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第2話:「暗闇を食す」 某喫茶店のレジ前の羊羹
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3Dプリントの注文はネット経由が殆どで、直接依頼人と会って注文仕様について話し合う事は、まずない。そもそも、3Dプリントを委託してくるような種類の人間が、私の住む近所に充分な母数を以て存在している事などある筈がなく、それ故のネット注文なのだ。然しながら、稀に、こうして直接顔を合わせて話をする機会があったりする。
「それじゃあ、正式な見積もりは改めてメールさせて頂きますね」
私は、向かいの席に座るクライアントの女性に対して言った。ここは、切り株の様なデニッシュにソフトクリームをあしらったスイーツで有名な、喫茶店チェーンの店内。
「ありがとうございます」女性は笑顔を湛えて返答してきた。年齢は20代前半…社会人何年生、といったところだろうか。普通に生きていれば、私とは交わらない界隈の人種である事は間違いない。「きっと、いい作品を作りますね」
初めて彼女からメールを受け取った時、その文面や内容から私が想定したのは、40代のオジサンだった。というのも、私のような個人で3Dプリントをやっている人間に舞い込む依頼物といえば、大抵がキャラクタ物のフィギュアだったり、一点物の部品(例えばノートPCのLANケーブルカバー)である事が多く、そのほぼ全ての依頼主が30代から40代の男性だったからだ。今回の依頼は特に、単純形状の部品を数十点、という内容だった。だから、何らかのテクニカルな製造物に使用するのだろう、と考えていた。それがまさか、手作りアクセサリの部品だったとは…。
今回はCADデータも起こさなければならないから少し面倒だが、他人の創作物に少しだけ首を突っ込むのは、なんだか面白く、具合の悪い事じゃない。特に、自ら積極的に興味を持つような分野でなければ、尚更だ。
「じゃあ、私はこのままここで頂いた情報を整理してしまいますので」私は女性に向かって言った。彼女は数回首肯すると、コーヒーフロート代よりも多めの金額をテーブルに残そうとしたため、私は手で制した。「あなたはお客様ですから、ここは私に支払わせてください」
女性は一瞬、申し訳なさそうな表情を見せつつ、お礼を言うと、何度も会釈をしながら扉を開けて外に出て行った。
さて、それでは私は、切り株デニッシュのソフトクリームでも所望しますか…。
帰りしな、店員のレジ打ちを待っている間、私はそのレジ前に整列された、見慣れぬ物を見つけた。それは、お菓子だった。そういえば、子供の頃によく連れて行ってもらったレストランには、レジ前にお菓子や玩具が並んだ棚が設置されており、今は亡き祖母が、そういった類の物を買ってくれた。今となってはあまりにも懐かしい思い出だ…しかし、ここは喫茶店。常連ではないが、そこそこの回数来ているにも関わらず、今まで、このレジ前のお菓子に気づかなかったとは…。並んでいるのは、コーヒーキャンディと、羊羹。羊羹…だと? コーヒー羊羹? それとも、コーヒーと一緒にお茶請けとして食べる普通の羊羹だろうか。所謂ひとくちタイプの、長方形の棒状の、アレだ。パッケージには喫茶店のマークがあしらわれている。こんなものがレジで販売されていたなんて。
「すみません」私は思わずレジの店員に声をかけた。店員は不意に作業を中断すると、はい、と言いながら私の方を見遣った。私は羊羹を1つ取り上げると、勘定台に置いた。「これもお願いします」
ボロアパートに戻った頃には、既に陽はかなり傾いていた。私がメロスなら、もうセリヌンティウスの命を泣く泣く諦める段階だろう。
普段なら、このまま、この暗さを利用して3Dプリンタを稼働させるのだが、今回は3Dデータを起こさなければならない。昔であれば、CADデータの制作にはそれなりにマシンスペックの強いデスクトップPCが必須だったが、昨今はノートPCでも実用的な速度で作業ができる。私がアパートに設置しているのは、そこそこのスペックのノートPCだ。これを使ってプリントするための3Dデータを作っていく。
一時間とちょっとが経過し、一応の形が見えてきた。それで、私は3Dデータを専用のスライサーソフトでプリント用に書き出し、USBメモリに保存すると、プリンタを稼働させた。とりあえず、テストプリントという訳だ。
電気の点かない室内は、相変わらずの薄闇だ。私は若干の空腹を覚え、先ほど喫茶店で購入した羊羹を探すべく、既に視界の悪い畳の上を手でまさぐった。
コンビニなんかでもよく見るタイプの羊羹。モノリス然とした長方形で、ともすると硯に対なす固形墨のようでもある。恐らく羊羹本体と一切の隙間なく密着、密閉しているビニル製の表皮。この薄皮を破れば、果汁然とした糖蜜がはちきれるかのようにあふれ出すに違いない。
私は目を凝らし、ビニールの破り口を探した。本体背中側にある、背ビレの様に生えたビニールのヒダ。そこにあしらわれた切り口こそが、このあまりにも艶めかしい黒い物体の真皮を脱がす切っ掛けだ。私はそこに指をかけ、ゆっくりと剥がしていく。手に伝わる、ビニールが裂ける抵抗感。剥かれた傍から鈍く輝く、黒色の肌。裂け目は綺麗に一周し、丁度半分が裸体、また半分が残ったビニールのセミヌード状態だ。まるで…小宇宙だ。見る角度で様々な表情を見せる。部屋の暗闇の中、まるで輪郭まで溶け込んで渾然一体となったかと思うと、窓からの微かな光を反射して、半透明の寒天質な表面が星雲のように細かく煌めく。羊羹とは…斯様に妖艶な食物であったのか…。
私は、ゆっくりとその暗黒物質を唇に運んだ。冷たくはない、でも暖かでもない不思議な温度と共に、表皮を失った糖蜜の浸潤液でぬるぬるとした裸の上半身が上下の唇に触れ、そして、同時に、舌の先端に頭部が触れる。口の中の三点で、その柔肌を支える。舌先には、微かな甘みの感覚…。と同時に、鼻に抜けていく小豆の香り…。ゆっくりと歯を立てると、人肌を甘噛みするかの如く弾力感。これは、身体性の凝縮だ。あたかも「無」であるかのように振舞う、捉えどころのないこの黒く四角い無機質な物体が、いざその実態に迫ろうとすると、まるで私自身を移す鏡であるかのように、少しずつ本性を露わにする。私は…この羊羹を食べると同時に、私自身を食べるのだ…そんな錯覚を振りきれなかった。そして…ゆっくりと、歯を入れていく。画一な物体だ。中に、何か秘密が隠されている訳ではない。ましてや、栗や果物といった具が潜んでいる訳でもない。どこを切っても、どこを食べても、同じ均一な物質。にもかかわらず、この雄弁な歯ごたえは何だろうか。まさに生き物、有機物。私に噛み切られるのを拒否するがごとき弾力の連続性。そして…そのまま、上あごと下あごが歯でもって結着する。噛み切った羊羹を、唇から外に逃がす。瞬間、蛭がその吸血口を離さないかのような粘着で以て私の前歯を引っ張る。切り離された断面は…私の歯型を完全にコピーしたクローン人間だ。私は今、この黒い物体に、私の一部を写し取られた…。その複雑な断面は、やはり様々な角度からの光を反射しては、誘うかのように艶めくのだ。
口の中で、ゆっくりと租借をする。甘い…。糖蜜は血液だ。均質なこの物体に張り巡らされた毛細血管から染み出す強烈な甘み。すぐにでも二口目を誘発せんがごとき甘露。なるほど…羊羹はその躯体を分離して尚、相互に通信をおこなっては、また一体となろうとしているのだ。となると、私が食しているのは…まさに「闇」そのもの。私は、暗闇の中から羊羹と言う形而下の物体で以て闇の一部を切り取り、咀嚼し、そしてまた私の体の中で闇を形成する。私は、闇と一体となる…。
全て食べ終えた後、糖蜜に濡れて鈍く光る両手の指を舐めるべきか迷いつつ、私はその燐光の中に、子供の頃には怖くて嫌いだった闇の、暖かさを感じていた。
「それじゃあ、正式な見積もりは改めてメールさせて頂きますね」
私は、向かいの席に座るクライアントの女性に対して言った。ここは、切り株の様なデニッシュにソフトクリームをあしらったスイーツで有名な、喫茶店チェーンの店内。
「ありがとうございます」女性は笑顔を湛えて返答してきた。年齢は20代前半…社会人何年生、といったところだろうか。普通に生きていれば、私とは交わらない界隈の人種である事は間違いない。「きっと、いい作品を作りますね」
初めて彼女からメールを受け取った時、その文面や内容から私が想定したのは、40代のオジサンだった。というのも、私のような個人で3Dプリントをやっている人間に舞い込む依頼物といえば、大抵がキャラクタ物のフィギュアだったり、一点物の部品(例えばノートPCのLANケーブルカバー)である事が多く、そのほぼ全ての依頼主が30代から40代の男性だったからだ。今回の依頼は特に、単純形状の部品を数十点、という内容だった。だから、何らかのテクニカルな製造物に使用するのだろう、と考えていた。それがまさか、手作りアクセサリの部品だったとは…。
今回はCADデータも起こさなければならないから少し面倒だが、他人の創作物に少しだけ首を突っ込むのは、なんだか面白く、具合の悪い事じゃない。特に、自ら積極的に興味を持つような分野でなければ、尚更だ。
「じゃあ、私はこのままここで頂いた情報を整理してしまいますので」私は女性に向かって言った。彼女は数回首肯すると、コーヒーフロート代よりも多めの金額をテーブルに残そうとしたため、私は手で制した。「あなたはお客様ですから、ここは私に支払わせてください」
女性は一瞬、申し訳なさそうな表情を見せつつ、お礼を言うと、何度も会釈をしながら扉を開けて外に出て行った。
さて、それでは私は、切り株デニッシュのソフトクリームでも所望しますか…。
帰りしな、店員のレジ打ちを待っている間、私はそのレジ前に整列された、見慣れぬ物を見つけた。それは、お菓子だった。そういえば、子供の頃によく連れて行ってもらったレストランには、レジ前にお菓子や玩具が並んだ棚が設置されており、今は亡き祖母が、そういった類の物を買ってくれた。今となってはあまりにも懐かしい思い出だ…しかし、ここは喫茶店。常連ではないが、そこそこの回数来ているにも関わらず、今まで、このレジ前のお菓子に気づかなかったとは…。並んでいるのは、コーヒーキャンディと、羊羹。羊羹…だと? コーヒー羊羹? それとも、コーヒーと一緒にお茶請けとして食べる普通の羊羹だろうか。所謂ひとくちタイプの、長方形の棒状の、アレだ。パッケージには喫茶店のマークがあしらわれている。こんなものがレジで販売されていたなんて。
「すみません」私は思わずレジの店員に声をかけた。店員は不意に作業を中断すると、はい、と言いながら私の方を見遣った。私は羊羹を1つ取り上げると、勘定台に置いた。「これもお願いします」
ボロアパートに戻った頃には、既に陽はかなり傾いていた。私がメロスなら、もうセリヌンティウスの命を泣く泣く諦める段階だろう。
普段なら、このまま、この暗さを利用して3Dプリンタを稼働させるのだが、今回は3Dデータを起こさなければならない。昔であれば、CADデータの制作にはそれなりにマシンスペックの強いデスクトップPCが必須だったが、昨今はノートPCでも実用的な速度で作業ができる。私がアパートに設置しているのは、そこそこのスペックのノートPCだ。これを使ってプリントするための3Dデータを作っていく。
一時間とちょっとが経過し、一応の形が見えてきた。それで、私は3Dデータを専用のスライサーソフトでプリント用に書き出し、USBメモリに保存すると、プリンタを稼働させた。とりあえず、テストプリントという訳だ。
電気の点かない室内は、相変わらずの薄闇だ。私は若干の空腹を覚え、先ほど喫茶店で購入した羊羹を探すべく、既に視界の悪い畳の上を手でまさぐった。
コンビニなんかでもよく見るタイプの羊羹。モノリス然とした長方形で、ともすると硯に対なす固形墨のようでもある。恐らく羊羹本体と一切の隙間なく密着、密閉しているビニル製の表皮。この薄皮を破れば、果汁然とした糖蜜がはちきれるかのようにあふれ出すに違いない。
私は目を凝らし、ビニールの破り口を探した。本体背中側にある、背ビレの様に生えたビニールのヒダ。そこにあしらわれた切り口こそが、このあまりにも艶めかしい黒い物体の真皮を脱がす切っ掛けだ。私はそこに指をかけ、ゆっくりと剥がしていく。手に伝わる、ビニールが裂ける抵抗感。剥かれた傍から鈍く輝く、黒色の肌。裂け目は綺麗に一周し、丁度半分が裸体、また半分が残ったビニールのセミヌード状態だ。まるで…小宇宙だ。見る角度で様々な表情を見せる。部屋の暗闇の中、まるで輪郭まで溶け込んで渾然一体となったかと思うと、窓からの微かな光を反射して、半透明の寒天質な表面が星雲のように細かく煌めく。羊羹とは…斯様に妖艶な食物であったのか…。
私は、ゆっくりとその暗黒物質を唇に運んだ。冷たくはない、でも暖かでもない不思議な温度と共に、表皮を失った糖蜜の浸潤液でぬるぬるとした裸の上半身が上下の唇に触れ、そして、同時に、舌の先端に頭部が触れる。口の中の三点で、その柔肌を支える。舌先には、微かな甘みの感覚…。と同時に、鼻に抜けていく小豆の香り…。ゆっくりと歯を立てると、人肌を甘噛みするかの如く弾力感。これは、身体性の凝縮だ。あたかも「無」であるかのように振舞う、捉えどころのないこの黒く四角い無機質な物体が、いざその実態に迫ろうとすると、まるで私自身を移す鏡であるかのように、少しずつ本性を露わにする。私は…この羊羹を食べると同時に、私自身を食べるのだ…そんな錯覚を振りきれなかった。そして…ゆっくりと、歯を入れていく。画一な物体だ。中に、何か秘密が隠されている訳ではない。ましてや、栗や果物といった具が潜んでいる訳でもない。どこを切っても、どこを食べても、同じ均一な物質。にもかかわらず、この雄弁な歯ごたえは何だろうか。まさに生き物、有機物。私に噛み切られるのを拒否するがごとき弾力の連続性。そして…そのまま、上あごと下あごが歯でもって結着する。噛み切った羊羹を、唇から外に逃がす。瞬間、蛭がその吸血口を離さないかのような粘着で以て私の前歯を引っ張る。切り離された断面は…私の歯型を完全にコピーしたクローン人間だ。私は今、この黒い物体に、私の一部を写し取られた…。その複雑な断面は、やはり様々な角度からの光を反射しては、誘うかのように艶めくのだ。
口の中で、ゆっくりと租借をする。甘い…。糖蜜は血液だ。均質なこの物体に張り巡らされた毛細血管から染み出す強烈な甘み。すぐにでも二口目を誘発せんがごとき甘露。なるほど…羊羹はその躯体を分離して尚、相互に通信をおこなっては、また一体となろうとしているのだ。となると、私が食しているのは…まさに「闇」そのもの。私は、暗闇の中から羊羹と言う形而下の物体で以て闇の一部を切り取り、咀嚼し、そしてまた私の体の中で闇を形成する。私は、闇と一体となる…。
全て食べ終えた後、糖蜜に濡れて鈍く光る両手の指を舐めるべきか迷いつつ、私はその燐光の中に、子供の頃には怖くて嫌いだった闇の、暖かさを感じていた。
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