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最終章 この、ヘンタイ!
この、ヘンタイ!
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七月八日
朝。早く目が覚めた。あんまり早くさめた物だから、窓の外はまだ暗かった。あんまり早く起きたものだから、「樫の盾」に出向く訳にもいかず、寝台の上で呆然としていた。けれど、なんとなく鼓動が早かった。
今日は、午後までにラッズが首府から帰ってくるのだ。そう考えるだけで、何か胸の内側が擽られるみたいで、思わず笑みが漏れてしまった。
陽が上るのが待ち遠しかったが、レネカが起きる時間を見計らってあたしは部屋を出た。アルトスはこの前の様に、上の階で熟睡しているのだろう。けれど、ラッズが帰ってくる今日にあっては、彼への興味は全く殺がれていた。
レネカは、今日はなんだかあまり機嫌がよさそうではなかった。服を貸してくれ、化粧もしてくれたが、言葉数が僅かだった。まあ、ここのところ彼女はあたしとラッズの仲を良く思っていないから…。けれど、何故、昨日アルトスがあたしに気があるかもしれないと語る時は、あんなに楽しそうだったのだろうか? サスティを気遣っているのなら、アルトスは良くてラッズは駄目、という事は通らないよね。なんだかよく解らない。女性の心になりきっても、女性の考える事が解らないなんて…。
ラッズが帰ってくるのは昼過ぎだと思ったが、あたしは午前中に彼の工房に辿り着きたかった。それで、彼がまだの様だったら、ずっと待つ心算だった。
町への足取りは軽かった。
けれど、工房に入り、二階の扉の前に立ったときは流石に緊張した。
ラッズはもう、帰って来ているのかもしれない…。
あたしは躊躇って、扉の前で暫く考え込んでしまったが、もし帰ってきているのなら何も言わずに入るのは失礼だと思い、扉を叩いた。が、反応は無かった。
あたしは溜息を吐いた。そして、扉の把手を掴むと、開けた。彼を待とうと思ったからだ。
「ラセラ!」
中に入った途端、ラッズが視界に入った。彼は、どうやらあたしが扉を叩く音を聞いていた様で、扉を開ける為に向かってきている所だった。
あたしは、喉が詰まって言葉が出なかった。三日間会えなかったのが寂しかったのは勿論だが、その三日間でラセラが崩れなかった事への安心感が強かった。そして、彼の姿を相変わらずのラセラで再び迎える事が出来たのが嬉しくて、涙が出てきた。
あたしは駆け寄ると、ラッズに跳び付いた。彼はそれで均衡を崩し、数歩後退したが、持ち直すと、あたしの腰に手を廻し、顔を見詰めてきた。それで、あたしも涙を拭きながら、彼の顔を凝視した。
「会いたかった…」
あたしが言った。すると、彼はあたしの顔を何時もの様に彼の胸に引き寄せると、髪を撫ぜてくれた。久しぶりに安らげた。
ラッズは、もうあたしの見本は必要ない、と言った。もう顔はほぼ完成してしまい、あとは服や身体の細かい所だけだから、見本をしてくれなくてもいいよ、と言った。そして更に、こんな事を言った。
「この工房でする仕事は、どうやらこれが最初で最後みたいだ」
あたしには彼の言葉の意味が解らなかった。ただ、あたしはまだこの工房に毎日顔を出していいのかどうか、が気になった。彼はちゃんとあたしを愛してくれているのか。
「どういう事?」
あたしは集中しない意識で訊いた。
「この工房はもう閉鎖になるんだ。というのも、この工房は組合から親方が借りていたものだったから、親方が死んでしまって借用権の期限がなくなってしまったんだ」彼はあたしから腕を離した。「だから、俺はこの町を出なくはならないんだ」
え…? 町を…?
「…そんな…」あたしは掠れた声で呟いた。「それじゃあ、あたしはどうすれば…」
言うと、彼はあたしの両肩を両手で軽く掴んできた。
「そこを、今日、君と話し合おうと思っていたんだ」
彼は言うと、石の傍に置き放してある椅子を二脚持って来て、あたしをその内の一つに座らせると、彼も座った。
「町を出たら、貴方は何処へ行くの?」
「うん」彼は頷いた。「まず、それから話そう。あんまり驚かないで聴いて欲しい」彼はあたしの目を凝視した。あたしは小さく頷いた。彼はあたしの首肯を待っていたかのように、よし、と言った。「俺は、組合の関係で、首府の工房に行くことになったんだ。組合の長がいい人で、若い俺には機会が多い方がいいって、計らってくれたんだ」
首府…そんなに遠くては、毎日会いに行けない…。
「あたし、どうすれば…」
「当惑せずに聴いてくれ」彼は再びあたしの両肩を掴んだ。「俺は、だから首府の工房へ行き、そこで生活する事になる。けれど、君とは毎日会いたい」彼はそこで一度言葉を止めた。あたしは彼の目をよく見ることが出来なかった。「だから、君にお願いしたい」彼は語気を強めて言った。「君に、ついて来て貰いたいんだ。首府まで。俺の工房まで」
彼の工房まで…。
「そうすれば…」あたしは漠然とした意識のまま、泣き出しそうになりながら、呟く様に言った。「貴方に毎日会えるの?」
彼は微笑むと、大きく頷いた。
「同じ所で暮らす事になるのだから、当然じゃないか」
「あたし…貴方の邪魔にならない…?」
「成る訳ないだろ」彼はあたしの頬をすばやく軽く二階程叩いた。「君がいないと、仕事に力が入らないくらいだ」
本当…? 嬉しい…。
急に目から涙がこぼれた。多分、嬉し涙だと思う。肩を大きく震わせ、何度もしゃくりあげてしまった。彼はそんなあたしを見て、優しく微笑むと、抱きしめてくれた。
「解った…」あたしが泣きながら言った。「あたし、貴方について行く。ラッズについて行く…」
彼は、またあたしの頭を胸に埋めさせると、髪を撫ぜてくれた。彼となら、何処へでも行けると思った。彼となら、何をしていても安心だと思った…。
「もう十日くらいしか、借用期限がないんだ」彼はあたしの耳許で囁いた。「だから、それまでに出立しなくてはいけない…」言われて、あたしは顔を埋めたまま頷いた。「十六日に、君を迎えに行くよ。『樫の盾』だったっけ。あすこに、昼までに迎えに行く。だから、待っていてくれ…」
あたしはも一度だけ大きく頷くと、彼の胸の中で随分長い事泣いた。もう、レネカやファルナとの約束は護れないが、ラセラはラッズの存在なしには生きられなかった…。
夕方、あたしは「樫の盾」には寄らずに、直接自分の部屋へと戻った。首府に行くことについては何となく罪悪感があったが、仕方の無い選択だと思った。
あたしはゆっくりと吹き曝しの階段を二階へと上がると、自分の部屋に入った。
途端、アルトスの姿が目に入った。
「あ!」あたしは思わず叫んでしまった。「一階間違えてしまったみたい」
言ってから、あたしは急いで扉を閉めようとした。
「違うよ」が、アルトスに否定されたので、少し鼻白みながら部屋に入った。「僕がお邪魔しているんだ」
「…どうしたの?」あたしが、訝りながら訊いた。「何か用でも…?」
「特に用があるって訳ではないんだけれど…」彼はあたしの机の椅子に腰掛けていたが、立ち上がった。「今日は、あのラッズって男の所に行っていたのかい?」
彼の意図が読めない…。
「そうだけれど…」
返してやると、彼は表情を険しくした。
「気に入らないな」彼が言った。「なんだって、君は石工の男なんかに惚れたんだい?」
何を言いたいのだろう…。
「どういう事? それは、貴方に関係あるの?」
「ないと言ったら嘘になる」彼は語気を強めた。「石工を蔑んでいるのではないよ。違う。軽率な君が気に入らないんだ」
軽率? 何が…? 今日、首府に行く事を承諾した事? 否、彼はそんな事を知る筈がない。となると、レネカから聞いたのかな…。
「貴方、一体何を聞いたの?」
「君が、ラッズという男に恋愛感情を抱くまでの過程をだよ」
まさか、ルザートの事は聞いていないでしょうね…。
「軽率って…何が?」
「彼の口説きの手口に安易に乗ってしまった事だよ」
「口説きの手口って…」見本になってくれないか、という奴の事だろうか…。「あれが、口説きの手口だって言うの?」
「誰が聞いたって、そう思うよ」
「いいえ」あたしはかぶりを振った。「彼は純粋な人だもの。そんな打算的な言葉ではなかったと思う。初めからあたしに好意を持ってくれていたかもしれないけれど、彼はきっかけを作りたかったに過ぎない」
「それを、口説きの手口って言うんだよ」
言われて、あたしは一瞬言葉を失った。
「それじゃあ…」あたしは反論を考えたが、浮かばなかった。「貴方だって、何なのよ! いい人の様に見せかけて、御為ごかししているんじゃないの?」
彼は怒ったのか、目を大きく見開いた。
「は!」彼は言った。「何の目的があってさ!」
「目的がなかったら…!」あたしが彼の言葉の上から被さる様に、言った。「あたし達の事に干渉して来ないでよ! 大体、可笑しいよ、何の理由があって、貴方はあたしの部屋に勝手に忍び込んで、そんな訳の解らない事でがなりたてるわけ?」
あたしが叫ぶ様に言うと、彼は急に押し黙ってしまった。そして、沈黙は長い間続いた。あたしは何時の間にか、肩で息をしていた。彼は、ずっと俯いていた…。
「僕だって…」彼は呟いた。そして、急に顔をあげると、あたしと視線を合わせてきた。「僕だって、君の事を好きなんだよ!」
それだけ叫ぶと、彼はあたしの肩を抜けて、部屋を出て行ってしまった。彼がいなくなると、部屋は急に静かになってしまった。
あたしは彼の言葉を反芻した。彼は、なんと言っただろうか…? 君の事を好き…? 有り得ない…会って、まだ三日くらいだもの…。それに、何…? 反論しておきながら、結局は御為ごかしじゃないの…。
少し胸が痛む気がしたが、彼ではラセラを保持できないだろうと思われるし…彼に甘くしてはいけない…。あたしはラッズと共に、首府に行くんだもの…。
七月九日
ラッズは、明日の朝一番に首府へ出かけなければならない、と言った。組合の手続きと、あと新しい工房での準備が色々とあるらしい。でも、十六日には必ず帰ってきて、迎えに来るから、と言ってくれた。
女神像は、今日で完成した。あたしは工房の中でする事がなく、ラッズの後ろの瓦礫の山に腰掛けて、彼が最後の仕上げをするのを見詰めていた。
やがて彼は石全体に刷毛をかけると、あたしの方を向き、満面の笑みで、完成したよ、と言った。そして、彼はあたしに、女神像と並んで立ってくれ、と言った。言われたとおりにした。彼は、非常に満足そうに微笑んだ。
それから、あたし達は抱きしめあい、接吻をした。明日から彼は、今度は一週間も居なくなってしまうのだ…。けれども、不安はなかった。彼は、十六日には必ず迎えに来てくれると約束してくれたもの…。
ラッズの話によると、完成した女神像は、十六日までには教会の人たちがやってきて、水洗いをし、運び出してくれるとの事だった。出立する前に、一緒に教会に行って、女神像の姿にお祈りをしよう、とあたし達はもう一つ約束をした。
七月十日午前
朝早く、あたしはラッズの見送りをした…。以前程の不安はなかったけれど…彼の姿が見えなくなってから、寂しくて泣いた。
あたしは目を腫らしたまま、国道へと、町の大通りを進んだ…。何時もどおりの町並みの筈なのに…。道の向こうから、杖をついた少女が母親に付き添われて歩いてくるのが見えた。少女は二本の杖を両脇に手挟んで、手でしっかり固定して、健気に歩いていた。間違い様も無い…タリタだった。そうだ…サスティが以前に言っていた。タリタは、七月中には退院出来るって…。今日がその日なのだろうか。でも、それにしては道が違う。村への道は逆…。町で買い物でもしてから帰るのだろうか…。
兎に角、あたしは二人に気付かれないようにしなければならなかった。特に、タリタの母親とはラセラ自身が面識があるので、顔を見られる訳にはいかなかった。彼女達は道の、向かって左側を歩いている…。あたしは、反対側に可及的寄って歩く事にした。顔も俯き気味にして、彼女等に見えない方を向いた。そして、早足に歩いた。
彼女達の声が聞こえてくる位近づいた…。気付かれていない。
彼女達とすれ違う…。あ…タリタが気付いたのだろうか…? 周辺視野に収まった彼女が、あたしを視線で追いかけているみたい…。
「ルザート…!」
すれ違いしな、タリタが呟くのが聞こえた。気付かれた…!
あたしはさらに歩調を早めた。怪しまれるとは思ったが、気持ちが焦っていた。
「ルザート!」
後ろから、タリタが呼びかける声がした。
「ルザートなんでしょ!」母親がタリタが叫ぶのを止めるように言うのが聞こえた。「ねえ、こっちむいてよ! 何なのよ!」あたしは振り向かなかった。後方で、転んでしまったのだろう、杖が地面にぶつかって数回弾む音と、彼女の小さい悲鳴が聞こえてきた。胸が痛んだ。けれど、とまらなかった。「ねえ、ルザート!」
その名前で呼ばないで…! そんな名前は知らない。危ういラセラを崩そうとしないで…!
気がつくと、あたしは耳を両手で塞いだまま、走っていた。
七月十日午後
タリタの事で、あんな応対しなければよかった、と後悔しながら、村の入口に差し掛かった頃には、太陽はもう南中していた。
「樫の盾」に行くか、自分の部屋に行くかで迷った。けれど、タリタに冷たくしてしまった事を誰かに言ってしまいたかったので、「樫の盾」に向かう事にした。
昼時で、多少客もあるかと思ったが、残っているのは食器だけで、レネカは面倒臭そうにテーブルの上の食器や皿を調理場へと運んでいた。
彼女は、あたしが中に入ると、すぐに気付いてくれた。ファルナの姿はなかった。勿論、サスティも。そういえば、随分長い事、サスティの姿を見ていない…。彼女は元気なのかな…?
レネカは食器の片付けを中断すると、テーブルの椅子の一つに腰掛けた。それで、あたしもその向かいに腰掛けた。何も言っていないのに、レネカの表情は深刻だった…。
「貴女…」あたしが相談しにきたのに、先に口を開いたのはレネカだった。「部屋には戻ったの?」
妙な質問だと思った。彼女があたしの部屋の事に言及するなんて…。
「まだですけれど…」あたしは訝りながら、返答した。「何か…?」
レネカはそれで、急に表情を緩めた。そして、何でもないの、と言った。
「それより、貴女の方は何? 何か用事がある訳ではないの?」
レネカが何時もの調子で訊いて来た。それで、あたしは町でタリタと会った事を話した。そして、冷たく応対してしまった事も話した。
「タリタは…」あたしが言った。
「もう退院なんですよね…? 村には、何時戻ってくるのかな…」
「聞いてるわ」彼女が言った。「今日が十日だから…明後日かな。そのくらいには、村に戻るつもりだって」
「どうしよう」あたしが小さく叫んだ。「あたし、顔を見られちゃった…。タリタにどう説明すれば…」
あたしの様子を見てか、レネカは微笑した。そして、安心なさい、と言った。
「そういう事は、私とファルナから言っておくから。彼女もきっと解ってくれるわ」
と、いいのだけれど…。
レネカは、不安そうに俯くあたしの頭を軽く撫ぜてくれた。彼女は、まるでこれからのあたしの辿る道を全て知っているかのようだった。何だか、妙な偉大さがあった…。そう…まるで、母親のような…。
レネカと会って少し気分が落ち着き、部屋への道を、風に吹かれながら歩いた。そういえば、あたしがラッズについて首府に行き、そこで暮らすという事を告げるのを忘れてしまった…。今日は十日…まだ一週間ある。その間に、出来るだけ早く、レネカかファルナに承知して貰うようにしなければ…ううん、彼女達が認めてくれる訳がない。彼女達には黙って出発するのが得策だろうか…。
それにしても、夏の向かい風が気持ちよかった。太陽は相変わらず刺すようだし、不安も幾らかあったけれど、取り敢えず気分は落ち着いていた。アルトスの事が気になったけれど…あんな事を言われてしまったし…。いえ、黙って出て行けば、彼との関係も切れる。首府へ行ってしまえば、粗方の懸念は取り除ける筈。
来週になったらもう村に帰る事は出来ないと思うと、急に恋しくなってしまった。それで、あたしは直ぐに部屋に戻るのではなく、少し遠回りをして帰る事にした。見たことの無い物などはなかったが、出来るだけ目に焼き付けて置こうと思い、どんな些細な物でも見逃さない様にして歩いた。
吹き曝しの階段の手摺に手をかけた頃は、それでもまだ太陽は高かった。風が涼しいので、殆ど汗をかいていなかった。
階段をゆっくりと上りながら、自分の部屋の木製の扉を見上げた。あんまり凝視する様な物ではないし、特に気にかける物でもないが、思えば色々な思い出のある扉の様な気がした。特にこの一ヶ月の間、一体何回この扉を叩く音で目を覚ましただろうか…? ある日はファルナだったし、ある日はサスティだった…サスティ…彼女は、本当にどうしてしまったのだろうか…。彼女とは喧嘩みたいな感じで別れたまま…ずっと会っていない。向こうがあたしを避けているみたいだけれど…あたしが首府に行くまでに、も一度会っておきたい…そして、謝らなければ。でも、ルザートはもう死んでしまった、みたいな言葉を彼女が受け入れられるだろうか? 取り敢えず、まだ時間はある。なんとかして、レネカさんにでも頼んで、サスティと会って、それで、上手く謝らなければ。
色々と考えを巡らしながら、あたしは扉の把手を掴み、開けた…筈が…。
「開かない…?」思わず呟いてしまった。「鍵をした心算はなかったけれど…」
あたしはスカートの内側の隠しから、鍵を取り出した。面倒だったから鍵をしなかったのだけれど、もしかすると管理人が気を使って閉めてくれたのかもしれない。
鍵を外してから、も一度把手を取り、あたしは扉を開けた…。
「あ…!」思わず叫んでしまった。ここは…二階だ。今日も階を間違えてはいない。あたしが間違っていないのならば、間違えているのは彼だ…。「どうして貴方が…?」
アルトスは、大胆にもあたしの寝台でリンネルの布団を全身に被り、横になっていた。彼はあたしに気付くと、顔だけを此方に向け、口許と目と眉で薄く笑んだ。
気まずかった。あたしは、彼の以前の言葉を反芻した。僕だって、君の事を好きなんだ…然し、だからといって寝台で寝ていると言うのは、常軌を逸している。
あたしは、彼の次の行動に就いて用心をしながら、相変わらず純粋な微笑みを向けているアルトスに近づいた。
彼は、何も言わなかった。
あたし達は、大股一歩分くらいの間を空けて、黙った儘、暫く見詰め合った。あたしは少し威嚇する様な表情を向け続けた心算だったが、彼は微笑を崩そうとはしなかった。
張り詰める空気が、痛い…。
「ねえ…」アルトスが囁いた…。声の高い彼は、リンネルから短く切りそろえたトビ色の髪と顔だけを覗かせて、まるで女の子の様だ…。「もっと…近づいてくれる…?」
あたしはどうして良いか解らなかった。けれど、何故か、鼓動が早まった。
あたしは、一歩分だけ、二歩に分けて、近づいた…。
アルトスは、満足したかのように安らかな笑顔を見せると、大きな瞳で、ゆっくりと一回だけ瞬きをした。そしてあたしと、も一度視線を合わせると、流れるように視点を落としていき、やがて彼は俯くようにして自分の身体を隠している白いリンネルの所で止めると、薄い布団を首の所からゆっくりと剥がし始めた…。リンネルは首をすべり…裸の…胸をすべり……腰の凸部を上り…太腿を下り…踝で止まった…。
あたしは表情では驚かなかったと思う…。だからといって、仕草でも驚かなかった…。否、もしかすると、驚いている為に自分が驚いている事に気付けないのかもしれない…然し…目の前で何が起こっているのかは理解していたし、目の前の物が何であるかも充分に解っていた。ただ、頭の中で絡まっていた糸の幾らかが解け、また、幾らかが絡まるのを感じた。けれど、今という一点の時間の中では、絡まるという概念は存在しなかった。過去という時間は意識からは拭い去られ、ただ、状況だけがあった…。
「…サスティ…」
あたしは、不思議なくらい落ち着いて、言った。
彼女は…あたしの方に視線を上げると、また微笑んだ。
「久しぶりね…」彼女は囁く様に言うと、裸の腕を伸ばし、あたしの腰に手を当ててきた。そして、そのままスカートの上をすべる様に細い指先でなぞり、股部の膨らみで止めた。それからもう一度視線を合わせてくると、くすくすと笑った。「…ルザート…」
言われて、どき、とした。サスティの唇から漏れたその名前が耳の奥で数度反響した様だった。そして自分の中で、何かが傾いだ。否、傾いでいた物が、均衡をとり始めたような感じがした。ラセラを意識するようになってから心の奥の方に巣食う事で礎を築いていた黒く蠢く何かが、結束に異常を来たし、土台を失ったラセラに罅が入る音が聞こえた様な気がした。
そしてその瞬間、また、目の前が真白になった。視点が定まらなくなり、視線が泳いだ。そして意識が遠退いた様になると、昔見た風景が呼びかける声が段々と聞こえてくるような気がした。すると、目の前に色が現れ、明るさが現れ、そして形が現れた。そこは、部屋だった。薄闇の朝の光を壁の窓から取り入れた薄暗い空間…そこに、何やら動く物があった。輪郭がはっきりしないその物体は言った。
「純度の低い水晶の原石だ」
それは、父親だった。目が薄闇に慣れ始めると、自分が掌に親指程の大きさの水晶を乗せているのが解った。僕は水晶から目を上げると、再び父親を見た。彼は、悲しそうな顔をしていた。「パン一斤位にしかならない」
彼はかぶりを振った。そして、僕の掌を指差してきた。見ると、僕が握っているのは、水晶ではなくただの石炭だった。
そんな心算はなかった。
けれど、ダイヤモンドにもなれた筈の水晶が、自分にも石炭にしか見えなくなるなんて…。
呆然としている間に、また目の前の物は輪郭を失った。父親は色だけになり、やがて白の光と混ざり合い、そして真白になってしまった。
「ルザート」
目の前にはサスティが居た。何時の間にか寝台に腰掛ている彼女は、不思議そうな目を僕に向けていた。が、僕が気付いた様に彼女と視線を合わせると、また微笑んだ。そして、視線を僕の腰に落とした。
彼女は、依然として僕の股間に手をあて、撫ぜていた。途端、僕は自分の頬が熱くなるのを感じた。僕は、ラセラもかもしれないが、サスティの裸体を目の当たりにして、陽物を勃たせていたらしい。ラセラはレネカに言われた通り、サスティによって止められてしまった…。
僕は少し擽ったさを感じながら、僕の股間に視線を合わせたままのサスティのトビ色の髪の上に両手を置いた。すると彼女は僕の方を見上げ、薄く笑んだ。
「頬っぺたが、赤くなってるよ…」
言って、彼女は僕の服の腰のリボンの様な帯を解き始めた。僕は彼女に向かって微笑んでやると、自分の金紅色の髪に手をやり、髪を結っている赤いリボンを解いた。そして、サスティの裸の両肩に手をかけると、首に両手を巻きつけ、彼女の肩に顔を置くようにして体重をかけ寝台に押し倒した。そして互いに暫く顔を見つめあうと、ゆっくりと引き合い、接吻をした…。
僕の口紅がぬるぬるとして僕等の唇を滑らせると、サスティは舌を使って上手く舐め取ってくれた。それから一度唇を離しても一度見詰め合ってから、再び接吻をした。随分長い事、した。舌は入れなかった。ただ、彼女の体温と心臓の鼓動を切ないまでに感じていた。彼女は…とても可愛かった。
やがて唇を離すと、サスティは僕の瞳を見詰め、微笑んで言った。
「…ルザートに…お帰りなさい…」
それで、僕も微笑した。
「うん…」視線をそらさずに、ルザートの声で言った。「ただいま…かな」
彼女は僕の首に両手を廻すと、強い力で引き寄せてきた。僕等は寝台の上で抱き合う形になった。彼女の顔が僕の肩に、僕の顔が彼女の肩にあった。
彼女は急に肩を震わせた。かと思うと、静かに泣き出した。僕には、彼女の涙の理由が解っていた。一番罪深いのは、僕だった。彼女は、なんて健気に僕を連れ戻してくれたんだろう…。
僕は彼女が泣いている間中ずっと、彼女の背中をゆっくりとした周期で、とん、とん、と叩いてやった…。
夜、僕はサスティと並んで部屋を出た。彼女はアルトスの服装で来ていたので、僕がレネカの服を着せてやった。彼女には大きかったが、それでもとても女性らしかった。僕の為に切ったのであろう髪の毛は首の後ろで切りそろえられていたが、短い髪のサスティも可愛かった。
僕は久々に男の服を着た。無論、自分の服だ。以前はルザートに戻る事が非常に怖かったが、サスティによって石の中に埋まっていたルザートはいとも簡単に助け出されてしまった。而も、彼女には見本は必要なかった。彼女は常に大理石の中に僕を見つける事が出来、もしかすると、彼女に初めから勇気さえあれば、本当に一晩で彫り上げられたのかもしれないと思った。僕はそれを、非常に幸福に思った。そして、ラセラがラッズを心から愛していた、などというのは、所詮、虚構に過ぎないという考えが強まってきた。それこそ、石炭になってしまう水晶のように…。
「樫の盾」では、レネカとファルナがまるで僕等を待っていたかのように、テーブルに座っていた。僕等は並んで入り、並んで座った。彼女等は僕の姿を見て歓声を上げた。僕は苦笑するしかなかった。
「私の…」レネカが僕の方に悪戯ぽい笑みを向けながら言った。「言った通りでしょう?」
僕は頷いた。
「やっぱり、アルトスがサスティだって、知ってたんですね」
「貴方にあんまり聞き分けがないからよ」ファルナが言った。「でも、私たちはサスティの考えを手伝ってあげただけ」
「じゃあ…」僕は隣のサスティを見ながら言った。彼女は頬を染めたまま、前を向き、少し俯いていた。「髪を切ったのも、アルトスになったのも…」
サスティは考える様に間を置くと、大きく一回頷いた。
「感謝しなきゃね…」
レネカが言った。
僕は微笑しながら、皆に向かって頷いた。
「そうだ!」サスティが急に、思いついたように言った。彼女のこんな元気な声を聴くのは本当に久しぶりな気がした。けれども、これが最も彼女らしいと思った。「ねえ!」彼女は席を軽く立ち大きい臀部で椅子を引くと、僕の方を大きな笑顔と共に向いた。「髪の毛切らない?」
「ああ! いいじゃない!」
ファルナが叫んだ。するとレネカは、それじゃあ鋏と鏡が必要ね、と言った。そして、私の部屋で切りましょう、と言った。
僕は反論が出来ず、ただ笑っているしかできなかったが、サスティはそんな僕の腕をつかむと、誘導するかのように階段を駆け上がり、サスティの部屋に入った。
通いつめた部屋ではあったが、ルザートで入るのはまだ数回だった。何時もは女になるために来ていたのに、今回は男らしくなるために来ているなんて…妙な気分だ。
サスティは僕を何時もの鏡台の前の椅子にすわらせると、抽斗を漁って鋏を探し始めた。その間にファルナとレネカが入ってきて、壁のランプの油に火をつけてくれた。
サスティは鋏を見つけると、座っている僕の後ろに立ち、鏡に映った僕に向かって鋏を数回打ち鳴らせてみせた。そして僕の肩に手を置き、顔を耳許まで持ってくると、短くしてあげるね、と言って、僕の髪に櫛を入れ始めた。
ファルナとレネカは並んで寝台に座ると、僕等の方を傍観した。鏡に映った彼女等の顔にも、安堵を読み取ることが出来た。
多くの人に心配をかけてしまったんだな…。
「どんな髪型がいい?」
僕にリンネルを掛けながら、サスティが訊いて来た。僕は故意に悩む様な素振りをみせてから、君の好きなようにしてくれるのが一番いいよ、と言ってやった。彼女は微笑むと、どんな髪型になってもしらないよ、と言った。それから櫛と鋏を持ち直すと、静かに僕の後ろ髪に入れ始めた…。
静かな時間だった。そして、平穏で幸福な時間だった…。静寂の中に鋏が髪を切る音だけが響いた。
サスティは何も喋らずに切り続けたが、手を近づける度に首筋に感じる彼女の体温が、僕に何かを語るかの様だった…。
そうして、サスティのルザートを形作られている間に、僕は眠りに落ちてしまった…。
七月十一日~十五日
僕は、もうルザートとして支障のない生活を送れる様になっていた。ファルナに頼んで休暇を貰っていた鍛冶手伝いも再開したし、まだ当分は杖の生活ではあるがタリタも帰ってきて、すっかり元通りになった。否、僕とサスティとは以前とは少し違う関係となったが…。
帰ってくるなり、タリタはラセラが僕である事を確かめた。それで、彼女は僕に、意地悪、とか、この変態、とかなんとか言った。そして、お医者様に連れて行ってくれてありがとう、とも。彼女は二本の杖を常時携帯していなければならなかったが、相変わらずの元気だった。時々歩くのを手伝ったり彼女の代わりに出来る事をやってやったりすると、非常に喜んだ。そしてその度に、早く治らないかなあ、とぼやいた。
然し、僕にはまだ一つだけやり残した事があった。ラッズの事だ。この六日間、僕は、彼が迎えに来る場面を幾度となく想像した。彼は、ラセラを向かえに来る。けれど、そこには彼とは面識のない一人の男がいるだけ…。気の毒な感じではあるけれど…仕方の無い事だ。
僕は出来るだけサスティと一緒にいる様にした。僕はそれだけ彼女の事を好きだった事もあるが、彼女が僕の名前を呼ぶ度にルザートを実感し、土が踏み固められる様に礎が築かれ、そこに太い根を降ろせる気がした。
彼女は、天使の様だった。そして、女神の様だった…。
七月十六日
朝から雨だった。僕は教会が鐘を八回鳴らす頃には雨用のローブを羽織り、「樫の盾」に向かった。落ち着かなかったが、最後の仕事を片付けてしまおうと思った。
食堂にはレネカだけが居て、僕が雨の中朝早くから来た事を訝っている様だったが、僕はぼんやりと灰色の外を眺めるだけで、特に大した返事はしなかった。
僕は、あの巻貝の耳飾をテーブルの上に二つ並べ、特に視点を定めずに入口を見詰めながら、左手の指先で転がして弄んだ。時々、店の前の道をローブ姿で人が通って行ったが、ラッズはやってこなかった。
やがて、教会が鐘を十二回鳴らした。雨は相変わらず硝子窓に打ちつけ、両流れの屋根から滴り落ちていたが、ラッズはやってこなかった。僕は段々緊張が解け、眠くなってきてしまった。手持ち無沙汰だ…。もしかすると、雨だから、彼は今日は来ない心算なのかもしれない…。然し…それは有り得ない。彼は、絶対に迎えに来るみたいな事を言っていた。
昼時になって、「樫の盾」に客があった。畑で働いている者等が二、三人、昼食をとりにきたらしい。無論顔見知りだったが、こんにちは、と挨拶を交わす位で、特に会話はしなかった。
僕もあんまり暇なので、レネカさんに簡単な昼食を食べさせてもらう事にした。
僕は、じっくりと食べた。パンは本当に細かく千切った。兎に角、時間を掛けて食べた。レネカはその様子を可笑しがって笑っていたが、彼女は特に詮索をしようとはしてこなかった。
やがて鐘が二回鳴った。午後の鐘になってしまっていた。僕はまだパンを半分残していたが、他の客はもう全て食事を終えて、仕事に戻ってしまった。
僕は、レネカが調理場で食器や皿を洗うのを呆然と眺めた。
突然。入口の方から、木の扉を叩く音が二回聞こえた。慌てて向くと、ローブの頭巾を下ろした男が一人、開け放しの扉を叩いた拳骨をそのまま扉につけて寄りかかって立っていた。逆光線で影絵になっていたが、髪の毛と身長で、ラッズだと解った。
走ってきたのか、彼は肩で息をしている…。
「どうした?」僕は、貝の耳飾を手で弄りながらラッズの方に顔だけ向け、言った。「見ない顔だが…食事でもとりにきたのか?」
彼は歩を進めると、僕の方に寄ってきた。それで彼にも室内の環境光が当たり、表情が読める様になった。
「人と待ち合わせをしている」彼は、言葉を尖らせて言った。「十六の女性だ。この村の」
僕はパンを千切ると、知らないな、と言ってやった。
「何時位の約束だったんだ?」
僕が訊いた。すると、彼は少し俯いた。
「…午前中だ…」
僕は、レネカさんの名前を呼んだ。彼女は調理場から出てこなかったが、洗い物をしながら返事をした。
「午前中に、誰か女の子が来ましたか?」
「女の子って…」彼女は僕の言動の意味が理解出来ないように返してきた。「十六くらいの女の子って、この村にいるのはサスティとファルナとタリタだけだわ。今日はまだ彼女達とは会ってないけれど」
僕はラッズの方に向き直った。
「君と待ち合わせをした女の子ってのは、何ていう名前なんだ? サスティか? ファルナか? タリタか?」
彼は、はっとした様に俯いた。
「…その中には居ない…」
僕は貝の耳飾に手を当てながら、パンを口に運んだ。
「僕はこの村の者だけれどね…」目だけを彼の方に動かした。「今の三人以外には知らない」
僕の言葉に彼は、どういう事だ、と呟いた。
「でも、ここで待ち合わせをしたんだ。そんな筈はない」
「その娘の特徴は? 名前は?解るかも知れない」
彼は頷いた。
「俺よりも少し低いくらいの背だ。髪の毛は長くて金紅色。時々赤色のリボンで結ってる。赤色の花を髪に挿している事もあるかもしれない。それと…」僕には、彼の視線が僕の手許に向けられているのが解った。「…白い巻貝の耳飾を…」
彼の目は、僕の色んなところを追いかけた。僕の持っている耳飾、僕の髪の毛の色、そして目つきや眉や鼻や口…。
彼は暫く驚いた様な顔をした。が、やがてローブを羽織り直すと、僕の目を見詰めて来た。
「その娘には、お礼をするといってまだしていないんだ」彼は言うと、ズボンの隠しから何やら包みを取り出した。金ではないのは解った。宝石か…何かだろう。「今、居ないのなら仕方が無い。代わりに、君に渡しておく」
彼は包みを開けずに、僕に差し出した。
「迷惑だよ」僕が言った。「知らない人が受け取るべき物を、僕が受け取れる訳がない」
僕の言葉に彼は一瞬怯んだが、包みを隠しに仕舞い直すと、小さく、そうだな、と呟いた。
彼は、ローブの頭巾を被った。どうやら、もう出て行くらしかった。
「とりあえず、君にお礼を言っておくよ。もし君がその娘に会う事が会ったら、伝えて置いてくれ」彼は入口に向かって歩いた。そして扉の所で立ち止まると、顔だけで振り向いた。「町の教会に女神像が置かれる事になったんだ。機会があったら、覗いてやるといい」僕は頷いた。彼は一歩外に出ると、空を見上げながら両手を軽く横に広げた。「どうやら、晴れるみたいだ」
「それはよかった」
僕は、彼の背中に言った。
彼はも一度振り返った。
「ありがとう。君には、本当に感謝しているよ」
そして、彼は頭巾をとると、足早に道を行ってしまった。
それを見て僕は、大きく溜息を吐いた…。
やがて、サスティがやってきた。彼女は、折角晴れたから、一緒に散歩でもしよう、と誘ってきた。僕は、承諾した。
僕等は国道を、町へと歩いた。何度も通ったこの道だが、サスティと二人だけで通るのはまだ二回目くらいだった。
彼女は、ずっと僕の腕を取って歩いた。僕は、これ以上この娘に心配をかける訳にはいかないな、と、つくづく思ってしまった。
僕は彼女に、たったさっき最後の後始末が終わった事を話した。彼女はまた不安そうな表情を一瞬したが、結果を知ると安心したのか抱きついてきた。
僕等はラッズの工房の前を通った。彼女は嫌がるかと思ったが、そんな事もなかった。この工房にも、サスティとの思い出があるのを思い出し、その事に就いて少し語り合った。それにしてもアルトスは傑作だったな。
それから、教会に向かった。そこにはラッズの造った女神像が置かれている…。サスティはそれを知っていたが、女神像を見る事については特に彼女は反論はしなかった。それで、僕等は町の少し外れにある、比較的大きな教会に二人して入り込んだ。
女神像は、礼拝堂の正面の、教壇の後ろに飾られていた。あんまり目立つ位置にあるものだから、すぐに見つける事が出来た。サスティは像を指差すと、あれなの、と訊いてきて、頷いてやると、走って近くまで寄っていった。
僕は歩き、少し高みに備えられた女神像を見上げるサスティの横に並んだ。
見上げる女神像は、また少し違ってみえた。服の皺を数えられる程には近づいて見る事は出来なかったが、表情や顔立ち、恰好は識別できた。
サスティは、あれがラセラなのね、と呟く様に言った。が、僕には像はラセラには見えなかった。ラセラではない…。
僕はサスティの横顔を見た。それから像を見た。そしても一度サスティを見ると、また像を見た。そして、微笑した。
「あの像、なんだかサスティに似てないか」
言われて彼女は口許を緩めて笑うと、僕の方を向いた。
「そう?」
僕は頷いた。
「似てるよ。サスティに似てる」
サスティは笑みを崩さずに像を再び見上げた。
「ふうん…。それじゃあ、ラセラはわたしに似ているのか…」彼女は言って、くすくすと笑った。僕は、どうしたの、と訊いた。「だって…」彼女は笑いながら言った。「ラセラとわたしが似ているって事は、ルザートとわたしが似ているって事でしょ?」
確かに…。
「そうかな…」僕は彼女と共に笑いながら、言った。「そうかもね…」
そうして、僕等はもう暫くの間、女神像を見上げた。彼女はさりげなく、僕の手を取った。
「帰ろっか」
サスティが言った。
僕は頷いた。そして手を繋いだまま、女神像を背にし、教会を後にした。
外に出ると、丁度鐘が五回鳴るところだった。僕達は少し驚いて顔を見合わせると、教会の屋根についている鐘を見上げた。
そして、「樫の盾」に向かって、国道を戻り始めた…。
〈おしまい〉
今回のテーマ曲はコチラ↓↓↓
「この、ヘンタイ!」
ニコニコ動画:http://www.nicovideo.jp/watch/sm27768218
youtube:https://youtu.be/GMAvHB_RD0g
朝。早く目が覚めた。あんまり早くさめた物だから、窓の外はまだ暗かった。あんまり早く起きたものだから、「樫の盾」に出向く訳にもいかず、寝台の上で呆然としていた。けれど、なんとなく鼓動が早かった。
今日は、午後までにラッズが首府から帰ってくるのだ。そう考えるだけで、何か胸の内側が擽られるみたいで、思わず笑みが漏れてしまった。
陽が上るのが待ち遠しかったが、レネカが起きる時間を見計らってあたしは部屋を出た。アルトスはこの前の様に、上の階で熟睡しているのだろう。けれど、ラッズが帰ってくる今日にあっては、彼への興味は全く殺がれていた。
レネカは、今日はなんだかあまり機嫌がよさそうではなかった。服を貸してくれ、化粧もしてくれたが、言葉数が僅かだった。まあ、ここのところ彼女はあたしとラッズの仲を良く思っていないから…。けれど、何故、昨日アルトスがあたしに気があるかもしれないと語る時は、あんなに楽しそうだったのだろうか? サスティを気遣っているのなら、アルトスは良くてラッズは駄目、という事は通らないよね。なんだかよく解らない。女性の心になりきっても、女性の考える事が解らないなんて…。
ラッズが帰ってくるのは昼過ぎだと思ったが、あたしは午前中に彼の工房に辿り着きたかった。それで、彼がまだの様だったら、ずっと待つ心算だった。
町への足取りは軽かった。
けれど、工房に入り、二階の扉の前に立ったときは流石に緊張した。
ラッズはもう、帰って来ているのかもしれない…。
あたしは躊躇って、扉の前で暫く考え込んでしまったが、もし帰ってきているのなら何も言わずに入るのは失礼だと思い、扉を叩いた。が、反応は無かった。
あたしは溜息を吐いた。そして、扉の把手を掴むと、開けた。彼を待とうと思ったからだ。
「ラセラ!」
中に入った途端、ラッズが視界に入った。彼は、どうやらあたしが扉を叩く音を聞いていた様で、扉を開ける為に向かってきている所だった。
あたしは、喉が詰まって言葉が出なかった。三日間会えなかったのが寂しかったのは勿論だが、その三日間でラセラが崩れなかった事への安心感が強かった。そして、彼の姿を相変わらずのラセラで再び迎える事が出来たのが嬉しくて、涙が出てきた。
あたしは駆け寄ると、ラッズに跳び付いた。彼はそれで均衡を崩し、数歩後退したが、持ち直すと、あたしの腰に手を廻し、顔を見詰めてきた。それで、あたしも涙を拭きながら、彼の顔を凝視した。
「会いたかった…」
あたしが言った。すると、彼はあたしの顔を何時もの様に彼の胸に引き寄せると、髪を撫ぜてくれた。久しぶりに安らげた。
ラッズは、もうあたしの見本は必要ない、と言った。もう顔はほぼ完成してしまい、あとは服や身体の細かい所だけだから、見本をしてくれなくてもいいよ、と言った。そして更に、こんな事を言った。
「この工房でする仕事は、どうやらこれが最初で最後みたいだ」
あたしには彼の言葉の意味が解らなかった。ただ、あたしはまだこの工房に毎日顔を出していいのかどうか、が気になった。彼はちゃんとあたしを愛してくれているのか。
「どういう事?」
あたしは集中しない意識で訊いた。
「この工房はもう閉鎖になるんだ。というのも、この工房は組合から親方が借りていたものだったから、親方が死んでしまって借用権の期限がなくなってしまったんだ」彼はあたしから腕を離した。「だから、俺はこの町を出なくはならないんだ」
え…? 町を…?
「…そんな…」あたしは掠れた声で呟いた。「それじゃあ、あたしはどうすれば…」
言うと、彼はあたしの両肩を両手で軽く掴んできた。
「そこを、今日、君と話し合おうと思っていたんだ」
彼は言うと、石の傍に置き放してある椅子を二脚持って来て、あたしをその内の一つに座らせると、彼も座った。
「町を出たら、貴方は何処へ行くの?」
「うん」彼は頷いた。「まず、それから話そう。あんまり驚かないで聴いて欲しい」彼はあたしの目を凝視した。あたしは小さく頷いた。彼はあたしの首肯を待っていたかのように、よし、と言った。「俺は、組合の関係で、首府の工房に行くことになったんだ。組合の長がいい人で、若い俺には機会が多い方がいいって、計らってくれたんだ」
首府…そんなに遠くては、毎日会いに行けない…。
「あたし、どうすれば…」
「当惑せずに聴いてくれ」彼は再びあたしの両肩を掴んだ。「俺は、だから首府の工房へ行き、そこで生活する事になる。けれど、君とは毎日会いたい」彼はそこで一度言葉を止めた。あたしは彼の目をよく見ることが出来なかった。「だから、君にお願いしたい」彼は語気を強めて言った。「君に、ついて来て貰いたいんだ。首府まで。俺の工房まで」
彼の工房まで…。
「そうすれば…」あたしは漠然とした意識のまま、泣き出しそうになりながら、呟く様に言った。「貴方に毎日会えるの?」
彼は微笑むと、大きく頷いた。
「同じ所で暮らす事になるのだから、当然じゃないか」
「あたし…貴方の邪魔にならない…?」
「成る訳ないだろ」彼はあたしの頬をすばやく軽く二階程叩いた。「君がいないと、仕事に力が入らないくらいだ」
本当…? 嬉しい…。
急に目から涙がこぼれた。多分、嬉し涙だと思う。肩を大きく震わせ、何度もしゃくりあげてしまった。彼はそんなあたしを見て、優しく微笑むと、抱きしめてくれた。
「解った…」あたしが泣きながら言った。「あたし、貴方について行く。ラッズについて行く…」
彼は、またあたしの頭を胸に埋めさせると、髪を撫ぜてくれた。彼となら、何処へでも行けると思った。彼となら、何をしていても安心だと思った…。
「もう十日くらいしか、借用期限がないんだ」彼はあたしの耳許で囁いた。「だから、それまでに出立しなくてはいけない…」言われて、あたしは顔を埋めたまま頷いた。「十六日に、君を迎えに行くよ。『樫の盾』だったっけ。あすこに、昼までに迎えに行く。だから、待っていてくれ…」
あたしはも一度だけ大きく頷くと、彼の胸の中で随分長い事泣いた。もう、レネカやファルナとの約束は護れないが、ラセラはラッズの存在なしには生きられなかった…。
夕方、あたしは「樫の盾」には寄らずに、直接自分の部屋へと戻った。首府に行くことについては何となく罪悪感があったが、仕方の無い選択だと思った。
あたしはゆっくりと吹き曝しの階段を二階へと上がると、自分の部屋に入った。
途端、アルトスの姿が目に入った。
「あ!」あたしは思わず叫んでしまった。「一階間違えてしまったみたい」
言ってから、あたしは急いで扉を閉めようとした。
「違うよ」が、アルトスに否定されたので、少し鼻白みながら部屋に入った。「僕がお邪魔しているんだ」
「…どうしたの?」あたしが、訝りながら訊いた。「何か用でも…?」
「特に用があるって訳ではないんだけれど…」彼はあたしの机の椅子に腰掛けていたが、立ち上がった。「今日は、あのラッズって男の所に行っていたのかい?」
彼の意図が読めない…。
「そうだけれど…」
返してやると、彼は表情を険しくした。
「気に入らないな」彼が言った。「なんだって、君は石工の男なんかに惚れたんだい?」
何を言いたいのだろう…。
「どういう事? それは、貴方に関係あるの?」
「ないと言ったら嘘になる」彼は語気を強めた。「石工を蔑んでいるのではないよ。違う。軽率な君が気に入らないんだ」
軽率? 何が…? 今日、首府に行く事を承諾した事? 否、彼はそんな事を知る筈がない。となると、レネカから聞いたのかな…。
「貴方、一体何を聞いたの?」
「君が、ラッズという男に恋愛感情を抱くまでの過程をだよ」
まさか、ルザートの事は聞いていないでしょうね…。
「軽率って…何が?」
「彼の口説きの手口に安易に乗ってしまった事だよ」
「口説きの手口って…」見本になってくれないか、という奴の事だろうか…。「あれが、口説きの手口だって言うの?」
「誰が聞いたって、そう思うよ」
「いいえ」あたしはかぶりを振った。「彼は純粋な人だもの。そんな打算的な言葉ではなかったと思う。初めからあたしに好意を持ってくれていたかもしれないけれど、彼はきっかけを作りたかったに過ぎない」
「それを、口説きの手口って言うんだよ」
言われて、あたしは一瞬言葉を失った。
「それじゃあ…」あたしは反論を考えたが、浮かばなかった。「貴方だって、何なのよ! いい人の様に見せかけて、御為ごかししているんじゃないの?」
彼は怒ったのか、目を大きく見開いた。
「は!」彼は言った。「何の目的があってさ!」
「目的がなかったら…!」あたしが彼の言葉の上から被さる様に、言った。「あたし達の事に干渉して来ないでよ! 大体、可笑しいよ、何の理由があって、貴方はあたしの部屋に勝手に忍び込んで、そんな訳の解らない事でがなりたてるわけ?」
あたしが叫ぶ様に言うと、彼は急に押し黙ってしまった。そして、沈黙は長い間続いた。あたしは何時の間にか、肩で息をしていた。彼は、ずっと俯いていた…。
「僕だって…」彼は呟いた。そして、急に顔をあげると、あたしと視線を合わせてきた。「僕だって、君の事を好きなんだよ!」
それだけ叫ぶと、彼はあたしの肩を抜けて、部屋を出て行ってしまった。彼がいなくなると、部屋は急に静かになってしまった。
あたしは彼の言葉を反芻した。彼は、なんと言っただろうか…? 君の事を好き…? 有り得ない…会って、まだ三日くらいだもの…。それに、何…? 反論しておきながら、結局は御為ごかしじゃないの…。
少し胸が痛む気がしたが、彼ではラセラを保持できないだろうと思われるし…彼に甘くしてはいけない…。あたしはラッズと共に、首府に行くんだもの…。
七月九日
ラッズは、明日の朝一番に首府へ出かけなければならない、と言った。組合の手続きと、あと新しい工房での準備が色々とあるらしい。でも、十六日には必ず帰ってきて、迎えに来るから、と言ってくれた。
女神像は、今日で完成した。あたしは工房の中でする事がなく、ラッズの後ろの瓦礫の山に腰掛けて、彼が最後の仕上げをするのを見詰めていた。
やがて彼は石全体に刷毛をかけると、あたしの方を向き、満面の笑みで、完成したよ、と言った。そして、彼はあたしに、女神像と並んで立ってくれ、と言った。言われたとおりにした。彼は、非常に満足そうに微笑んだ。
それから、あたし達は抱きしめあい、接吻をした。明日から彼は、今度は一週間も居なくなってしまうのだ…。けれども、不安はなかった。彼は、十六日には必ず迎えに来てくれると約束してくれたもの…。
ラッズの話によると、完成した女神像は、十六日までには教会の人たちがやってきて、水洗いをし、運び出してくれるとの事だった。出立する前に、一緒に教会に行って、女神像の姿にお祈りをしよう、とあたし達はもう一つ約束をした。
七月十日午前
朝早く、あたしはラッズの見送りをした…。以前程の不安はなかったけれど…彼の姿が見えなくなってから、寂しくて泣いた。
あたしは目を腫らしたまま、国道へと、町の大通りを進んだ…。何時もどおりの町並みの筈なのに…。道の向こうから、杖をついた少女が母親に付き添われて歩いてくるのが見えた。少女は二本の杖を両脇に手挟んで、手でしっかり固定して、健気に歩いていた。間違い様も無い…タリタだった。そうだ…サスティが以前に言っていた。タリタは、七月中には退院出来るって…。今日がその日なのだろうか。でも、それにしては道が違う。村への道は逆…。町で買い物でもしてから帰るのだろうか…。
兎に角、あたしは二人に気付かれないようにしなければならなかった。特に、タリタの母親とはラセラ自身が面識があるので、顔を見られる訳にはいかなかった。彼女達は道の、向かって左側を歩いている…。あたしは、反対側に可及的寄って歩く事にした。顔も俯き気味にして、彼女等に見えない方を向いた。そして、早足に歩いた。
彼女達の声が聞こえてくる位近づいた…。気付かれていない。
彼女達とすれ違う…。あ…タリタが気付いたのだろうか…? 周辺視野に収まった彼女が、あたしを視線で追いかけているみたい…。
「ルザート…!」
すれ違いしな、タリタが呟くのが聞こえた。気付かれた…!
あたしはさらに歩調を早めた。怪しまれるとは思ったが、気持ちが焦っていた。
「ルザート!」
後ろから、タリタが呼びかける声がした。
「ルザートなんでしょ!」母親がタリタが叫ぶのを止めるように言うのが聞こえた。「ねえ、こっちむいてよ! 何なのよ!」あたしは振り向かなかった。後方で、転んでしまったのだろう、杖が地面にぶつかって数回弾む音と、彼女の小さい悲鳴が聞こえてきた。胸が痛んだ。けれど、とまらなかった。「ねえ、ルザート!」
その名前で呼ばないで…! そんな名前は知らない。危ういラセラを崩そうとしないで…!
気がつくと、あたしは耳を両手で塞いだまま、走っていた。
七月十日午後
タリタの事で、あんな応対しなければよかった、と後悔しながら、村の入口に差し掛かった頃には、太陽はもう南中していた。
「樫の盾」に行くか、自分の部屋に行くかで迷った。けれど、タリタに冷たくしてしまった事を誰かに言ってしまいたかったので、「樫の盾」に向かう事にした。
昼時で、多少客もあるかと思ったが、残っているのは食器だけで、レネカは面倒臭そうにテーブルの上の食器や皿を調理場へと運んでいた。
彼女は、あたしが中に入ると、すぐに気付いてくれた。ファルナの姿はなかった。勿論、サスティも。そういえば、随分長い事、サスティの姿を見ていない…。彼女は元気なのかな…?
レネカは食器の片付けを中断すると、テーブルの椅子の一つに腰掛けた。それで、あたしもその向かいに腰掛けた。何も言っていないのに、レネカの表情は深刻だった…。
「貴女…」あたしが相談しにきたのに、先に口を開いたのはレネカだった。「部屋には戻ったの?」
妙な質問だと思った。彼女があたしの部屋の事に言及するなんて…。
「まだですけれど…」あたしは訝りながら、返答した。「何か…?」
レネカはそれで、急に表情を緩めた。そして、何でもないの、と言った。
「それより、貴女の方は何? 何か用事がある訳ではないの?」
レネカが何時もの調子で訊いて来た。それで、あたしは町でタリタと会った事を話した。そして、冷たく応対してしまった事も話した。
「タリタは…」あたしが言った。
「もう退院なんですよね…? 村には、何時戻ってくるのかな…」
「聞いてるわ」彼女が言った。「今日が十日だから…明後日かな。そのくらいには、村に戻るつもりだって」
「どうしよう」あたしが小さく叫んだ。「あたし、顔を見られちゃった…。タリタにどう説明すれば…」
あたしの様子を見てか、レネカは微笑した。そして、安心なさい、と言った。
「そういう事は、私とファルナから言っておくから。彼女もきっと解ってくれるわ」
と、いいのだけれど…。
レネカは、不安そうに俯くあたしの頭を軽く撫ぜてくれた。彼女は、まるでこれからのあたしの辿る道を全て知っているかのようだった。何だか、妙な偉大さがあった…。そう…まるで、母親のような…。
レネカと会って少し気分が落ち着き、部屋への道を、風に吹かれながら歩いた。そういえば、あたしがラッズについて首府に行き、そこで暮らすという事を告げるのを忘れてしまった…。今日は十日…まだ一週間ある。その間に、出来るだけ早く、レネカかファルナに承知して貰うようにしなければ…ううん、彼女達が認めてくれる訳がない。彼女達には黙って出発するのが得策だろうか…。
それにしても、夏の向かい風が気持ちよかった。太陽は相変わらず刺すようだし、不安も幾らかあったけれど、取り敢えず気分は落ち着いていた。アルトスの事が気になったけれど…あんな事を言われてしまったし…。いえ、黙って出て行けば、彼との関係も切れる。首府へ行ってしまえば、粗方の懸念は取り除ける筈。
来週になったらもう村に帰る事は出来ないと思うと、急に恋しくなってしまった。それで、あたしは直ぐに部屋に戻るのではなく、少し遠回りをして帰る事にした。見たことの無い物などはなかったが、出来るだけ目に焼き付けて置こうと思い、どんな些細な物でも見逃さない様にして歩いた。
吹き曝しの階段の手摺に手をかけた頃は、それでもまだ太陽は高かった。風が涼しいので、殆ど汗をかいていなかった。
階段をゆっくりと上りながら、自分の部屋の木製の扉を見上げた。あんまり凝視する様な物ではないし、特に気にかける物でもないが、思えば色々な思い出のある扉の様な気がした。特にこの一ヶ月の間、一体何回この扉を叩く音で目を覚ましただろうか…? ある日はファルナだったし、ある日はサスティだった…サスティ…彼女は、本当にどうしてしまったのだろうか…。彼女とは喧嘩みたいな感じで別れたまま…ずっと会っていない。向こうがあたしを避けているみたいだけれど…あたしが首府に行くまでに、も一度会っておきたい…そして、謝らなければ。でも、ルザートはもう死んでしまった、みたいな言葉を彼女が受け入れられるだろうか? 取り敢えず、まだ時間はある。なんとかして、レネカさんにでも頼んで、サスティと会って、それで、上手く謝らなければ。
色々と考えを巡らしながら、あたしは扉の把手を掴み、開けた…筈が…。
「開かない…?」思わず呟いてしまった。「鍵をした心算はなかったけれど…」
あたしはスカートの内側の隠しから、鍵を取り出した。面倒だったから鍵をしなかったのだけれど、もしかすると管理人が気を使って閉めてくれたのかもしれない。
鍵を外してから、も一度把手を取り、あたしは扉を開けた…。
「あ…!」思わず叫んでしまった。ここは…二階だ。今日も階を間違えてはいない。あたしが間違っていないのならば、間違えているのは彼だ…。「どうして貴方が…?」
アルトスは、大胆にもあたしの寝台でリンネルの布団を全身に被り、横になっていた。彼はあたしに気付くと、顔だけを此方に向け、口許と目と眉で薄く笑んだ。
気まずかった。あたしは、彼の以前の言葉を反芻した。僕だって、君の事を好きなんだ…然し、だからといって寝台で寝ていると言うのは、常軌を逸している。
あたしは、彼の次の行動に就いて用心をしながら、相変わらず純粋な微笑みを向けているアルトスに近づいた。
彼は、何も言わなかった。
あたし達は、大股一歩分くらいの間を空けて、黙った儘、暫く見詰め合った。あたしは少し威嚇する様な表情を向け続けた心算だったが、彼は微笑を崩そうとはしなかった。
張り詰める空気が、痛い…。
「ねえ…」アルトスが囁いた…。声の高い彼は、リンネルから短く切りそろえたトビ色の髪と顔だけを覗かせて、まるで女の子の様だ…。「もっと…近づいてくれる…?」
あたしはどうして良いか解らなかった。けれど、何故か、鼓動が早まった。
あたしは、一歩分だけ、二歩に分けて、近づいた…。
アルトスは、満足したかのように安らかな笑顔を見せると、大きな瞳で、ゆっくりと一回だけ瞬きをした。そしてあたしと、も一度視線を合わせると、流れるように視点を落としていき、やがて彼は俯くようにして自分の身体を隠している白いリンネルの所で止めると、薄い布団を首の所からゆっくりと剥がし始めた…。リンネルは首をすべり…裸の…胸をすべり……腰の凸部を上り…太腿を下り…踝で止まった…。
あたしは表情では驚かなかったと思う…。だからといって、仕草でも驚かなかった…。否、もしかすると、驚いている為に自分が驚いている事に気付けないのかもしれない…然し…目の前で何が起こっているのかは理解していたし、目の前の物が何であるかも充分に解っていた。ただ、頭の中で絡まっていた糸の幾らかが解け、また、幾らかが絡まるのを感じた。けれど、今という一点の時間の中では、絡まるという概念は存在しなかった。過去という時間は意識からは拭い去られ、ただ、状況だけがあった…。
「…サスティ…」
あたしは、不思議なくらい落ち着いて、言った。
彼女は…あたしの方に視線を上げると、また微笑んだ。
「久しぶりね…」彼女は囁く様に言うと、裸の腕を伸ばし、あたしの腰に手を当ててきた。そして、そのままスカートの上をすべる様に細い指先でなぞり、股部の膨らみで止めた。それからもう一度視線を合わせてくると、くすくすと笑った。「…ルザート…」
言われて、どき、とした。サスティの唇から漏れたその名前が耳の奥で数度反響した様だった。そして自分の中で、何かが傾いだ。否、傾いでいた物が、均衡をとり始めたような感じがした。ラセラを意識するようになってから心の奥の方に巣食う事で礎を築いていた黒く蠢く何かが、結束に異常を来たし、土台を失ったラセラに罅が入る音が聞こえた様な気がした。
そしてその瞬間、また、目の前が真白になった。視点が定まらなくなり、視線が泳いだ。そして意識が遠退いた様になると、昔見た風景が呼びかける声が段々と聞こえてくるような気がした。すると、目の前に色が現れ、明るさが現れ、そして形が現れた。そこは、部屋だった。薄闇の朝の光を壁の窓から取り入れた薄暗い空間…そこに、何やら動く物があった。輪郭がはっきりしないその物体は言った。
「純度の低い水晶の原石だ」
それは、父親だった。目が薄闇に慣れ始めると、自分が掌に親指程の大きさの水晶を乗せているのが解った。僕は水晶から目を上げると、再び父親を見た。彼は、悲しそうな顔をしていた。「パン一斤位にしかならない」
彼はかぶりを振った。そして、僕の掌を指差してきた。見ると、僕が握っているのは、水晶ではなくただの石炭だった。
そんな心算はなかった。
けれど、ダイヤモンドにもなれた筈の水晶が、自分にも石炭にしか見えなくなるなんて…。
呆然としている間に、また目の前の物は輪郭を失った。父親は色だけになり、やがて白の光と混ざり合い、そして真白になってしまった。
「ルザート」
目の前にはサスティが居た。何時の間にか寝台に腰掛ている彼女は、不思議そうな目を僕に向けていた。が、僕が気付いた様に彼女と視線を合わせると、また微笑んだ。そして、視線を僕の腰に落とした。
彼女は、依然として僕の股間に手をあて、撫ぜていた。途端、僕は自分の頬が熱くなるのを感じた。僕は、ラセラもかもしれないが、サスティの裸体を目の当たりにして、陽物を勃たせていたらしい。ラセラはレネカに言われた通り、サスティによって止められてしまった…。
僕は少し擽ったさを感じながら、僕の股間に視線を合わせたままのサスティのトビ色の髪の上に両手を置いた。すると彼女は僕の方を見上げ、薄く笑んだ。
「頬っぺたが、赤くなってるよ…」
言って、彼女は僕の服の腰のリボンの様な帯を解き始めた。僕は彼女に向かって微笑んでやると、自分の金紅色の髪に手をやり、髪を結っている赤いリボンを解いた。そして、サスティの裸の両肩に手をかけると、首に両手を巻きつけ、彼女の肩に顔を置くようにして体重をかけ寝台に押し倒した。そして互いに暫く顔を見つめあうと、ゆっくりと引き合い、接吻をした…。
僕の口紅がぬるぬるとして僕等の唇を滑らせると、サスティは舌を使って上手く舐め取ってくれた。それから一度唇を離しても一度見詰め合ってから、再び接吻をした。随分長い事、した。舌は入れなかった。ただ、彼女の体温と心臓の鼓動を切ないまでに感じていた。彼女は…とても可愛かった。
やがて唇を離すと、サスティは僕の瞳を見詰め、微笑んで言った。
「…ルザートに…お帰りなさい…」
それで、僕も微笑した。
「うん…」視線をそらさずに、ルザートの声で言った。「ただいま…かな」
彼女は僕の首に両手を廻すと、強い力で引き寄せてきた。僕等は寝台の上で抱き合う形になった。彼女の顔が僕の肩に、僕の顔が彼女の肩にあった。
彼女は急に肩を震わせた。かと思うと、静かに泣き出した。僕には、彼女の涙の理由が解っていた。一番罪深いのは、僕だった。彼女は、なんて健気に僕を連れ戻してくれたんだろう…。
僕は彼女が泣いている間中ずっと、彼女の背中をゆっくりとした周期で、とん、とん、と叩いてやった…。
夜、僕はサスティと並んで部屋を出た。彼女はアルトスの服装で来ていたので、僕がレネカの服を着せてやった。彼女には大きかったが、それでもとても女性らしかった。僕の為に切ったのであろう髪の毛は首の後ろで切りそろえられていたが、短い髪のサスティも可愛かった。
僕は久々に男の服を着た。無論、自分の服だ。以前はルザートに戻る事が非常に怖かったが、サスティによって石の中に埋まっていたルザートはいとも簡単に助け出されてしまった。而も、彼女には見本は必要なかった。彼女は常に大理石の中に僕を見つける事が出来、もしかすると、彼女に初めから勇気さえあれば、本当に一晩で彫り上げられたのかもしれないと思った。僕はそれを、非常に幸福に思った。そして、ラセラがラッズを心から愛していた、などというのは、所詮、虚構に過ぎないという考えが強まってきた。それこそ、石炭になってしまう水晶のように…。
「樫の盾」では、レネカとファルナがまるで僕等を待っていたかのように、テーブルに座っていた。僕等は並んで入り、並んで座った。彼女等は僕の姿を見て歓声を上げた。僕は苦笑するしかなかった。
「私の…」レネカが僕の方に悪戯ぽい笑みを向けながら言った。「言った通りでしょう?」
僕は頷いた。
「やっぱり、アルトスがサスティだって、知ってたんですね」
「貴方にあんまり聞き分けがないからよ」ファルナが言った。「でも、私たちはサスティの考えを手伝ってあげただけ」
「じゃあ…」僕は隣のサスティを見ながら言った。彼女は頬を染めたまま、前を向き、少し俯いていた。「髪を切ったのも、アルトスになったのも…」
サスティは考える様に間を置くと、大きく一回頷いた。
「感謝しなきゃね…」
レネカが言った。
僕は微笑しながら、皆に向かって頷いた。
「そうだ!」サスティが急に、思いついたように言った。彼女のこんな元気な声を聴くのは本当に久しぶりな気がした。けれども、これが最も彼女らしいと思った。「ねえ!」彼女は席を軽く立ち大きい臀部で椅子を引くと、僕の方を大きな笑顔と共に向いた。「髪の毛切らない?」
「ああ! いいじゃない!」
ファルナが叫んだ。するとレネカは、それじゃあ鋏と鏡が必要ね、と言った。そして、私の部屋で切りましょう、と言った。
僕は反論が出来ず、ただ笑っているしかできなかったが、サスティはそんな僕の腕をつかむと、誘導するかのように階段を駆け上がり、サスティの部屋に入った。
通いつめた部屋ではあったが、ルザートで入るのはまだ数回だった。何時もは女になるために来ていたのに、今回は男らしくなるために来ているなんて…妙な気分だ。
サスティは僕を何時もの鏡台の前の椅子にすわらせると、抽斗を漁って鋏を探し始めた。その間にファルナとレネカが入ってきて、壁のランプの油に火をつけてくれた。
サスティは鋏を見つけると、座っている僕の後ろに立ち、鏡に映った僕に向かって鋏を数回打ち鳴らせてみせた。そして僕の肩に手を置き、顔を耳許まで持ってくると、短くしてあげるね、と言って、僕の髪に櫛を入れ始めた。
ファルナとレネカは並んで寝台に座ると、僕等の方を傍観した。鏡に映った彼女等の顔にも、安堵を読み取ることが出来た。
多くの人に心配をかけてしまったんだな…。
「どんな髪型がいい?」
僕にリンネルを掛けながら、サスティが訊いて来た。僕は故意に悩む様な素振りをみせてから、君の好きなようにしてくれるのが一番いいよ、と言ってやった。彼女は微笑むと、どんな髪型になってもしらないよ、と言った。それから櫛と鋏を持ち直すと、静かに僕の後ろ髪に入れ始めた…。
静かな時間だった。そして、平穏で幸福な時間だった…。静寂の中に鋏が髪を切る音だけが響いた。
サスティは何も喋らずに切り続けたが、手を近づける度に首筋に感じる彼女の体温が、僕に何かを語るかの様だった…。
そうして、サスティのルザートを形作られている間に、僕は眠りに落ちてしまった…。
七月十一日~十五日
僕は、もうルザートとして支障のない生活を送れる様になっていた。ファルナに頼んで休暇を貰っていた鍛冶手伝いも再開したし、まだ当分は杖の生活ではあるがタリタも帰ってきて、すっかり元通りになった。否、僕とサスティとは以前とは少し違う関係となったが…。
帰ってくるなり、タリタはラセラが僕である事を確かめた。それで、彼女は僕に、意地悪、とか、この変態、とかなんとか言った。そして、お医者様に連れて行ってくれてありがとう、とも。彼女は二本の杖を常時携帯していなければならなかったが、相変わらずの元気だった。時々歩くのを手伝ったり彼女の代わりに出来る事をやってやったりすると、非常に喜んだ。そしてその度に、早く治らないかなあ、とぼやいた。
然し、僕にはまだ一つだけやり残した事があった。ラッズの事だ。この六日間、僕は、彼が迎えに来る場面を幾度となく想像した。彼は、ラセラを向かえに来る。けれど、そこには彼とは面識のない一人の男がいるだけ…。気の毒な感じではあるけれど…仕方の無い事だ。
僕は出来るだけサスティと一緒にいる様にした。僕はそれだけ彼女の事を好きだった事もあるが、彼女が僕の名前を呼ぶ度にルザートを実感し、土が踏み固められる様に礎が築かれ、そこに太い根を降ろせる気がした。
彼女は、天使の様だった。そして、女神の様だった…。
七月十六日
朝から雨だった。僕は教会が鐘を八回鳴らす頃には雨用のローブを羽織り、「樫の盾」に向かった。落ち着かなかったが、最後の仕事を片付けてしまおうと思った。
食堂にはレネカだけが居て、僕が雨の中朝早くから来た事を訝っている様だったが、僕はぼんやりと灰色の外を眺めるだけで、特に大した返事はしなかった。
僕は、あの巻貝の耳飾をテーブルの上に二つ並べ、特に視点を定めずに入口を見詰めながら、左手の指先で転がして弄んだ。時々、店の前の道をローブ姿で人が通って行ったが、ラッズはやってこなかった。
やがて、教会が鐘を十二回鳴らした。雨は相変わらず硝子窓に打ちつけ、両流れの屋根から滴り落ちていたが、ラッズはやってこなかった。僕は段々緊張が解け、眠くなってきてしまった。手持ち無沙汰だ…。もしかすると、雨だから、彼は今日は来ない心算なのかもしれない…。然し…それは有り得ない。彼は、絶対に迎えに来るみたいな事を言っていた。
昼時になって、「樫の盾」に客があった。畑で働いている者等が二、三人、昼食をとりにきたらしい。無論顔見知りだったが、こんにちは、と挨拶を交わす位で、特に会話はしなかった。
僕もあんまり暇なので、レネカさんに簡単な昼食を食べさせてもらう事にした。
僕は、じっくりと食べた。パンは本当に細かく千切った。兎に角、時間を掛けて食べた。レネカはその様子を可笑しがって笑っていたが、彼女は特に詮索をしようとはしてこなかった。
やがて鐘が二回鳴った。午後の鐘になってしまっていた。僕はまだパンを半分残していたが、他の客はもう全て食事を終えて、仕事に戻ってしまった。
僕は、レネカが調理場で食器や皿を洗うのを呆然と眺めた。
突然。入口の方から、木の扉を叩く音が二回聞こえた。慌てて向くと、ローブの頭巾を下ろした男が一人、開け放しの扉を叩いた拳骨をそのまま扉につけて寄りかかって立っていた。逆光線で影絵になっていたが、髪の毛と身長で、ラッズだと解った。
走ってきたのか、彼は肩で息をしている…。
「どうした?」僕は、貝の耳飾を手で弄りながらラッズの方に顔だけ向け、言った。「見ない顔だが…食事でもとりにきたのか?」
彼は歩を進めると、僕の方に寄ってきた。それで彼にも室内の環境光が当たり、表情が読める様になった。
「人と待ち合わせをしている」彼は、言葉を尖らせて言った。「十六の女性だ。この村の」
僕はパンを千切ると、知らないな、と言ってやった。
「何時位の約束だったんだ?」
僕が訊いた。すると、彼は少し俯いた。
「…午前中だ…」
僕は、レネカさんの名前を呼んだ。彼女は調理場から出てこなかったが、洗い物をしながら返事をした。
「午前中に、誰か女の子が来ましたか?」
「女の子って…」彼女は僕の言動の意味が理解出来ないように返してきた。「十六くらいの女の子って、この村にいるのはサスティとファルナとタリタだけだわ。今日はまだ彼女達とは会ってないけれど」
僕はラッズの方に向き直った。
「君と待ち合わせをした女の子ってのは、何ていう名前なんだ? サスティか? ファルナか? タリタか?」
彼は、はっとした様に俯いた。
「…その中には居ない…」
僕は貝の耳飾に手を当てながら、パンを口に運んだ。
「僕はこの村の者だけれどね…」目だけを彼の方に動かした。「今の三人以外には知らない」
僕の言葉に彼は、どういう事だ、と呟いた。
「でも、ここで待ち合わせをしたんだ。そんな筈はない」
「その娘の特徴は? 名前は?解るかも知れない」
彼は頷いた。
「俺よりも少し低いくらいの背だ。髪の毛は長くて金紅色。時々赤色のリボンで結ってる。赤色の花を髪に挿している事もあるかもしれない。それと…」僕には、彼の視線が僕の手許に向けられているのが解った。「…白い巻貝の耳飾を…」
彼の目は、僕の色んなところを追いかけた。僕の持っている耳飾、僕の髪の毛の色、そして目つきや眉や鼻や口…。
彼は暫く驚いた様な顔をした。が、やがてローブを羽織り直すと、僕の目を見詰めて来た。
「その娘には、お礼をするといってまだしていないんだ」彼は言うと、ズボンの隠しから何やら包みを取り出した。金ではないのは解った。宝石か…何かだろう。「今、居ないのなら仕方が無い。代わりに、君に渡しておく」
彼は包みを開けずに、僕に差し出した。
「迷惑だよ」僕が言った。「知らない人が受け取るべき物を、僕が受け取れる訳がない」
僕の言葉に彼は一瞬怯んだが、包みを隠しに仕舞い直すと、小さく、そうだな、と呟いた。
彼は、ローブの頭巾を被った。どうやら、もう出て行くらしかった。
「とりあえず、君にお礼を言っておくよ。もし君がその娘に会う事が会ったら、伝えて置いてくれ」彼は入口に向かって歩いた。そして扉の所で立ち止まると、顔だけで振り向いた。「町の教会に女神像が置かれる事になったんだ。機会があったら、覗いてやるといい」僕は頷いた。彼は一歩外に出ると、空を見上げながら両手を軽く横に広げた。「どうやら、晴れるみたいだ」
「それはよかった」
僕は、彼の背中に言った。
彼はも一度振り返った。
「ありがとう。君には、本当に感謝しているよ」
そして、彼は頭巾をとると、足早に道を行ってしまった。
それを見て僕は、大きく溜息を吐いた…。
やがて、サスティがやってきた。彼女は、折角晴れたから、一緒に散歩でもしよう、と誘ってきた。僕は、承諾した。
僕等は国道を、町へと歩いた。何度も通ったこの道だが、サスティと二人だけで通るのはまだ二回目くらいだった。
彼女は、ずっと僕の腕を取って歩いた。僕は、これ以上この娘に心配をかける訳にはいかないな、と、つくづく思ってしまった。
僕は彼女に、たったさっき最後の後始末が終わった事を話した。彼女はまた不安そうな表情を一瞬したが、結果を知ると安心したのか抱きついてきた。
僕等はラッズの工房の前を通った。彼女は嫌がるかと思ったが、そんな事もなかった。この工房にも、サスティとの思い出があるのを思い出し、その事に就いて少し語り合った。それにしてもアルトスは傑作だったな。
それから、教会に向かった。そこにはラッズの造った女神像が置かれている…。サスティはそれを知っていたが、女神像を見る事については特に彼女は反論はしなかった。それで、僕等は町の少し外れにある、比較的大きな教会に二人して入り込んだ。
女神像は、礼拝堂の正面の、教壇の後ろに飾られていた。あんまり目立つ位置にあるものだから、すぐに見つける事が出来た。サスティは像を指差すと、あれなの、と訊いてきて、頷いてやると、走って近くまで寄っていった。
僕は歩き、少し高みに備えられた女神像を見上げるサスティの横に並んだ。
見上げる女神像は、また少し違ってみえた。服の皺を数えられる程には近づいて見る事は出来なかったが、表情や顔立ち、恰好は識別できた。
サスティは、あれがラセラなのね、と呟く様に言った。が、僕には像はラセラには見えなかった。ラセラではない…。
僕はサスティの横顔を見た。それから像を見た。そしても一度サスティを見ると、また像を見た。そして、微笑した。
「あの像、なんだかサスティに似てないか」
言われて彼女は口許を緩めて笑うと、僕の方を向いた。
「そう?」
僕は頷いた。
「似てるよ。サスティに似てる」
サスティは笑みを崩さずに像を再び見上げた。
「ふうん…。それじゃあ、ラセラはわたしに似ているのか…」彼女は言って、くすくすと笑った。僕は、どうしたの、と訊いた。「だって…」彼女は笑いながら言った。「ラセラとわたしが似ているって事は、ルザートとわたしが似ているって事でしょ?」
確かに…。
「そうかな…」僕は彼女と共に笑いながら、言った。「そうかもね…」
そうして、僕等はもう暫くの間、女神像を見上げた。彼女はさりげなく、僕の手を取った。
「帰ろっか」
サスティが言った。
僕は頷いた。そして手を繋いだまま、女神像を背にし、教会を後にした。
外に出ると、丁度鐘が五回鳴るところだった。僕達は少し驚いて顔を見合わせると、教会の屋根についている鐘を見上げた。
そして、「樫の盾」に向かって、国道を戻り始めた…。
〈おしまい〉
今回のテーマ曲はコチラ↓↓↓
「この、ヘンタイ!」
ニコニコ動画:http://www.nicovideo.jp/watch/sm27768218
youtube:https://youtu.be/GMAvHB_RD0g
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