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夕日に佇む、知らないあなたを。

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「とてもお奇麗ですわ、志摩子お嬢様。若い時の節子様を思い出します」

 着付けを終えて鏡に映る私を見て、ばあやは目頭を押さえる。
 これが、「綺麗」なのだろうか。
 血の気の無い頬に、人形のように感情が宿っていない瞳。
 綺麗なのはこの着物だ。日本橋の老舗呉服屋が祖父の百貨店に足を運んできてあつらえた、店自慢の一品。華やぎを放ち続ける着物とは真逆に、その中心に収まる私は生気もなくただ立っているだけ。

「お母さまに、私はそんなに似てる?」

 幼かった私の母の面倒を見てきたばあやは何度も頷く。

「ええ、それはもう! そっくりですわ」

 私が思い出す母の顔は、鏡に映った相貌とはかけ離れた、生き生きと輝く晴れやかな笑顔だ。木造の小さな平屋の家で暮らしていたあの頃の記憶が鮮やかに蘇る。父母はとても仲が良く、親子三人の笑顔あふれる幸せな日々。――だが私が12歳の時、母は結核を患って亡くなった。

「志摩子、どんなことがあってもね、あなたは自分の望むように、あなたの人生を生きるのよ。母さんはね、幸せだった」

 母の最期の言葉だ。
 母にそっくりだという鏡の姿に向かって、無表情の私はそっと呟いた。

「母さん、私は母さんのようには生きられないわ」

 母のあとを追うように父も同じ病で帰らぬ人となり、中学生の私の前に現れたのは、今の養父ちちで、母の兄である東竹とうちく三郎だった。
 『東竹家』は、東京にある河袋駅東側を拠点とし、不動産や物流といった事業展開をする日本でも有数の家柄だ。母が東竹家の娘だったなんて、あのつつましやかな暮らしの母からは全く想像できなかった。行く宛てのない私はこの大きな家の一員となるしかなかった。
 ――何不自由のない暮らし。
 ――私の心は満たされず、息詰まるような暮らし。
 養父は独身で仕事に明け暮れ、とても家族とは呼べない遠い存在だった。私には従兄妹が沢山いることがわかったが、親しく交流することはなかった。彼等を通して私が学んだことは、東竹家では男は事業を継ぎ、女は事業のために結婚するという「この家に生まれた者のすべき役割」だった。
 この家に庇護してもらったのだから恩返しをするのは当然のこと。私はただそう思って生きている。

 
 ばあやは、私の帯を整えながら目尻を下げて続けた。
西竹せいちく豊さまも、きっと一目で志摩子さまを気に入られますわ」

『西竹家』は、同じ河袋駅の西側でその勢力を伸ばしてきた東竹家のライバルだ。西竹豊氏はその筆頭株主の次男で私より17歳も年上だそう。
 嬉しそうなばあやの声を聞きながら、なんの心も動かない私は「そうかしら」とそっけない返事をした。
 気に入られようが入られまいが関係ない。私の人生は決められているのだ。
 私はその男性と形ばかりに見合いをして結婚するだけなのだから。

「志摩子様、どうしても髪を結わないのですか? そのほうが素晴らしい御着物も引き立ちますのに……」

「いいえ、いつもの髪型でいいのよ」

 私は百貨店に勤めに出るときと同じ髪型をあえて選んだ。
 腰まで長く伸びたまっすぐな髪を両耳の後で薄く取ってまとめ、リボンで結ぶ。
 この髪まで結い上げてしまったら、私の全てが作り物になってしまうような気がして……せめていつもの髪型にすることで、自分らしさを残しておきたかったのだ。
 勤めに出る許しをもらったのも、思えば自分らしさを求めていたからなのかもしれない。
 私は家のための結婚以外に、こんな自分でも東竹家に何か役立つことがしたかった。だからエスカレーター式に短大を卒業した後、養父に働きたいと申し出た。反対されるかと思ったが、養父は「夫の仕事を支える妻になるには、働いた経験があったほうがよいから」と理解を示し、私には東竹百貨店の席が用意されたのだった。




 玄関の前で待っていた運転手がドアを開けてくれ、養父とともに後部座席に静かに滑り込む。
 閉められたドア。かけられた鍵。感じる閉塞感。そして艶やかな着物。

(まるで、籠の鳥ね……)

 車は見合いをするホテルへと動き出した。
 上目白の屋敷からホテルに至る途中で、山之手線の線路に並行して走る車道を進んでいくと私が勤める東竹百貨店が遠くに見えてきた。
 東竹百貨店に近づくにつれ、線路の反対側にある西竹百貨店も目に入ってきた。
 線路と河袋駅を挟んで、東側の東竹百貨店と西側の西竹百貨店が、正面から睨み合うように建っている。戦後、東竹と西竹は火花を散らすことによりこの河袋一帯を盛り上げてきたのだ。

「まさか、おまえがあの西竹の次男坊と結婚することになるとは思わなかった」

 養父が西竹百貨店の姿を遠目に見つけて、養父がぽつりと言った。

「オイルショックがなければ、あの西竹と手を組むなんてことは起きなかっただろうが……これも双方生き抜くためには仕方ないことだ」

 私の婚姻は、東竹と西竹の『提携の証』。
 この業界にとって晴れやかなニュースとなり、広く知れ渡ることになるのだろう。
 東竹家によって如何様にも転がされる自分の人生をつなぎ止めたくて、私は膝に力無くのせた手をぎゅっと握って、自分はここに居るのだと確かめた。
 車は東竹百貨店の少し手前、交差点の赤信号で停止した。西に大きく傾いてきた太陽が、左側の窓から差し込む。これから提携していくことになるふたつの百貨店の先端が、そろって橙に色づく。
 その橙の中に、私はいつも自分が立ち寄る屋上を探した。わずかにビルの角に屋上の樹木を見ることができた。
 あの屋上は、私の一番好きな場所。
 唯一、私が私でいられるところだ。



 百貨店には顧客用の屋上とは別に、植え込みの奥に社員用の休憩場所がある。意外と人が来ないので、入社してすぐに私のお気に入りの場所になった。同僚たちとの人間関係の根底には、東竹家の私に対して常に特別な配慮がされていたから、そのよそよそしい空気感から逃れたかったのだ。
 広い空と四方に伸びゆく鉄道の線路。東京の建物が一望できるこの場所は、私に解放感を与えてくれた。上空の澄んだ涼しい風は、私の長い髪の間をさあっと通り抜けていった。そうしていると、心のもやもやも吹き飛ばしてくれるようで、なんだか気持ちよかった。
 私は夕方の景色が特にお気に入りだった。夕焼けに染まった空を映す東竹の窓たちが西竹のそれに反射すると、橙色が一層深まりとても美しい。
 終業後の帰宅前のひとときを、いつも屋上で過ごすようになった。

 気遣われながらではあったが、次第に私は仕事が楽しくなっていった。同僚やお客様に感謝されることは私の喜びだった。
 そうして二年が経った頃、向かいの西竹百貨店の社員用の屋上に、すっと背の高いスーツ姿の男性を見かけるようになった。
 その人は、よく屋上の端に立って街の風景を眺めていた。
 ふたつの建物の間には何本もの線路が横たわっているから相貌まではわからないけれど、わずかに右肩が下がる癖があり、何度も見かけるうちに「あの人だわ」とわかるようになった。

「あの人もここが好きなのね」

 顔も名前もわからない人だけれど、同志に思えてきて嬉しくなった。



 或る、とても奇麗な夕焼けの日だった。
 何度となく見てきた夕焼けだったけど、その日は目を奪われる美しさだった。西竹の窓はもちろんのこと、広がる薄雲が今沈まんとする太陽によって朱音色を帯び、それが空の薄水色と溶け合って、さながら水彩画のようだ。
 ふと反対側のビルが目に入った。もその夕焼けを見つめていた。私の視線を感じだわけでは決してないだろうが、あの人がこちらを振り向いた。そして私に気がつくと、軽く会釈をした。
 私は驚いた。

「どうして私に挨拶をするのかしら……? 私があの人のことをわかるように、もしかして、向こうも……?」

 私はドキドキしながら、慌てて会釈を返した。
 すると今度は、こちらに顔を向けたまま、ゆっくりと腕を伸ばして夕日を指さした。
 まるで、「今日の夕焼け、とても奇麗ですね」と言うように。

「ええ、今日の夕焼け、本当に奇麗……」

 私も相手にわかるように大きく頭を縦に振った。そして
「本当に、とても素適ですね」
と気持ちを込めて、同じように夕日を指さした。
 あの人は私の動作に深く頷くと、もう一度夕日を見るために背中を向けた。
 夕焼けの中に身を置きながら、私はとても幸せな気分だった。
 この美しい夕焼けを誰かとわかちあえたことに、気持ちが弾む。
 胸が、くすぐったい。
 家族を亡くしてから味わえていなかった幸福感が、私の心を満たした。
 その日から、私たちは屋上で出会うと会釈を交わすようになった。



 仕事は順調だったが、東竹の名前のせいだろうか、私は誰かわからない者から、嫌がらせを受けるようになった。あまりにも子どもじみていたから気にしないように努めたが、繰り返されると辛くなっていく。それでも私が声を挙げたら大事になって相手を窮地に追い詰めてしまうと思い、ずっと我慢をしていた。けれども、ある日私は誰もいないこの屋上で、とうとう耐え切れずに泣き出してしまった。

(なぜ私、こんなことをされなくちゃならないの……?)

 涙を何回も拭ってひとしきり泣いて何気なく顔をあげると、いつのまにか休憩に来ていたあの人がこちらを向いていた。

(もしかして、私が泣いていたの、わかってしまったのかしら!?)

 この距離で泣き顔を見られたわけはないけれど、恥ずかしさで顔が熱くなり首の付根がちりちりとした。この場から消え去りたくて勢いよく立ち上がったとき、急にあの人が両手を動かした。

「え? 何かしら……?」

 瞬きもせず動きを見続けると、拳を作り肩の上に掲げて、私にエールを送ってくれている。
 思いがけないあの人からのメッセージを、私は西竹に向かい合う屋上の柵に歩み寄って受け止めた。
 伝わってないと思ったのかもしれない。あの人は同じポーズを繰り返し、それから困った様子で頭を掻いて、もう一度拳を作る。
 その様子が、私をじんわりと温めていった。
 我に返って、両手で拳を作り胸の前にギュッとかざした。そして深々とあの人にお辞儀をした。

「私、元気をいただきました! ありがとうございます!」

 その温もりは、父母と生活していたときに感じていた、あの懐かしい感覚だった。
 頭を上げると、あの人は安心したように私に向かって大きく両手を振ってくれた。



 そのころだ。ばあやにこんな風に声をかけられた。

「志摩子さま、最近お仕事楽しそうでいらして、ばあやも嬉しゅうございますよ」

 仕事は確かに楽しかった。そうなると更に身も入る。同僚やお客様に喜ばれることが日に日に増えていき、いつしか嫌がらせもなくなっていた。
 楽しいのは、おそらく仕事だけが理由ではなかったのだと思う。
 私は休憩時間や終業後は必ず屋上に行くようになっていた。
 そして西竹百貨店の屋上にあの人の姿を探す。
 姿を見つけた日はなんだかとても気持ちが晴れやかになるし、いないと心がしぼんだ。向こうも私に気がつくと、手を挙げて挨拶してくれた。それから夕日の綺麗な日は、二人して共にその美しい景色を眺めた。
 短くささやかな時間。
 それだけで私はとても幸せだった。

 他人様からしたら私の仕事は腰掛かもしれないが、私は一生懸命取り組んだ。だからとても嬉しいこともあった。
 私が提案した赤ちゃん休憩所がお客様から好評で、集客と売上が伸びて表彰されたのだ。その日の終業後、そわそわしながら屋上に来てしまった。あの人に自分の成果を伝えたかったのだ。

(いつも会えるわけでは無いのに……私ったら何をしてるのかしら)

 自分でも呆れたが、どうしても伝えたかったのだ。あの人を待ちながら、しばらく屋上で時間を費やした。だいぶ日も傾き、今日はもう来ないとがっかりして帰ろうとしたとき、あの人が屋上に出てきた。そして私を見つけるとすぐに手を振ってくれた。
 私は返事の代わりに、両手で表彰状を見せるように頭上に高く掲げてしまった。何を持っているのかなんて見えるわけがないのに。そして嬉しさから飛び跳ねながら報告した。

「見てください! 私、私やりました!」

 きっと変な女だと思われたに違いない。でも私は嬉しくて夢中だった。
 なんとなく事情を察しくれたのか、あの人は私にガッツポーズと拍手を贈ってくれた。

「ありがとうございます!」

 私は思い切り両手伸ばして大きく振り返したところで、はっと大人げない自分に気がついた。

「やだっ、私ったら……! まるで子どもじゃないの!」

 恥ずかしくなって今度はぺこぺこと頭を下げる。
 お辞儀で乱れてしまった長い髪を撫でつけながら、おそるおそるもう一度あの人を見る。
 すると、まだガッツポーズと拍手を繰り返し贈ってくれていた。
 そのとき、私の頬に何かが伝った。なんだろうと触ってみたら指先が濡れていた。
 ――嬉し涙。
 一緒に喜んでもらえたことが、ただただ嬉しかった。





 信号が変わり、車が発進する。一緒に後部座席で車に揺れる養父がおもむろに私に声をかけた。

「……志摩子、この見合い、本当にいいのか?」

 もう引き返せるわけもないのに、なぜ養父は訊くのだろう。決して否とは言えない私に。

「……」

 素直に「はい」と返事をしようとしたが、なぜだか声が出なかった。
 車が右折する。左手奥に見える線路の向こうの西竹百貨店の屋上に、自然に目が引きつけられる。
 ……あの人は、いなかった。

「好きな奴は、いないのか?」

 養父が続けて訊ねた。
 その言葉に心臓が大きく脈打つように感じた。詰まった喉から、私は声を押し出した。

「……いませんわ」

「おまえの母親、……節子も、見合いをした。だがその翌日、お前の父親と駆け落ちをしてな」

 私は養父の言葉に息を飲んだ。なぜ母が父と暮らしていたのか、なんとなくは想像していたものの、事実を聴いたのは初めてだ。
 今、こんな話をするなんて、養父は私が母と同じ道をたどるのではないかと心配して、釘を刺しているつもりなのだろうか。

 私に好きな人?
 そんな人いないわ。

「……ご心配されるようなことは、ありません」

 私は遠くなっていく西竹百貨店の屋上を一目見ようと振り返った。
 西日がギラリと眩しくて、もう何も見ることができなかった。





 老舗ホテルの西洋風庭園を見渡せる特別個室のサンルーム。
 到着すると私の祖父で東竹会長であり筆頭株主の東竹源一郎がすでに待っていた。

「先方の西竹豊君はなかなか優秀な男で、百貨店業界へ抜擢されたそうだ。仕事に集中したいと今までも見合いを随分断っていてな、この見合いも相当渋ったそうだが、とうとう折れたらしい。四十を前にして、まあ年貢の納め時なんだろうよ」

 祖父は部屋じゅうに響く声でそう言うと豪快に笑った。
 その話と笑い声は、私の気持ちをますます冷え込ませた。
 気乗りがしないなら引き受けなければいいのにと思ったが、私も同じなのだと気がついて、自分の胸がチクリと痛んだ。
 何も言わない私に代わり、養父が応じた。

「お父さん、まあこの話はその辺で。そろそろ先方も到着するでしょう」

 太陽がますます傾いて、サンルームの奥にまで陽が届いた。
 硝子に映った自分は、空っぽの表情をしていた。
 私の心はサンルームを離れ、私が私でいられたあの屋上へと戻っていた。
 今日は、あの人の姿を見ることはできなかった……
 そう思うと胸がきゅっと締め付けられた。
 顔もわからない、喋ったこともない、これから結婚する相手会社の社員。
 もしも顔を合わせたところで、お互いに気付くことはない。
 線路の向こうの遠いあの人。
 でもあの人は、私を見つけると手を挙げてくれた。私を励ましてくれて、一緒に喜んでくれた。
 あの綺麗な夕焼けを一緒に美しいと思ってくれた人……
 胸が苦しい。
 何も感じなかった胸に、熱い物がこみあげてくる。
 ただそれだけなのに、なぜこんなにも……

 硝子に映る私の表情が、悲しそうな、苦しそうな、今にも泣き出しそうな顔になっていた。
 でも私の瞳には、さっきは無かったくすんだ光が宿っていた。
 硝子の私に、母の面影が重なる。
 父を愛し、私を育て、生き生きと輝いていた母。

 母の言葉を思い出す。
「志摩子、どんなことがあってもね、あなたは自分の望むように、あなたの人生を生きるのよ。母さんもね、幸せだった」

 ……あの人に会いたい。
 会って言葉を交わしたい。
 顔もわからない人なのに。探すことなんて出来ないのに。
 そんなこと無理に決まっている。
 だけれども。滅茶苦茶なことだとわかっているけれど。
 今の私の気持ち、私の気持ちは……!
 まだ、先方は来ていない。
 じゃあ、今なら、まだ間に合う?
 お見合いは出来ないと言おう――そんなことできる?
 もうこの結婚は決まっているのよ? もう私、この席に座っているのよ?

 でも、でも、私は私の…………!!

「お養父さま」

 決意をしてやっと絞り出した私の声は、ひどくかすれていた。
 だがその声は祖父の大きな声に掻き消された。

「おお! 西竹が来たぞ!」

 サンルームのガラス越しに、ホテルの支配人に案内されながら、年配の男性に続いてお相手の男性が歩いてくるのが見えた。
 抗えない道が、私の前にまっすぐに伸びている。
 私があと、もう少し早く自分の気持ちを伝えていれば……
 もっと母の言葉を大事にして、自分の気持ちを通そうとしていれば……! 

 『豊さん』というその男性がこちらに歩いてくる。
 
 その姿を見て、私は自分でも気がつかないうちに立ち上がっていた。
 開け放たれているサンルームの窓枠に両手をかけ、呆然と男性を見続ける。
 あの歩き方……!
 わずかに右肩のさがったような、見慣れた姿勢……
 私がいつも屋上で探してしまう、あの人と同じ……
 
 私は目を見張った。
 そんなことがあるのだろうか……!
 
 その人は、斜陽が射すサンルームの私に気がつくと、その場で歩みを止めてじっとこちらを見ていた。
 そしてゆっくり片手を上げると腕を伸ばし、すっと夕日を指さした。
 心が、熱い。
 私は震える指先で、同じように夕日を指さした。
 遠くて見えなかったあの人の表情が、優しい微笑みに変わっていくのがはっきりと見える。
 連れの男性を置いて、あの人が、私の方へどんどん歩いて近づいてくる。
 庭園の緑がざあっと音を立て、花壇の花々によって運ばれた風が窓から吹き込み、私の長い髪がはらはらと舞った。
 乱れた長い髪を撫でつけて顔を上げると、あの人がすぐ目の前で、柔らかな眼差しで私を見ていた。
 私がずっと言葉を交わしたかったあの人が、今、手を伸ばせば触れることのできる距離にいる。

 豊さんは綻んだ口を開く。

「……志摩子さんは髪がとても長い方だと聞いて。やはり、あなただったんですね。僕はあなたとずっと話したいと思っていたのです」

 トクンと大きく撥ねる心臓。
 体中を巡る驚きと喜び。
 胸の小鳥が飛んで行ってしまわないように、両手でそっと包む。
 小刻みに揺れる唇を開いて、私は初めて彼に想いを伝えた。

「はい。私も……あなたとお話をしたいと……思っていました」



 母さん。
 私も母さんのように、自分が望むように自分の人生を生きてみるわ。
 だって、今、私の心が、とても強く、強く願っているの。
 私が好きになったこの人と、共に歩んでいきたいと――――





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