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1巻
1-1
しおりを挟む序章
私の名前は桜。春に生まれたから、この季節に咲く花の名がつけられた。
――名前は、親が最初に与える愛情だ。
世間ではそう言われているので、もしかしたら両親がこの名前をつけてくれた時には、私に愛情を注いでくれていたのかもしれない。けれど、私自身がそれを感じたことはない。
物心ついた頃には、私の両親はお互いのことを毛嫌いしていた。どうして結婚したのか不思議に思うくらい、夫婦仲は険悪だった。
そしてどうやら、その原因は私にあったらしい。
両親は二人とも仕事が大好きな人間で、子供を作るつもりはなかったようだ。ところが、母は私を身ごもった。
そのつもりがなくても、やることやってれば、そりゃあできるでしょ。
予定外の出産をしたせいで母は出世のタイミングを逃したらしく、私のことを疎んでいた。そして父は家事や育児にまったく関わらない人だったので、母と衝突することも多かった。
『たまには子供の面倒くらい見てよ』
仕事をしつつ、家事も育児も一手に引き受けていた母は、つねづね父にそう訴えていた。けれど父はそのたびに突っぱねた。
『子育ては母親の仕事だろ。産んだんだから、ちゃんと育てろよ』
『好きで産んだわけじゃない』
これが、いつもの口論だった。
私が中学生になってからも、似たような言い争いはよく起こった。
私だって、好きで生まれてきたわけじゃない。
そう思っていても口にするわけにはいかず、私はただ耳を塞ぎ、心を閉ざしていた。そうしているうちに、両親の口論はいつの間にか終わっているのだ。
でも、その日は違った。
いつものように両親が怒鳴り合っているのを聞き流していると、母の悲鳴が聞こえた。
何事かと思って顔を上げた時、目の前に立っていたのは、包丁を握りしめ、血走った目をした父。
ヤバイ!
本能的に逃げ出そうとした次の瞬間――腹部に焼けるような熱を感じた。
全身の力が抜け、私は冷たい床の上に倒れた。
焼きごてを押し付けられたように腹部が痛み、そこから血が流れ出ていく。体温が急速に失われ、まるで命が体から零れ落ちていくようだった。
ぼやけた視界の端に、包丁を持って走り去っていく父の背中が映る。その光景を最後に、私の意識は闇に沈んでいった。
それは十五歳の春の出来事だった。
気が付くと、ふわふわとした心地よい空間にいて、何か温かいものに包まれていた。どうやらそれは誰かの腕らしい。
人に抱きしめられた記憶なんてない私は、どうしたらいいか分からなくなる。すると、声が聞こえた。
『我が愛し子』
男性の優しい声だった。その声の主は私をそっと腕に抱き、愛おしむように頭を撫でてくれる。
人からこのような温かい好意を向けられるのは初めてで、戸惑ってしまう。
そんな私の心を察してか、男性はふっと小さく笑った。
『そのように戸惑う姿も愛らしい』
……初対面の人間に、この人は何を言っているんだろう。
『愛し子よ、俺に名前をつけておくれ』
名前? そんなもの、親がつけてくれるんじゃないの?
『俺には名前がない。だから、お前につけてほしい』
親から愛されなかった私にさえ、桜という名前があった。でも、この男性には名前をつけてくれる人すらいなかったらしい。
そう考えると、なんだかこの男性が哀れに思えた。
私でいいのなら、つけてあげよう。
軽い気持ちで引き受け、私はぼんやりと彼の姿を見つめた。
腰まである長い黒髪に、黒い瞳、褐色の肌。外国人風の顔立ちをした、かなりのイケメンだ。
彼に日本の名前は似合わないだろう。
私は思いつく限り、横文字の名前を頭に浮かべた。その中から選んだのは――
ジェラルド。
すると、私を抱いている彼が微笑んだ。
『そんなに一生懸命考えてくれるとは思わなかった。ジェラルドか……いい名だ』
気に入ってくれたようだ。よかった。
『名前を呼ばれるというのは、嬉しいものだな。お前の名前も、早く呼びたいものだ』
ジェラルドは妙なことを言う。
私には桜という名前がある。呼びたいのなら、いつでも呼べばいいのに。
そう考えていると、彼は複雑な表情をした。
理由を尋ねようとしたけれど、急に眠気が襲ってきて、私は再び意識を失った。
第一章
私の名前はクローディア・レイツィア。前世では、桜という名前だった。
生後間もなく前世の記憶を思い出した私は、自分の体が赤ちゃんになっていることに驚き、とても混乱した。
けれど周囲の大人たちの会話から、自分の置かれた状況をすぐに理解した。
どうやら私は異世界に転生したらしい……と。
生まれ変わって一週間。ベビーベッドに寝かされてうとうとしていると、声が頭に響いてきた。
『クローディア、気分はどうだ?』
ベッドの傍らに、黒ずくめの男性が立っていた。黒髪に黒い瞳、褐色の肌をした彼は、じっと私の顔を覗き込んでいる。声の主は彼らしい。
「あぅ、うぶあう」
答えようとするけれど、赤ん坊の私は上手くしゃべれない。
『言いたいことを頭に思い浮かべるだけでいい。精霊は主の思考をある程度読み取れる』
また声が響いてきて、ふと気付いた。この声には聞き覚えがある。生まれてくる前、私を優しく抱いてくれた男性の声だ。
『覚えていたか。ならば名を呼んでくれ。俺に伝えることを意識して言葉を思い浮かべてみるといい』
私は言われたとおりに彼の名前を頭に浮かべ、伝えようと念じてみた。
『……ジェラルド』
声に出してはいないけれど、彼に向かって言葉を発したような感じがした。すると彼はふっと微笑んだ。
『上手いじゃないか。それが念話だ。俺と言葉で話をしたければ使うといい』
『ジェラルド……あなた、闇の精霊王だったのね』
生まれた時、周りの大人たちが私のことを見て『闇の精霊王の加護持ちだ』と言っていた。彼は人間とは異なるオーラをまとっているし、その精霊王とやらに違いない。
『そうだ。俺はお前が気に入った。いい名前ももらったしな』
ジェラルドはたいしたことではないという風に言った。
『……色々聞きたいことはあるけれど、まずはこの世界のことを教えてくれる? 精霊王の加護持ちって、どういうこと?』
転生したらしいということは分かったが、赤ん坊の身では窓の外を見ることもできない。もう少し詳しく状況を把握したくて尋ねると、彼は丁寧に教えてくれた。
まず、ここレイシア国は、精霊と魔物と人間が共存する国だという。精霊には火や水などの属性があり、その属性ごとに精霊王がいる。無数に存在する精霊を統べる彼らは、非常に強い力を持っているらしい。特に光と闇の精霊王は別格で、他の精霊王とも一線を画しているとか。
この国のほぼすべての人が精霊の力を借りて魔法を使うことができ、中でも貴族には、生まれつき精霊の加護を持っている者が多いらしい。
精霊に加護を与えられると、彼らを使役できるようになる。
加護を受けるための条件や方法は明らかになっていないけれど、私には自分が闇の精霊王に加護を与えられた時の記憶があった。
私は、一度死んで生まれ変わるまでのことも覚えている。だから、あのふわふわした心地よい空間で起きたことが、契約のようなものだったと推測できた。
『俺はお前を気に入り、お前は俺に名をくれた。だから俺はお前を守るし、できる限り力を貸そう』
『どうして私を選んだの?』
疑問に思って聞いてみると、ジェラルドは眉一つ動かさずに答えた。
『お前の魂が美しく、それに魅かれたのだ』
私は人間なので魂の美醜は分からないが、要はジェラルドの好みだったということだろう。
それから彼は、私の生まれたこの家についても教えてくれた。
前世では日本で暮らす普通の庶民だった私は、今世ではなんと名門公爵家の長女になったらしい。父は王宮の騎士団長を務めているとか。
転生したら悠々自適なお貴族様になっているとは、生まれ変わるのも悪くないな。
けれど問題がまったくないわけじゃない。
ジェラルドの話を聞きながら、私は最悪なことを思い出してしまった。前世の記憶の中にはおぼろげなものも多いのだが、これははっきり覚えている。
今の私――クローディアは、前世で読んでいた小説《聖女は王子に溺愛される》に出てくる悪役令嬢と似た境遇にあるのだ。
小説に登場する悪役令嬢の名前は、クローディア・レイツィア。名前まで同じだ。これは偶然なんかじゃないだろう。
ジェラルドの話を聞く限り、私は間違いなくそのクローディアだ。なんと私は小説の世界に転生してしまったらしい。
そのことに気付いてすぐ、小説の内容を思い出してみた。
小説の舞台は、精霊と魔物と人間が共存する国レイシア。国民のほとんどが、精霊の力を借りて魔法を使えるという設定だったはずだ。そんなところも、この世界とそっくり。
そして、貴族の子供たちが通う学校を舞台に、物語は進んでいく。
物語のヒロインはアメリア・ローガン。男爵家の庶子で、平民として下町で暮らしていた彼女は十四歳の時、光の精霊王の加護を受けていることが明らかになり、クローディアの通っている学校に転入してくる。
クローディアは、アメリアが転入してきてすぐ彼女を虐め始める。その理由は、彼女への嫉妬だった。
小説のクローディアも、公爵家の令嬢で闇の精霊王の加護を受けていた。けれど闇の精霊王は人々から忌避される存在だったので、それが原因でクローディア自身も他の子供たちから忌み嫌われていた。
逆に光の精霊王は人々から好かれていたため、アメリアの周りにはいつも人が集まっていた。だからクローディアは、自分とは対照的な彼女を羨み、妬んだというわけだ。
しかもアメリアは、クローディアが密かに想いを寄せていた相手、第二王子のエドガーと婚約する。二人の婚約が発表されてからというもの、クローディアはますます彼女に危害を加えるようになり、やがて大人たちからも危険視されるようになった。
一方、光の精霊王の加護を受けているアメリアは癒やしと平和の象徴として聖女に選ばれ、国の重要人物になる。そんな彼女を攻撃するクローディアを、人々は排除しようと考えた。けれど闇の精霊王の加護を受けている彼女の怒りを買うのは怖い。
ちょうどその時、敵対する隣国のガルディア王国と休戦協定を結ぶため、両国の名門貴族の娘を互いの王家に嫁がせ合おうという話が持ち上がっていた。
名門公爵家の令嬢だったクローディアは、表向きは和平のため、本当の理由は厄介払いのため、これ幸いとガルディア王国に嫁がされる。
けれどその協定はガルディア王国によってあっという間に破られ、再び戦争が起こる。クローディアもガルディア王国の人間として戦場に駆り出され、最終的に光の精霊王の加護を持ったヒロインに殺されてしまう。
私が思い出せる物語の内容は、ざっとこんなもの。かなり絶望的だ。だって、もしあの小説の通りになるとしたら、私は将来、国外追放された上に戦死してバッドエンド。救いがなさすぎる。
幸せになれなくても構わないから、せめて最悪の未来だけは回避したい。
とはいえ、今の私は生まれたばかりの赤ん坊。そんな私にできるのは、周囲の人間の会話を聞いて、情報を集めることくらいだった。
生まれ変わってから数ヶ月。基本的に私はベビーベッドに寝かされていることが多い。ここにいると、侍女たちの会話がよく聞こえてくる。今日も彼女たちは話をしながら部屋に入ってきた。
「奥様は? まだ臥せっておられるの?」
「いいえ、今日は起きていらっしゃるわ。なんでも、午後から旦那様と庭園をお散歩するんだとか」
私はまだ言葉も話せない赤ちゃんだけど、前世の記憶があるせいで、彼女たちの会話が理解できてしまう。けれどそれを知らない侍女たちは、私の近くで好き勝手におしゃべりするのだ。
「少しでもお部屋から出られたほうがいいわね。ずっとベッドの上にいるのは、お体によくないし」
「でも、臥せってしまわれるのも無理ないわ。生まれたお子が、まさか闇の精霊王の加護持ちだったなんて……私だったら、ショックのあまり自殺してしまうかも」
大人たちの会話や態度から分かったことだが、小説と同じように、この世界でも闇の精霊王は忌避されているらしい。そして、その加護を持っている私も。
『クローディア、お前が望むなら、この無礼な侍女たちを始末してやるが?』
ジェラルドがベビーベッドの傍らに立ち、不機嫌そうに言った。
『大丈夫、気にしてないから』
私は念話でそう伝える。侍女たちに危害を加えたところで問題は解決しないし、それどころか余計に嫌われて、小説のクローディアと同じ道を辿ることになりそうだ。バッドエンド回避のためには、周囲の人たちに私が無害だと理解してもらわなければ。
ジェラルドは忌々しそうにチッと舌打ちをしたが、私の考えを尊重してくれたのか、侍女たちを睨むだけで危害を加えようとはしなかった。
ジェラルドに冷たい視線を浴びせられていることにも気付かず、侍女たちの話はまだ続いていた。
彼の姿は私以外の人間には見えないし、声も聞こえない。基本的に精霊は、加護を与えた者以外に姿を見せたり声を聞かせたりしないそうだ。
もちろん、彼らがその気になればできるのだけれど、ジェラルドが私以外の人間に姿を見せたことは一度もない。
「それにしても」と言いながら、テーブルを拭いていた侍女の一人が手を止め、私の顔をまじまじと覗き込んできた。その目には赤ん坊を慈しむ心はまったく感じられない。
「闇の精霊王の加護持ちって、本当に黒髪黒目に褐色の肌なのね。初めて見たわ」
「レイシアでこんな色をしている人はいないものね」
窓を拭いていた侍女が、同じように私を見る。
「貴族の令嬢にとって白い肌は美しさを表すものの一つでしょう。こんなに色が黒いんじゃ、嫁のもらい手がないんじゃないの」
彼女たちは嘲けるように笑った。
『クローディア、やはりこの無礼者どもを殺してやろう』
彼女たちのせいでジェラルドの怒りが再燃してしまった。
『ジェラルド、私は大丈夫よ』
ジェラルドが私のために怒ってくれていることは、純粋に嬉しい。でも、ここで彼が思うまま力をふるってしまったら、私はバッドエンドに向かって一直線だ。それだけは避けたい。
『お願い。彼女たちに危害は加えないで。私は本当に気にしていないから』
私が必死に訴えると、ジェラルドは眉尻を下げて私を見る。
『優しいクローディア。あのような無礼者どもにも慈悲を与えてやるなんて。さすが、俺が選んだだけはあるな』
私を褒めてくれているのか、自画自賛しているだけか。ともあれ、とりあえずは怒りをおさめてくれたようだ。
精霊の加護を持っている人間は、自分に加護を与えた精霊と同じ特徴を持って生まれる。
たとえば、私の黒髪、黒目、褐色の肌はジェラルドの影響だ。
精霊の中でそのような特徴を持つのは、闇の精霊王だけ。だから私が彼の加護を受けていることは一目で分かる。
私が生まれた時、家族と使用人、産婆は顔を引きつらせていた。母や侍女たちなど、私を恐れるあまり、失神してしまったくらいだ。
父が私に乳母をつけようとした時も、闇の精霊王の加護を受けた赤ん坊の面倒は見たくないと、ことごとく断られてしまったらしい。
そのため、母は授乳のためだけに私の部屋を訪れ、それ以外の時間は公爵家の使用人が交代で面倒を見てくれている。
今世でも、親からの愛情は期待できそうにない。前世では両親に疎まれたあげく父に殺され、生まれ変わったと思ったらみんなに忌避されている。しかも殺される未来が待っているなんて。救いがなさすぎて、もう笑うしかない。
ただ、親との関係を改善することは無理でも、未来を変えることはできるはずだ。そもそも、厄介払いされるようなことをしなければいいのだから。人から好かれる人間になれば、そう簡単に国外追放されることもないだろう。
もう少し大きくなったら周りの人たちと仲良くなって、必ず未来を変えてやる。
赤ん坊の私は、そんな決意をしたのだった。
◇◇◇
そうして月日は流れ、私は六歳になった。
自分の足で歩き、言葉でコミュニケーションを取れるようになっても、私を取り巻く環境はあまり変わっていない。
父は、私が闇の精霊王の加護を持っていることを世間に隠したいらしく、邸の外へは出してくれない。だから、普段接するのは使用人たちばかりだ。
バッドエンドを回避するため、私はまず、自分が恐れられるような人間ではないと使用人たちに証明しようとした。けれど、まったくの無駄だった。
私が何をしても、しなくても、彼らは私のことを忌み嫌うのだ。
だから最近の私は、好かれようとするのを諦め、人との関わりを極力避けるようになっていた。
そんなある日の午後のこと。私は部屋で本を読んでいた。
喉が渇いたので、部屋の隅に控えていた専属侍女に声をかける。
「お茶を淹れてくれるかしら?」
すると侍女は体をビクッと震わせ、上ずった声で答えた。
「はっはいぃぃ、た、ただいま」
ガタガタと震えながら紅茶を淹れ、明らかに怯えた顔で運んできた。
手が震えているせいで、カップが揺れてガチャガチャと音を立てている。侍女がカップを私の前に置こうとした時、ついに中身が溢れ、私の手に淹れたての紅茶がかかってしまった。
「あっつっ」
私が思わず声を上げると、土下座でもしそうな勢いで侍女が謝ってきた。
「ひぃぃっ! も、も、も、も、申し訳ございません」
紅茶がかかったところは、赤くなっていてひりひりする。たいした火傷ではないが、このままにしておくわけにもいかない。
「大丈夫よ。何か手を冷やすものをちょうだい」
「は、はぃっ! ただいま!」
侍女はそう言って、逃げるように私の部屋から飛び出した。
『なんだあの失礼な態度は! しかも俺のクローディアに火傷をさせるとは……』
怒りを露わにしているジェラルドを見て、私は苦笑した。
『たいしたことないから大丈夫よ。肌が褐色だから、そんなに目立たないし』
念話を使ってジェラルドをなだめていると、突然部屋の扉が開いた。
「ク、クローディア」
入り口に立っていたのは、四歳年上の兄リアムだった。彼は私に近付きながら話しかけてくる。
「さっき、君の侍女がすごい勢いで飛び出してきたけど、何かあったの?」
「何も」
私が短く答えると、兄は恐る恐る反論した。
「で、でも、侍女の様子が、その……尋常じゃないっていうか……」
そう言われて、私は内心でまたか、と溜息をつく。
「私が彼女に何かしたと言いたいの?」
こういう時、私は何もしていなくても、危害を加えたと勘違いされることが多い。闇の精霊王のイメージのせいか、非情で残酷な人間だと思われているからだ。もちろん誤解なのだが、誰も私の言うことなんて聞いてくれない。
「ま、まさか! ただ、気になって……」
「何もなかったわ」
「そ、そう」
用は済んだはずなのに、兄はまだ立ち去ろうとしない。私の手元の本に目を向け、呆然としている。私とジェラルドは不審がって兄を見た。
「まだ何か?」
私が尋ねると、兄ははっとして目をこちらに向ける。
「その本……」
「ああ、これ? 建国神話の本よ。前にも読んだことがあるけど、もう一度読み返したくて、書庫から持ってきたの。……これを読めば、私がみんなに嫌われ、恐れられるのも納得よね」
私が先ほどまで読んでいたのは、レイシアの建国神話だ。
そしてこの中に、闇の精霊王の加護持ちが忌避される理由が書かれている。
「そ、そんなもの、あくまでおとぎ話だ」
兄はそう言うが、私にはこれがおとぎ話だなんてとても思えない。
「そうかしら? じゃあなぜみんなは私のことを忌み嫌うの? 闇の精霊王の加護持ちが、国を滅ぼしかけたからでしょう」
レイシアの建国神話はこうだ。
かつてこの土地にあった国では、王が圧政を敷いて民を虐げていた。ある時その王を、闇の精霊王の加護を持った男が倒し、その男は英雄と呼ばれるようになった。
悪王亡きあと、王位についたのは英雄の親友だった。
英雄は新王と協力して、争いと飢えのない国を作ろうと政治改革を始める。国と民のため、彼は闇の精霊王の力を存分に発揮して事にあたった。そのおかげで国は安定し、平和で穏やかな時代が訪れた。
けれど人々は英雄の力を恐れるようになっていた。
精霊王の中でも、特に強い力を持つ闇の精霊王。その加護を持つ者の力は計り知れない。
国王を弑逆し、短期間で国の仕組みを変えてしまえるほどの力が、いつか自分たちを脅かすのではないか。
そんな根拠のない疑惑が人々の間に広まり、そしてとうとう英雄の親友だった新王までもが恐れを抱き、彼を遠ざけるようになってしまった。
信頼していた者たちから手のひらを返された英雄の絶望は深かった。
――こんな世界、滅んでしまえばいい。
英雄はそう言って、闇の精霊王だけが持つ力を使った。それは命と引き換えに行使できる力で、『呪い』と呼ばれるもの。
英雄は自らの命を使って世界を呪った。すると雨が降らなくなり、土地はやせ細り、やがて疫病が流行った。
そうして世界は破滅に向かっていった。
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