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まだ見ぬ隣人
しおりを挟む年金暮らしの田中夫婦は、たまたま二人が留守だった時間に越してきたと思われる、〈米山〉と表札がある隣人に一度も会えずにいた。というのも、仕事で出かけているのか昼も夜も留守のようだった。真夜中に二、三度物音を聞いたことがあると言う夫の貞昭の話により、その頃に帰宅しているのだろうと妻の富久子は推測した。
「ね、あなた。隣に越してきたのは男なのかしら?」
ネギを刻みながら富久子が振り向いた。
「いや。俺が聞いた話では、男みたいな女らしいだったな」
ぐい飲みを傾けながら貞昭が合点のいかない顔をした。
「じゃ、女かしら」
「そうだな。“男みたいな女らしい”だから、女だ」
「あら、もしかしたら聞き間違いで“女らしい男みたい”かもしれないじゃない」
「うむ……」
「それにしても、静かね。休日も仕事でいないのかしら」
「仕事とは限らんさ。恋人とか友人宅に遊びに行ってるのかもしれん」
「そうね。それにしても静かな人」
「男なのか女なのか、せめてそれだけでも知りたいな」
興味津々といった目で貞昭が冷奴を口に入れた。
「そうよね。それに、いるんだかいないんだかハッキリしないとなんかスッキリしないわ」
だし巻き玉子を食べながら貞昭と目を合わせた。
「なんかいい方法はないかな……」
「平日の帰宅は、私たちが寝ている時間みたいだし、出かけるのは、私たちが起きる前みたい」
「つまり、夜遅く帰宅して、朝早く出勤てことだ」
「そうなるわね」
「じゃ、朝早く起きて、ドアスコープから覗いてみるか」
「そうね。その手があるわね」
翌日。早朝に起きた貞昭はドアスコープを覗いていた。
「どうだった?」
朝食の準備をしていた富久子が訊いた。
「うむ……うつ向いて歩いてたから顔が分からんかった。髪が長かったから女かもしれん」
テーブルに着くと新聞を広げた。
「あら、髪が長いからと言って女とは限らないわよ」
貞昭の前に焼き海苔を置きながらチラッと見た。
「けど、髪の長い男なんてそんなにいないだろ?」
納豆を混ぜながら上目で見た。
「もう、頼りにならないんだから。明日は私が覗いてみるわ」
貞昭の前に座ると、箸を持った。
「ああ。……頼むよ」
貞昭は考える顔で豆腐の味噌汁を啜った。
翌朝。富久子は瞬きのない目をドアスコープに据えていた。間も無くして、うつ向いて歩いてきた長い髪の人がドアスコープの前で足を止めた。すると、ゆっくりと下に隠れた。
富久子は心臓をパクパクさせながら、ドアスコープを覗いていた。すると突然、下から顔が現れた。
「ヒエッ!」
思わず声が出た。ーーそこにあったのは蜂の大群にでも刺されたかのように瞼が膨れ上がった醜い顔だった。心臓の弱い富久子は胸を押さえながら、
「あ、……あなた」
寝室の貞昭に声を掛けた。だが、うんともすんとも返事がなかった。
「ハァハァハァ……た、た・す・け・て……」
苦しそうに荒い息を立てる富久子は貞昭に助けを求めながら、その場に倒れた。
やがて、静かになった。寝室から出てきた貞昭は確認するかのように、うつ伏せに倒れている富久子の手首に指先を当てると、急いで玄関ドアを開けた。そして、
「〈米山〉の表札はあとで処分するから、“お岩さん”のマスクを外して、早く帰りなさい」
早口でそう言うとドアを閉めた。貞昭は携帯電話を手にすると、
「つ、妻が突然倒れて。助けて来てください!」
119番に電話をした。足元に倒れている富久子の背中を見下ろしながら、
妻に不満があったわけじゃない。ただ、心を奪われる素敵な人に出会ってしまっただけだ。SNSで。
貞昭はそんなことを考えていた。──
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