6 / 18
6
しおりを挟む道端の山吹を愛でながら暫く行くと、月山を眺望できる格好の場所まで来た。行弘は足を止めると、
「ここからの眺めが好きなんですよ」
そう言って雑草の上に腰を下ろした。
「いやぁ、いい眺めですね」
高志も納得すると、行弘の傍らに腰を下ろした。
「でしょう?買い出しの帰りに、運転席からよく眺めるんですよ。……いい所に来て良かったなぁって」
「どこからいらしたんですか」
「出身は山形ですが、宿を営るまではずっと東京です。いわゆる脱サラっていう奴です。前の女房と別れたのがきっかけで。独り身の気楽さもあって、脱サラという冒険ができたんだと思います」
行弘は旨そうに煙草を喫んでいた。
「……じゃ、今の奥様とはこちらでお知り合いに?」
高志は、胸に納めていた順子との経緯を無意識のうちに訊いていた。
「ええ。……あいつは自殺未遂の女です」
「えっ!」
思いもしなかった言葉にびっくりすると、行弘の横顔を視た。
「……二年前です。山菜を採りに裏山に行くと、杉の木陰に倒れていました。コートが緑色だったら、たぶん気付かなかったでしょう。黒いコートだったのを感謝しました。
傍らには睡眠薬の空き瓶がありましたが、幸いにも致死量ではなかったようです。体温を残したあいつの口に急いで指を突っ込むと、吐かせました。その日は泊まり客が居なかったので、おぶって宿に連れて帰ると、大量の水を飲ませて胃の洗浄をしました。……眠りから覚めたのか、客室からあいつの泣き声が一晩中してました」
行弘は、短くなった煙草を砂利の中で揉み消した。
「……」
高志は俯いていた。
「……増田さん」
「え?」
「あなた、順子のことを知ってますよね?」
不意に顔を向けた行弘は、刺すような視線を放った。――
順子は、帰りの遅い二人のことが気になっていた。……何事もなければいいが。はて、散歩に誘ったのはどっちだろう?……アッ!不吉な予感がした順子は、急いで腰を上げると、サンダルをつっかけた。――
高志は山並みに顔を向けたままでいた。
「……やっぱり、そうか。あいつをどうしたいんですか」
「……もう一度やり直したい」
「冗談じゃない。私の妻ですよ」
「私にも妻が居る。そいつと別れる覚悟でここに来た」
「……あいつは俺の生き甲斐なんだ。別れるつもりは毛頭ない。サラリーマンを辞め、人生を賭けてここに来たんです。思うように客が来てくれなくて、閉めようと思った時期もあった。
そんな時、あいつが明かりを灯してくれたんだ。あいつと出会えて、俺は生きる喜びを知った。すべて、あいつのお陰なんですよ。あいつを手放す気はない」
行弘が突然立ち上がった。殺気を感じた高志は慌てて腰を上げると、崖から遠ざかった。行弘は、山並みに顔を向けたままで、尻の埃を叩いた。
「あなたーっ!」
順子の声に、二人は振り向いた。
「……この続きは今夜と言うことで」
高志が提案した。
「……そうですね」
行弘は仕方なく同意した。
「もう、遅いんだから。心配したじゃない」
二人が無事だった安心感からか、順子はホッとすると、わざとらしく膨れっ面をしてみせた。
「何だよ、宿、空けちゃ駄目じゃないか」
行弘が注意した。
「だって、遅いんだもの……」
順子は子供のように口を尖らせた。
俯き加減で後から来る高志の様子で、何かあったことが順子にも察知できた。
宿に戻ると、高志は無言で二階に上がった。行弘も黙って部屋に入った。順子はすることもなく、厨房の隅に置いた編み物の続きをした。――暫くしてドアを開けると、行弘は布団に俯せになって読書をしていた。
「コーヒーでも飲む?」
「要らねぇ」
無愛想な返事だったので、部屋を出ようとした。
「増田さん、お前とのこと喋ったから」
抑揚のない言い方だった。
「……え?」
予感は当たっていた。
「そのことで、今夜話し合うから」
「……どうしたらいいの?私」
行弘の枕元に正座をした。
「何もしなくていい、下に居ろ」
行弘が一瞥した。
「何を話すの?」
「何をって、お前のことに決まってるだろ。互いに譲らないんだから仕方ないさ」
「……」
「奥さんと別れる覚悟でお前に会いに来たらしいよ。……どういう付き合いだったんだ」
行弘は栞を挟むと、文庫本を閉じた。
「……十九歳の時、二年ぐらい同棲してたの。彼、自由劇場の役者で、私と同じ店でバイトしてたの。それで付き合うようになって――」
「何で別れたんだ」
「……他に好きな人ができて、書き置きをして彼のアパートから出ていったの」
「……はー」
行弘はため息を吐いた。
「……とにかく、今夜話し合うから」
行弘は体の向きを変えると、天井に顔を向けた。
その日は客の予約はなかった。夕飯ができると、部屋から出てきた行弘が二階に持っていった。
「最初はビールにしますか」
座卓に料理を並べながら行弘が訊いた。
「そうですね。ビールにしましょう」
「今、持ってきますので」
恋敵であることを認識した二人によそよそしさがあった。
「あ、奥さんも一緒にどうですか。彼女の気持ちも知りたいし」
高志が不敵な笑みを浮かべた。
「……ですね。じゃ、呼んできますので」
行弘は承諾するほかなかった。
ビールを取りに下りた行弘は、
「お前も来るように言われた」
そう言って深刻な顔をした。
順子はぐちゃぐちゃに絡まった毛糸が胸に生じた思いだった。……修羅場に関わりたくない。自分が原因の話し合いだというのに、そんな無責任な考えを浮かべた。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
蠍の舌─アル・ギーラ─
希彗まゆ
ミステリー
……三十九。三十八、三十七
結珂の通う高校で、人が殺された。
もしかしたら、自分の大事な友だちが関わっているかもしれない。
調べていくうちに、やがて結珂は哀しい真実を知ることになる──。
双子の因縁の物語。
嘘つきカウンセラーの饒舌推理
真木ハヌイ
ミステリー
身近な心の問題をテーマにした連作短編。六章構成。狡猾で奇妙なカウンセラーの男が、カウンセリングを通じて相談者たちの心の悩みの正体を解き明かしていく。ただ、それで必ずしも相談者が満足する結果になるとは限らないようで……?(カクヨムにも掲載しています)
霧崎時計塔の裂け目
葉羽
ミステリー
高校2年生で天才的な推理力を誇る神藤葉羽は、幼馴染の望月彩由美と共に、異常な霧に包まれた街で次々と起こる不可解な失踪事件に直面する。街はまるで時間が狂い始めたかのように歪んでいき、時計が逆行する、記憶が消えるなど、現実離れした現象が続発していた。
転校生・霧崎璃久の登場を機に、街はさらに不気味な雰囲気を漂わせ、二人は彼が何かを隠していると感じ始める。調査を進める中で、霧崎は実は「時間を操る一族」の最後の生き残りであり、街全体が時間の裂け目に飲み込まれつつあることを告白する。
全ての鍵は、街の中心にそびえる古い時計塔にあった。振り子時計と「時の墓」が、街の時間を支配し、崩壊を招こうとしていることを知った葉羽たちは、街を救うために命を懸けて真実に挑む。霧崎の犠牲を避けるべく、葉羽は自らの推理力を駆使して時間の歪みを解消する方法を見つけ出すが、その過程でさらなる謎が明らかに――。
果たして、葉羽は時間の裂け目を封じ、街を救うことができるのか?時間と命が交錯する究極の選択を迫られる二人の運命は――。
隅の麗人 Case.1 怠惰な死体
久浄 要
ミステリー
東京は丸の内。
オフィスビルの地階にひっそりと佇む、暖色系の仄かな灯りが点る静かなショットバー『Huster』(ハスター)。
事件記者の東城達也と刑事の西園寺和也は、そこで車椅子を傍らに、いつも同じ席にいる美しくも怪しげな女に出会う。
東京駅の丸の内南口のコインロッカーに遺棄された黒いキャリーバッグ。そこに入っていたのは世にも奇妙な謎の死体。
死体に呼応するかのように東京、神奈川、埼玉、千葉の民家からは男女二人の異様なバラバラ死体が次々と発見されていく。
2014年1月。
とある新興宗教団体にまつわる、一都三県に跨がった恐るべき事件の顛末を描く『怠惰な死体』。
難解にしてマニアック。名状しがたい悪夢のような複雑怪奇な事件の謎に、個性豊かな三人の男女が挑む『隅の麗人』シリーズ第1段!
カバーイラスト 歩いちご
※『隅の麗人』をエピソード毎に分割した作品です。
パンドラは二度闇に眠る
しまおか
ミステリー
M県の田舎町から同じM県の若竹学園にある街へと移り住んだ和多津美樹(ワダツミキ)と、訳ありの両親を持つ若竹学園の進学コースに通う高一男子の来音心(キネシン)が中心となる物語。互いに絡む秘密を暴くと、衝撃の事実が!
この満ち足りた匣庭の中で 二章―Moon of miniature garden―
至堂文斗
ミステリー
それこそが、赤い満月へと至るのだろうか――
『満ち足りた暮らし』をコンセプトとして発展を遂げてきたニュータウン、満生台。
更なる発展を掲げ、電波塔計画が進められ……そして二〇一二年の八月、地図から消えた街。
鬼の伝承に浸食されていく混沌の街で、再び二週間の物語は幕を開ける。
古くより伝えられてきた、赤い満月が昇るその夜まで。
オートマティスム、鬼封じの池、『八〇二』の数字。
ムーンスパロー、周波数帯、デリンジャー現象。
ブラッドムーン、潮汐力、盈虧院……。
ほら、また頭の中に響いてくる鬼の声。
逃れられない惨劇へ向けて、私たちはただ日々を重ねていく――。
出題篇PV:https://www.youtube.com/watch?v=1mjjf9TY6Io
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる