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七話
しおりを挟むそんな時、あれから一度も会っていなかった保美から電話があった。仕方なく、いつものシティホテルにチェックインすると、保美を待った。――ノックがあったドアの向こうに、少し怒ったような保美の顔があった。
「何よ、全然会ってくれないで」
いきなり愚痴ると、責めるような目を向けた。
「親父が死んだんだ、そのくらい察しろ」
「……何日も経ってるじゃない」
「月日が解決するもんでもないだろ?淋しさや悲しさは」
遮光カーテンを少し開けると、曇天を仰いだ。
「……私だって寂しかったんだもん」
背中に抱きついてきた。
「……シャワー、浴びてこい」
――俺の腕の中で悶える保美を眺めながら、無意識のうちに麻衣子と重ね合わせていた。――
「……武志、変わったわね」
うつ伏せの保美がぽつりと言った。
「……何が?」
俺はソファに深く座ると、煙草をくゆらした。
「……私を抱いてない」
「はぁ?」
「あなたの心が無かった」
「……何、訳の分からないこと言ってんだよ。帰るぞ」
煙草を揉み消すと、バスローブの紐に手をやった。保美はバスローブを纏うと、俺の前に立ちはだかった。
「あの人でしょ?お・か・あ・さ・ま。お父さまが亡くなって、今度は自分の女にする――」
瞬間、保美の顔を平手で打った。
「きゃっ!」
短い悲鳴と共にベッドに倒れた。頬に手を置いた保美は俺を睨み付けていた。
「お前の今の発言は、俺の親父を侮辱したんだぞ。一人前の大人のつもりなら、もう少し言葉を選べ」
俺は着替えをした。保美は無言のまま、悔しそうな表情をしていた。
「……俺たち、終わりだな」
「……」
「……じゃあな」
ノブを握った。
「ウワーっ」
途端、保美が号泣した。
「……いい女になれよ」
ノブを回した。
――帰途、見上げた灰色の空は、今にも大粒の雨を落としそうな気配だった。
台所に行くと、麻衣子が流しに立っていた。
「……ただいま」
「あ、おかえり」
日溜まりのような笑顔を向けた。
「今夜はなんだ?」
夕飯の献立を尋ねた。
「ふふふ……当ててみて」
「ヒントがなきゃ分かんないよ」
椅子を引くと、煙草を出した。
「最初に、ス、が付く物」
「ス、ね……」
……寿司、すき焼き、ステーキ、スパゲティ、酢の物……。
「次に付くのは?」
「そこまで言ったら分かっちゃうじゃない。……キ」
「ス・キ……スキ?」
「ん?何?」
麻衣子が顔を向けた。
「……好きか?……俺のこと」
「……好きよ。可愛い一人息子だもの」
「……」
俺は嬉しくて、目頭を熱くした。そんなうるうるを麻衣子に見られたくなくて、
「……夕飯、何か楽しみにしてるから」
そう言うと、急いでテーブルに置いてある夕刊を手にして腰を上げた。
「はーい」
麻衣子の柔らかい物言いが背後でした。
部屋に入ると、先ず三面を開いた。
[――伊藤護(35)さんが殺害された事件の容疑者が逮捕されました。逮捕されたのは、無職の吉沢博昭(38)容疑者で、吉沢容疑者は、ヤミ金融に多額の借金があり、その取り立てに来た伊藤さんに恨みがあったとのこと。×日の午後5時に借金を返済するからと、道玄坂の駐車場で待ち合わせ、殺害目的で用意していたジャックナイフで心臓を刺したと供述している――]
……良かった。これで、麻衣子の無実は明白になった。――その日の夕食はすき焼きだった。
翌日。俺は親父の遺志を継ぐため、出社した。そして、新卒扱いのヒラから始めた。それは、俺が自ら希望したことだった。
――そして到頭、その日が来た。休日だった。俺は麻衣子をドライブに誘った。
「あら、雨が降りそうですね」
台所の窓から、トミが暗雲の空を見上げた。
「雨もまた必要だ。“五風十雨”って言うじゃないか」
「どうしたんですか、お坊っちゃま。あんなに雨が嫌いだったのに」
「……さあ、どうしてかな」
あれほど嫌いだった雨が、どうして好きになったのか。自分でも分からなかった。たぶん、麻衣子と出会ったのが雨の日だったからかもしれない。
チャコールグレーのセーターで麻衣子が現れた。
「あらっ」
俺のセーターを見て、少し驚いた顔をした。それは、麻衣子から貰ったイタリアのみやげだった。
「まぁ、とても似合ってる。ね、トミさん」
「ええ。とってもお似合いですよ、黒のセーターが」
「お母さまのセンスがいいもんですから」
「イヤだ、お母さまだって。ふふふ……」
麻衣子は恥ずかしそうにトミと笑い合った。
トミが作った弁当を受け取ると、車に乗った。そして、麻衣子を乗せた俺の車はその坂道を下った。
「あっ」
ハンドルを握っていた俺は思わず声を発した。
「どうしたの?」
右側から麻衣子の不安げな声が聞こえた。
ブレーキが効かなかった。脱穀機のように何度もペダルを踏んだ。慌てふためく自分と、冷静を求めるもう一人の自分との間で、俺の思考は絡まった糸のようになっていた。血の気が引くのが自分でも分かった。大して長くもないその坂道は、地獄の入り口に続く通り道のように、白い靄に包まれて朱く浮かび上がっていた。
「あなたーっ!」
麻衣子のその叫び声は、倒れた親父の傍らで発した、あの声と似ていた。
「イヤーッ!」
それが、麻衣子の最後の声だった。――
俺は病院のベッドで目を覚ました。最初に目に入ったトミが、俺の目覚めを知って感極まったのか、声を上げて泣いた。
「……あの人は?」
俺のその問いに、トミは首を横に振ると、更に声を上げて泣いた。
……俺が殺したようなもんだ。
絶望という空虚の中に俺は落ちていった。
事故の原因は、ブレーキオイルの漏れだった。そして、それをしたのは保美だった。保美は、嫉妬という取るに足らない一時的な感情で、かけがえのない愛する者を俺のこの手から奪った。否、二つの命を。麻衣子は身ごもっていたそうだ。後にトミの口から聞かされた。――既に両親は他界して身寄りのない麻衣子を親父と一緒の墓に入れた。
見上げると、空一面を雨雲が覆っていた。……俺の想いと同じように。――
完
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