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河原の白鷺
しおりを挟む北陸のその小さな町に越してきたのは、俺が中学二年の時だった。建設業の父の仕事柄、転校は致し方なかった。引っ越しは何度も経験があり、その頃はもう慣れっこになっていた。
その借家は、人家が点在する広漠とした荒地にあったが、それでも、唯一、美しい場所が存在した。それは、鳥たちが羽を休める、近くの河原だった。
「父さん。あの白い鳥は?」
「ん?ああ、鷺じゃないか」
「真っ白で、きれいだね」
「白鷺って言うぐらいだからな」
土手に腰を下ろした父は、たばこをくゆらせていた。
「……一羽しかいないね。家族とかいないの?」
「さあな。父さんと一緒で離婚したのかも」
「……父さんはロマンがないなぁ」
「そうか?埃まみれで働いていると、ロマンどころじゃないさ」
父はそう言ってたばこをもみ消すと、腰を上げた。俺は次の言葉が出なかった。『誰のおかげでめしが食えてるんだ。父さんが汗水流して働いているからじゃないか』そんな言葉が浮かんだからだ。
そんなある日。河原に行くと、白いものが見えた。最初、鷺かと思ったが違っていた。動くそれをよく見ると、白いワンピースを着た少女だった。小石を拾っているようだった。顔を向けた少女は俺に気づくと、びっくりしたのか、逃げるように走っていった。同じぐらいの歳だろうか、おかっぱの少女の顔は、どことなく大人びていた。
それからは、頻繁に河原に行くようになった。その少女に逢いたかったからだ。だが、明るい時間には会えなかった。時間をずらして、夕暮れに行ってみた。
あっ。対岸の人家の灯を映した水面に、白いものが浮かび上がっていた。あの子だ!心の中で叫んだ。
「……あのぅ」
俺の声に振り向いた少女は、驚いた顔をすると、また逃げようとした。
「僕、岩井琢郎と言います。明日、ここに来ますからっ!学校から帰ったら」
走り去る少女の背中に夢中で叫んだ。だが、少女は振り向くことも、足を止めることもせず、橋の下の闇に消えていった。
ちゃんと顔が見たい、話がしたい。そんな想いで、勇気を振り絞って声をかけたのだった。
翌日、急いで学校から帰った俺は、カバンを放り投げると、Tシャツとジーパンに着替えた。
短距離に自信のあるはずの俺の足は、逸る気持ちとは裏腹に、足踏みをしているだけの駄馬のように、やたらと遅く感じた。
はぁはぁはぁ……。息を切らしながら河原を見渡したが、期待した白いものは無かった。大きくため息をつくと、川岸に腰を下ろした。河原には、鷺どころか、一羽の水鳥すら居なかった。
しばらくの間、名も知らない川岸の草花を眺めながら、少女が来るのを待っていた。しかし、日が沈む頃になっても現れなかった。
とうとう、父の帰宅時間が気になり出した。俺が炊事の担当をしていたのだ。諦めて帰ろうと腰を上げた、その時。
「……あのぅ」
背後から声がした。とっさに振り向くとそこには、あの少女が立っていた。俺は思わず、顔がほころんだ。
「こんにちは。あ、こんばんはかな」
俺は急いで腰を上げると、少女と向かい合った。少女は指先で口元を隠し、クスッと笑うと、薄明かりに輝く丸い瞳を向けた。
「ぼ、僕、こっちに越してきたばかりで。M中の二年です」
「……わたしは、……なおこ」
ためらいがちにそう呟いて、なおこは顔を伏せた。
「僕、岩井琢郎です。よろしく」
「……よろしく」
なおこはまばたきのない目を向けた。夕飯の支度があった俺は、翌日会う約束をして、なおこと別れた。――
だが、その約束が果たされることはなかった。翌朝、葛西奈央子の遺体が河原で発見されたのだ。死因は、脳挫傷。鈍器のようなもので後頭部を殴られたのが原因だった。
死亡推定時刻は前日の午後六時から七時の間。つまり、俺と別れた後だ。まだ、ろくに話もしてないのに、まだ、互いのことは何も知らないのに、……まだ、俺の想いも打ち明けてないのに……。どうして?どうしてだよーっ!テレビのニュースでその事件を知った時、俺は心の中でそう叫んでいた。
――五年が経っていた。あれから、もう一度引っ越して、中三からは関西の小さな町に落ち着いていた。
高校を卒業すると、地元の建設会社に就職し、相も変わらず父と二人の、色気のない男所帯を続けていた。
恋人ができたのは、二十歳の時だった。会社までの交通機関は、遅れる可能性があるバスしかなかったため、万が一に備えて自転車で通勤していた。
遅刻しそうだったその日。かなりのスピードを出していた。アッ!路地から飛び出してきた女にぶつかりそうになった。だが、急ブレーキのおかげで衝突は免れた。
胸を撫で下ろしたのも束の間。事の発端を、全面的に俺になすりつけるかのように、女は咎める目で睨み付けると、自転車の前を横切ろうとした。俺は仕方なく非を認めると、
「……すいません」
と、小さく呟いた。すると、女は振り向いて、「ぃぃぇ」と言うように、口元をほころばせた。俺はホッとすると、全速力でペダルを漕いだ。――
それから数日後の休日。俺は駅前の書店で立ち読みをしていた。その横で棚を漁っている手の動きが視界に入り、気が散った俺は相手の顔を確かめるため視線をずらした。
「あっ」
思わず声が出た。射るような視線に不快感を覚えたのか、女は俺に上目を向けた。
「あー」
女のほうも思い出した顔をした。
「……先日は、すいませんでした」
俺は軽く頭を下げた。
「あ、いいや。うちこそ、急いどったさかい、かんにんな」
気性を窺わせるかのように、女は歯切れがよかった。
許してくれたお礼を口実にしてお茶に誘った。
「岩井琢郎と言います。先日は大変失礼しました」
改めて謝罪した。
「いいえ、うちこそ失礼しました。坂上美妃言います。よろしゅう」
短大を卒業したばかりだと言う美妃は、一駅先の食品会社で事務をしているとのことだった。同年代ということもあって、美妃とは話が合った。
――付き合い始めて数週間が過ぎた頃だった。美妃が指定した待ち合わせ場所に行くと、夕暮れの河原に、何か白いものが浮かび上がっていた。俺は途端に目を丸くすると、それを凝視した。
そこに居たのは、小石を拾う白いワンピースの美妃だった。だが俺には、その姿が奈央子に見えた。
「う゛ぅえーーーっ!」
俺は意味不明な言葉を発して、走って逃げた。奈央子から逃げた。六年前に死んだ奈央子から逃げた。
――あの時、知恵遅れの奈央子は、あの河原で体を売っていたのだ。そのことを知ったのは、翌日会う約束をして別れた後だった。夕飯の支度に家に帰った俺は、切れていた醤油を買いに川縁を歩いていた。
その時、橋の下に白いものが不意に隠れた。
……なおこ?
俺は雑草の生い茂る土手を下りた。
ブーン!
突然、橋をバイクが走り去った。わずかに街灯が差し込んだ橋の下を覗くと、コンクリートの壁を背にした奈央子が、男の背中に腕を回していた。
「あっ」
思わず声が漏れた。途端、ドクッドクッという心臓の音を感じた。急いで、丈の長い草に身を隠すと、その一部始終を覗いていた。――
十五年が過ぎた今でも、まだ奈央子殺しの犯人は挙がっていない。たぶんこの先も捕まることはないだろう……。なぜなら、十五年前の奈央子が、
この俺と出会っていたことなど、誰一人として知らないのだから……。
完
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