下駄

紫 李鳥

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 八月某日の台風の夜、青梅おうめに住む高利貸し、森崎俊次(62)の自宅に強盗が入り、一千二百万円が奪われた。

「……マスクをした小太りの男で、黒い帽子を被って作業着を着ていた。手袋をして懐中電灯を持っていた。……他に何か思い出しませんか」

 煙たそうに煙草をくわえた山根拓也がボサボサの頭を掻いた。

「……熟睡してましたからね。もう、何が何だか」

 禿頭とくとうの森崎は腕組みをすると眉間に皺を寄せた。

「真夜中の二時じゃ、無理もありませんよ」

 山根も同じように腕組みをした。

「……そう言えば」

 その言葉に山根は咄嗟とっさに森崎を見た。

「足元が妙だった……」

 森崎は記憶を辿たどっている様子だった。

「…………」

 山根はじーっとして、森崎の“あっ、そうだ!”と言う言葉を待った。

「……あれは、革靴でも地下足袋でもなく、かと言って運動靴や長靴でもなかった。……あっ、そうだ、下駄だ!」

「……下駄?」

 あっ、そうだ、まではよかったが、まさか、回答が下駄になるとは山根は予想だにしなかった。

 ……暴風雨の中を下駄を履いて強盗?

 山根は調書を取っていた、相棒の井川宣夫と顔を合わせた。

 ――台風の真夜中に出歩く者はいないだろうが、念のために山根は井川を伴って近所の聞き込みをした。

 三軒目の松島春代宅で、奇妙な話を耳にした。

「えっ、下駄を盗まれたんですか?」

 井川が興奮気味にまくし立てた。

「ええ。下駄だけじゃなくて、主人の作業着も」

 大女おおおんなの春代が迷惑そうな顔をした。

「どんな下駄ですか」

 井川が続けた。

「男物の、普通の。あ、持ってきましょうか?」

「……持ってくるって、盗まれたんじゃないんですか」

 井川が間の抜けた顔をした。

「ええ。盗まれたんですけど、台風の翌日に、裏庭に戻ってました」

 井川は合点のいかない顔を山根に向けた。

「どう言うことなんですかね?」

「分からんよ」

 井川の問いに山根は冷たく答えた。


 春代が持ってきたのは、綺麗に畳んだ作業着と、泥一つ付いてない下駄だった。

「……洗ったんですか」

 井川が嘆いた。

「だって、気持ち悪くて……」

 二人は落胆の表情をし合った。


 春代から下駄を借りると、鑑識に回した。

 結果、森崎宅の畳にあった、二の字の下駄の跡と春代宅の下駄の歯が一致した。つまり、強盗犯は、盗んだ春代宅の下駄を履いて森崎宅に侵入したと言うことになる。下駄の歯の痕跡から、五十キロ足らずの体重であることが判明した。かなりの小男こおとこだ。

 山根は更に聞き込みを続けた。森崎宅から歩いて十分ほどの所にある、〈句会  撫子なでしこ〉と、毛筆で書かれた看板が山根の目に留まった。

「……俳句か。ちょっと訊いてみるか」

 山根は独言のように呟くと、井川を置いて、さっさと歩き出した。

 平屋の硝子戸を開けると、数足の履物がそろえてあった。

「ごめんください!」

「はーい!」

 山根の呼び掛けに女の返事があると、玄関に近い一番手前の襖が開いた。

 そこから現れたのは、浅葱色あさぎいろしゃの小紋に白地の絽綴ろつづれの名古屋帯をあしらった、つやっぽい女だった。

「あ、突然に申し訳ありません」

 山根は予期せぬ事態にしどろもどろしながら、内ポケットをあさった。

 女は山根の手にした警察手帳を認めると、何か?と言った表情をした。

「え、あ、台風の夜、この先で強盗事件があったんですけど、ご存じですか」

「はい。ニュースで知ってます」

 女は簡潔だった。

「で、当夜、何か不審な物音とか、何か気付いたことはありませんでしたか」

「台風が来るのはテレビのニュースで知ってましたから、その日は午後の三時ぐらいから雨戸を閉めました。ですから、もし、何か物音がしてもすべて台風のせいにしたと思います」

 笑みを浮べて語る女の、その無駄を省いた言い回しは、まるで、刑事との受け答えをあらかじめリハーサルしたかのように、山根には聞こえた。

「……そうですか。どうも、お忙しいところ、ご協力ありがとうございました」

 山根は軽く会釈をすると、戸を開けた。

 井川が名残惜しそうに、女に愛想笑いを向けていた。



「いい女ですね」

 井川がにやけた。

「……なんか、釈然としないな」

 山根が冴えない顔をしていた。

「えっ、そうですか?理路整然としてましたよ」

「だから、気に食わんのだよ。まるで、用意した台詞を読み上げたみたいだった」

「……そうですか?」



 翌日、山根は一人、〈句会 撫子〉に行った。昨日の小生意気な女に興味があった。

 看板の横の表札に〈広田〉とある玄関を開けると、今日は一足の履物も無く、廊下の片隅に置かれた織部焼おりべやきらしき壺が目を引いた。

「こんにちは!」

「はーいっ!」

 奥から女の声がすると、やがて、廊下を小走りでやって来る衣擦れの音がした。

 笑顔で待ち構えている山根を認めた途端、女は笑顔から一変してキツイ顔になった。

「まだ、何か?」

「いぇ。今日は俳句を教えてもらおうと思って」

 山根は揉み手もみででもしそうなご機嫌伺いをした。

「……本気ですか」

 女は疑う目をした。

「ええ。お願いできますか」

 山根は下手したてに出た。

「もちろんです。さあ、どうぞ」

 女は俄然、愛想が良くなると、山根の前にスリッパを揃えた。
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