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しおりを挟む……あれは、俺が中学三年の時だった。
「お前の父さんの名前だよ」
逝く前に母が教えてくれた。
「……妊娠したことを告げたら、母さんの前から消えたの。でも、愛してた。だから、お前を産んだの。……噂では故郷の福島に帰ったって」
母から話を聞いて、俺は恨んだ。殺してやりたいくらいに、小生一二三を恨んだ。そんな復讐心が発条となって、今日の自分がある。その結果、男性不信は決定的なものとなった。
……と言うことは、与志子は俺の妹?晃からオノヨシコだと紹介された時、オノは“小野”だと思い込んでいた。まさか、“小生”と書くオノだとは思いもしなかった。……よりによって、小さな金魚鉢の中の金魚の一匹が妹だったなんて……。
「――兄貴、どうした?」
与志子の声で我に返った。
「え?ああ。意外ときれいな字を書くなと思ってさ」
一男はまじまじと与志子の顔を見た。俺は父親似だと母親から聞いたことがある。きっとお前はお母さん似なんだろうな?俺に似てないから。「おい、妹。俺はお前の姉の一子だ」心の中で教えてやった。一子の“一”は、たぶん、一二三から一字取ったんだろうな。棄てられたのにさ。莫迦なおふくろだ。
「いや、それほどでもないっすよ」
照れ隠しのように頭を掻いた。
「これ、親父さんの名前か?」
「ええ」
「なんて読むんだ?」
「カズフミ」
「珍しい名だ。親父さん東京にいたって言ってたな」
「若い頃でしょ?ええ」
「東京で何やってたんだ」
「さあ。色々やってたみたいですよ。どうして?」
コーヒーカップに口を付けた。
「えっ?弟のように思ってるお前のことはなんでも知りたいじゃないか」
「ありがとっす。……東京の話はあまりしなかったけど、好きな女がいた話は聞いたことがあります。兄からの又聞きですけど。母と離婚したのも、その女のことが忘れられなかったのが原因じゃないかって、兄が言ってました。その女と別れたのは、農家を継ぐように親に言われ、仕方なくって。別れた女というのはなんでも、新宿のキャバレーのホステスで、ジュンコだと――」
!……母のことだ。ホステスをしている時に一二三と付き合っていたと聞いていた。母の名前は“淳子”だ。間違いない。一二三は俺の父親で、与志子は俺の妹。つまり、異母姉妹。
荒涼としていた一男の中に、日溜まりができた。それは、与志子が教えてくれた、“一二三は母を好きだった”という事実だ。たぶん、若い頃の一二三は優柔不断で、気の弱い男だったのだろう。母を好きでありながらも、孕ましてしまった女の存在を、親に打ち明けることもできない臆病者だったに違いない。
「……そう言えば兄貴、どことなく親父に似てますね」
与志子がまじまじと見た。
「フン。もしかしたら兄弟かも知れねえぞ」
「だったら嬉しいな」
与志子が大歓迎といった表情をした。
この、“特殊な世界”の手解きをしてやった相手がまさか、血の繋がった妹だったとは……。そして、由紀との別れ。一男は漠然とした虚しさを感じた。
帰宅した一男は、部屋の片隅で夕日に染まっていた。もう少し身長が低ければ、化粧をして、ミニスカートで夜の街に出てみたい心境だった。……愚かな考えか?一男は、どっち付かずの気持ちの不安定さに苛立った。――
屋台のおでん鍋に舞い込んだ枯れ葉を、おやじは無造作に摘まんで捨てると、その指先を前掛けで拭った。一男は一人、屋台椅子の隅でコップ酒を呑んでいた。
「おう、兄ちゃん、呑んでるかぁ」
屋台のおやじとの話に飽きたのか、土木作業員風の年配の男が、静かに呑んでいる一男に向きを変えた。
「いっぺぇ、ごちそうするから呑めや」
その言葉に、一男は冷や酒を一気に飲み干した。
「ほう、こりゃ、飲みっぷりがいいや。おやじ、注いでやれや」
屋台のおやじに催促した。
「若けぇの。おら、飲みっぷりのいいのがでぇ好きだ」
そう言いながら、がんもどきを頬張った。
「おめぇ、無口だな」
一男の顔を覗き込んだ。
「喋れるんだろ?なんか言ってみろや」
小指を爪楊枝代わりにしながら男が言った。
「秋の日のヴィオロンのためいきの、身にしみてひたぶるにうら悲し」
「なんだおめぇ、女みてぇな男だな」
「ねぇ、おじさん、あたいと遊ばない?」
「ブッ。なんだおめぇ、オカマか?」
驚いた男は、口に含んだ酒を噴き出した。
――その後の一男の消息は分からなかった。それから一年が過ぎた。秋色に衣替えした街は、色とりどりのコートで華やいでいた。
与志子がウインドーショッピングをしている時だった。二十代後半だろうか、マスタードイエローのコートに黒いブーツの長身の女がショーウィンドウに映った。
アッ!
長い髪から一瞬覗いた横顔は一男に似ていた。
「兄貴っ!」
思わず叫んだ。だが、その黒い髪は振り返らなかった。
やがて、マスタードイエローのコートは、街路樹の銀杏と溶け合って、どこかに消えた。――
完
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