暗闇のグルメ

ぼを

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第1話:「電気キュウリ」 鉄塔ちかくの野菜畑

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「そこに鉄塔があるだろ?」
 ボロアパートの階段を登ろうとした私に、大家が声をかけてきた。晩夏の夕空、彼が指差した方向を私は見遣った。ああ、確かに鉄塔がある。こんなに近くに建っているのに、存外に気づかないものだな。
 大家は、恐らく彼が有する物件で一番築年数が行っており、最も家賃が安く、改築の予定など立てた事すらなく、半分も部屋が埋まっていないこのアパートの庭で、小さな菜園を営んでいる。老人だし、不動産収入と年金があれば口に糊するに余りあるだろうから、当然、趣味という訳だ。
「電氣ブランってあるだろ?」
 私が鉄塔を認識したタイミングを測って、大家は重ねて訊いてきた。
「ああ、あの…カクテルの」
 私の言葉に、大家は満足そうに微笑むと、そうそう、と言った。
「物の本によるとな」大家が続けた。「例えば、酒。酒なんかは、モーツァルトなどのクラシック音楽を聴かせて醸造すると、味に深みが出る、ってんだな。ウィスキーなんかは、味がまろやかになる、なんて言うけれど」大家は笑った。「さてさて、モーツァルトの代わりに電磁波を浴びた野菜はどうだろうなァ」
 ああ、そういう話の展開か。確かに、ここの野菜はひねもす電波塔からの電磁波を浴びまくっている。でも、放射線ってんじゃァないから、意外と洒落が利いてるかもしれないな。
「案外、美味しくなるかもしれませんね」私は適当に話を合わせてみた。「分子だか原子だかの振動で」
 私の言葉に、大家は声を立てて笑った。
「うちの野菜は、電気の加護の許で育まれたって算段さ」大家が言った。「だからうちの野菜は『電気野菜』ってわけだ」
 なるほどね。でも、電氣ブランは別に電気を液体に流して作っている訳ではないと思いますよ。
「そんな野菜の面倒を毎日見ている大家さんは、電気人間ですね」
「そうそう俺は電気人間」大家が言葉を返してきた。「ほら、これ、持ってけよ」
 軍手の両手に、ちょっと抱える風にした幾本かのキュウリ。大家はそれを僕に手渡してきた。
 キュウリ…。
「ありがとうございます」
 私は、適当に少し愛想笑いを、会釈と共にしてから、そそくさと階段を上がった。
「あれ、なんの鉄塔だろうなァ」
 きっと、携帯電話の電波塔だと思いますよ。

 先月、私はこのボロアパートに部屋を借りた。木造2階建て。今どき珍しい、左官の手によるタイル張りの和式トイレ。今までに、何人もの住人を支えたがために、ところどころ妙に凹んだ畳の四畳半。風呂なし。家賃は管理費込で月々1万円。築年数は知らないが、おそらく何十年もそのままの建屋と内装。電気人間の大家は、リノベーションなんて言葉、聞いたことすらないだろう。だが、この環境が私にとってはとても都合が良かった。
 私は平日の日中、サラリーマンとして会社勤めをしている。そして、私には家族と、住むための家がある。私がこのボロアパートを訪れるのは、休日か、平日の夕方以降だ。つまり、私はこの鄙びた部屋を、作業場として借りた。
 話すと長くなるから、副業を始めた経緯については端折るが、私はこの部屋で3Dプリンタを稼働させ、自作のプロダクトを制作したり、依頼された造形物を出力したりしている。大した稼ぎにはならないが、自ら設計して作り出した物が実際に手に取れる形で具象し、それに金銭価値を感じる人がいる、という事は、なかなかにエモーショナルな出来事なのだ。
 私が使用している3Dプリンタは光造形式と言って、液体状の樹脂原料(レジン)に紫外線を照射して硬化させる事で、造形物を一層ずつ形作っていくタイプの物だ。この方式のメリットは、プリント速度が早く、非常に正確であること。デメリットは、無水エタノールなどの劇薬を大量に使うこと。そして、これが、私が外部に部屋を借りた理由だ。つまり「薬品を複数使うし、紫外線を常に照射しているので、健康に悪そうだし、何より匂いがキツイ」事により、家族から自宅で作業する事を強く非難されたのだ。当初それで、ベランダでプリンタを稼働させていたのだが、何しろ太陽光というのは巨大な紫外線放射源だ。少しでもレジンに日光が当たれば、たちまち硬化してしまい、造形物として使い物にならなくなるばかりか、下手をすると3Dプリンタ自体の損壊にも関わる。そんな事態を避けるため、天気の良い日は蝙蝠傘を片手に作業をしていたのだが、これも作業効率上、非常に具合がわるい。そして何より、屋外では温度が一定でない為、造形する時間帯や季節、天気によって、その品質にばらつきが生まれてしまう。
 そんな私のとって、このアパートは、有る種のパライソ的情緒を醸した場所なのだ。

 さて、3Dプリンタだが、当然、電気で動いている。しかしながら、私は電力会社と電気契約をしていない(更に言えば、ガスも契約していない。ここでは料理をしないし、風呂はない。水道代は何故か家賃に含まれている。)。日常的に使わないのに基本料金を支払うのは馬鹿げているからだ。では、どこから電源を得ているのか。実は、あの電気大家に融通して貰っている。大家が畑の面倒を見るために使う農具やら照明器具やらを繋いでいる、屋外の防水コンセントを1口失敬しているのだ。とは言え、私が間借りしているのはアパートの2階。なので、窓の隙間から長い延長コードを垂らしている、という状況だ。

 私は、乾いた靴音を立てながら、夕日に朱い2階廊下を進むと、自分の部屋にへと向かった。昔ながらの、円柱のドアノブ。中心の鍵穴に鍵を挿し込むと妙に喧しくガチャガチャ言うし、ドアノブを回すと大げさに余分に回転する。現代日本から失われつつある感触だ。
 部屋に入ると、電気の点かない室内はほぼ暗闇だ。物は殆ど置いていないが、古びた畳に淡く影を投げかける窓枠や、外からの薄い光をコントラストに殆ど漆黒に見える壁面などが、なるほど座敷童子の物語の真偽を問うのが野暮である事を教えてくれる。外の嗅覚に慣れているので、いつも入室してからの数分間だけは、この独特な、カビの生えた藺草の何やら饐えた匂いと、所々が欠けた土壁の湿った埃っぽい冷たい匂いに鼻を擽られる。

 3Dプリンタは窓からの陽光が当らないよう、襖の中に設置している。日中でも扉を閉めれば紫外線を防げる、という利点はさることながら、布団を仕舞う為に設計された2段式の庫内が環境整備に丁度よいのだ。1階部分には無水エタノールのタンクやプリント物の洗浄槽、レジンのボトルを無造作に置いている。そして2階部分に、3Dプリンタを2台横並びで設置している。2台あると、単純に量産スピードが上げられるし、複数の注文があった場合も対応が容易だ。
 私は持参したUSBメモリ(プリントする3Dデータが入っている)をズボンの隠しから取り出すと、うち1台の3Dプリンタに挿し、電源を入れた。元々、伽藍堂の押入は部屋に増して湿度の高い匂いだったが、今はそれがエタノールの消毒液の香りと、レジン(殆どの人には匂いが想像つかないだろうが)の名状しがたい香りが綯い交ぜとなり、不思議な空間に成り果てている。そんな暗闇を、3Dプリンタの液晶画面の明かりが照らした。私は手早く、目的の3Dデータを選択すると、実行ボタンを押した。3Dプリンタのプラットフォームを電子制御で動かしているモーターの起動音が、静寂に、ジーと木霊した。そのまま暫く、作動状況に問題がないことを数分間目視確認してから(特に最初の5層くらいまでのプリントでの失敗率が高い)、襖を閉めた。

 私は狭い台所に向かうと、ステンレスの簡素な流しでキュウリを満遍なく洗い、土を落とした。布巾で適当に表面の水滴を拭き取ると、湿気が蒸発しきらない深緑の肌は暗闇の中で怪しく艶めき、その凹凸のコントラストがまるでヘレニズムの彫刻のようだった。ブルームレスだの、四葉だの、品種については明るくないが、思えばこの果実をマジマジと見つめたり、触ったりするのは初めてだという気がする。よく見ると、表皮の、鳥肌のような凹凸があるのは中央の一部の領域だけで、全体にある訳ではない。これは両手で握るようにして触感を確かめると、より鮮明に解る。何かしら、こう進化した理由はあるのだろう。蔕から順に触れて、先端まで行くと、その丸みと鈍い光は女性の臀部を思わせないでもない。この手の長細い物体は無粋にも陽物にメタファーされる事が少なからずあるが、女性性が潜んでいたのは意外な発見だ。本体に鼻を近づけて匂いを確かめると…ほぼ無臭。若干の土の様相くらい。切り刻む前でも、もっと青臭いと思ったけれど、そうでもないんだな。

 電気キュウリ…か。

 四畳半間に戻り、畳に腰掛けると、改めてキュウリと対峙した。私は、とかく、このキュウリという野菜が嫌いだ。捉えどころがないからだ。そもそも、料理して食すべき物なのか、そのまま果物然として一切の加工なく頬張るべき物なのかが詳らかに知れない。料理と言ったって、思いつくのは、冷やし中華や棒々鶏の添え物、ポテサラなどの和え物くらい。火を通す事無く、刻んで入れられるだけ。これといった味がある訳でもないのに、その存在感は異質だ。例えば、ポテサラ。私には、到底ポテサラにキュウリを和える必然性が分からない。なぜなら、連続性がないからだ。異物感が強い。就中、食感。ポテサラは食感の連続体だ。まず、柔らかいマッシュされたポテト、それから前歯で砕ける卵黄、奥歯で弾ける卵白、それらを油分で包み込むハムやベーコン、またはツナ。これらは心地よい食感の連続体として調和している。ところが、ここにキュウリが入った途端、このシナリオは御破算になる。突然立ち上がる、硬い歯ごたえ。突如現れるジャリ、だかザク、だかの異音。折角の食感のハーモニーが、この瞬間に全て精算されてしまうのだ。そして、ポテトのデンプンの甘みや肉類の油分をかき消す水分量。マヨネーズや胡椒の香りを断ち切る青臭さ。まさに招かれざる客だ。

 陽は殆ど沈み、部屋はその微かな陽光を除けば、ほぼ暗闇だ。
 私は無造作にキュウリのうち一本を、蔕の場所を確認しながらその反対、つまり尻の方を俄に口に運んだ。妖艶な臀部は唇に触れると僅かに冷たく、薄い表皮は函谷関を彷彿とさせながら、その内部に含む豊富な水分の放出を予感させた。その意味では、寧ろダムかもしれない。数センチを口内に含むと、まだ凹凸に達していない艷やかな張りのある緑が舌に触れる。この段階でも、まだあの独特の匂いはしない。軽く前歯をあてると、頭蓋に響き渡る鈍い弾力。私はそのまま、顎に力を込め、少しずつ歯を立てていく。ちょっとやそっとではその皮は破れない。それでも力を入れていく。まるで丸太を折るかのように、ミシミシ、と音が骨を通して響く。歯は、引き続き表皮を巻き込みながら、鈍い感覚でめり込んでいく。そして、ある一点を超えたとたん、ボリ、という複雑な音響と共に緑の薄い表皮が破裂し、勢いよく歯が果肉内部に入り始める。刹那、中の水分があふれるかのように口内に広がる。そのまま、口に含んだ部位を噛み切る。私は、その噛み切った一口分を奥歯へと運ぶと、ゆっくりと咀嚼した。音。音。この音、なんて擬音で表現すればいいんだろうか。ジャリジャリ、だろうか。正確に表現すると…ミミミジョリ、ミミミジョリ、だろうか。なんだか新種のセミの鳴き声みたいだ。咀嚼はじめは、味も香りもなく小気味よい食感だけだ。しかし、そのまま噛み続けると、段々と青い香りが立ち上がり、鼻から抜け始める。大量の水分が舌を潤すが、正直、味という味はよくわからない。砕かれずに残った表皮の凹凸が稀に舌と擦れるのも面白い。そうか、キュウリとは、こういう食物だったのか。
 私は深黒の中、時折、薄らと反射光を見せる切り口の水分を頼りに、キュウリを数回に分けて口に運び、食した。凹凸の部位は、期待通りの唇の感覚に思わず微笑の声をひとり漏らしてしまったが、そのまま蔕の部位のみを切り離し、まるごとを食べ終えた。

 私は不図、亡くなった祖父から、子供の頃に聞いた、遠いラバウルの戦地での逸話を思い出した。食料が充分ではなく、副菜は現地調達した瓜のみ。祖父は、それに塩やら醤油やらをかけて、白米を食っていたという。祖父は老人となってもその習慣が抜けず、かなり糖度の高いメロンでも構わずに醤油をかけては米をかきこんでいたのを目にした記憶がある。飢餓陣営、戦火の許で食したキュウリも、またこんな味わいだったのかもしれないな。

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