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共同作業
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人の指を咥えて喜ぶような、そんな育てられ方をした覚えはない。
母がそんなことを聞いたら、卒倒してしまうだろう。
これもオメガの性(さが)なのだとすれば、昔の人がいろいろと工夫をしてきたのも理解できる。
貴族の邸宅にはどんな形であれ、オメガの発情対策があった。
古くの名残ならば鉄格子の付いた牢、地下牢。ウェントワース侯爵邸の場合、離れだ。
本宅である建物と回廊で繋がる形で、一人で住まうのに丁度よい広さの別棟がある。
オメガが発情すれば、その匂いは人のベータの劣情さえも煽る。それを避ける為と言われている。
ハドリーのようにオメガの発情に反応しない人が多ければ、こんな発想も無かっただろう。
別棟は裕福な特権階級の人たちの邸宅に多いが、絶対数が少ないオメガのために建てられているのかと言われれば、たぶん、それだけではない。
性(オメガ)を楽しむ人(オメガ)がいるのは確かだし、好色なベータの貴族がオメガの娼婦を囲うのもよくある話。
アルファがオメガの首の後ろを噛めば、お互いしか求められない身体になるが、どちらか、または双方がそれを望まない場合もある。
自分の性癖を満たしつつ醜聞を防ぐために、あると便利な建物なのだろう。
そのウェントワース侯爵家のオメガ居住用別棟に、イザベラは滞在していた。
「侯爵様。私は一度、家に戻った方が……」
ハドリーは屋敷に戻って来るや否や、待ち構えていたように王宮に呼び出されてしまった。
もう一週間は帰ってきていない。
王宮に居住用の部屋を与えられているというから、そこで寝泊まりをしているのだろう。
悪いと思っているのか、毎日、イザベラ宛に花と手紙が届けられる。
手紙の返事を書くわけでもないのに、だ。
「コートナー家に安全に暮らせる工事が終わっていないと報告を受けている。私たちの話し相手は飽きてしまったかな」
「いえ、そんな。良くしてもらって申し訳なくて……」
「それならば気にする必要はないよ」
ウェントワース侯爵ことエックハルトは微笑んだ。
エックハルトと呼んで欲しいと初対面から歓迎してくれた上に、届けられた花を離れに運ばせ生けるように指示をしてくれている。
スラリとした逞しい体型の、グレーカラーの髪がその凛々しさを引き立てる紳士だ。
「ハーブ園は母君が面倒をみているようだ。野生の熊が出たのだろう。安全の確保が確認できない限りは、あちらにも戻れないよ」
「でも、私が住んでいた小屋は山間では無いので……」
「野生の動物が人里に降りてくるなんてざらにあることだ」
パートナーであるマーロリーは、スレンダーで狼らしい鋭さを持つ濃紺の髪が印象的な紳士だ。
寡黙だがイザベラを気にかけてくれている。
二人に共通しているのは優しさと、帰ると言わせない圧。
「イザベラ、ハドリーが帰ってくるまでは待ってくれないか」
マーロリーはそう言って、外はサクサクで中は甘い果実のペーストが挟んである、小さなお菓子を勧めてくれる。
口の中に入れると果物の香りが広がって、噛んでいるとふわりと口の中で消えるような触感が癖になるお菓子だ。
即効性ハーブもこれくらいおいしければいいのにと思いながら食べる。
紅茶とよく合って、自分の主張がすっかり萎んでしまったのがわかった。
おいしさのあまり、耳がふわふわと動いてしまう。
「とてもおいしいです。でも」
「それは良かった」
話は強制的に終了させられた。
エックハルトとマーロリーはお菓子に口を付けず、食べるイザベラをニコニコと見るだけだ。
この構図は、知っている。絵本で読んだことがある。
兎を太らせて食べようとしている狼の話。
それを想像してイザベラも何とか断ろうとするのだが、毎回根負けしてしまう。
どれも一口サイズで、甘くて、蕩けてしまいそうなほどにおいしいせいだ。
しっかりハーブを取っているお陰か、発情が起こる気配もない。
小屋の不自由さが嫌いだったわけではないが、ウェントワース侯爵邸は快適すぎで気が緩んで食が進んでしまう。
貴族間では力の順位というものがあるが、侯爵家は歴史や血筋は確かでかなり高位だ。
王都に広い屋敷を維持できる財力もある。
使用人はしっかりと教育されていて、見目も良く礼儀正しい。彼らはイザベラの身の回りの世話も、てきぱきとこなし話し相手にもなってくれる。
侯爵家に仕えることを誇りに思っている彼らに、自分のことは自分でできると言えば、彼らの仕事だけでなく自尊心を奪うことになる。
小屋ではハーブ摘みから乾燥調合、身の回りの事も一人でしていた。
目まぐるしい労働をパタリとしなくなったのだから絶対に太る。
自分の性(オメガ)のこともあって、自由に屋敷を自由に歩くのも遠慮しているから尚更だ。
暇を持て余し、つい、お菓子に手が伸びている悪循環に陥っている。
このまま滞在していもいいのだろうかと悩むたびに、ハドリーの言動を思い出す。
手の甲を親指で撫でながら、金色の目が自分を見据えた。
形の良い唇が、ゆっくりと紡いだのだ。
『約束ですよ。ここにいてください。侯爵家のことを学んでくださいね』
なぜ侯爵家のことを学ばないといけないのか、という質問を飲み込んでしまうくらいの、魅力だった。
『帰るなんて言ったら、あげませんよ』
そう言って、指をイザベラの唇に沿わせてきた。
無意識に唇でその指を食んでしまったのだから、思い出すだけで頬が赤くなる。
送られてくる手紙には『ゆっくり眠れているか』『寂しくはないか』『もう少しで帰るから待っていた欲しいと』気遣い言葉を並んでいた。
ただの客であるイザベラにこんなことを言えるのだから、番(つがい)の相手には想像もつかないような優しい態度をとるのだろう。
言われたからではないが、時間を持て余しているということもあって、この一週間でウェントワース侯爵家については、詳しくなってしまった。
領地経営の他に、王都にある港湾管理を国から任されているのは知っていた。
煩雑なものを本家が取り仕切り、分家で現場を担っているそうだ。
王宮に呼び出されたのも、港で問題が起こったのかなとイザベラはぼんやりと思っていた。
母がそんなことを聞いたら、卒倒してしまうだろう。
これもオメガの性(さが)なのだとすれば、昔の人がいろいろと工夫をしてきたのも理解できる。
貴族の邸宅にはどんな形であれ、オメガの発情対策があった。
古くの名残ならば鉄格子の付いた牢、地下牢。ウェントワース侯爵邸の場合、離れだ。
本宅である建物と回廊で繋がる形で、一人で住まうのに丁度よい広さの別棟がある。
オメガが発情すれば、その匂いは人のベータの劣情さえも煽る。それを避ける為と言われている。
ハドリーのようにオメガの発情に反応しない人が多ければ、こんな発想も無かっただろう。
別棟は裕福な特権階級の人たちの邸宅に多いが、絶対数が少ないオメガのために建てられているのかと言われれば、たぶん、それだけではない。
性(オメガ)を楽しむ人(オメガ)がいるのは確かだし、好色なベータの貴族がオメガの娼婦を囲うのもよくある話。
アルファがオメガの首の後ろを噛めば、お互いしか求められない身体になるが、どちらか、または双方がそれを望まない場合もある。
自分の性癖を満たしつつ醜聞を防ぐために、あると便利な建物なのだろう。
そのウェントワース侯爵家のオメガ居住用別棟に、イザベラは滞在していた。
「侯爵様。私は一度、家に戻った方が……」
ハドリーは屋敷に戻って来るや否や、待ち構えていたように王宮に呼び出されてしまった。
もう一週間は帰ってきていない。
王宮に居住用の部屋を与えられているというから、そこで寝泊まりをしているのだろう。
悪いと思っているのか、毎日、イザベラ宛に花と手紙が届けられる。
手紙の返事を書くわけでもないのに、だ。
「コートナー家に安全に暮らせる工事が終わっていないと報告を受けている。私たちの話し相手は飽きてしまったかな」
「いえ、そんな。良くしてもらって申し訳なくて……」
「それならば気にする必要はないよ」
ウェントワース侯爵ことエックハルトは微笑んだ。
エックハルトと呼んで欲しいと初対面から歓迎してくれた上に、届けられた花を離れに運ばせ生けるように指示をしてくれている。
スラリとした逞しい体型の、グレーカラーの髪がその凛々しさを引き立てる紳士だ。
「ハーブ園は母君が面倒をみているようだ。野生の熊が出たのだろう。安全の確保が確認できない限りは、あちらにも戻れないよ」
「でも、私が住んでいた小屋は山間では無いので……」
「野生の動物が人里に降りてくるなんてざらにあることだ」
パートナーであるマーロリーは、スレンダーで狼らしい鋭さを持つ濃紺の髪が印象的な紳士だ。
寡黙だがイザベラを気にかけてくれている。
二人に共通しているのは優しさと、帰ると言わせない圧。
「イザベラ、ハドリーが帰ってくるまでは待ってくれないか」
マーロリーはそう言って、外はサクサクで中は甘い果実のペーストが挟んである、小さなお菓子を勧めてくれる。
口の中に入れると果物の香りが広がって、噛んでいるとふわりと口の中で消えるような触感が癖になるお菓子だ。
即効性ハーブもこれくらいおいしければいいのにと思いながら食べる。
紅茶とよく合って、自分の主張がすっかり萎んでしまったのがわかった。
おいしさのあまり、耳がふわふわと動いてしまう。
「とてもおいしいです。でも」
「それは良かった」
話は強制的に終了させられた。
エックハルトとマーロリーはお菓子に口を付けず、食べるイザベラをニコニコと見るだけだ。
この構図は、知っている。絵本で読んだことがある。
兎を太らせて食べようとしている狼の話。
それを想像してイザベラも何とか断ろうとするのだが、毎回根負けしてしまう。
どれも一口サイズで、甘くて、蕩けてしまいそうなほどにおいしいせいだ。
しっかりハーブを取っているお陰か、発情が起こる気配もない。
小屋の不自由さが嫌いだったわけではないが、ウェントワース侯爵邸は快適すぎで気が緩んで食が進んでしまう。
貴族間では力の順位というものがあるが、侯爵家は歴史や血筋は確かでかなり高位だ。
王都に広い屋敷を維持できる財力もある。
使用人はしっかりと教育されていて、見目も良く礼儀正しい。彼らはイザベラの身の回りの世話も、てきぱきとこなし話し相手にもなってくれる。
侯爵家に仕えることを誇りに思っている彼らに、自分のことは自分でできると言えば、彼らの仕事だけでなく自尊心を奪うことになる。
小屋ではハーブ摘みから乾燥調合、身の回りの事も一人でしていた。
目まぐるしい労働をパタリとしなくなったのだから絶対に太る。
自分の性(オメガ)のこともあって、自由に屋敷を自由に歩くのも遠慮しているから尚更だ。
暇を持て余し、つい、お菓子に手が伸びている悪循環に陥っている。
このまま滞在していもいいのだろうかと悩むたびに、ハドリーの言動を思い出す。
手の甲を親指で撫でながら、金色の目が自分を見据えた。
形の良い唇が、ゆっくりと紡いだのだ。
『約束ですよ。ここにいてください。侯爵家のことを学んでくださいね』
なぜ侯爵家のことを学ばないといけないのか、という質問を飲み込んでしまうくらいの、魅力だった。
『帰るなんて言ったら、あげませんよ』
そう言って、指をイザベラの唇に沿わせてきた。
無意識に唇でその指を食んでしまったのだから、思い出すだけで頬が赤くなる。
送られてくる手紙には『ゆっくり眠れているか』『寂しくはないか』『もう少しで帰るから待っていた欲しいと』気遣い言葉を並んでいた。
ただの客であるイザベラにこんなことを言えるのだから、番(つがい)の相手には想像もつかないような優しい態度をとるのだろう。
言われたからではないが、時間を持て余しているということもあって、この一週間でウェントワース侯爵家については、詳しくなってしまった。
領地経営の他に、王都にある港湾管理を国から任されているのは知っていた。
煩雑なものを本家が取り仕切り、分家で現場を担っているそうだ。
王宮に呼び出されたのも、港で問題が起こったのかなとイザベラはぼんやりと思っていた。
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