腹黒狼侯爵は、兎のお嬢様を甘々と愛したい

水守真子

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突然の来訪者

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 何度も頭まで湯に潜っては浸かっては浮かび上がるを繰り返す。
 どれくらい繰り返したのだろう。
 疲れから動きはだいぶ緩慢になっていた。

 何事も無ければ自然の音を聞きながらの入浴に身も心も解れたはずだ。
 でも今は違った。オメガの本能からくる火照りが収まらないどころか、苦しさが増してつらい。
 小屋の中から漂ってくる微かな香りさえも拾ってしまう。
 日は落ちてきて、辺りは薄暗くなっているのに、ハドリーはまだそこにいるらしい。
 
「どうして、帰ってくれないの……」

 今日に限ってハーブを持ってこなかったのは大失態だ。
 後悔しても何も変えられないのに、悔やんでばかりいる。
 胸の頂は張り詰め痛いし、両脚の間はずっとぬるついている。
 いっそ息が止まってしまえば楽なのにというくらいに、辛い。

 近くにアルファがいると叫ぶ本能がここまで強烈なものだとは思わなかった。
 イザベラは涙をこらえて、もう一度湯の中に潜るけれど、やはり何にも変わらない。
 劣情と戦う気力もすり減ってきて、イザベラは湯殿の縁に手を付いた。
 誰でも良いからこの火照りを収めて欲しいという本能、これが、オメガの性なのだ。

 オメガがハーブを手放せないのも、身体をもって理解できた。
 商人がオメガのこの欲情に金を見出すのもしょうがない。
 イザベラは奥歯をこれ以上ないほど噛み締める。
 こんな本能を抱えていかないといけないなんて、消えてなくなりたい。
 そう強く願った時、バリバリという音を立てて塀が吹き飛んで、付近に破片が飛び散った。

「…………」

 驚きすぎると声も出ないらしい。
 壊れた塀を見上げると人の何倍もある大きな熊がいた。
 口を開き、涎を垂らし、ただ一点、イザベラを見つめている。

「……熊」

 熊がいるとは聞いていた。
 だが、山にはたくさんの食糧があり、下りてくることはないと両親は言っていた。遭遇なんてしたことが無いと。
 だが目の前にいるのは、間違いなく獣人でも何でもない獣としての熊だ。

 長い爪を持つ腕が残った塀も薙ぎ払った。
 その破片が湯の中にも容赦なく降り注いでくる。
 飛んできた塀の破片が頬を掠ったが、怖くて体は動かないし、ただ見上げることしかできない。

 イザベラが痛みのある頬を指で辿ると、指先には血が付いた。
 ああ、死ぬのだ。
 あっけなさに、呆けてしまう。

 イザベラを家族はオメガだと蔑むことなく愛してくれた。
 引きこもってハーブの研究をしても応援をしてくれた。
 それだけで、十分すぎるほどに幸せだと、死ぬ間際に思うなんて遅すぎる。
 引きこもるだけでなくて、たまに王都の家に帰れば良かった。

 熊が大きな腕を振り上げている。爪が、自分を切り裂こうとしているのだとわかった。
 確実に死ぬ。
 消えてなくなりたいだなんて、思わなければ良かった。
 けれど、この火照りとも永遠に遭わずに済むのなら、それでもいい。
 いろんな矛盾が頭の中を駆け巡る。
 脳裏に浮かんだ家族の笑顔に、ごめんなさい、と話し掛けた。
 状況を受け入れてイザベラが目を瞑ると風が吹いた。

「確かに、危険な場所ですね」

 身体の奥底を震わす声。声色の中にある怒りを感じてイザベラは目を開ける。
 体の横を黒いマントが飛んで横切った。
 その人物の両手には小屋に立てかけていた細い銅管が握られている。
 一本を銅管を熊の眉間に振り下ろした。
 危機に瀕して咆哮を上げた熊が両手を振り回しながら後退る。

「ハイエット、様……」

 イザベラは呆然と呟いた。
 ハドリーは体重を感じさせない動きで着地すると再び跳躍し、銅管を一本、熊の首に横から突き刺す。
 身体能力に長けた獣人は珍しくないが、次元の違う動きにイザベラは言葉を失った。

 耳をつんざく断末魔の咆哮は木々と地面を揺らし、鳥が一斉に山の向こうへと飛び去っていく。
 イザベラも無意識に耳を折りたたんで塞いでいた。
 ハドリーの止めのもう一本が熊の巨体を貫き、倒れこんだ体を地面に縫い付ける。
 ついさっきまで生きていた熊から流れる血が、湯に流れ込んできた。
 朱に染まっていく湯を呆然と見つめていると、ハドリーに脇の下に手を入れられ引き上げられる。

「オメガの匂いを知って、本能で襲い掛かる獣もいると聞いている。君はこれから一人でここに来てはいけない」

 オメガである自分は熊の食べ物だと言いたいのか。
 アルファに怯え、獣にも怯える人生をこれから歩まないといけないのか。

 イザベラが絶望と恐怖に真っ青になって震えていると、ハドリーは熊の返り血が付いた黒いマントを、何も纏わない身体に巻き付けてくれる。
 マントから漂う身体の奥を震わす香りに意識は朦朧として、正気を保ちたくて唇を強く噛み締めた。
 命の危機よりもオメガの本能が勝るなんて、なんて呪われた性なのだろう。

「そちらに発情を抑えるハーブがあると思っていた」

 ハドリーは小屋の中にイザベラを連れ帰ると扉を荒々しく閉めた。
 返り血を浴びたマントを脱がし、脱ぎっぱなしだった服を頭の上から被せてくれる。
 裸を見ても何の反応も示してくれない。

「一人にさせるべきではなかった。ハーブを口にしないのなら、何をしていたのですか」

 大きな獣を倒したばかりで気が荒ぶっているのか、ハドリーは肩を掴んでイザベラに詰め寄る。
 触れられた肩からふにゃりと力が抜け、苛立つ彼に倒れこみそうになった。
 むせ返るほどのハドリーの香りの中で、狂えてしまえればどれだけ楽だろう。

「発情を抑える少ない解決策のひとつはハーブだとわかっているはず。どこにありますか」
「ありません。ここには無いのです」

 発情する自分を前に冷静なハドリーに、イザベラは弱弱しく伝えた。
 ハドリーはイザベラが発情をしているのをわかっている。
 そうでないとハーブを勧めてくるはずがない。

「私に触れる気がないなら、早くここからいなくなって、ひとりにしてください」
「貴女を置いていけるはずがない」
「そんな香りをさせながら、私に触れないなら、いなくなってください……」

 どうして満たしてくれないの、という本能がハドリーを詰ってしまう。
 こんなことが言いたいわけじゃない。発情を抑えるハーブを今持っていないかと聞けばいい。
 狼が番を大事にするのは聞いた。
 だけれどオメガの発情を目の前にここまで冷静なのなら、自分の方が異常だということなのではないか。
 もう、いっそ消えてしまいたい。イザベラは右手で左手の甲にぐっと爪を立てた。
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