入ると、隆康はあっという間に中央へと引っ張られ、用意されていた主役席に座った。
 菜々美は一緒に来たのは見間違いですよ、というように存在感を殺し、同僚の木村きむら亜子あこが手招きしてくれたテーブルの端の席に滑り込んだ。
 すでにおなかも満たされ、お酒も入った面々は、それぞれ小さなグループになって喋っていた。だが、部長に近づきたい人たちはそわそわと彼の周りに集まり始めている。
 これが、隆康と自分との距離だ。
 菜々美は亜子に料理を皿に取り分けてくれていたことの礼を言いながら、箸を手に持つ。

「お疲れ」

 亜子がウーロン茶を頼んでくれた。だが、それが来る前に、なみなみと日本酒が注がれたグラスを渡される。
 すすめられるまま、日本酒を飲んだ。喉が焼けるような感覚とともに、甘い芳香が鼻に抜ける。
 途中から参加をすれば苦手な乾杯のビールを飲まなくてもいいらしい。途中参加がクセになりそうだ、と思いながら、また一口飲んだ。

「飲み会を無視して帰るのかと思ったら、部長殿と一緒に登場とはねぇ」
「アクシデントが起こっただけ」

 残業の理由をかいつまんで話すと、亜子は微妙な顔をしたが、もう終わったことだ。
 ひと仕事終わった後の週末だからか、やけに日本酒が美味しい。だし巻き卵を箸で割って、大根おろしを乗せて口に入れる。お皿の料理はところどころなくなっているが、こういった酒のつまみがあれば十分だ。
 自分のペースで空腹を満たしていたが、亜子が肘をついてにやにやとこちらを見ているので、箸を止めた。

「何か言いたいのなら、どうぞ」
「幸せそうなのは、食事とお酒のせいだけかな。ね、部長とお近づきになった感想を聞かせて」

 亜子には隆康と一緒に来たから機嫌がいいと思われている。
 口の中でじゅっと出てくる出汁だしと大根の苦味を味わいながら、すでに遠い人となった隆康を眺めた。

「近づいてないと思うけど」

 指で、隆康と自分を交互に指す。いろんな人に囲まれた彼は本当にアイドルだ。

「そうかな。なんか、仲良さげに見えちゃったんだけど」
「気のせいだよ、それ」

 自分の重大な秘密を握られた。あの音声を聞かれたことは、脇から変な汗が出て震えるほどに恥ずかしい。
 それを秘密にしてもらうために二人で食事に行く約束をした。
 どれだけ自分が取り乱していたかが、時間が経つほどにわかる。
 冷静になってくると、上司がわざわざ部下の秘密をバラして、管理者としての自分の首をめるようなことをするだろうか。菜々美は溜め息を吐く。
 やはり、食事の話は彼の冗談なのだ。
 真に受けた自分がますます恥ずかしくて、菜々美は情けない顔をした。

「……ねぇ、亜子から見た部長って、どんな人?」
「クールなイケメン。色気と堅さが混じった、ワイルド感。引き締まった肉体に、趣味のいいスーツとネクタイ」
「……そういうのを求めたわけではないんだけど。ウーロン茶でも飲む?」

 仕事の姿勢とか性格の印象を聞いたつもりだったが、予想もしない返事が返ってくる。
 運ばれてきたウーロン茶を渡そうとすると、亜子に拒否された。

「私も部長と二人きりで話したいって意味ですけど」
「え、まったくわからなかった」

 菜々美は驚きつつ再び箸を取る。
 少しだけあぶったサバに、レモンと塩がかかったものを口に運んだ。日本酒の風味とよく合って、にんまりとした笑みが浮かぶ。
 横を見ると、白ワインを飲んでいる亜子が、うっとりと部長を見ていた。

「部長って、整いすぎてて、一般人には鑑賞用だよね。そして、見て。あの恥も外聞もない、純粋なフリをした、頭の悪い女を」
「毒舌をつつしもうか」

 呆れつつも隆康の方を見れば、いつの間にか横にちゃっかりと萌咲が座っている。
 甲斐甲斐しく焼酎のお湯割りを作っていた。仕事はあれだが、そういう気は回るらしい。
 それよりも、残業を手伝う原因となった萌咲の作った酒を、隆康が飲んでいることに驚いた。大人げないかもしれないが、自分なら受け取らないと菜々美は思う。
 胸の中にまずもやもやが広がって、それからすとんと、隆康が仕事を手伝ってくれた理由に納得がいった。
 彼は、新人の萌咲『も』助けたかったのだ。
 自分だけを助けるために残ってくれたと思っていた。
 ポジティブな勘違いにさらに恥ずかしさが湧き上がり、菜々美は身震いしながらお酒を飲んだ。

「気がくのは、いいことなんじゃないの」
「菜々美がアレをすると、男は勘違いするからやめた方がいいよ」
「急になんの話よ」

 刺身のつまを青じそでくるんで、しょうゆをつけたところだった。つまが、しょうゆの色に染まっていくのを見つめつつ、亜子の言葉に眉をひそめた。

「日頃、そういうことをしない女がしてみなさいよ。俺って本命かも、みたいな幸せな勘違いをするでしょうが。男ってそういうものじゃないの」

 とても演技には見えないしんに迫った亜子の迫力に、そういう経験でもあったのかなと思った。

「……何かあったのなら、話を聞くくらいならできるよ。力にはなれないと思うけど」
「話はいい。力にはなれる」

 急に食い気味に言葉尻に被せてきた亜子の勢いに引く。

「えええ、何?」
「好きな人に、合コンを頼まれたの。でも、合コンなんてしたくないわけ。だって、私の本命を誰かが狙ったら嫌だもの。だから、四人くらいでの食事がベストだと思って」
「力になれず、申し訳ない」

 一言で切って捨てる。安全パイな存在が必要という気持ちはわかるが、そんな場で気を使うよりも、家でイケボイスを聞く方が有意義だ。
 菜々美はしょうゆで黒くなったつまを口に運び、グラスに残っていた日本酒をくいっと飲み干した。
 亜子はめげずにぐっと寄ってくる。

「そのクールさが必要なの。人の恋を手伝うと徳を積むことになるよ。友人代表スピーチとどっちがいい?」
「スピーチがいい」
「え、そっちなの」
「簡単だもの」

 二対二の、しかも初対面の男性との食事よりも、スピーチの方がまだいい。事前に練ることができるし、何度でも練習できる。
 そう考える自分は少し変わっているのだろう。
 話題が切れたところで周囲を見回すと、目の前に座っている四十手前の篠田しのだが、自分で焼酎のお湯割りを作ろうとするところだった。
 菜々美が気負うことなく喋れる数少ない男性社員の一人で、仕事も教えてもらった大事な先輩だ。
 萌咲が隆康にお酒を作っていた光景が、菜々美の頭の中をよぎる。

「篠田さん、作ります。お世話になっているし。いつもこういう気がかなくてすみません。作ってもいいですか」

 酒飲みには好みの濃さがある。それが理由で、人によっては自分で作ることにこだわる場合がある。
 そんな菜々美の心配をよそに、声を掛けられた篠田は目を丸くした後に頭をく。

「せっかくだから、お願いしようかな」
「濃さはどれくらいにしますか」

 驚きつつも任せてくれた篠田に菜々美は微笑んだ。ここらへん、とグラスに指差されたところまで焼酎を入れて、丁寧にお湯を注ぐ。
 陶器のグラスに手を添えて篠田に渡すと、彼はとても嬉しそうに破顔した。

「いつもよりうまい気がする」

 気が向いたから声をかけただけなのに、とっておきのお酒を開けたような表情を向けられて、菜々美の方が恐縮する。
 篠田もお酒が好きで、たくさん飲むというよりも味わう派だ。
 まだまだ仕事で助言をもらうことも多いけれど、独り立ちした今は酒のさかなについて語り合う仲になっていた。
 篠田とお酒の話をしていると、どこからか強い視線を感じてその元を探す。
 すると、隆康の隣にまだ座っている萌咲と目が合った。彼女の口元に浮かぶ、勝ち誇ったような笑みに、菜々美はさすがにムッとする。
 飲み会に遅れて参加した理由を思えば、目をらしてなるものかと妙な闘争心が湧いた。
 気迫を感じたのか、萌咲の方がさっと目をらす。
 その横にいる隆康は、萌咲に半分背を向ける形で、隣に座る課長の砂野すなのと話していた。
 なぜか胸にぽっかりと穴が開く。隆康との残業は夢か幻だったのではないかと感じるほどに、すでに過去だ。

「ほら、菜々美も飲んで」

 亜子がいつの間にか頼んでくれていた日本酒のおかわりが運ばれてくる。
 酔わせて、合コンに参加させようとする、古典的な手段を取ろうとしているらしい。
 菜々美はなみなみと波打つ日本酒の水面を見つめる。
 隆康と一緒に飲み会に来たのは不可抗力だ。あんな風に萌咲に挑まれる覚えなんてないし、第一、感謝の言葉も聞いていない。そもそも、砂野は菜々美が代わりに見積書を作り直した件を彼女に伝えているのだろうか。
 萌咲に感謝を求めた自分への自己嫌悪も加わり、ムカムカしてくる。
 その感情で妙な弾みがついたのか、コンパに行ってもいいかなという気になった。

「コンパに行くのはいいけど、愛想はゼロだよ」
「ありがとう。菜々美は天然だから大丈夫」

 どういう意味よ、とねめつけるも、亜子はさっそくスマホで誰かにメッセージを送り始めていた。
 菜々美は褒め褒めアプリのイケボイスを隆康に聞かれたことを考えていた。
 まだ、恥ずかしいのは確かだ。
 けれど、隆康にとってはきっとたくさん抱える部下の一人の、些細ささいな秘密を知っただけ。
 どう考えても取り乱した自分がただただむなしいという結論に行き着くから、心は落ち着かない。
 自分の気にしていることは、他人にとっては案外どうでもいいことなのだ。理解はできるけれど、胸はちくりと痛む。
 やっぱり、イケボイスで自分の機嫌を取っている時間が一番、尊い。
 菜々美はちびちびと、日本酒を飲み続けた。




 週末は掃除に洗濯と忙しい。家族と住んでいるといっても、お弁当の材料の買い出しやストック作りは自分でする。
 とはいえ、そんな時間もイヤホンでアプリを聞くのだから苦ではない。むしろ、楽しい時間だ。
 この『楽』の時間で満たされた心が、月曜日からの自分を作るといっても過言ではない。
 涙ぐましい努力で気持ちをリセットして月曜日に出社をすると、待ち構えていた萌咲から頭を下げられた。
 驚きすぎて、菜々美は一歩後退してしまう。

「金曜日はせっかく教えてもらったミスを放置して、すみませんでしたー」

 言葉の中に、不服そうな雰囲気はぎ取れた。
 きっと誰かに言われたから頭を下げに来たのだろう。しかし偏見で決めつけてはいけない、と思い直し、菜々美は笑みを顔に貼り付ける。

「部長が手伝ってくれました。完成させたのは部長だから、私にお礼はいいです」

 萌咲は神妙な顔で固まった。もしかして、飲み会の日に隆康本人から直接注意をされたのだろうか。
 フロアに彼の姿を捜すが、見当たらない。確かめたくなって萌咲にかまをかけてみる。

「舛井さんが反省していたこと、部長に伝えた方がいいですか」
「伝えてください」

 萌咲の顔がぱっと輝いて食い気味に言ってくる。やはり隆康は、金曜日に彼女に注意をしたのだ。
 そんな雰囲気には見えなかったから、意外に思った。

「言っておきますね」
「ありがとうございます!」

 萌咲がここまで頭を下げてきたのは初めてだ。よほど強く言い含められたのか、隆康が好きだからか。
 二人のことだし関係ないか、と菜々美は考えるのを放棄して、約束だけをして自席に着く。
 素直に謝られると、頼まれてもいないのに見積書を確認したことに、改めて罪悪感を覚えてしまった。
 けれど、萌咲の仕事なのだから、あとは上司たちに任せればいい。そう気持ちを切り替えて自分の仕事に集中する。
 自分自身も書類整理や取引先への連絡、新しくなるハードやソフトのスペックについて確認をしなくてはいけない。
 昼を過ぎた頃、ホワイトボードの予定表に隆康は出張と書かれていることに気づいた。出社は木曜日かららしい。
 萌咲から謝罪を受けたことを伝えると約束した手前、早めに話したいが、出張中に社内メールを使って報告することには躊躇ちゅうちょする。ただでさえさばかなくてはいけないメールは多いはずだ。
 やるべきことがひとつ増えたと思いながら、忘れないために菜々美は『部長』と書いた付箋ふせんをパソコンの画面に貼り付けた。
 待ちに待った木曜日になったが、隆康をオフィスで見かけない。
 他の人に聞けば出社はしているらしく、どうやらお互いすれ違いになっているようだ。
 仕事をしていたが集中力が続かなくなり、時間を確認すると午後三時だった。
 窓から差し込む日差しを見つめた後、菜々美は休憩がてら自動販売機で飲み物を買うために立ち上がる。
 オフィスを出た廊下の突き当たりに休憩コーナーがあり、違うメーカーの自動販売機が三機、置いてあるのだ。
 ソファがそれを囲むようにコの字に設置してある。オフィスを離れて少し話したいときなど、ここを使う人も多いのだが、珍しく誰もいなかった。


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