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第3章 林檎の追憶、偽りの彫像
林檎の追憶、偽りの彫像
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六月二十日
朝。サスティに起こされた。部屋に鍵をしていなかったらしい。あんまり熟睡した感じではなく、気分が重かった。彼女は僕に朝食用にパンを一切れと、羊の乳、そして、抱えるくらいの大きさの籠を渡してくれた。すぐにそれが弁当だと解った。
サスティはなんだか言葉数が少なかった。僕に悪気を感じている様でもあった。部屋を出て行く際、彼女は少しだけ立ち止まり、僕の方を見た。それから何やら言いかけた様だったが、溜息をつくと、また振り返り、部屋を出て行った。どうやら彼女にも、もうはしゃいでいられる状況ではなくなってきているのが感じられているらしかった。然し、僕は、僕に女装をさせたり、断ろうとした時に風邪と見せかけたりした彼女を責める気にはなれなかった。
僕は、もうこんな事は終わりにしなくてはならないと思った。ラッズの頼みを断るのが一番いいが…。もう遅いだろう。兎に角、早く女神像が出来るのを待つだけだ。
僕は弁当籠を腕にかけると、洗面だけを済ませ、「樫の盾」に向かった。着替えなくてはならなかったからだ。
太陽は未だ顔を出して間もないといった風だった。そんな時間にサスティは弁当を拵えて持ってきてくれたのか…。
「樫の盾」の扉は閉まっていたが、鍵は掛かっていなかった。泊り客が夜中にも出られる様に、そう計らってあるようだった。多分レネカも寝ているだろうとは思ったが、僕は扉を静かに開け、中に足音を立てない様に入った。
食堂は、何故か明るかった。ランプの赤い明かりの様だったが、夕方から点けたのなら、油が持つ筈がない…。
僕は訝りながら、食堂の中を進んだ。そして、階段に足をかけた。途端、後ろから声がした。レネカの様だった。僕は出来るだけ驚きの声を抑えてから、振り返った。
やはりレネカだった。
「おはよう、ルザート」彼女が言った。辺りが静かなだけ、彼女の声は部屋中によく通った。「それとも、ラセラかしらね」
彼女は微笑みながら言った。僕は、彼女が起きていた事に少し安堵しながら、おはようございます、と、男の声で答えた。
「早いですね」
彼女は首肯した。
「貴女があの男の子のところにいかなくてはならないからね。サスティにお弁当貰ったでしょう? ちゃんと彼女に後でお礼言っておきなさいよ」僕は自分の腕に掛けられた籠に目をやると、頷いた。「ほんと、厭になってしまうわ。貴女がそうやって腕に籠かけている姿って、サスティに似てる」
サスティに? ありえない。
僕はとりあえず、そうですかね、と流した。
「着替えさせて貰っていいですか?」
僕が彼女に言った。すると彼女も気がついた様に頷くと、僕の後ろから階段を昇り、レネカの部屋に入った。
「お化粧もしないとね」
言いながら、彼女は自分の洋服箪笥を漁ると、服を選び始めた。そうしながら彼女は、自分の服が貴女に合うなんて、悔しくなってしまうわ、と笑いながら言った。
やがて彼女は両手に服を持って、僕の方に見せてくれた。サスティやファルナが選んでくれるのよりも、大人っぽい色合いの物だった。そしてやはり、上衣とスカートとが繋がった物だった。
「もう独りで着られる? それとも、着せてあげようか?」
僕は無論自分で着られたが、今回はレネカに手伝ってもらおうと思った。どうしてそう思ったかは解らないが、レネカに女装させてもらうのは初めてだった。
僕は彼女に言われた通りに服を脱ぎ、彼女の服を着た。少し無駄毛が目立ってきた部分は、やはり彼女に剃り直して貰った。彼女は独身でまだ三十代前半だったが、なんだか母親の様だった。僕は、この人になら何を相談してもいいかな、と思いながら、とりあえずなにを相談すればいいのか解らず、また何か悩むべき事柄が発生した時に話してみようと思った。
着終わると、今度は化粧をしてくれた。サスティがしてくれるよりも随分薄い化粧だった。手つきも慣れたもので、サスティがしてくれるのよりも鏡の中には大人っぽいラセラが映った。今までと少し印象が違う…。
「ちょっと…」レネカが、仕上げに僕の胸部に当てるコルセットの様な下着を調整しながら、言った。「女の声で話してみてくれる?」僕は承諾した。「下着はきつくない?」
「大丈夫。きつくありません」
僕は女声で、レネカの問いに答えた。彼女はそれで、薄く笑った。
「本当に女の子みたいね…。とっても可愛い…」
「あんまりからかわないで下さい…」
僕の言葉に、彼女は微笑した。
「ファルナがね」僕の腰のリボンのような帯を縛り直しながら、彼女は言った。「貴女の事、羨ましがってた。自分よりも綺麗だって…」
僕は彼女を見詰めた。レネカは、ふっ、と笑った。そして、どうしたの、と訊いて来た。
「何かを相談しようと思っていたんだけれど…」僕が言った。「忘れてしまいました」
彼女は少し不思議そうな表情をして見せたが、すぐに、もういいわよ、というと、僕に籠を持たせてくれた。
「樫の盾」を出ると、もう空は明るかった。出しな、レネカは、何も気にせずに楽しんで来ればいい、と言ってくれた。それでもあんまり気分は晴れなかった。
まだ人通りのない道を歩きながら、僕は自分の両耳に貝の耳飾を着けた。上手く着けられているかは解らなかったが、もし上手くいってなかったとしてもラッズが指摘してくれるだろうし、逆に指摘して貰った方が嬉しいような気もしていたので、特に気にしない様にした。耳許で揺れる貝殻がなんだか擽ったかったが、耳をすますと、海の音が遠くに聞こえる様な気がした。
町には、意外と早く着いた。僕はまだ二回しか彼の工房には行った事がなかったが、もうすっかり道を覚えてしまっていた。
明るくなって来ても人通りは全くなく、静かだった。ただ、至る所の煙突から煙が立っているのを見ると、どうやら人々は起きては居るらしかった。
ラッズは横丁の入口で待っていてくれた。大通りを歩いていく僕を見つけると、すぐに駆け寄ってきて、おはよう、と挨拶をしてくれた。それで僕は挨拶を返した。
彼は僕が弁当を持ってきた事に先ず興味を寄せた様だった。それで彼は、君が作ってくれたのか、と訊いて来た。なんだか悔しい気分だったが、サスティに、自分が作ったと言え、と言われていたので、少し躊躇いながら、頷いてやった。彼はそれで微笑んだ。
僕等は早速、彼の言う湖へと向かった。僕等は二人とも並んで歩いたが、寡黙だった。特に話す話題がなかったのもそうだが、なんだかお互い緊張している様子だった。彼にしてみてもそうだろう。僕は彼の見本であって、好い人ではない。
やがて町並みを抜け、昨日と同じ家畜を見、そして道がなくなる所までやってきた。僕等はそこで一度立ち止まった。そして、顔を見合わせた。
「ここからは」彼が言った。「道はないけれど、歩いていかないといけない。草が君の足を少し擽るかもしれないけれど…」
僕は頷いてやった。
「大丈夫。そんなに気にならない」
彼はそれで満足そうに笑むと、大きく頷き、鬱蒼とはしていながら背の低い、乾いた草原へと足を踏み入れて行った。僕もそれに続いた。確かに草は僕の足を擽った。あんまりこういう状況が続くと、炎症を起こしてしまうかもしれないと思ったが、森はずっと向こうに見えていたので、諦める事にした。
歩を進める度に、小さな虫が足許で飛び回るのが見えた。
僕等は直射日光に、幾度も額の汗を拭った。僕はそうしながら、サスティに貸したままの、否、あげたようなものだが、麦藁帽子を思い出した。随分昔の様で、まだ一週間前の話なのだ。
歩きながら、彼は途切れ途切れに、彼の幼少時代の話なんかをしてくれた。彼は、彼の工房のある町の生まれで、僕の住んでいる村にも幾度かは足を運んだ事があるらしかった。サスティやタリタやファルナの事は全然知らない様だったが、村から兵役に行った者とは以前から顔見知りだったらしい。僕は、自分は来年兵役なのだ、という事を言いそうになってしまい、少し慌てた。でも、実際に来年は僕は行かなくてはならない。ラセラの恰好でラッズの見本をやっていても、行かなくてはならないのだ。どんなに長く居られても、ラッズがいる生活はあと一年…。僕とラッズの仲がどうなろうと、その頃には否が応でも決着がついている筈だ。そう思うと、少し安心した。
町からは遥か彼方に見えていた森に差し掛かった頃には、もう昼が近かった。相当の距離を歩いた。それで、結構疲れてしまった。僕等は森の入口で、少し休む事にした。
「足は大丈夫?」
ラッズが訊いて来た。この距離は、女の足には辛いと思ったのだろう。生憎、僕は男だ。それが彼の前では、なんとなく悔しかった。
僕は彼の言葉に頷いた。そして籠から冷えた大きな鉄のケトルを取り出すと、一緒に入っていた木製の軽い把手つきの洋杯二つに中身の羊の乳を注ぎ、彼に渡してやった。彼は礼を言いながら受け取ったが、鉄のケトルを見て、俺が持っていればよかったな、重かっただろうに、と言った。僕は、確かに重かったが、彼に対してはかぶりを振って否定した。でも彼は、ここからは俺が持つよ、と言ってくれた。僕は一瞬それをも否定しようかと思ったが、実際少し疲れていたので、彼に頼む事にした。
喉が潤うと、風が気持ちよく感じられる様になった。今日も僕は髪を結っていなかったので、背中の方から吹く風に髪が大きく踊り、僕の口の中に入ってきたり、唇に張り付いたりした。ラッズはそれを見て微笑むと、僕の髪を掴んでそれを取り払ってくれ、そして手櫛で軽く梳ってくれた。
僕等はそうして暫く休んでいたが、やがて森に入る事にした。お互い、お腹がすいたね、という様な事を訴える時間ではあったが、昼食は森の中の湖の傍でとることにしよう、と決めた。
森には決まった道がある訳ではなかったが、彼は上手く僕を誘導してくれている様だった。地面はなだらかで、時々鳥の鳴き声が木々の間を木霊するのが聞こえた。木漏れ陽が幻想的で、地面の柔らかい腐葉土に複雑な形の陰を落としており、その輪郭はぼやけていた。比較的乾燥した森で、広葉樹の太い幹に甲虫が張り付いているのが時々見られた。僕はなんだか少年の頃を思い出してしまった。が、今はラセラなので、少女の頃の記憶を創造しなくてはならないのだ。と考えると、なんだか妙な気分になった。ラセラに過去は存在しないなんて…。
小一時間ほど森を慫慂して、僕等はようやっと湖に着いた。否、それ程大きい訳ではないので、泉といった方が適切かもしれない。兎に角、着いた。
僕等は屈んで水面を見下ろせる位のところで立ち止まると、手ごろな石に腰掛けた。空気はひんやりとしていた。水は随分透明で、落ちた葉が沢山浮かんではいたが、随分底の方まで見ることが出来た。何やら魚も泳いでいる様だった。此処からは、ラッズの言っていた御堂は見られない。泉は僕等の前に広がってはいたが、森の木に隠れた部分も大きかった。
僕等は暫く黙ったまま、虫達の羽音を聞きながら泉を眺めていた。なにやら聖域とでも呼ぶべき雰囲気のある場所だった。
不意に、今の自分は水みたいな状態かな、と思ってしまった。でも、こんなに透き通ってはいないだろう…。
「お腹すかない?」
暫くして、ラッズが言った。それで僕は我に返った様に、お昼にしよっか、と答えると、ラッズから籠を受け取り、開けた。
中には、リンネルに包まれたパンが数切れと、苺を煮て作られたジャム、肉の燻製の薄切り、採れたばかりの野菜、それと羊の乳の入ったケトルが入っていた。まあ、料理と呼べる程の物はジャム位だが、サスティが作ってくれたのだから、有難く頂く。ただ、ラッズが、凡そ料理と呼べる物のない事に呆れないかと思ったが、彼は特に何を気にするでもなく、旨そうだ、と言いながら、パンを取り出した。
「塗ってあげる」彼を見て、僕が言った。「ジャムでいい? それとも、肉の薄きりに野菜を挟む?」
彼はそれで僕にパンを渡すと、肉で頼むよ、と言った。期待通りだった。
僕は、もう慣れたものだが、出来るだけ娘らしい仕草でパンを割り、肉と野菜を挟み、渡してやった。彼は喜んでそれを受け取ると、実に男らしい食べ方をしてみせた。彼一人で籠の中を平らげてみせる程の勢いだ。
僕も少年並に空腹だったが、今はラセラなので、それ程食べる訳にはいかないと思った。それでパンを割ると、片割れだけにジャムを塗って、食べた。
そうして、籠はすぐに空になった。
暫く石に腰掛けたまま、僕等は四方山話をした。最近何があったか、とか、そんな具合に。閑静な場所で会話をして気がついたが、彼の声はなかなか低く透き通っていると思った。
それから、腹熟しを兼ねて、泉の周りを慫慂する事になった。通れる部分が狭かったので、彼が前になり、僕がそれについて行く形となった。籠は彼が持ってくれるとは言ったが、空になって軽くなっていたし、泉の周りには危険な道はなかったので、畢竟僕が持って歩く事にした。その方が絵になるとも思った。
時々、泉の魚が水面を叩く音が聞こえた。葉擦れの囁きや虫の声が、何やら夏らしさを盛り上げていた。僕は、彼の言っていた御堂が見えて来るのを待った。
「ねえ」後ろから僕が彼の背中に話しかけた。「御堂は何処にあるの?」
僕の問いに彼は、すぐ其処だよ、と答えた。が、実際に着くまでには、それから暫く歩いた。
彼は御堂が見えるとそちらを指さした。そして、あれがそうだよ、と言った。僕はそれで彼の指す方を見たが、御堂は見当たらなかった。代わりに、彼が持ってきてくれた赤い花が、ちらほらと咲いていた。想像程の数ではなかったが、それでも赤色は良く目立った。僕は何だか嬉しくなってしまった。
随分と近づいて、僕は初めて彼の言う御堂を見つけた。僕は、堂というくらいだから、人が入れるくらいの礼拝堂を想像していた。が、実際は壁に彫られた小さな穴に石を組んで作られただけの物で、その空間に、古びて表情も解らない様な女神像が立っているだけだった。苔の姿は見られなかったが、像の足許は雑草で隠されていた。
僕等は並んで女神像に向かうと、数秒の間、目を閉じて胸に手を当て、祈りを捧げた。
良く見ると、女神像は林檎を持っており、それを胸に引き寄せる様な仕草をとっていた。僕はラッズの方を向いた。彼はすぐに気付いた様だった。
「林檎のことだろう?」僕は首肯した。「そうだよ。君が選んでくれたのと同じ姿だろう」言って、彼は御堂の傍に咲いている赤い花を茎から適当な長さで折った。「結構偶然かもね。赤い花といい、君の選んでくれた姿といい」
言って、彼は僕の髪に花を挿してくれた。今日は結わえてなかったが、それでも花は落ちずに固定された。僕は彼に、ありがとう、と言った。
彼はそれで微笑むと、何も言わずに僕の肩を通り過ぎ、歩いていった。僕は彼が何処に行くのか解らなかったが、頭の花が落ちない様に気をつけながら、彼の後に付いて行った。
彼は、殆ど歩かない内に立ち止まった。そして僕の目の前で、屈みこんだ。見ると、彼の前に小さな段差があり、その上の地面の筋から、小さな小さな滝の様になって、水が泉に注いでいた。
僕は、彼の横に並んで屈みこんだ。彼はそれを見てか、両手で水を掬ぶと、口に運んだ。彼は、甘い水だよ、と言った。それで僕も水を掬うと、飲んでみた。確かに甘い。普段飲んでいる井戸水や川の水からは想像出来ないが、甘い水だった。少し柑橘類の香りがあるような気もした。僕が、おいしい、と呟くと、彼は微笑し、また水を掬って飲んだ。僕も、同じように水の流れに手を入れようとした。途端、僕は身体の均衡を保てなくなり、泉の方に向かって倒れこんでしまった。落ちる、と思った。が、すんでのところでラッズが僕の腰の部分を両手で抱え上げてくれた。それで僕は泉に落ちずに助かったのだが…彼は、僕を抱えたまま、彼の方に僕の身体を引き寄せた。僕は彼の表情を見て、彼の考えている事が少し解った。それで、僕も鼓動が大きく早くなるのが自分で解った。それでも、無理して薄く笑むと、彼と顔を合わせた。そして彼に抱き寄せられるままにして、お互い顔を近づけた。
僕等は、宴の時から数えて二度目の接吻をした。随分と長くした。互いに、唇や舌を舐めあった。唇と唇が離れる時の、ちゅ、という音が、幾度も静寂に木霊した。
僕は、このまま押し倒されてもいい、という気分ではあったが、それでは自分が男である事が知られてしまうと思った。適当な所で離れなくてはならない。
が、先に唇を離したのは彼の方だった。僕は少し驚いた様にしたが、互いに何も言わず、暫く見詰め合っていた。視線を逸らしたりはしなかった…。
やがて、彼は口を開いた。が、緊張してか、それとも長い接吻の所為が、上手く声帯が震えなかった様で、一度咳払いをしてから、もう一度口を開いた。彼は言った。
「もしよかったら、俺の好い人になってくれないだろうか」
その言葉は僕の頭の中で数回反響した。そして、彼がとても甘く感じられた。さらに言うと、その言葉こそ、僕が彼に出会ってからずっと彼の口から聴きたかった言葉であった様な気もした。実に甘美な響きだった。好い人になってくれないだろうか…。好い人になってくれないだろうか…? それは無理だろう!
僕は不意に、我に返った。彼の雰囲気に自分が酔わされているのだ、と、無理に自分に言い聞かせた。僕は男だ。幾ら来年の兵役までに決着がつくからといって、これ以上発展させると、もう遊びや悪戯の域を超えてしまう。駄目だ。彼の好い人になれる訳がない。僕は彼の見本にはなれるが、彼の好い人にはなれない。
だが、僕はこの状況をどう切り抜ければいいんだ? それは駄目、と言うのか? 出来れば、彼を傷つけたくない。それに、女神像は完成して欲しい…。
僕は大きく目を見開くと、彼の腕を振り解いた。彼は驚いた様だったが、これが娘の拒絶としては一般的な反応だと思ったからだ。そして、少し後じさりをすると、籠を残したまま、振り向き、駆け出した。数歩で髪の花が地面に落ちたのが解ったが、気にする訳にはいかなかった。振り返らなかったが、彼は僕を呼びとめはしなかった。そして僕はそのまま走り続け、森を抜けて草原に出た。彼は、追ってこなかった。
肩で息をしながら僕は、こうするしかなかったんだ、と思いながら、非常に気分が悪かった。彼を傷つけまいとして、逆に大きく傷つけてしまったのではないだろうか…。
「樫の盾」に帰ってから、僕はサスティにこの事を報告した。彼女はそれで少し安心したようにしてくれた。僕が弁当の事で礼を言ってから、籠を忘れてきてしまったと告げたが、サスティは、気にしないで、と言ってくれた。けれど、僕はずっと気分が悪かった。
夜。僕はやはりラセラのままで床に入った。
そして、こんな夢を見た。
僕は、丁字路の交差地点に立っていた。否、丁字には違いないが、分岐道は両方とも、斜め前の方向に向いていた。そう…まるで、教会の鐘に柄を付けて、逆様にしたような…。道の周りは、だだっ広い土の地面で、四方が地平線だった。道だけが石畳で、それも地平線の彼方まで続いていた。ただ一つ、丁字の分岐道の間の少しの部分、つまり、柄のついた鐘の内側の一部分にだけ、人工的に植えられたように、鬱蒼と草が茂っていた。奇妙な光景だった。
僕は暫くそこで呆然としていた。すると、分岐道でない方、柄の付いた鐘の柄の方の道から、誰かがやってくるのが解った。それは、ラッズだった。右手に昨日サスティのくれた籠の中に入っていたケトルを下げている。彼は、微笑みながら僕の方に寄って来た。気付くと、僕はラセラの恰好だった。
彼は僕と同じ交差点で立ち止まると、お腹がすかないか、と言った。そして小さな草むらに入ると、手に持ったケトルを傾け、その雑草に向けて、中身の羊の乳を、掛け始めた。ケトルは小さかったが、それからは想像も出来ない様な量の乳が流れだし、やがて雑草は一本残らず乳にまみれた。僕は訝ってそれを見ていたが、何故だかいい気分だった。ラッズはやがて僕の方を見、寄って来ると、言った。
「俺の好い人になってくれないだろうか?」
そして彼はケトルを持ち上げると、僕に向かってその中身をぶちまけた。それで僕は、髪から乳を被り、全身が濡れてしまった。が、全然否な気はせず、口に入った分は全て飲んだ。羊の乳の筈が、何故だか粘液質だった。が、飲んだ。
何時の間にか髪に赤い花を挿していたようで、それが僕の足許に出来た白い乳の泉の膜の上に落ちた。色が対象的で、なんだか綺麗だった。が、やがて赤い花は乳に溶け始め、そして血の様に混ざり合った…。
六月二十一日
目が覚めると、丁度教会の鐘が八回鳴るところだった。自分としては、仕事をしない日としては随分と早い起床だった。そういえば、長いこと仕事をしていない気がする。
昨日見た夢の所為で、いい気分ではなかった。が、ラセラである自分の中で、何やら蠢く物が感ぜられた。僕は不図、夢を反芻している自分に気がついた。訳の解らない夢ではあったが、妙に快楽に満たされた様な気がした。
僕は、自分が何を感じているのか良く解っていた。然し、それを必死になって否定しなければならなかった。
どうやら、もうルザートとしての自分は殆どラセラに食い尽くされてしまった様ではあったが、その記憶が、否定する事を未だに善しとしているようだった。そして、そうしなければならない理由もある様な気がした…否、もしかすると、理由になる程の障害はないのかもしれない。
兎に角、こんな遊びは止めにしなくてはならないのだ…。
思って、僕は寝台から立ち上がった。途端、自分の陰部に冷たい物を感じた。はっとして見ると、下着が濡れていた。
僕は、レネカに相談しなければならない、と思った。
そして、髪の毛を軽く手で梳ると、下着を脱ぎ捨て、何も履かないまま、スカートだけで、「樫の盾」に向かった。
サスティもファルナも、今日はまだ来ていない様だった。それは都合がよかった。食堂にはつい今まで客があった形跡があるが、レネカはそれを片付けようともせずに、相変わらず暇そうに調理場でスープを掻き回していた。僕は少し興奮と緊張の入り混じった心地で、レネカを呼んだ。女声で呼んだ。すると彼女は手を杓子から離し、食堂へと出てきた。調理場の方が食堂よりも明るかったので、逆光線になり彼女の表情は見とれなかった。が、彼女が訝っているのは仕草で解った。
「早いわね」レネカが手を樽に貯められた水で洗うと、自分の前掛けで拭きながら、言った。「どうしたの?」
言われて、僕は少し言葉に詰まった。けれど、すぐに返した。女声で。
「相談があるんですけれど…」
「相談…?」レネカはそういうと、勘定台の横を廻り、食堂に出てきた。そして僕と調理場を真横にして、向かい合った。それで彼女の表情が読み取れる様になった。彼女は微笑を崩してはいなかった。「なあに?」
僕は食堂の入口の方に視線を飛ばした。木製の扉は閉じられていたが、サスティが急に入っては来ないだろうか? それに、窓から見えてしまうかもしれない。
「レネカさんの部屋で話したいんですけれど」
「いいわよ」彼女はすぐに承諾してくれた。「けれど、お客に呼ばれたら、中断だけれどね」
それで、レネカが先頭になって、僕等はレネカの部屋に入った。相変わらず整頓された部屋だったが、使ったばかりなのか、鏡台の抽斗が中途半端に開けられており、化粧道具が椅子の上に乗せられた儘だった。
レネカは入るとすぐに、彼女の寝台に腰掛けた。そしてその隣を勧めてきたので、僕は彼女の隣に座った。以前にラッズに貰った林檎は、もう窓辺にはなかった。当然の事だが。
「真剣な悩みみたいね」彼女は僕の方を見て、言った。「昨日の事?」
言われて、僕は、それもあります、と答えた。
「昨日で終わりに出来たと思うんです。サスティも責任を感じてくれていたみたいで、安心してくれていたし…。ただ、ラッズを傷つけてしまった事は、謝らないといけないな…と」
「いいわよ、男の子の声で話してくれれば」
彼女は、僕が女声で話続けるのを不思議がっている様だった。確かに、彼女にしてみれば、僕が女声を使う理由が理解できない訳だ。
「違うんです」僕は女声の儘、彼女に話続けた。「本当は、昨日で終わりになって、今日でルザートに戻る予定だったんです。そう、戻ろうとはしたんです」僕は少し興奮して、彼女の眼を見詰めた。彼女は少し鼻白んだ様だったが、笑みを崩しはしなかった。「けれど…」僕は呟く様にして、俯いた。「怖いんです…。一週間くらいラセラの恰好でいて、ラセラの性格でいて、ラセラの声でいて、ラセラの人生を生きてきた自分が、いきなりルザートに戻れるのか…って。それで、気付いたんです。もう自分の中にルザートは残っていない。否、正確にはそうではないのかもしれません。ルザートの頃の記憶は鮮明すぎるくらいに残っている。けれど、駄目なんです。ルザートとしての感覚が完全に消えてしまっている。多分、それにはラッズの存在も影響しています。もう、戻れないんです」
レネカは僕の言葉を、理解し難い様な眼差しと共に吟味していた。それで僕の懇願するような表情を随分長い間、目を逸らさずに見詰めていたが、やがて、ふっ、と笑った。
「それじゃあ…」彼女は言った。「ラッズとの関係を、続けるの?」
僕は大きく頷いた。が、彼女は特に驚いた素振りは見せなかった。それで、僕は言葉を続ける事にした。
「昨日、ラッズに好い人になってくれ、と言われて、凄く嬉しかったんです。否、嬉しいと思ったのはラセラの感覚で、ルザートとしての記憶はそれを否定することを知っていました。それで、昨日は逃げてしまったんです。けれど、もうはっきりしました。レネカさんは変だと思うかもしれない、ふしだらに思うかもしれない。けれど、ラッズを好きなんです」彼女は、ほう、と息をついた。僕は構わずに続けた。「今朝、夢を見ました。変な夢でした。ラッズが、ラセラの恰好のあたしに向かって、羊の乳を掛けてくるんです。そしてその時に彼が、自分の好い人になってくれないか、と言ったんです。妙に快楽でした。夢の意味こそは解りませんが、何を示唆しているのかは解ります」僕は一旦言葉を切ると、も一度俯いた。自分の膝にあてた視点の周辺視野にレネカがこちらの横顔を覗き込んできているのが見えた。彼女は、本気で心配してくれている様だった。彼女に話して、よかったと思った。「それで」僕は更に続けた。「今朝起きたら、下着が濡れていました…」言って、暫く間を置いた。「今は、何も穿いていません…」
僕はそのまま、俯いたまま、黙り込んだ。目を閉じてレネカの反応を待ったので、彼女がどのような顔をしているのかは解らなかった。かなり長い沈黙があった。通りを誰かが通っていく足音だけが、窓の硝子越しに小さく聞こえてきた。
やがてレネカは小さく咳払いをした。
「…サスティの為にも、戻る努力をして…って」言われて、僕は顔をあげると、レネカの方を見た。彼女は相変わらずの薄笑みだった。「言っても、考えは変わらないわよね…?」
彼女の言葉には、僕を今更説得しようという雰囲気は感じられなかった。ただ、確認するだけの様だった。僕はそれで、静かに首肯した。
「出来れば、サスティやファルナに、あたしの考えを伝えておいて貰えると嬉しいです…」
僕が掠れ声で小さく言うと、彼女はゆっくりと数度頷いた。
「解ったわ…」彼女が言った。「貴女が何処までもそういう気持ちなら、それは仕方がない。それは貴女だけではなく、サスティやファルナや私の所為でもあるのだしね…。貴女は私達には何の気兼ねもせずに、あの子の事を追いかけてみればいい…でも…」彼女は一瞬、言葉を切った。「サスティは、貴女を止めようとするでしょうね」言われて、僕は少し眉を顰めたと思う。レネカはやはり薄笑みだ…。「だから、安心していい、という事。もし貴女が自分を制御出来なくなってしまっても、ルザートの記憶さえも邪魔だと思う様になっても、傍には貴女を助けてくれる、貴女を一番よく知っている人がいるんだから…」
言って、彼女は微笑むと、その手で僕の金紅色の髪を撫ぜてきた。暫くそうしていると、彼女は首の後ろに手を廻してきて、そして顔を近づけてきた。彼女は、母親が子供にそうするかの様に、その厚く柔らかい唇を以って、静かに接吻してきた。
理由の解らない接吻だった…。が、唇を離した途端、自分の中で何かが傾ぐのを感じた。暫く区切りのなかった自分という存在が、はっきりと分離して、目に見える様になってきた。自分に新しい意識が芽生えるのが解った。そして一瞬、目の前が真白になったかと思うと、昔見た風景が記憶の奥の方から呼びかけてくるのが聞こえた。そしてそれは直ぐに視覚となり、目の前に現れた。懐かしい風景だった。それは、幼少期を過ごした町の広場で偶々出会った石売りの露店商だった。紫の布の向こうで、歯の抜けた老人が無垢な笑顔を向けていた。商品は二種類しかなかった。綺麗な物と、汚い物。老人は、こちらが商品を指定する暇も与えずに、綺麗な物を差し出してきた。そしてそれを掌に握らせてきた。瞬間、全ての物がまた記憶の彼方へと消えていき、徐々に真白の視界は光を取り戻していった。
目の前には、レネカが居た。あたしには理解出来た。あたしは、これでいいのだと。この選択でいいのだと。この身体は、仮令偽物であったとしても、あたしに支配されるのが一番輝けるのだと。少なくとも、あたしの中では…。
あたしはレネカの瞳を除きこんだ。彼女はまた薄笑みを浮かべていたが、あたしの中の変化には気付いてくれている様だった。
「ありがとう…」
あたしは呟く様に、そう言った。そしてレネカの首筋に両腕を巻きつけると、今度は自分から接吻をした…。
レネカに手伝って貰って、着替えと化粧を終えると、あたしは早速、ラッズの所へ向かおうと思った。昨日あたしに拒絶されて、あの人は相当傷ついている筈だった。それで、サスティとファルナに出会うことに用心しながら、村を国道へと抜けた。
何だか、見える世界が違う様だった。空はより青く高く見えたし、草はより緑に見えた。足取りも軽く感じられた。一瞬でも早く、ラッズに会いたかった。一瞬でも早く、彼に謝りたかった。
彼の工房の前に立つと、少しだけ緊張してしまった。彼にどう謝れば良いかを決めていなかった。けれど、身体が勝手に動くかの様に、あたしは二階へと駆け上がっていった。そして、木製の扉を力強く開けた。
中には、幻想的な白の光に包まれて輪郭のはっきりしないラズが居た。彼は机に座って何かを書いている様だったが、あたしが勢いよく扉を開けたのに驚いてか、目を大きく見開いて此方を見ていた。そして、椅子を引くと、ゆっくりと立ち上がった。
あたしは段々と加速する様に走り出し、呆然と立つラッズに飛びついた。彼はやはり驚いている様だったが、それでもあたしの全体重を両手で支え、抱きしめてくれた。それであたしは彼と顔をあわせると、間髪を容れずに接吻をした。塗ってそれ程間のない口紅が彼の唇とあたしの唇をより密着させた。彼の接吻は、とても情熱的だった。あたしたちはそうして、暫く唇を離さなかった。
「…いきなり、どうしたの?」
彼はあたしを抱きかかえたまま瞳を覗き込んで来、言った。あたしは微笑んだ。
「謝りたかったの」あたしが言った。「昨日は、どういう反応をしていいか解らなかったし…気持ちの整理も着いていなかったから」
彼はあたしの言葉を聴くと、あたしの頭を彼の胸に引き寄せた。そして、金紅色の結わってない髪を、数回、優しく撫ぜてくれた。
「それで…」彼が、あたしの頭を胸から離すと、言った。「答えはどうなったのかな?」
言われて、あたしは微笑んだまま、視線を逸らせた。頬が染まっているのが自分でも解った。
「あたしもね…」あたしが言った。「あたしも、ラッズの事を好き」
すると彼はあたしを両手で持ち上げ、そのまま踵を軸にして一回転した。そしても一度彼は腰に両手を廻してくると、互いに見詰め合った。
「それじゃあ、約束通りだ」彼は言った。「今日から、像の製作に入ろう」
言われて、あたしは満面の笑みを作ったと思う。兎に角、嬉しかった。彼の見本に成れる事が、自分が女神として掘り起こされる事が、彼があたしを思ってくれているという事実が、嬉しかった。
彼は、早速あたしを大理石の向かいに立たせると、手をとったり腰を抱いたりして、姿勢を整え始めた。林檎は既に用意が出来ていて、あたしはそれを、出来るだけ前からもそれと解る様に、両手で持ち、胸に引き寄せた。
やがて彼はあたしの髪に例の花を挿すと、少し離れ、満足げに、よし、と呟いた。あたしは微笑んだ。
「今日は…」彼が言った。「少し大人びた感じだね…。何というか…艶っぽいというのかな」
言われてあたしは、ありがとう、と返した。
そうして、ラッズは鑿と鎚を取ると、大理石の前に机の椅子を持って来、腰掛けた。途端、彼の眼差しは険しくなった。彼は鑿を縦にすると、あたしの方に向けて来、鋭い視線で身体の比率なんかを測っている様だった。彼は、御世辞の心算か、君の身体は均整がどれてて美しいから、修正なしで女神像に仕上げるよ、と言った。あたしは少し頬が熱くなるのを感じたが、微動しても見本は失格だと思った。
彼は始めは石に鑿を当てず、木炭の切れ端の様なものを使って石に輪郭を描いた。彼の手は速かったが、それでも可也の時間が掛かった。随分丁寧に描き上げた様で、石の底以外の全ての面に描かれており、あたしからは一つの面しか見えなかったが、それだけでももう女神像が描かれているのだと解る程だった。否、遠くから見るとどうやら丁寧に描いた様に見えるらしかったが、実際は荒い線が引かれているだけの様だった。つまり、彼は的確にあたしの輪郭線を得ているという事。あたしはそれに、少し感激してしまった。
彼が描き上げた頃には、彼は大分疲れている様だった。あたしは彼の体調を少し気になった。
「休む?」
あたしが訊いた。すると、彼は無言のままかぶりを振った。
「一度調子が乗ってしまうと、なかなか中断出来ないんだ。君が疲れていなければ、続けたいんだけれど…」
あたしは勿論、頷いた。
そして、彼は鑿を大理石に当て、こっこっ、と削り始めた。
あたし達はそうして沈黙を保ったままで、部屋には彼の石を削る音だけが小さく幾重かに木霊している様に聞こえた…。
六月二十二日~三十日
あたしは一日の殆どをラッズの工房で過ごした。彼はあたしに何時でも休んで言いといってくれたが、彼が休む事を望んでいないのが解ったので、喜んで見本を続けた。彫っている時の彼は、本当に何かに取り憑かれてしまったようで、時々あたしが微笑んでやると、我に返ったように息をついた。そうして、女神像は予定よりもずっと早く輪郭を明確にしていった。あたしは何時も違う服を着ているにも拘らず、彼がまるで実物を見ているかのように女神のローブを大理石のあたしに着せていく様は、見事だった。そうして、三十一日頃には、すっかり女神の形になってしまった。でもラッズは、ここからが時間の掛かるところなんだ、と言った。そして、身体は取り敢えず形成出来たから、今度は顔だけをよく見せて欲しい、と言った。それで顔が彫り終わったら、どうやらあたしが見本をしなくても彼は続きを彫れるらしかった。けれど彼は、見本をしなくても出来るだけ来てくれると嬉しい、と言った。あたしは元々その心算だった。
彼は、あたしが工房に顔を出す時と別れる時、必ず接吻をして抱きしめてくれた。それ以上の発展はまだなかったが、あたしの身体の事を考えると、今のままの状況で居る事が一番幸せだった。そして、取り敢えずラッズに秘密が露見してしまう時の事は考えない様にした。あたしは自分に胸が無く、谷間を作れない事を非常に恨んだし、こればかりは、レネカやファルナに相談しても、どうにもならない事だった。
村に居るのは、夜に自分の部屋に帰る時か、朝レネカに服と化粧の世話をしてもらう時だけだった。つまり「樫の盾」には相変わらず毎日顔を出していた、という事だ。にも拘らず、この十日近く、一度もサスティの顔を見なかった。レネカに訊いてみようとも思ったけれど、彼女も答え難いだろうと思い、やめることにした。
レネカはあたしが毎日ラッズに会いに行く事には何も非難をしなかった。返って、応援してくれていた。彼女は度々、女神像が何時までも完成しなければいいね、とか、時には外に二人で遊びにいったら、とか、助言をしてくれたりした。彼女はどうやらあたしが来年には兵役で首府に出向かなくてはならないことに気付いていた様だったが、それを口に出す事はなかった。
ファルナは、時々「樫の盾」に来ていた。挨拶は普通にしたが、なんだか余所々々しかった。彼女には、あたしがレネカや彼女の前でも普通に女声で話す事の理由が理解出来ない様だった。否、理解は出来ていたのかもしれない。けれど、兎に角あたしに対して冷たく応対する様になったのは確かだった。彼女から話し掛けてくる事はなかったし、あたしから話す事もなかった。でも、彼女がサスティを気遣っている事は察しが着いた。やはりサスティは、あたしがラッズと好い仲である事に何かしらの、嫉妬のようなものを感じているらしかった。否、それは可笑しい。彼女が嫉妬をする理由はない。となると、彼女はあたしをラセラにしてしまった事に対する責任を重く感じているのだろう。でも、今更後悔しても遅い。今あたしがサスティと会ったならば、あたしは彼女に冷たく接するだろう。彼女はきっと、あたしとラッズの仲を裂こうとするに違いない。否、彼女の性格からすると、それはないと思うけれど…。彼女が責任を感じているのは確かだ…。
時々タリタの脚の事が心配になったけれど、どうやらまだ入院している様だった。町でも医院の前を通る事はなかったので、彼女の消息に就いては全く不明だった。ただ、彼女に町で遭遇してしまう事だけは避けなければならないと思った。彼女はあたしの秘密を知らないが、知らないからこそ、危険だった。
七月一日
この日は何故か、教会の鐘が六回しか鳴らない内に目が覚めた。その割には熟睡できた気分だったので、すぐに寝台から起き上がった。もう、女性の服にも完全に慣れてしまった。というか、こっちの方が自分に自然な感じだった。
あたしは洗面だけを済ませると、取り敢えず「樫の盾」に行く事にした。一応行ってみて、レネカが寝ている様だったら少し散歩をしようと思った。眠気は全くないので、部屋で愚図々々しているのはなんだか勿体無い様な気がしたのだ。
あたしは静かに部屋を出ると、吹き曝しの階段を静かに下り、村の小さな道を「樫の盾」へと向かった。何だか風が強く、空は曇っていて辺りは茶色がかった紫だった。夏としては有難い天候だと思ったが、あんまり気分のいいものではなかった。
あたしは髪を向かい風に絡ませたまま、ゆっくりと歩いて行った。
あれ…なにかな…?
あたしは不図、道の向こうから此方に向かって歩いてくる人影を見つけた。それ程距離はない…。女の人だ。こんな時間に何を…? 「樫の盾」から出てきたの? …サスティ…?
サスティだった。腕に籠を提げている。そういえば、ラッズから返してもらった籠をレネカに預けた儘だった…。取りに来たのだろうか?
あたしは少し緊張した。彼女はあたしとラッズの仲を非難するだろう。
どうやら、向こうもあたしに気付いている様だった。彼女はそれで一瞬立ち止まったが、すぐに大きく歩を踏み出した。
やがてあたしとサスティとの間は話し声の届くくらいの距離になった。あたしは彼女の方に視線をくれてやらなかったが、彼女があたしの方を懇願するような眼差しで凝視しているのが解った。
すれ違った…。
あたしは少し安堵した。何事も無いのが、一番よかった…。
後ろで、サスティの足音が消えるのが解った。
「…ルザート…!」
サスティがあたしの背中に声をかけてきた。瞬間、少し鳥肌が立った。
あたしは振り向かずに、歩調を早めた。彼女がラセラの存在を認めたがらないのが、気に食わなかった。
「ルザート!」
彼女はも一度言った。
あたしは振り返らなかった。
「…ラセラ…!」
仕方なく、あたしは脚を止めると、サスティの方に身体を向けた。彼女は少しあたしを追ってきていた様で、直ぐ後ろに居た。
興奮しているのか、頬が赤い。
「なに?」あたしが言った。「何か、用でも…?」
あたしは故意に突き放す様に言った。それで、彼女は一瞬怯んでしまった様だった。顔は窶れて蒼白だった。血色も、あまり良くない様だった。こんなに元気のないサスティは初めて見る…。けれど、そんな事を気遣う訳にはいかなかった。彼女が諦めるまでは、彼女を突き放さなくてはならない気がした。
彼女は慄いたにも拘らず、語気を強めて返してきた。
「…女神像は、順調なの…?」
「順調よ」あたしが言った。「彼は素晴らしい石工だもの」あたしは言葉を切り、彼女を少し眺めた。「なに? 興味があるの?」
サスティが唇を噛むのが解った。が、別段あたしは心が痛んだりはしなかった。
「…いえ」彼女は薄らと冷笑を浮かべた。「貴方達が上手くいっているのなら、それでいいの…。いいの…」
彼女はそれで、言葉に詰まった様だった。あたし達は暫く、互いに睨み合っていた。
やがてあたしは、さよなら、と言うと、踵を返してやった。
「あ…!」
サスティが小さく叫んだ。あたしは振り向いた。
「なに? まだ、何か?」
あたしの言葉に彼女はかぶりを振った。
「…ううん…。なんでもない。ごめんなさい…」
あたしは再び前を向くと、歩き出した。
「タリタの事…ねえ」サスティがあたしの背中に言った。「今月中には退院出来るって。暫くは杖の生活だけれど…。帰ったら、貴方にお礼を言いたいって!」
あたしは顔だけサスティの方に向け、そう、よかった、とだけ返し、道を急いだ。
ラッズはあんまり元気が無かった。あたしは今は彼と向かって椅子に腰掛け、表情を作っているだけだったが、彼が時々溜息をつくのが解った。疲れているのだろうか?
「ラッズ…」あたしが小さく言った。「疲れているんじゃない?」
「どうして?」
彼は手を止めずに、訊いて来た。あたしは少し間を空けた。
「だって…さっきから溜息ついてばかりだもん…」
彼は、ああ、と呟いた。そして、手をとめてあたしの方を見た。
「ちょっとね…言っておかなければならない事があるんだ」
彼は鑿を、石の近くまで移動させた机の上に置いた。
「言っておかなければ…?」
彼は頷いた。
「急で本当に済まないんだけれどね、石切に立ち会わなくてはならなくなってしまったんだ」
「石切…」
「組合の関係でね」彼はあたしの向かいに置いた椅子に腰掛けた。「出来るだけ参加しなければならないんだ。今後の為にも」
「仕事は、組合から貰うの?」
「そうだね」彼は首肯した。「親方の時からそうだったみたいだから、殆どが組合からの仕事になるだろうね」
「いつ頃行くの?」
彼はまた鑿を取り上げた。
「…三日だから…明後日かな」
明後日…。随分急ね…。
「帰ってくるのは?」
「首府まで出向くから…八日かな。そんなに長くないよ」
八日か…。なら、多分我慢出来る。
彼は、思ったよりも早く完成出来そうだし、三日間は休んでいてよ、と言ってくれた。
今回のテーマ曲はコチラ↓↓↓
「林檎の追憶、偽りの彫像」
ニコニコ動画:http://www.nicovideo.jp/watch/sm27728559
youtube:https://youtu.be/v1iNKunUULs
朝。サスティに起こされた。部屋に鍵をしていなかったらしい。あんまり熟睡した感じではなく、気分が重かった。彼女は僕に朝食用にパンを一切れと、羊の乳、そして、抱えるくらいの大きさの籠を渡してくれた。すぐにそれが弁当だと解った。
サスティはなんだか言葉数が少なかった。僕に悪気を感じている様でもあった。部屋を出て行く際、彼女は少しだけ立ち止まり、僕の方を見た。それから何やら言いかけた様だったが、溜息をつくと、また振り返り、部屋を出て行った。どうやら彼女にも、もうはしゃいでいられる状況ではなくなってきているのが感じられているらしかった。然し、僕は、僕に女装をさせたり、断ろうとした時に風邪と見せかけたりした彼女を責める気にはなれなかった。
僕は、もうこんな事は終わりにしなくてはならないと思った。ラッズの頼みを断るのが一番いいが…。もう遅いだろう。兎に角、早く女神像が出来るのを待つだけだ。
僕は弁当籠を腕にかけると、洗面だけを済ませ、「樫の盾」に向かった。着替えなくてはならなかったからだ。
太陽は未だ顔を出して間もないといった風だった。そんな時間にサスティは弁当を拵えて持ってきてくれたのか…。
「樫の盾」の扉は閉まっていたが、鍵は掛かっていなかった。泊り客が夜中にも出られる様に、そう計らってあるようだった。多分レネカも寝ているだろうとは思ったが、僕は扉を静かに開け、中に足音を立てない様に入った。
食堂は、何故か明るかった。ランプの赤い明かりの様だったが、夕方から点けたのなら、油が持つ筈がない…。
僕は訝りながら、食堂の中を進んだ。そして、階段に足をかけた。途端、後ろから声がした。レネカの様だった。僕は出来るだけ驚きの声を抑えてから、振り返った。
やはりレネカだった。
「おはよう、ルザート」彼女が言った。辺りが静かなだけ、彼女の声は部屋中によく通った。「それとも、ラセラかしらね」
彼女は微笑みながら言った。僕は、彼女が起きていた事に少し安堵しながら、おはようございます、と、男の声で答えた。
「早いですね」
彼女は首肯した。
「貴女があの男の子のところにいかなくてはならないからね。サスティにお弁当貰ったでしょう? ちゃんと彼女に後でお礼言っておきなさいよ」僕は自分の腕に掛けられた籠に目をやると、頷いた。「ほんと、厭になってしまうわ。貴女がそうやって腕に籠かけている姿って、サスティに似てる」
サスティに? ありえない。
僕はとりあえず、そうですかね、と流した。
「着替えさせて貰っていいですか?」
僕が彼女に言った。すると彼女も気がついた様に頷くと、僕の後ろから階段を昇り、レネカの部屋に入った。
「お化粧もしないとね」
言いながら、彼女は自分の洋服箪笥を漁ると、服を選び始めた。そうしながら彼女は、自分の服が貴女に合うなんて、悔しくなってしまうわ、と笑いながら言った。
やがて彼女は両手に服を持って、僕の方に見せてくれた。サスティやファルナが選んでくれるのよりも、大人っぽい色合いの物だった。そしてやはり、上衣とスカートとが繋がった物だった。
「もう独りで着られる? それとも、着せてあげようか?」
僕は無論自分で着られたが、今回はレネカに手伝ってもらおうと思った。どうしてそう思ったかは解らないが、レネカに女装させてもらうのは初めてだった。
僕は彼女に言われた通りに服を脱ぎ、彼女の服を着た。少し無駄毛が目立ってきた部分は、やはり彼女に剃り直して貰った。彼女は独身でまだ三十代前半だったが、なんだか母親の様だった。僕は、この人になら何を相談してもいいかな、と思いながら、とりあえずなにを相談すればいいのか解らず、また何か悩むべき事柄が発生した時に話してみようと思った。
着終わると、今度は化粧をしてくれた。サスティがしてくれるよりも随分薄い化粧だった。手つきも慣れたもので、サスティがしてくれるのよりも鏡の中には大人っぽいラセラが映った。今までと少し印象が違う…。
「ちょっと…」レネカが、仕上げに僕の胸部に当てるコルセットの様な下着を調整しながら、言った。「女の声で話してみてくれる?」僕は承諾した。「下着はきつくない?」
「大丈夫。きつくありません」
僕は女声で、レネカの問いに答えた。彼女はそれで、薄く笑った。
「本当に女の子みたいね…。とっても可愛い…」
「あんまりからかわないで下さい…」
僕の言葉に、彼女は微笑した。
「ファルナがね」僕の腰のリボンのような帯を縛り直しながら、彼女は言った。「貴女の事、羨ましがってた。自分よりも綺麗だって…」
僕は彼女を見詰めた。レネカは、ふっ、と笑った。そして、どうしたの、と訊いて来た。
「何かを相談しようと思っていたんだけれど…」僕が言った。「忘れてしまいました」
彼女は少し不思議そうな表情をして見せたが、すぐに、もういいわよ、というと、僕に籠を持たせてくれた。
「樫の盾」を出ると、もう空は明るかった。出しな、レネカは、何も気にせずに楽しんで来ればいい、と言ってくれた。それでもあんまり気分は晴れなかった。
まだ人通りのない道を歩きながら、僕は自分の両耳に貝の耳飾を着けた。上手く着けられているかは解らなかったが、もし上手くいってなかったとしてもラッズが指摘してくれるだろうし、逆に指摘して貰った方が嬉しいような気もしていたので、特に気にしない様にした。耳許で揺れる貝殻がなんだか擽ったかったが、耳をすますと、海の音が遠くに聞こえる様な気がした。
町には、意外と早く着いた。僕はまだ二回しか彼の工房には行った事がなかったが、もうすっかり道を覚えてしまっていた。
明るくなって来ても人通りは全くなく、静かだった。ただ、至る所の煙突から煙が立っているのを見ると、どうやら人々は起きては居るらしかった。
ラッズは横丁の入口で待っていてくれた。大通りを歩いていく僕を見つけると、すぐに駆け寄ってきて、おはよう、と挨拶をしてくれた。それで僕は挨拶を返した。
彼は僕が弁当を持ってきた事に先ず興味を寄せた様だった。それで彼は、君が作ってくれたのか、と訊いて来た。なんだか悔しい気分だったが、サスティに、自分が作ったと言え、と言われていたので、少し躊躇いながら、頷いてやった。彼はそれで微笑んだ。
僕等は早速、彼の言う湖へと向かった。僕等は二人とも並んで歩いたが、寡黙だった。特に話す話題がなかったのもそうだが、なんだかお互い緊張している様子だった。彼にしてみてもそうだろう。僕は彼の見本であって、好い人ではない。
やがて町並みを抜け、昨日と同じ家畜を見、そして道がなくなる所までやってきた。僕等はそこで一度立ち止まった。そして、顔を見合わせた。
「ここからは」彼が言った。「道はないけれど、歩いていかないといけない。草が君の足を少し擽るかもしれないけれど…」
僕は頷いてやった。
「大丈夫。そんなに気にならない」
彼はそれで満足そうに笑むと、大きく頷き、鬱蒼とはしていながら背の低い、乾いた草原へと足を踏み入れて行った。僕もそれに続いた。確かに草は僕の足を擽った。あんまりこういう状況が続くと、炎症を起こしてしまうかもしれないと思ったが、森はずっと向こうに見えていたので、諦める事にした。
歩を進める度に、小さな虫が足許で飛び回るのが見えた。
僕等は直射日光に、幾度も額の汗を拭った。僕はそうしながら、サスティに貸したままの、否、あげたようなものだが、麦藁帽子を思い出した。随分昔の様で、まだ一週間前の話なのだ。
歩きながら、彼は途切れ途切れに、彼の幼少時代の話なんかをしてくれた。彼は、彼の工房のある町の生まれで、僕の住んでいる村にも幾度かは足を運んだ事があるらしかった。サスティやタリタやファルナの事は全然知らない様だったが、村から兵役に行った者とは以前から顔見知りだったらしい。僕は、自分は来年兵役なのだ、という事を言いそうになってしまい、少し慌てた。でも、実際に来年は僕は行かなくてはならない。ラセラの恰好でラッズの見本をやっていても、行かなくてはならないのだ。どんなに長く居られても、ラッズがいる生活はあと一年…。僕とラッズの仲がどうなろうと、その頃には否が応でも決着がついている筈だ。そう思うと、少し安心した。
町からは遥か彼方に見えていた森に差し掛かった頃には、もう昼が近かった。相当の距離を歩いた。それで、結構疲れてしまった。僕等は森の入口で、少し休む事にした。
「足は大丈夫?」
ラッズが訊いて来た。この距離は、女の足には辛いと思ったのだろう。生憎、僕は男だ。それが彼の前では、なんとなく悔しかった。
僕は彼の言葉に頷いた。そして籠から冷えた大きな鉄のケトルを取り出すと、一緒に入っていた木製の軽い把手つきの洋杯二つに中身の羊の乳を注ぎ、彼に渡してやった。彼は礼を言いながら受け取ったが、鉄のケトルを見て、俺が持っていればよかったな、重かっただろうに、と言った。僕は、確かに重かったが、彼に対してはかぶりを振って否定した。でも彼は、ここからは俺が持つよ、と言ってくれた。僕は一瞬それをも否定しようかと思ったが、実際少し疲れていたので、彼に頼む事にした。
喉が潤うと、風が気持ちよく感じられる様になった。今日も僕は髪を結っていなかったので、背中の方から吹く風に髪が大きく踊り、僕の口の中に入ってきたり、唇に張り付いたりした。ラッズはそれを見て微笑むと、僕の髪を掴んでそれを取り払ってくれ、そして手櫛で軽く梳ってくれた。
僕等はそうして暫く休んでいたが、やがて森に入る事にした。お互い、お腹がすいたね、という様な事を訴える時間ではあったが、昼食は森の中の湖の傍でとることにしよう、と決めた。
森には決まった道がある訳ではなかったが、彼は上手く僕を誘導してくれている様だった。地面はなだらかで、時々鳥の鳴き声が木々の間を木霊するのが聞こえた。木漏れ陽が幻想的で、地面の柔らかい腐葉土に複雑な形の陰を落としており、その輪郭はぼやけていた。比較的乾燥した森で、広葉樹の太い幹に甲虫が張り付いているのが時々見られた。僕はなんだか少年の頃を思い出してしまった。が、今はラセラなので、少女の頃の記憶を創造しなくてはならないのだ。と考えると、なんだか妙な気分になった。ラセラに過去は存在しないなんて…。
小一時間ほど森を慫慂して、僕等はようやっと湖に着いた。否、それ程大きい訳ではないので、泉といった方が適切かもしれない。兎に角、着いた。
僕等は屈んで水面を見下ろせる位のところで立ち止まると、手ごろな石に腰掛けた。空気はひんやりとしていた。水は随分透明で、落ちた葉が沢山浮かんではいたが、随分底の方まで見ることが出来た。何やら魚も泳いでいる様だった。此処からは、ラッズの言っていた御堂は見られない。泉は僕等の前に広がってはいたが、森の木に隠れた部分も大きかった。
僕等は暫く黙ったまま、虫達の羽音を聞きながら泉を眺めていた。なにやら聖域とでも呼ぶべき雰囲気のある場所だった。
不意に、今の自分は水みたいな状態かな、と思ってしまった。でも、こんなに透き通ってはいないだろう…。
「お腹すかない?」
暫くして、ラッズが言った。それで僕は我に返った様に、お昼にしよっか、と答えると、ラッズから籠を受け取り、開けた。
中には、リンネルに包まれたパンが数切れと、苺を煮て作られたジャム、肉の燻製の薄切り、採れたばかりの野菜、それと羊の乳の入ったケトルが入っていた。まあ、料理と呼べる程の物はジャム位だが、サスティが作ってくれたのだから、有難く頂く。ただ、ラッズが、凡そ料理と呼べる物のない事に呆れないかと思ったが、彼は特に何を気にするでもなく、旨そうだ、と言いながら、パンを取り出した。
「塗ってあげる」彼を見て、僕が言った。「ジャムでいい? それとも、肉の薄きりに野菜を挟む?」
彼はそれで僕にパンを渡すと、肉で頼むよ、と言った。期待通りだった。
僕は、もう慣れたものだが、出来るだけ娘らしい仕草でパンを割り、肉と野菜を挟み、渡してやった。彼は喜んでそれを受け取ると、実に男らしい食べ方をしてみせた。彼一人で籠の中を平らげてみせる程の勢いだ。
僕も少年並に空腹だったが、今はラセラなので、それ程食べる訳にはいかないと思った。それでパンを割ると、片割れだけにジャムを塗って、食べた。
そうして、籠はすぐに空になった。
暫く石に腰掛けたまま、僕等は四方山話をした。最近何があったか、とか、そんな具合に。閑静な場所で会話をして気がついたが、彼の声はなかなか低く透き通っていると思った。
それから、腹熟しを兼ねて、泉の周りを慫慂する事になった。通れる部分が狭かったので、彼が前になり、僕がそれについて行く形となった。籠は彼が持ってくれるとは言ったが、空になって軽くなっていたし、泉の周りには危険な道はなかったので、畢竟僕が持って歩く事にした。その方が絵になるとも思った。
時々、泉の魚が水面を叩く音が聞こえた。葉擦れの囁きや虫の声が、何やら夏らしさを盛り上げていた。僕は、彼の言っていた御堂が見えて来るのを待った。
「ねえ」後ろから僕が彼の背中に話しかけた。「御堂は何処にあるの?」
僕の問いに彼は、すぐ其処だよ、と答えた。が、実際に着くまでには、それから暫く歩いた。
彼は御堂が見えるとそちらを指さした。そして、あれがそうだよ、と言った。僕はそれで彼の指す方を見たが、御堂は見当たらなかった。代わりに、彼が持ってきてくれた赤い花が、ちらほらと咲いていた。想像程の数ではなかったが、それでも赤色は良く目立った。僕は何だか嬉しくなってしまった。
随分と近づいて、僕は初めて彼の言う御堂を見つけた。僕は、堂というくらいだから、人が入れるくらいの礼拝堂を想像していた。が、実際は壁に彫られた小さな穴に石を組んで作られただけの物で、その空間に、古びて表情も解らない様な女神像が立っているだけだった。苔の姿は見られなかったが、像の足許は雑草で隠されていた。
僕等は並んで女神像に向かうと、数秒の間、目を閉じて胸に手を当て、祈りを捧げた。
良く見ると、女神像は林檎を持っており、それを胸に引き寄せる様な仕草をとっていた。僕はラッズの方を向いた。彼はすぐに気付いた様だった。
「林檎のことだろう?」僕は首肯した。「そうだよ。君が選んでくれたのと同じ姿だろう」言って、彼は御堂の傍に咲いている赤い花を茎から適当な長さで折った。「結構偶然かもね。赤い花といい、君の選んでくれた姿といい」
言って、彼は僕の髪に花を挿してくれた。今日は結わえてなかったが、それでも花は落ちずに固定された。僕は彼に、ありがとう、と言った。
彼はそれで微笑むと、何も言わずに僕の肩を通り過ぎ、歩いていった。僕は彼が何処に行くのか解らなかったが、頭の花が落ちない様に気をつけながら、彼の後に付いて行った。
彼は、殆ど歩かない内に立ち止まった。そして僕の目の前で、屈みこんだ。見ると、彼の前に小さな段差があり、その上の地面の筋から、小さな小さな滝の様になって、水が泉に注いでいた。
僕は、彼の横に並んで屈みこんだ。彼はそれを見てか、両手で水を掬ぶと、口に運んだ。彼は、甘い水だよ、と言った。それで僕も水を掬うと、飲んでみた。確かに甘い。普段飲んでいる井戸水や川の水からは想像出来ないが、甘い水だった。少し柑橘類の香りがあるような気もした。僕が、おいしい、と呟くと、彼は微笑し、また水を掬って飲んだ。僕も、同じように水の流れに手を入れようとした。途端、僕は身体の均衡を保てなくなり、泉の方に向かって倒れこんでしまった。落ちる、と思った。が、すんでのところでラッズが僕の腰の部分を両手で抱え上げてくれた。それで僕は泉に落ちずに助かったのだが…彼は、僕を抱えたまま、彼の方に僕の身体を引き寄せた。僕は彼の表情を見て、彼の考えている事が少し解った。それで、僕も鼓動が大きく早くなるのが自分で解った。それでも、無理して薄く笑むと、彼と顔を合わせた。そして彼に抱き寄せられるままにして、お互い顔を近づけた。
僕等は、宴の時から数えて二度目の接吻をした。随分と長くした。互いに、唇や舌を舐めあった。唇と唇が離れる時の、ちゅ、という音が、幾度も静寂に木霊した。
僕は、このまま押し倒されてもいい、という気分ではあったが、それでは自分が男である事が知られてしまうと思った。適当な所で離れなくてはならない。
が、先に唇を離したのは彼の方だった。僕は少し驚いた様にしたが、互いに何も言わず、暫く見詰め合っていた。視線を逸らしたりはしなかった…。
やがて、彼は口を開いた。が、緊張してか、それとも長い接吻の所為が、上手く声帯が震えなかった様で、一度咳払いをしてから、もう一度口を開いた。彼は言った。
「もしよかったら、俺の好い人になってくれないだろうか」
その言葉は僕の頭の中で数回反響した。そして、彼がとても甘く感じられた。さらに言うと、その言葉こそ、僕が彼に出会ってからずっと彼の口から聴きたかった言葉であった様な気もした。実に甘美な響きだった。好い人になってくれないだろうか…。好い人になってくれないだろうか…? それは無理だろう!
僕は不意に、我に返った。彼の雰囲気に自分が酔わされているのだ、と、無理に自分に言い聞かせた。僕は男だ。幾ら来年の兵役までに決着がつくからといって、これ以上発展させると、もう遊びや悪戯の域を超えてしまう。駄目だ。彼の好い人になれる訳がない。僕は彼の見本にはなれるが、彼の好い人にはなれない。
だが、僕はこの状況をどう切り抜ければいいんだ? それは駄目、と言うのか? 出来れば、彼を傷つけたくない。それに、女神像は完成して欲しい…。
僕は大きく目を見開くと、彼の腕を振り解いた。彼は驚いた様だったが、これが娘の拒絶としては一般的な反応だと思ったからだ。そして、少し後じさりをすると、籠を残したまま、振り向き、駆け出した。数歩で髪の花が地面に落ちたのが解ったが、気にする訳にはいかなかった。振り返らなかったが、彼は僕を呼びとめはしなかった。そして僕はそのまま走り続け、森を抜けて草原に出た。彼は、追ってこなかった。
肩で息をしながら僕は、こうするしかなかったんだ、と思いながら、非常に気分が悪かった。彼を傷つけまいとして、逆に大きく傷つけてしまったのではないだろうか…。
「樫の盾」に帰ってから、僕はサスティにこの事を報告した。彼女はそれで少し安心したようにしてくれた。僕が弁当の事で礼を言ってから、籠を忘れてきてしまったと告げたが、サスティは、気にしないで、と言ってくれた。けれど、僕はずっと気分が悪かった。
夜。僕はやはりラセラのままで床に入った。
そして、こんな夢を見た。
僕は、丁字路の交差地点に立っていた。否、丁字には違いないが、分岐道は両方とも、斜め前の方向に向いていた。そう…まるで、教会の鐘に柄を付けて、逆様にしたような…。道の周りは、だだっ広い土の地面で、四方が地平線だった。道だけが石畳で、それも地平線の彼方まで続いていた。ただ一つ、丁字の分岐道の間の少しの部分、つまり、柄のついた鐘の内側の一部分にだけ、人工的に植えられたように、鬱蒼と草が茂っていた。奇妙な光景だった。
僕は暫くそこで呆然としていた。すると、分岐道でない方、柄の付いた鐘の柄の方の道から、誰かがやってくるのが解った。それは、ラッズだった。右手に昨日サスティのくれた籠の中に入っていたケトルを下げている。彼は、微笑みながら僕の方に寄って来た。気付くと、僕はラセラの恰好だった。
彼は僕と同じ交差点で立ち止まると、お腹がすかないか、と言った。そして小さな草むらに入ると、手に持ったケトルを傾け、その雑草に向けて、中身の羊の乳を、掛け始めた。ケトルは小さかったが、それからは想像も出来ない様な量の乳が流れだし、やがて雑草は一本残らず乳にまみれた。僕は訝ってそれを見ていたが、何故だかいい気分だった。ラッズはやがて僕の方を見、寄って来ると、言った。
「俺の好い人になってくれないだろうか?」
そして彼はケトルを持ち上げると、僕に向かってその中身をぶちまけた。それで僕は、髪から乳を被り、全身が濡れてしまった。が、全然否な気はせず、口に入った分は全て飲んだ。羊の乳の筈が、何故だか粘液質だった。が、飲んだ。
何時の間にか髪に赤い花を挿していたようで、それが僕の足許に出来た白い乳の泉の膜の上に落ちた。色が対象的で、なんだか綺麗だった。が、やがて赤い花は乳に溶け始め、そして血の様に混ざり合った…。
六月二十一日
目が覚めると、丁度教会の鐘が八回鳴るところだった。自分としては、仕事をしない日としては随分と早い起床だった。そういえば、長いこと仕事をしていない気がする。
昨日見た夢の所為で、いい気分ではなかった。が、ラセラである自分の中で、何やら蠢く物が感ぜられた。僕は不図、夢を反芻している自分に気がついた。訳の解らない夢ではあったが、妙に快楽に満たされた様な気がした。
僕は、自分が何を感じているのか良く解っていた。然し、それを必死になって否定しなければならなかった。
どうやら、もうルザートとしての自分は殆どラセラに食い尽くされてしまった様ではあったが、その記憶が、否定する事を未だに善しとしているようだった。そして、そうしなければならない理由もある様な気がした…否、もしかすると、理由になる程の障害はないのかもしれない。
兎に角、こんな遊びは止めにしなくてはならないのだ…。
思って、僕は寝台から立ち上がった。途端、自分の陰部に冷たい物を感じた。はっとして見ると、下着が濡れていた。
僕は、レネカに相談しなければならない、と思った。
そして、髪の毛を軽く手で梳ると、下着を脱ぎ捨て、何も履かないまま、スカートだけで、「樫の盾」に向かった。
サスティもファルナも、今日はまだ来ていない様だった。それは都合がよかった。食堂にはつい今まで客があった形跡があるが、レネカはそれを片付けようともせずに、相変わらず暇そうに調理場でスープを掻き回していた。僕は少し興奮と緊張の入り混じった心地で、レネカを呼んだ。女声で呼んだ。すると彼女は手を杓子から離し、食堂へと出てきた。調理場の方が食堂よりも明るかったので、逆光線になり彼女の表情は見とれなかった。が、彼女が訝っているのは仕草で解った。
「早いわね」レネカが手を樽に貯められた水で洗うと、自分の前掛けで拭きながら、言った。「どうしたの?」
言われて、僕は少し言葉に詰まった。けれど、すぐに返した。女声で。
「相談があるんですけれど…」
「相談…?」レネカはそういうと、勘定台の横を廻り、食堂に出てきた。そして僕と調理場を真横にして、向かい合った。それで彼女の表情が読み取れる様になった。彼女は微笑を崩してはいなかった。「なあに?」
僕は食堂の入口の方に視線を飛ばした。木製の扉は閉じられていたが、サスティが急に入っては来ないだろうか? それに、窓から見えてしまうかもしれない。
「レネカさんの部屋で話したいんですけれど」
「いいわよ」彼女はすぐに承諾してくれた。「けれど、お客に呼ばれたら、中断だけれどね」
それで、レネカが先頭になって、僕等はレネカの部屋に入った。相変わらず整頓された部屋だったが、使ったばかりなのか、鏡台の抽斗が中途半端に開けられており、化粧道具が椅子の上に乗せられた儘だった。
レネカは入るとすぐに、彼女の寝台に腰掛けた。そしてその隣を勧めてきたので、僕は彼女の隣に座った。以前にラッズに貰った林檎は、もう窓辺にはなかった。当然の事だが。
「真剣な悩みみたいね」彼女は僕の方を見て、言った。「昨日の事?」
言われて、僕は、それもあります、と答えた。
「昨日で終わりに出来たと思うんです。サスティも責任を感じてくれていたみたいで、安心してくれていたし…。ただ、ラッズを傷つけてしまった事は、謝らないといけないな…と」
「いいわよ、男の子の声で話してくれれば」
彼女は、僕が女声で話続けるのを不思議がっている様だった。確かに、彼女にしてみれば、僕が女声を使う理由が理解できない訳だ。
「違うんです」僕は女声の儘、彼女に話続けた。「本当は、昨日で終わりになって、今日でルザートに戻る予定だったんです。そう、戻ろうとはしたんです」僕は少し興奮して、彼女の眼を見詰めた。彼女は少し鼻白んだ様だったが、笑みを崩しはしなかった。「けれど…」僕は呟く様にして、俯いた。「怖いんです…。一週間くらいラセラの恰好でいて、ラセラの性格でいて、ラセラの声でいて、ラセラの人生を生きてきた自分が、いきなりルザートに戻れるのか…って。それで、気付いたんです。もう自分の中にルザートは残っていない。否、正確にはそうではないのかもしれません。ルザートの頃の記憶は鮮明すぎるくらいに残っている。けれど、駄目なんです。ルザートとしての感覚が完全に消えてしまっている。多分、それにはラッズの存在も影響しています。もう、戻れないんです」
レネカは僕の言葉を、理解し難い様な眼差しと共に吟味していた。それで僕の懇願するような表情を随分長い間、目を逸らさずに見詰めていたが、やがて、ふっ、と笑った。
「それじゃあ…」彼女は言った。「ラッズとの関係を、続けるの?」
僕は大きく頷いた。が、彼女は特に驚いた素振りは見せなかった。それで、僕は言葉を続ける事にした。
「昨日、ラッズに好い人になってくれ、と言われて、凄く嬉しかったんです。否、嬉しいと思ったのはラセラの感覚で、ルザートとしての記憶はそれを否定することを知っていました。それで、昨日は逃げてしまったんです。けれど、もうはっきりしました。レネカさんは変だと思うかもしれない、ふしだらに思うかもしれない。けれど、ラッズを好きなんです」彼女は、ほう、と息をついた。僕は構わずに続けた。「今朝、夢を見ました。変な夢でした。ラッズが、ラセラの恰好のあたしに向かって、羊の乳を掛けてくるんです。そしてその時に彼が、自分の好い人になってくれないか、と言ったんです。妙に快楽でした。夢の意味こそは解りませんが、何を示唆しているのかは解ります」僕は一旦言葉を切ると、も一度俯いた。自分の膝にあてた視点の周辺視野にレネカがこちらの横顔を覗き込んできているのが見えた。彼女は、本気で心配してくれている様だった。彼女に話して、よかったと思った。「それで」僕は更に続けた。「今朝起きたら、下着が濡れていました…」言って、暫く間を置いた。「今は、何も穿いていません…」
僕はそのまま、俯いたまま、黙り込んだ。目を閉じてレネカの反応を待ったので、彼女がどのような顔をしているのかは解らなかった。かなり長い沈黙があった。通りを誰かが通っていく足音だけが、窓の硝子越しに小さく聞こえてきた。
やがてレネカは小さく咳払いをした。
「…サスティの為にも、戻る努力をして…って」言われて、僕は顔をあげると、レネカの方を見た。彼女は相変わらずの薄笑みだった。「言っても、考えは変わらないわよね…?」
彼女の言葉には、僕を今更説得しようという雰囲気は感じられなかった。ただ、確認するだけの様だった。僕はそれで、静かに首肯した。
「出来れば、サスティやファルナに、あたしの考えを伝えておいて貰えると嬉しいです…」
僕が掠れ声で小さく言うと、彼女はゆっくりと数度頷いた。
「解ったわ…」彼女が言った。「貴女が何処までもそういう気持ちなら、それは仕方がない。それは貴女だけではなく、サスティやファルナや私の所為でもあるのだしね…。貴女は私達には何の気兼ねもせずに、あの子の事を追いかけてみればいい…でも…」彼女は一瞬、言葉を切った。「サスティは、貴女を止めようとするでしょうね」言われて、僕は少し眉を顰めたと思う。レネカはやはり薄笑みだ…。「だから、安心していい、という事。もし貴女が自分を制御出来なくなってしまっても、ルザートの記憶さえも邪魔だと思う様になっても、傍には貴女を助けてくれる、貴女を一番よく知っている人がいるんだから…」
言って、彼女は微笑むと、その手で僕の金紅色の髪を撫ぜてきた。暫くそうしていると、彼女は首の後ろに手を廻してきて、そして顔を近づけてきた。彼女は、母親が子供にそうするかの様に、その厚く柔らかい唇を以って、静かに接吻してきた。
理由の解らない接吻だった…。が、唇を離した途端、自分の中で何かが傾ぐのを感じた。暫く区切りのなかった自分という存在が、はっきりと分離して、目に見える様になってきた。自分に新しい意識が芽生えるのが解った。そして一瞬、目の前が真白になったかと思うと、昔見た風景が記憶の奥の方から呼びかけてくるのが聞こえた。そしてそれは直ぐに視覚となり、目の前に現れた。懐かしい風景だった。それは、幼少期を過ごした町の広場で偶々出会った石売りの露店商だった。紫の布の向こうで、歯の抜けた老人が無垢な笑顔を向けていた。商品は二種類しかなかった。綺麗な物と、汚い物。老人は、こちらが商品を指定する暇も与えずに、綺麗な物を差し出してきた。そしてそれを掌に握らせてきた。瞬間、全ての物がまた記憶の彼方へと消えていき、徐々に真白の視界は光を取り戻していった。
目の前には、レネカが居た。あたしには理解出来た。あたしは、これでいいのだと。この選択でいいのだと。この身体は、仮令偽物であったとしても、あたしに支配されるのが一番輝けるのだと。少なくとも、あたしの中では…。
あたしはレネカの瞳を除きこんだ。彼女はまた薄笑みを浮かべていたが、あたしの中の変化には気付いてくれている様だった。
「ありがとう…」
あたしは呟く様に、そう言った。そしてレネカの首筋に両腕を巻きつけると、今度は自分から接吻をした…。
レネカに手伝って貰って、着替えと化粧を終えると、あたしは早速、ラッズの所へ向かおうと思った。昨日あたしに拒絶されて、あの人は相当傷ついている筈だった。それで、サスティとファルナに出会うことに用心しながら、村を国道へと抜けた。
何だか、見える世界が違う様だった。空はより青く高く見えたし、草はより緑に見えた。足取りも軽く感じられた。一瞬でも早く、ラッズに会いたかった。一瞬でも早く、彼に謝りたかった。
彼の工房の前に立つと、少しだけ緊張してしまった。彼にどう謝れば良いかを決めていなかった。けれど、身体が勝手に動くかの様に、あたしは二階へと駆け上がっていった。そして、木製の扉を力強く開けた。
中には、幻想的な白の光に包まれて輪郭のはっきりしないラズが居た。彼は机に座って何かを書いている様だったが、あたしが勢いよく扉を開けたのに驚いてか、目を大きく見開いて此方を見ていた。そして、椅子を引くと、ゆっくりと立ち上がった。
あたしは段々と加速する様に走り出し、呆然と立つラッズに飛びついた。彼はやはり驚いている様だったが、それでもあたしの全体重を両手で支え、抱きしめてくれた。それであたしは彼と顔をあわせると、間髪を容れずに接吻をした。塗ってそれ程間のない口紅が彼の唇とあたしの唇をより密着させた。彼の接吻は、とても情熱的だった。あたしたちはそうして、暫く唇を離さなかった。
「…いきなり、どうしたの?」
彼はあたしを抱きかかえたまま瞳を覗き込んで来、言った。あたしは微笑んだ。
「謝りたかったの」あたしが言った。「昨日は、どういう反応をしていいか解らなかったし…気持ちの整理も着いていなかったから」
彼はあたしの言葉を聴くと、あたしの頭を彼の胸に引き寄せた。そして、金紅色の結わってない髪を、数回、優しく撫ぜてくれた。
「それで…」彼が、あたしの頭を胸から離すと、言った。「答えはどうなったのかな?」
言われて、あたしは微笑んだまま、視線を逸らせた。頬が染まっているのが自分でも解った。
「あたしもね…」あたしが言った。「あたしも、ラッズの事を好き」
すると彼はあたしを両手で持ち上げ、そのまま踵を軸にして一回転した。そしても一度彼は腰に両手を廻してくると、互いに見詰め合った。
「それじゃあ、約束通りだ」彼は言った。「今日から、像の製作に入ろう」
言われて、あたしは満面の笑みを作ったと思う。兎に角、嬉しかった。彼の見本に成れる事が、自分が女神として掘り起こされる事が、彼があたしを思ってくれているという事実が、嬉しかった。
彼は、早速あたしを大理石の向かいに立たせると、手をとったり腰を抱いたりして、姿勢を整え始めた。林檎は既に用意が出来ていて、あたしはそれを、出来るだけ前からもそれと解る様に、両手で持ち、胸に引き寄せた。
やがて彼はあたしの髪に例の花を挿すと、少し離れ、満足げに、よし、と呟いた。あたしは微笑んだ。
「今日は…」彼が言った。「少し大人びた感じだね…。何というか…艶っぽいというのかな」
言われてあたしは、ありがとう、と返した。
そうして、ラッズは鑿と鎚を取ると、大理石の前に机の椅子を持って来、腰掛けた。途端、彼の眼差しは険しくなった。彼は鑿を縦にすると、あたしの方に向けて来、鋭い視線で身体の比率なんかを測っている様だった。彼は、御世辞の心算か、君の身体は均整がどれてて美しいから、修正なしで女神像に仕上げるよ、と言った。あたしは少し頬が熱くなるのを感じたが、微動しても見本は失格だと思った。
彼は始めは石に鑿を当てず、木炭の切れ端の様なものを使って石に輪郭を描いた。彼の手は速かったが、それでも可也の時間が掛かった。随分丁寧に描き上げた様で、石の底以外の全ての面に描かれており、あたしからは一つの面しか見えなかったが、それだけでももう女神像が描かれているのだと解る程だった。否、遠くから見るとどうやら丁寧に描いた様に見えるらしかったが、実際は荒い線が引かれているだけの様だった。つまり、彼は的確にあたしの輪郭線を得ているという事。あたしはそれに、少し感激してしまった。
彼が描き上げた頃には、彼は大分疲れている様だった。あたしは彼の体調を少し気になった。
「休む?」
あたしが訊いた。すると、彼は無言のままかぶりを振った。
「一度調子が乗ってしまうと、なかなか中断出来ないんだ。君が疲れていなければ、続けたいんだけれど…」
あたしは勿論、頷いた。
そして、彼は鑿を大理石に当て、こっこっ、と削り始めた。
あたし達はそうして沈黙を保ったままで、部屋には彼の石を削る音だけが小さく幾重かに木霊している様に聞こえた…。
六月二十二日~三十日
あたしは一日の殆どをラッズの工房で過ごした。彼はあたしに何時でも休んで言いといってくれたが、彼が休む事を望んでいないのが解ったので、喜んで見本を続けた。彫っている時の彼は、本当に何かに取り憑かれてしまったようで、時々あたしが微笑んでやると、我に返ったように息をついた。そうして、女神像は予定よりもずっと早く輪郭を明確にしていった。あたしは何時も違う服を着ているにも拘らず、彼がまるで実物を見ているかのように女神のローブを大理石のあたしに着せていく様は、見事だった。そうして、三十一日頃には、すっかり女神の形になってしまった。でもラッズは、ここからが時間の掛かるところなんだ、と言った。そして、身体は取り敢えず形成出来たから、今度は顔だけをよく見せて欲しい、と言った。それで顔が彫り終わったら、どうやらあたしが見本をしなくても彼は続きを彫れるらしかった。けれど彼は、見本をしなくても出来るだけ来てくれると嬉しい、と言った。あたしは元々その心算だった。
彼は、あたしが工房に顔を出す時と別れる時、必ず接吻をして抱きしめてくれた。それ以上の発展はまだなかったが、あたしの身体の事を考えると、今のままの状況で居る事が一番幸せだった。そして、取り敢えずラッズに秘密が露見してしまう時の事は考えない様にした。あたしは自分に胸が無く、谷間を作れない事を非常に恨んだし、こればかりは、レネカやファルナに相談しても、どうにもならない事だった。
村に居るのは、夜に自分の部屋に帰る時か、朝レネカに服と化粧の世話をしてもらう時だけだった。つまり「樫の盾」には相変わらず毎日顔を出していた、という事だ。にも拘らず、この十日近く、一度もサスティの顔を見なかった。レネカに訊いてみようとも思ったけれど、彼女も答え難いだろうと思い、やめることにした。
レネカはあたしが毎日ラッズに会いに行く事には何も非難をしなかった。返って、応援してくれていた。彼女は度々、女神像が何時までも完成しなければいいね、とか、時には外に二人で遊びにいったら、とか、助言をしてくれたりした。彼女はどうやらあたしが来年には兵役で首府に出向かなくてはならないことに気付いていた様だったが、それを口に出す事はなかった。
ファルナは、時々「樫の盾」に来ていた。挨拶は普通にしたが、なんだか余所々々しかった。彼女には、あたしがレネカや彼女の前でも普通に女声で話す事の理由が理解出来ない様だった。否、理解は出来ていたのかもしれない。けれど、兎に角あたしに対して冷たく応対する様になったのは確かだった。彼女から話し掛けてくる事はなかったし、あたしから話す事もなかった。でも、彼女がサスティを気遣っている事は察しが着いた。やはりサスティは、あたしがラッズと好い仲である事に何かしらの、嫉妬のようなものを感じているらしかった。否、それは可笑しい。彼女が嫉妬をする理由はない。となると、彼女はあたしをラセラにしてしまった事に対する責任を重く感じているのだろう。でも、今更後悔しても遅い。今あたしがサスティと会ったならば、あたしは彼女に冷たく接するだろう。彼女はきっと、あたしとラッズの仲を裂こうとするに違いない。否、彼女の性格からすると、それはないと思うけれど…。彼女が責任を感じているのは確かだ…。
時々タリタの脚の事が心配になったけれど、どうやらまだ入院している様だった。町でも医院の前を通る事はなかったので、彼女の消息に就いては全く不明だった。ただ、彼女に町で遭遇してしまう事だけは避けなければならないと思った。彼女はあたしの秘密を知らないが、知らないからこそ、危険だった。
七月一日
この日は何故か、教会の鐘が六回しか鳴らない内に目が覚めた。その割には熟睡できた気分だったので、すぐに寝台から起き上がった。もう、女性の服にも完全に慣れてしまった。というか、こっちの方が自分に自然な感じだった。
あたしは洗面だけを済ませると、取り敢えず「樫の盾」に行く事にした。一応行ってみて、レネカが寝ている様だったら少し散歩をしようと思った。眠気は全くないので、部屋で愚図々々しているのはなんだか勿体無い様な気がしたのだ。
あたしは静かに部屋を出ると、吹き曝しの階段を静かに下り、村の小さな道を「樫の盾」へと向かった。何だか風が強く、空は曇っていて辺りは茶色がかった紫だった。夏としては有難い天候だと思ったが、あんまり気分のいいものではなかった。
あたしは髪を向かい風に絡ませたまま、ゆっくりと歩いて行った。
あれ…なにかな…?
あたしは不図、道の向こうから此方に向かって歩いてくる人影を見つけた。それ程距離はない…。女の人だ。こんな時間に何を…? 「樫の盾」から出てきたの? …サスティ…?
サスティだった。腕に籠を提げている。そういえば、ラッズから返してもらった籠をレネカに預けた儘だった…。取りに来たのだろうか?
あたしは少し緊張した。彼女はあたしとラッズの仲を非難するだろう。
どうやら、向こうもあたしに気付いている様だった。彼女はそれで一瞬立ち止まったが、すぐに大きく歩を踏み出した。
やがてあたしとサスティとの間は話し声の届くくらいの距離になった。あたしは彼女の方に視線をくれてやらなかったが、彼女があたしの方を懇願するような眼差しで凝視しているのが解った。
すれ違った…。
あたしは少し安堵した。何事も無いのが、一番よかった…。
後ろで、サスティの足音が消えるのが解った。
「…ルザート…!」
サスティがあたしの背中に声をかけてきた。瞬間、少し鳥肌が立った。
あたしは振り向かずに、歩調を早めた。彼女がラセラの存在を認めたがらないのが、気に食わなかった。
「ルザート!」
彼女はも一度言った。
あたしは振り返らなかった。
「…ラセラ…!」
仕方なく、あたしは脚を止めると、サスティの方に身体を向けた。彼女は少しあたしを追ってきていた様で、直ぐ後ろに居た。
興奮しているのか、頬が赤い。
「なに?」あたしが言った。「何か、用でも…?」
あたしは故意に突き放す様に言った。それで、彼女は一瞬怯んでしまった様だった。顔は窶れて蒼白だった。血色も、あまり良くない様だった。こんなに元気のないサスティは初めて見る…。けれど、そんな事を気遣う訳にはいかなかった。彼女が諦めるまでは、彼女を突き放さなくてはならない気がした。
彼女は慄いたにも拘らず、語気を強めて返してきた。
「…女神像は、順調なの…?」
「順調よ」あたしが言った。「彼は素晴らしい石工だもの」あたしは言葉を切り、彼女を少し眺めた。「なに? 興味があるの?」
サスティが唇を噛むのが解った。が、別段あたしは心が痛んだりはしなかった。
「…いえ」彼女は薄らと冷笑を浮かべた。「貴方達が上手くいっているのなら、それでいいの…。いいの…」
彼女はそれで、言葉に詰まった様だった。あたし達は暫く、互いに睨み合っていた。
やがてあたしは、さよなら、と言うと、踵を返してやった。
「あ…!」
サスティが小さく叫んだ。あたしは振り向いた。
「なに? まだ、何か?」
あたしの言葉に彼女はかぶりを振った。
「…ううん…。なんでもない。ごめんなさい…」
あたしは再び前を向くと、歩き出した。
「タリタの事…ねえ」サスティがあたしの背中に言った。「今月中には退院出来るって。暫くは杖の生活だけれど…。帰ったら、貴方にお礼を言いたいって!」
あたしは顔だけサスティの方に向け、そう、よかった、とだけ返し、道を急いだ。
ラッズはあんまり元気が無かった。あたしは今は彼と向かって椅子に腰掛け、表情を作っているだけだったが、彼が時々溜息をつくのが解った。疲れているのだろうか?
「ラッズ…」あたしが小さく言った。「疲れているんじゃない?」
「どうして?」
彼は手を止めずに、訊いて来た。あたしは少し間を空けた。
「だって…さっきから溜息ついてばかりだもん…」
彼は、ああ、と呟いた。そして、手をとめてあたしの方を見た。
「ちょっとね…言っておかなければならない事があるんだ」
彼は鑿を、石の近くまで移動させた机の上に置いた。
「言っておかなければ…?」
彼は頷いた。
「急で本当に済まないんだけれどね、石切に立ち会わなくてはならなくなってしまったんだ」
「石切…」
「組合の関係でね」彼はあたしの向かいに置いた椅子に腰掛けた。「出来るだけ参加しなければならないんだ。今後の為にも」
「仕事は、組合から貰うの?」
「そうだね」彼は首肯した。「親方の時からそうだったみたいだから、殆どが組合からの仕事になるだろうね」
「いつ頃行くの?」
彼はまた鑿を取り上げた。
「…三日だから…明後日かな」
明後日…。随分急ね…。
「帰ってくるのは?」
「首府まで出向くから…八日かな。そんなに長くないよ」
八日か…。なら、多分我慢出来る。
彼は、思ったよりも早く完成出来そうだし、三日間は休んでいてよ、と言ってくれた。
今回のテーマ曲はコチラ↓↓↓
「林檎の追憶、偽りの彫像」
ニコニコ動画:http://www.nicovideo.jp/watch/sm27728559
youtube:https://youtu.be/v1iNKunUULs
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