腹黒狼侯爵は、兎のお嬢様を甘々と愛したい

水守真子

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出会いと決意

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「いってらっしゃい」

 距離も壁もあるはずの母親が、コートナー商会の娘を抱き上げ、そのモフモフした耳に頬をスリスリする。
 息子が疎ましくとも、コートナー商会の娘に失礼な態度を取ることは無いだろうとは思っていたが、世話を自分から引き受けるとは……。
 彼女は母親が急ぎ作らせた、薄黄色のお出かけ用ドレスを着ていた。
 この娘の可愛さは氷をも解かすらしい。

 いつになく饒舌な母親が言うには、この子の母親が憧れの存在だったらしい。
 当時の社交界では高嶺の花と言われたオメガの伯爵令嬢。魅惑的な紫の瞳に、深く美しい黒髪。馬の獣人である彼女は男性的な凛々しい美しさを纏い、紳士よりも令嬢たちの心を惑わせていたらしい。
 男爵令嬢であった母は、常に人に囲まれていた彼女に近づくことすら叶わなかったそうだ。
 平民と結婚した時は、社交界の一大ニュースになったと興奮気味に教えてくれた。
 そんな過去など露とも知らぬ彼女は、罪な程愛らしい笑顔を母親に向ける。

「いってきます。おばさま」
「いってらっしゃい。気を付けてね」

 母はベータがアルファなんか生むものじゃない、おまけにどうして神祖なのと嘆く。
 男爵令嬢だった彼女の生家は決して裕福ではなく、その美しさを父親に見初められた。
 縁談を断れるはずもなく、平民として生きていこうと思っていた彼女には青天の霹靂だっただろう。
 優秀な子を産んだと侯爵家に恩を売り大きな顔もできるところを、優秀すぎる息子に恐れを抱き遠ざけるのは、高位貴族への恐れかもしれない。

 ウサギの幼獣人にメロメロになっている彼女を見ていると、やはり悪い人ではないと思う。
 ただ、穏やかに人生を過ごしたい人なのだ。

「怪我なんてさせてはいけませんよ。あなたの強さは人を守るためにあるのですから」
「はい。行ってまいります、母上」

 見送りも、母親らしい言葉を掛けられるのも初めてだ。なんだかこそばゆく慣れない。
 母親に笑顔を向けられると、寂しかったという気持ちが自分の心を揺らす。とっくに諦めていたものだけに、餓えた心が騒いでいる。
 複雑な気持ちに囚われていると、きゅっ、と手を握られた。
 紫の目が自分を見上げている。

「大丈夫?」

 ハドリーは目を細めた。この子は、聡い。聡すぎる。

「大丈夫だよ。ありがとう」

 微笑むと、笑顔で返してくれる
 その可愛らしさに母親が感嘆の呻きを漏らした。いつか倒れないか心配だ。
 母親の素の部分を知り嬉しいことまで、この小さな彼女に知られていたら恥ずかしい。



 自宅から港湾まで徒歩にして十分ほど。
 海風の潮の香りがまだ濃いこの辺りは、港湾関係者が多く住む、別名、ハイエット街(がい)。
 皆が顔見知りで、全員で子守をするのが当然のような界隈だ。

「君、あまり離れないでよ」
「離れてないよ」

 三歩くらい前を歩いていた彼女が振り向いて笑った。
 喋らない、離れない、食べない。ラファティからそう聞いていたが、喋る、離れる、食べるとすべて逆張りだ。
 名前は教えてもらえていないが、今のところ問題は無い。
 港の周りには飲食店だけでなく屋台も多いのだが、彼女が通ればみんなが好きなように声を掛ける。

「ほい、嬢ちゃん。イカのゲソだ。持っていきな」
「ありがとう」

 甘辛いたれがたっぷり掛かった串焼きのゲソを、そばにいるマルコスが代わりに受け取って彼女に渡す。

「ウサギの嬢さん。パン揚げたもんだよ。食べな」
「ありがとう」

 パンの切れ端を揚げてハーブと塩をまぶしたものを、マルコスが受け取って彼女に渡す。
 
「そのカワイコちゃん、ほら、新鮮絶品な桃の串を持っていきな!」
「わぁ! ありがとう」

 カワイコちゃん、と呼び止めた店主に呆れた視線を送りながら、ハドリーがそれを受け取って彼女に渡した。
 ありがとうと何の疑いもなく受け取り、両手に食べ物を持った彼女の脇の下に手を入れて、ひょいと抱き上げた。
 人々の機嫌が良いのは、もう春だからか、彼女の笑顔を見たいからか。
 何にせよ、浮足立ち始めているのは間違いない。
 来週からいろいろな祭りが始まる。恋をし、求婚をし、子作りをする時期の到来だ。
 
「あのねぇ、君。食べすぎだよ」
「まだ食べてないよ」

 真顔で答えるものだから、ぷっと笑ってしまう。

「食べちゃだめ?」
「だめじゃないけどさ」
「なら、食べる」

 両脇に手を入れられ宙ぶらりんに抱かれているのに、器用にニコニコとゲソの串を食べ始める。
 通り過ぎる人から「かわいい」と微笑ましく通り過ぎざまに視線を送られるが、恥ずかしくは無いらしい。
 まるで、成長を取り戻そうとするかのように食べている。

 声を掛けられては笑顔で挨拶を返す彼女は間違いなく人気者で、無料で串を貰えるのも店の宣伝になるからだろう。
 何を食べているのと声を掛けられる度に、あそこの屋台だよ答えているのだから。

「まぁ、あれですねぇ、獣性が安定しないんでしょうね」

 ハドリーが不安定に抱き上げていた彼女を、見かねたマルコスが後ろから引き取って地面に降ろした。
 ゲソを食べ終わった彼女は次に桃を食べている。食べ合わせ……とハドリーの顔に苦笑が浮かんだ。

「獣性って、この子の母親は草食獣性だよね」
「どちらかの近いご先祖に、強い肉食獣人がいるんでしょう。草食獣人と肉食獣人の間では、獣性が食われるのはよく聞く話です」
「よく聞くのか」
「はぁ、まぁ、うちら平民は貴族と違って、とくに獣性の血筋にはこだわらないもんで」

 猿は雑食だから無いですけど、草食獣性では聞く話です、とマルコスはしゃがんで彼女と視線を合わせると頭を撫でた。

 獣性が安定しないというのは、強い獣性が弱い獣性を食おうとする現象だ。
 そのせいで、草食獣性の貴族は跡取りに必ず草食獣性を娶る。
 獣性がの不安定さは幼い子に現れやすく、草食獣性なのに動物を追いかけまわすなどの形で発現する。
 その父親の獣性と違う行動をとるため、草食獣性の貴族はそれを忌み嫌う。 

「強い獣性を出さないと身を守れない状況が多いってことなら、可哀そうなことです」

 マルコスが視線だけで建物と建物の間、人がふたり通れるくらいの道に視線を送った。
 ゴミ箱や道具などが積まれていて、歩くというより物置になっている道。
 こちらを伺う気配、好意的なものではないもの。それは彼女と一緒に行動するようになってからよく感じるものだ。
 今回のこれはマルコスが気づくくらい、殺気がある。
 幸か不幸か、当の本人は揚げたパンの耳をもぐもぐ食べていて気づいた様子はない。

「――ねぇ、君。食べ終わった串を僕に。よくこける君が持って歩いたら自分に刺さるでしょ」
「こけないもん……」

 食べ終わった二本の串を、彼女は躊躇った後に、不服そうに頬を膨らませながら渡してきた。

「この間、こけてたし」
「こけてないもん……」
「一人前(いちにんまえ)につまらない意地を張るね。両手に串を持ったまま顔からこけそうになったのを、僕が寸前で助けたよね。はい、串をどうもありがとう」

 外を歩けるのが珍しいのか、視線を四方八方に彷徨わせながら歩いていて、何もないところでこけかけた。もちろん、直前に抱き上げたけれど。

「草食動物の本分って機敏さじゃないの」
「……うるさい」
「君、そんな言い回しもできるの」

 嫌味っぽく言いながらもちゃんと言い返せる彼女を好ましく思った。
 不機嫌に頬を膨らませたままの彼女から路地が見えないように、立つ場所を変える。
 それから気取られないように、串を一本、二本、と気配の方向へ一直線に投げる。
 人の合間を通って、高速で、それは路地の暗い道へと消えた。
 ギャ、と小さな声がする。

「痛い声」

 彼女が顔を上げた。不安げに辺りを見渡す。やはり、聡い。

「そんな声がした? 優しいね。ならちょっとマルコスに見てきてもらおう。マルコス」
「承知しました」
「マルコスさん」

 彼女が体の向きを変えたマルコスのズボンの裾を掴んだ。目を潤ませながら、真剣に問う。

「大丈夫? 怪我しない?」
「しませんよ。ハドリー様には及びませんが、まぁまぁ俺も強いんですよ。でも、ありがとうございます」

 マルコスは愛し気に彼女の頭を撫でて、大柄な体では想像できないくらいの俊敏さでその細い道へと入っていった。

「……君も行く?」
「行かない。じゃまになるから」

 ハドリーは瞬きをした。大人びた表情は、彼女が見てきた何かの根深さを物語っていたから。

「マルコスは強いから大丈夫だよ」
「うん」

 でも、と幼い彼女はポツリと言う。

「私のせいで誰かが怪我をするのは、いや」
「大丈夫」

 間髪入れずに答えて、彼女を抱き上げた。
 絶対に自分の名前を名乗らないのも、それできっと何かがあったのだろう。
 美しい紫色の目に誓うように口を開く。

「マルコスは強く、大丈夫だと判断したから僕が行かせた。マルコスは大猿獣人で平民だけど、僕の家族だ。僕は家族を傷つけさせないし、傷つけない。もし気配で危ないと判断をすればすぐに助けに行く」
「うん」
「君もだよ」

 小さな子は不思議そうに首を傾げた。

「――預かったからには君はもう僕の家族だ。僕は君を傷つけさせない。絶対に守るよ」

 きょとん、とこちらを見る目に、まるで告白をしたみたいな気分になって恥ずかしくなる。
 小さな子にこんな気持ちになるのは、――変態かもしれない。
 そんな思いをよそに、柔らかい腕が首に腕を巻き付いた。
 嬉しい、という気持ちが彼女の身体全体から伝わってきて、ふいに目頭が熱くなる。

「家族」
「ああ、家族だよ」

 優しいけれど決して逃がさない強さで、小さな存在を抱き締める。
 この子はとても暖かい。名前なんて良い。そばにいてくれれば、それでいい。

 そう、この子を傷つける者は、自分がすべて排除しよう。
 その力が自分にある。

 路地の向こう側から、マルコスが右手を振ってきた。
 左手には気を失っているのだろう、ぐったりと動かない首根っこを掴まれている人影があった。
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