真実のノート

紫 李鳥

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〈拝啓
 目に鮮やかな紅葉の候 如何お過ごしでいらっしゃいますか?
 その節は私の無実となる証拠の娘の日記を掲載して頂き 誠にありがとうございました
 貴方様のお名前は生涯忘れる事はありません
 野上逸郎様 この度は あの時のお礼として 僅かではありますが振り込ませて頂きました
 また必要な時はご一報くださいませ
 貴方様のお役に立てたら幸いです
 あの事件に関してですが 主人には申しておりません
 何せ知っての通りの怖い人ですので なかなか打ち明けられません
 それより 私が心配なのは野上様の事です
 ああいう人ですから もし今回の件を知ったら何をするか
 野上様の身が危険です
 どうかお気を付けくださいませ
          かしこ〉


 野上の指は小刻みに震えていた。雅子の恐ろしさをまざまざと見せつけられた思いだった。この手紙は紛れもなく脅迫状だ。

 ……これ以上、あの事件には関わるなと言うことか。

 だが、この手紙に因って、岩水との共謀を雅子自らが認めたことになる。

 ……墓穴を掘ったな。さて、どう処分してやろうか。脅しには屈しないぞ。

 この時、自分がまだジャーナリストのはしくれだと言うことに野上は気づかされた。――考慮の末、野上はペンを手にした。

〈矢口雅子様へ
 お手紙、ありがとうございます。
 貴女様の優しさ、染み入りました。
 お心遣い、感じ入りました。
 さて、話は変わりますが、服役中の岩水が自白を翻したとの情報を入手しました。
 何でも、「あの子さえいなければ、あなたと結婚できるのに」と、貴女様に言われたからミナちゃんを殺したと。
 私は岩水の言葉は信じていません。
 でも、このことが公になる前に何とかしなければ、ご主人の耳に入ったら、それこそ大変なことになります。
 どうしましょうか?〉

 ……さて、返事を寄越すか。――果たして、雅子からの返事は速達だった。

〈お知らせ頂き、ありがとうございます。
 早速ですが、会って頂けないでしょうか?〉

 最後に日時と場所が書いてあった。

「やったー!」

 野上は思わず歓喜の声を上げた。推測が的中した。雅子は焦燥感に駆られているようだ。


 ――約束の時間より早めに指定された喫茶店に行くと、目立たない奥の席を陣取った。交渉の準備は万端だった。

 間もなくして、三年前を彷彿ほうふつとさせる地味なカーディガンにフレアスカートの雅子が、だて眼鏡で変装して現れた。

「……野上さん?」

「ええ」

 野上は即答すると、煙草を揉み消した。雅子は安心したのか、肩の力を抜くとテーブルを挟んだ。

「ごめんなさいね、お呼び立てして」

 申し訳なさそうに頭を下げると、水を持ってきたウエイトレスにコーヒーを注文した。

「いいえ。お会いできて光栄です」

 身を守るために、世辞せじを言った。

「ま、どうしましょう。こんな格好でごめんなさいね。オシャレをしてくれば良かったわ」

 そう言って、恥ずかしそうに俯いた。

(わざとらしいことを言うなよ。綺麗な格好をすれば梶原の女房だとバレるからだろ?)

「……で、岩水の件ですけど――」

 ウエイトレスが来たので、雅子は中断した。

「……私が言ったと?」

 不安げな目を向けた。

「ええ。でもどうして、今頃になってそんなことを言うのか。何か心当たりはありませんか?」

 野上は上手に話を作った。

「……いいえ」

 心当たりを手繰たぐるように、雅子は考える顔で俯いた。

「どうして今頃になって自供を翻すのか……。何か約束してて、それを守っていないとか?」

「……いいえ、ありません」

 当てずっぽうで訊いた文句に、雅子が意外な反応を見せた。

(動揺している。はて、どんな約束を交わしたんだ?身代わりの報酬として。……例えば、出所したら結婚するとか?)

「……あなたを守ってあげるにはどうすれば」

 野上は苦悩の表情を作った。

「……ありがとうございます。怖い。岩水が怖い」

 だて眼鏡を外した雅子は、目を潤ませると、すがるように野上を見つめた。

(よっ!千両役者!)

 雅子のしたたかさが歴然とした瞬間だった。この女は、自分が助かるためならどんなことでもする海千山千だと、野上は確信した。あの三年前にいだいた、この女への姉の面影が腹立たしかった。

(人を騙しやがって!)

 野上の腹は決まった。

「あなたの無実を確実にするにはどうすればいいか。……岩水の口を塞ぐしか手がない」

 野上は深刻な表情を作った。

「……野上さん。お願い、助けて」

 雅子は、身を委ねんばかりに、顔を近づけてきた。

「岩水のことは俺がなんとかする。だから、あんたも正直に言ってほしい。……子供の殺害を岩水に仕向けた。それは間違いないか?」

 野上は直球を投げた。

「……」

 雅子はゆっくりとうなずいた。

(やっぱりか……)

 だが、あまりにも簡単に認めたことで、かえって呆気に取られた。

「言葉にしなきゃ分からないだろ?岩水に仕向けたの?」

 野上は寛容な物の言い方をした。

「……ええ、そうです。あの子さえいなければ、もっと違う人生があるのにって、いつも思ってた」

 三年前の報道どおり、やはり、雅子は“鬼母”だった。

「でも、自分でる勇気はなかった。そんな時、岩水と出会った。女にモテそうもない岩水をその気にさせるのは簡単だった。結婚したがる岩水に、『子供がいるから無理よ』と冷たくあしらったら、却って、結婚をせがんできた。だから、露骨に言ってやった。『だったら、子供をどうにかしてよ』って。

 臆病な岩水は、最初はつねったり、引っ張ったりしかできなかった。でも、慣れると麻痺するのね。蹴ったり、押し倒したりと大胆になっていたわ。私は見て見ぬふり。いいお母さんを演じるのは疲れたわ。

 あの子が日記をつけていたのは知ってたから、靴のことをしつこく言ったわ。そうすれば必ず日記に書くって思ったから。案の定、お陰で無罪になった――」

 そこには、人面獣心じんめんじゅうしんの鬼の顔があった。


 ――野上の手元には、雅子の会話が録音されたテープがあった。

 ……さて、これをどう利用するか……。伊東に渡したんでは、あまりにも芸が無さすぎる。



 一年近くが過ぎた。野上は、趣味と実益を兼ねて、古本屋を営んでいた。資金の出所は勿論、雅子様だ。

 金とテープの交換条件に、次のことを付け加えた。

「俺に万が一のことがあったら、ダビングしたテープが、あんたを取り調べた刑事のもとに届く手筈てはずになっている」と。雅子はじることもなく、まるで同志でもできたかのように、含み笑いを浮かべて承諾した。



 郊外の閑静かんせいな住宅地に構えた古本屋は、客は少なかったが、散歩がてらに森林浴を満喫することができた。野上にとっては楽天地だった。

 だが、間もなくして、梶原が収賄罪しゅうわいざいで逮捕された。資金源が途絶とだえるのかと危惧きぐしていると、突然、雅子がやって来た。

 雅子は、虚栄を脱ぎ捨てたかのように清楚せいそな格好をしていた。

「梶原と別れたわ」

 ボストンバッグを提げた雅子があっけらかんと言った。

 ……俺にどうしろと言うんだ。まさか、一緒にむつもりか?

「行くとこなくなっちゃった」

 ……しつこいな。鬼母と一緒に暮らすわけないだろ?どっかに行ってくれよ。

「ここまで歩いてきたから、足が疲れちゃった」

 そう言いながら、淡いピンクのスカートから伸びた細い脚をさすった。

 ……また、色仕掛けか?

「ちょっと座ってもいいでしょ?」

 甘える表情で迫ってきた。

 ……俺も同じ穴のむじなか。

 そう思うと、断る言葉が見つからなかった。



 結局、雅子と暮らす羽目になった。

 ……つまり、俺も、雅子と同類項だったわけだ。

 野上はそう結論づけると、ドストエフスキーの『罪と罰』の上に載ったボストンバッグを手にした。――






 完
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