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突然の来訪者
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しおりを挟む「私、もう、嫌」
発情と、熊の絶命と。襲い掛かってきた非日常はあまりにも刺激が強い。
イザベラは前屈みでうずくまった。静かな声が頭上から降ってくる。
「オメガであることがそんなに嫌ですか」
「いやです。普通がいい……」
「あなたの言う、普通とは何ですか」
大きな商家に生まれたのだから、恋をして結婚をするなんて期待していなかった。
オメガであると知って、ごく普通の政略結婚さえも諦めた。
どうにか結婚をしなくていいようにという願いも、父の言葉で潰えた。
ハドリーという、いつか会える番を大事にしているアルファがいるという事実が、悲しみを深くさせている。
自分は本能に引きずられて何も選べない人生になるかもしれないのに、ハドリーは誰かを愛そうとしている。
「……発作の心配など無く、街を歩きたい。お菓子屋を覗いて、気になったカフェでお茶を頂いて、本屋でゆっくり本を探して、装飾品のお店を覗いて」
緊急用のハーブを取らなければ、あとどれくらいで発作は収まるのだろう。
そういう実験はしていなかったと、劣情の片隅で思った。
「何にも、誰にも怯えずに生きていきたい。誰も良いから、満たして欲しいなんて思わないで生きていきたい」
ハーブも無い、目の前のアルファも自分を求めてくれない。
目の前が真っ暗になる苦しみに、心身ともにとても疲労を覚えていた。
発情を抑えるハーブも今のような効果の無かった頃は、発作が起こった高貴な生まれのオメガは、牢に入れられていたとも聞く。
どれほどに、苦しかっただろうか。
「誰でも良い、というのは困ります。私があなたの願いを叶えます」
ハドリーはどこからか手の平よりも小さな革袋を手に取った。
その中から指を入れると、黄金色の粘り気のあるものを纏わせる。
うっすらと口を開けているイザベラの唇を割って、指を無理やり押し込んできた。
「んんっ」
知っている味だ。
即効性のあるハーブだと、イザベラはハドリーの腕を掴んで、喉の奥まで指をくわえ込む。
蜂蜜とハーブの苦みが口の中に広がって、夢中で指にしゃぶりついた。
緊急用のハーブ入りの蜂蜜は決して美味しくはない。
甘みと苦みが口の中から無くなっても、夢中でハドリーの指を吸い続ける。
「素敵な光景ですね。どうですか、落ち着いてきましたか」
背中を撫でてくれる手が優しい。体から熱が少しずつ引いていく。
口からついて出たのは、小さな嘘。
「落ち着きません……。ちっとも」
指を舐めながら、ハドリーを見上げた。
「まだ要りますか?」
「もっと、もっとください」
イザベラは何度も頷いた。
また発情が起こってはという恐怖がハーブをもっと求めている、と思った。
でも、恐怖だけでないことは気づいていた。
アルファに触れることのできる喜びが、自分の中で膨らんでいる。
ハドリーの節張ってはいるが長く綺麗な形の指を舌でなぞった。
指まで美しいなんて、アルファは本当に恵まれている。
「全然、足りません」
「まだまだありますよ。安心してください」
ハドリーが革袋からまた蜂蜜を掬った。
その指を、彼の目を見ながらゆっくりと口の中に入れた。
邪魔にならないようにと、ハドリーがイザベラの乱れた髪をかき上げてくれる。
指を吸って、爪の中に入り込んだ蜂蜜まで絡めとった。
自分の唾液が流れ落ちハドリーの手を汚していたが、彼の手を掴んで気づけば夢中で別の指までくちゅくちゅとしゃぶっていた。
「そっちの指には何も付いていませんよ。――おいしいですか?」
指を口に入れているせいで喋れないので、爛々と輝かせた目をハドリーに向けてしまう。
本当に、おいしくてたまらない。
ハドリーの顔に返り血が付いている。
それも含めて、彼はなんて美しいのだろうと、指はおいしいのだろうと思った。
「そうですか、それは良かった」
ハドリーが優しく笑んだので、イザベラも指を口に含んだまま微笑む。
「あなたの耳は、とても感情豊かですね。悲しい時は折れて、元気な時は立つ」
耳を撫でられて、こそばゆいのに気持ちが良い。そして、嬉しい。
目を瞑って身を委ねていると、耳がそよそよと動いた。
ハドリーが表情を完全に緩ませる。
「発情は治まりましたね。それはあなたが調合を調整した即効性のハーブですよ。他のオメガの役に立っている。自信を持ってください」
反則だ。突然の言葉に目に溜まった涙が零れ落ちるのを堪えきれなかった。
ぽっかりと開いていた心の部分を埋めて溢れるくらいの温かさがある。
満たされると寝不足と発作を耐えた精神的な疲労からか瞼が重くなってきた。
「まずはそうですね、コートナー殿に事情をお話ししましょう。それから屋敷へ。両親も歓迎しますよ。――侯爵邸に来ると言わないと、指を食べさせてあげませんよ?」
ハドリーが口から指を抜き取ろうとしたので、目が覚めた。
ぶんぶんと首を横に振る。
彼の指を咥えているだけで安心するこの恍惚を手放したくない。
「なら、来ていただけますか。私が良いと言うまで」
イザベラは首を縦に振った。
いくらでも。貴方が良いと言うまで。いつまでも。
返事を刻み付けるように、頬を窄めて、指をちゅう、と吸う。
ハドリーは口を開いた。
「こんな傷、もう絶対につけさせませんので」
頬に触れられて、傷がついていたことを思い出した。
ハドリーの後悔と怒りの表情が、イザベラの目に不思議に映る。
すっかり夜も更けた頃、遅くなったことを心配したラファティが灯りをもって小屋までやってきた。
何人かの使用人と一緒に来たのは、夜道での獣を心配しての事だろう。
こと切れた血を流す大きな熊。
髪はびしょぬれ、しわくちゃの服を着た、頬に傷のある娘のイザベラを見て、ラファティは真っ青を超えて真っ白になっていた。
ハドリーとラファティが熊の前で何を話し合ったかはよく知らない。
ラファティがイザベラの手を取って言った。
「イザベラ、本当に侯爵様の屋敷で過ごすのだね」
嫌だと言っていいのだよ、と暗に込められたメッセージを、ラファティの目配せから受け取る。
父親の肩越しにいるハドリーが、こちらを見ていた。
頬の傷は発作が治まった後に、ハドリーが手当てしくれた。
いつも怪我の薬は持ち歩ている、とベルトに結び付けている革袋を見せてくれた。
軟膏を塗ってくれるだけで、恍惚とした気持ちになったことを思い出す。
熱に浮かされたように、言葉が口から出た。
「侯爵様がお許し下さるなら、しばらく滞在をさせて頂きたいです」
もっと触れたい。
この気持はオメガのものだろうか。
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