独り遊戯

紫 李鳥

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千草

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 奈津が初めて千草に会ったのは、夏休みに入って間もなくだった。他県に出稼ぎに行く父親の義明が、夏休みの間だけ千草に預ける為だった。

 千草は、『千草』という小料理屋を営っていた。商売柄か、派手な身形で、着物の衿を大きく抜いて、真っ赤な口紅を付けていた。

「したら、頼むけんで」

「よかよ。私も独りもんやけんで、なんも、遠慮せんちゃ」

 千草は、義明にそう言いながら、煙草の煙を吐くと、奈津を見下ろした。

「礼ば言わんか」

 義明が奈津の頭を押した。

「……よろしく、おねがいします」

 奈津は小声で言った。

(……好かん。お父ちゃんは、この女にだまされとっとばい。こげな女といっしょに暮らすのはイヤだ。お父ちゃんのバカ……)

 義明は幾らかの金を千草に渡すと、出稼ぎに行った。

 千草は義明から貰った金を数えると、チェッ、と短く舌打ちした。

「あんたにも働いて貰うけんね。炊事に洗濯に掃除。分かったと?返事ばせんね!」

 一変して、癇癪持ちのような形相で怒鳴った。

「……はい」

 奈津は反抗的な目で見上げると、小さい声で返事をした。




 二階の六畳間が奈津の部屋になった。客の居る間は、階下の便所に行くのも禁止された。毎日、皿洗いや掃除をさせられ、揚げ句、食事も自炊を強要された。



 奈津が唯一気に入っていたのは、一階の客間から見える三坪ほどの庭だった。竹垣に蔓を伸ばした朝顔や、隅に咲いた矢車草を見るのが好きだった。



 その日も、畳の上に俯せになると頬杖をついて、庭に設けた鹿威しの音を数えていた。すると突然、襖が開いた。魂消たまげて振り向くと、そこには、般若みたいな形相の千草が立っていた。

「何遍言うたら分かっとね、ここは大事なお客が来るとこやけんで、入らんごとって、いつも言うちょろが!」

 千草は、奈津の白いブラウスの襟を引っ張ると、

「早よう自分の飯ば食べて、二階に上がらんね。客が来る前に」

 そう言って、背中を押した。奈津は大急ぎで、昼飯の残りの味噌汁を冷や飯にぶっかけて流し込むと、二階に上がった。



 そんな、ある夜のことだった。妙な声で目を覚ました。――すすり泣くような千草の声が階下からした。

(……誰かいるのかしら?)



 翌朝、便所に行こうと階段を下りると、客間から若い男が顔を出した。奈津が驚いていると、

「よっ」

 と、笑顔で声を掛けた。奈津は、恥ずかしそうに便所に走った。――戻ると、客間から楽しげな笑い声がしていた。奈津は何度も閉まった客間の襖に振り返りながら、静かに階段を上がった。

(……千草の恋人?)

 奈津は、その若い男のことが気になった。



 久し振りに、今まで住んでいた借家の近所に住む友達の家に遊びに行った。

「あそぼ!」

「なっちゃん、どこに行っとったと?急におらんごとなったけん、心配したとよ」

 友達ののりちゃんは、プリーツスカートから小麦色の脚を出していた。

「近くにおっと。お父ちゃんが仕事で遠くに行ったけんで、知り合いの家におると」

「そげんね。なんばしてあそぼか?」

「ゴムとびでも、マリつきでもよかばい」

「したら、マリば持ってくるけん」



 ――遅い昼食に戻ると、止まり木で食事をしていた千草が一瞥した。食べている物を覗くと、出前の鰻丼だった。

(……自分ばっか、うまいもんば食ってからに)

 冷蔵庫を覗くと、めぼしい物は何もなかった。仕方なく、冷や飯に味噌汁をぶっかけると、残っていた茄子の漬物を盆に載せた。横目で千草を睨むと、涼しい顔で鰻丼を頬張っていた。

(……鬼)

 二階に上がると、奈津は独り、貧しい食事をした。



 ――一日の千草の行動パターンは決まっていた。
昼前後に起きて食事を摂ると、店で出す料理の買い出しに出掛ける。戻ると、料理の下拵えをして、銭湯に行く。帰ると、その足でパーマ屋に行き、髪を結って貰う。戻ると、小紋に着替え、割烹着を纏う。そして、止まり木の中で本格的に料理の味付けに取り掛かる。――



 奈津はその日も、時間を見計らって客間に入ると、鹿威しの音を数えながら、庭の景色を堪能していた。

 と、その時。玄関の硝子戸が開いた。千草だとしたら、余りにも早い帰宅だった。奈津は敏捷に立ち上がると、襖から半身に構えた。……千草ではなかった。
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