港までの道程

紫 李鳥

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「……あなたが好きだった。こうでもしなければ二人きりになれなかった」

 勇人は頬に手を当てたまま、横を向いていた。

「私には子供が居るんですよ」

「……玄三さんに聞いて知ってます」

「だったらどうしてこんな真似を……私が女給だから馬鹿にしてるんですか」

「いや、違う」

 峰子を見た。

「……弟のように思っていたのに……もう二度と来ないでください。来たら、ここを辞めます」

 峰子は鍵を外すと戸を開けた。勇人が店から出るのをじーっとして待っていた。やがて、

「……すまなかった」

 そう一言ひとこと残して、敷居をまたいだ。途端、激しく戸を閉めると施錠をした。峰子は厨房に行くと、誰にはばかることなく慟哭どうこくした。――

〈申し訳ありません。本日は休ませてください。峰子〉

 書き置きをすると、家に帰った。――真太郎の寝顔を見つめながら、峰子は鼻を啜った。

 ……勇人のことが好きだったのは確かだ。しかし、私にはかけがえのない真太郎が居る。……そして、愛する人も居る。その人に逢える喜びがあったから、この九年間、真太郎と二人で一生懸命生きることができた。……その人に逢える日を夢見て。ただ、その想いだけで……

 ――真太郎は朝食を済ますと、元気よく登校した。何もする気が起こらず、布団の中に居た。

 ……そろそろ、真太郎が帰る時間だ、起きなければ。

 そんなことを思っていると、鍵を開ける音がして、戸が開いた。

「……お母さん。どうしたの?」

 布団に居る峰子を心配した。

「ん?仮病。真太郎と一緒に居たくて。今起きるね」

「いいよ、寝てて」

「ありがとう。でも、真太郎と一緒におやつ食べたい」

 体を起こした。

「駄菓子屋で買った麦チョコとクラッカーがあるよ。どっちがいい?」

「じゃ、クラッカー」

「あたりまえだの――」

「クラッカー。ふふふ」

 真太郎が、テレビで宣伝している商品名を言ったので、峰子が繋いだ。――


 夕食を作ると、テレビを観ながら食事をした。休み以外に、こんな時間に真太郎とテレビを観るのは、久しぶりだった。

「国語の成績はいいけど、算数はどう?」

 肉じゃがを食べながら訊いた。

「九九も覚えたよ」

 じゃがいもを頬張りながら答えた。

「すごいじゃない」

「……でも、変な覚え方なんだ」

「どんな覚え方?」

「たとえば、2×3=6にさんがろくのときはちゃんと言えるのに、3×2=6さんにがろくのときは、頭の中で2×3にかけるさんにしてからじゃないとすぐに答えられないんだ」

 真太郎が口を尖らせた。

「変な覚え方だね。でも、答えが合っていればいいんじゃない」

「そうだよね」

 真太郎が安心した顔をした。真太郎と一緒に過ごせたせいか、峰子の気持ちは晴れやかになっていた。

 翌日、店に行くと、玄三が心配そうな顔を向けていた。休んだ理由を風邪気味にすると、割烹着を着た。

「ああ、吉岡さんから手紙を預かってるよ」

「えっ?」

昨夜ゆうべ、終わりごろに来てね」

 思い出した玄三は打ち粉のついた手を払うと、作務衣さむえの懐から白い封書を出した。

「……すいません」

 峰子は俯いたままで受け取ると、箒とちり取りを手にして、店の裏で開封した。

〈私の軽率な言動をどうか許してください
 酔っていたとは言え 貴女の気持ちも考えず 自分本位だった事を反省しています
 もう二度とあのような真似はしません
 ですから 玄三庵に行く事をお許しください
   峰子様へ 吉岡勇人〉

 読み終えた峰子は肩の力を抜くと、わずかに口角を上げた。――

 〈玄三庵〉はその日も賑わっていた。店内を一人で切り盛りする峰子は、頻繁に開け閉めされる戸口に、いちいち振り返る余裕はなかった。暫くして、気付くと、聞き覚えのある声が背後からした。びっくりして振り向くと、そこには、金ちゃんの席で愉快に笑っている勇人の顔があった。飲み物を見ると、箸を持った勇人の前には、酒が入ったぐい呑みがあった。

「……いらっしゃいませ」

 峰子は努めて笑顔を作ると、勇人と目を合わせた。短い沈黙の後、勇人は謝るかのように頭を下げた。

「おみねちゃん忙しそうだったで、俺が猪口ちょこや箸を持ってきたんだよ。大将んとこから」

 金ちゃんが概要を話した。

「あら、呼んだ?」

 玄三が厨房から顔を出した。

「もうそれはいいって。頼むで酌をしにゃーでよ」

 金ちゃんは満更でもない顔だった。

「すぐに行くで、待っててね~」

 玄三が女形のしゃべり方を真似ると、他の客が笑った。

「いいって、来なくて」

 二人の漫才は続きそうだった。

「……燗とにしんの煮付けを」

 勇人が注文した。

「あ、はい。かしこまりました」

 峰子は笑顔で承ると、厨房の玄三にカウンターから伝えた。その時だった。

「そう言えば、この先の林で白骨死体が見付かったんだってな?」

 常連客の一人が連れに話していた。途端、峰子の手が止まった。勇人は、その硬直した峰子の後ろ姿を見逃さなかった。

「気色悪いな。男?女?」

 連れの男が訊いた。

「分からにゃーらしい。だが、話によると、死後十年は経ってるらしい」

 峰子は硬直したままだった。

「そしたら男か女か分からにゃーな、骨だけじゃ。俺の女房も、口紅を塗ってにゃーと男か女か分からにゃーんだで、肉が付いてにゃーっけらなおのこと男か女か区別がつかにゃー。ハハハ」

 客らは白骨死体の話で盛り上がっていた。

 徳利と鰊の煮付けを盆に運んできた峰子の顔は、心なしか青ざめて見えた。

「はい、おまちどおさまです」

 作り笑いで勇人の前に徳利と皿を置くと、酌もしないで他の席の器を下げに行った。そして、厨房に入ると溜まった皿を洗い始めた。
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