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第八話 愛の力②

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「いッ、居ない………五時には帰るって言ってたのに。疾風、疾風どこに居るのッ?」

 凪咲は家中を引っ繰り返しそれこそ疾風の部屋は隈無く、クローゼットの中や洗濯機の中、お風呂場にトイレ、更には居ないと分かりつつも冷蔵庫や炊飯器の中まで開けて兄を探していた。

 彼女が仕事を終え帰宅した時には既に時刻6時半。しかし五時には帰ると言っていたにも関わらず、疾風の姿は影も形も無かったのだ。
 一通り探せる所は探し尽くして、だが何も痕跡すら見付けられなかった凪咲は疲労感より強い恐怖感を覚える。

 兄に何かあったのかも知れない。そう一度思い至った瞬間から不安がグルグルと渦を巻き、今では片時たりとも動きを止める事許さない程その不安は肥大化していた。

「ああッもう! やっぱり一人で家の外に何か出すんじゃなかった。私が付いてれば………ッ」

 凪咲は気が高ぶった様子で呟き、ポケットから携帯を取り出した。疾風に電話を掛けるのである。
 一先ずせめて声だけでも聞いて安心したかった。


『持ち主様のご家族であられますかね? 此方の携帯は午前8時頃に車内へ置き忘れられているのを発見しまして現在……』

 しかし、そのせめてもの願いすら神は聞き届けてくれなかったのである。

 電話を掛けて出たのは、朝兄を乗せたタクシー会社の人物。
 どうやら疾風は行きのタクシーの中でもう携帯を落としていたらしい。それはつまり、今繋がったこの通話は兄の現状を知るのに一切役立たないという事。

 電話先の相手に後日取りに行くと伝え、凪咲はまるで背後から銃を突きつけられているかの如き勢いで通話終了ボタンを押した。
 そしてそれと同時に、彼女は凄まじい勢いで階段を駆け登ったのである。

「疾風、疾風、疾風ッ。何処へ行ったの、私を一人にしないでよ…ッ!」

 何の成果も上げられずに通話を切った凪咲は顔へ一層焦りの表情を浮かべて二階に登り、自分の部屋へと飛び込んだ。
 そしてパソコンを開き、既にダウンロード済みのGPS追跡ソフトを開いたのである。疾風の財布の中に忍ばせておいた発信器を使って位置を特定しようとしているのだ。

 この手法はまるで自分が兄を束縛しているみたいで使うのに気が引けたが、手段を選んでいられる段階はとうの昔に過ぎ去っていた。

「……何、これ? 何で、未だッ此処に居るの??」

 しかし、凪咲はそのディスプレイ内のマップに表示された発信器の位置に顔をグニャリと歪ませ、瞳は涙に揺れた。

 発信器は幕張メッセの中にあった。
 しかし調べてみるとイベントの時間はとうに過ぎ、建物自体も既に閉まっている筈。そして暫く眺めていても、ピクリとすら動いている様子は確認できない。

 それらの情報から分かるのは、恐らく疾風は財布すらも会場内で落としてしまったのだろうという事。
 そして、彼の行方を追う全ての手段が断たれてしまったのだという事。

「そんなッお兄ちゃん何処行っちゃったの? 怖いよ、私を一人にッしないでよぉ……」

 その事を理解してしまった凪咲は遂にその大きな瞳より同じく大粒の涙が溢れ、彼女の荒れ一つ無い美しい肌を伝い落ちてゆく。
 封印した筈のお兄ちゃん呼びが漏れ、どこに居るのかも知れぬ兄への言葉は無機質なディスプレイにぶつかって消えた。

 彼女の中で、現在自分を包んでいる状況が数年前両親を亡くした日と重なった。しかしその日と大きく違うのが、今自分は一人ぼっちだという事。
 あれから何度も何度も心が壊れてしまいそうな夜があった。だがその度に疾風が一晩中、日が昇って涙が涸れるまで抱きしめていてくれたのである。

 でも今は、その何より大切な兄さえも居なくなってしまった。
 そう思い当たった瞬間、凪咲はこれまで襲ったどんな物よりも容赦の無い絶望を感じたのである。

 疾風が居れば、疾風さえ居てくれればもう他には何も要らなかったのだ。彼が家で待っていてくれて、一緒にご飯を食べてくれて、偶に抱いてくれるなら他に何も欲しい物など無かったのである。
 だがしかし、いやそれ故に、兄が居なくなってしまった瞬間明日も明後日も来月も来年も全ての日付が真っ黒に塗りつぶされてしまった。

 前へ目を向ける事なんて出来ず、唯後ろを振り返って悔やみ続ける。

(私が間違ってた、私が外に出る事を許可しちゃったからこんな事に。いやそもそも、私が疾風に愛されたいっていう欲張りをみせたのが間違いだったんだッ! 宝物は無くさない様にしまっておかないと。お兄ちゃんに嫌われても良いから鎖で縛って、部屋に鍵掛けて、窓を塞いで、家にシャッターを下ろして……お兄ちゃんを家の中に閉じ込めちゃえば良かったッ)

 何かしたいのに何も出来ない。唯椅子に座って項垂うなだれる事しか出来ない故に、頭の中だけはグルグルと回った。
 そして彼女から疾風に対する思いは明らかに兄妹の情を超え、どんどん狂愛的な物へと変化していく。相手の気持ちや健康を無視したとしても、自分が彼を所有している安心感を得たいという身勝手な物に変化していく。

 でも同時に、凪咲自身も自分が今考えているのが異常で気色の悪い事だとは分かっていた。

(でも、仕方ないじゃん……私にはお兄ちゃんしか無いんだもんッ)

 だがそれでも、凪咲は自分が特別だとは思わない。
 誰だってこう成る筈だ。この世に大切な物がたったの一つだけに成って、その一つを失ったら誰だって。



「………………あッ」

 しかし其処で、凪咲はとある事に気付き突如その瞳に光が戻って来た。
 思い出したのだ、今日疾風は自分が用意した服を着て外出していったという事を。そしてその上着の内綿の中にも、発信器を仕込んでいたという事を。

 凪咲はそれに思い至った瞬間電光石火で画面に表示する発信器を切り替え、服に縫い込んだ物が今一体何処に有るのかという事を調べた。

「えぇ……何処ここ?」

 そして表示されたのは、幕張メッセからそこそこ離れた場所にある住宅街。

 何故こんな所から反応が上がるのかは分からない。兄は今何か良くない事に巻き込まれているのかも知れない。
 でも少なくとも、今自分に出来る事ができた。

「…………ッもしもし、湯原? 今すぐ車出してッ!! ……勤務時間外とか関係無い、一大事ッ緊急事態ッ事は一刻を争うの!!」

 流石の兄も着ている服を落とす可能性は低いだろう、そう思った凪咲は疾風が今この住宅街に居るという前提で行動を開始した。躊躇無く事務所のマネージャーに連絡し、今すぐ車を出せと要求する。

(待てってねお兄ちゃん、今助けに行くからッ)

 画面に映った兄の居場所を示す点へと彼女はそう内心で語りかけ、家の前に停まったマネージャーを時間外労働させ呼びつけた車へと乗り込んだ。
 そしてすっかり日が沈んだ街へと、凪咲は飛び出していったのである。
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