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初恋
しおりを挟むあの若い男だった。
「女将さんは?」
「……おふろ」
「風呂か……じゃ、中で待たせて貰うか」
男は客間に上がると、座卓の灰皿を手前に引き、胡座を掻いた。奈津は、どう対応していいか分からず、後ろ手でモジモジしていた。
「座らんね。名前は?」
煙草に火を点けながら訊いた。
「……なつ」
奈津は男の斜め横に正座すると、その横顔に目をやった。
「なっちゃんか。よか名前たい」
奈津は恥ずかしそうに俯いた。
「おいは、木村努。よろしくな」
奈津は頷いた。
「何年生ね?」
「……四年」
「四年生か……。そん頃、なんばして遊んどったかな……ビー玉とかメンコかな……。ああ、竹馬とか缶けりばして遊んどったか。学校は楽しかね?」
奈津は、まあまあと言うように、ゆっくりと頷いた。
「勉強したっちゃ、いっちょも役に立たんばってんが、仕方なかさ。義務教育やけんな」
奈津は、ごもっともと言わんばかりに、納得しながら頷いた。
「甘いもんは好きね?」
その質問に、今度は素早く頷いた。
「したら今度、お菓子ば買うてきてやっけん」
奈津は目を輝かせて、ニコッとした。努は、洗い髪を手櫛で梳いたような清潔感があり、日焼けしたその顔を伝う汗さえも、奈津には爽やかに映った。
その時、玄関の戸が開いた。奈津は反射的に立ち上がると、急いで客間を出た。階段から見下ろすと、案の定、洗面器を抱えた千草だった。
それからは、努は千草が風呂に行っている時間を狙って、時々、奈津に会いに来た。努から貰ったキャラメルやキャンディを食べながら、庭を眺めながら煙草を喫む努の横顔を見詰めるのが、奈津は好きだった。
そんなある夜。階下からの声で目を覚ました。聞き耳を立てると、努と千草の楽しげな笑い声だった。――奈津は、努に裏切られた気がした。くれると言った大好きなお菓子を目の前にして、やっぱ、上げない。と意地悪された思いだった。
(……お兄ちゃんなんか、大嫌い!)
翌朝、便所に下りると、努が客間から笑顔を出した。奈津は無表情で努を睨み付けると、無言で便所に走った。
翌日、努の来る時間に奈津は二階の窓から曇天を凝視していた。
「なっちゃん、おるとやろ?入るけん」
膝を抱えた奈津は、窓の外に目をやったまま微動だにしなかった。
「キャラメルば買うてきたばい。おまけはなんやろね?」
奈津の横に胡座を掻くと、キャラメルの蓋を開けてやった。
「お兄ちゃんなんか大嫌い!あげな汚なか女と!」
奈津は涙を溜めて睨み付けると、努が持っていたキャラメルの箱を手で払って、出て行った。
――それっきり、努は『千草』に来なくなった。その日から、奈津は独り遊戯を始めた。
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