散る花の如く

紫 李鳥

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 その翌日だった。

「こっちでバイトしようかな。母さん、アパート借りていいでしょ?」

 雑煮を食べながら英征が綾子を見た。

「こっちで働くのかい? ほりゃあ嬉しいけど、アパートなんか借らんで、ここから通えばいいでねえか」

「……自活したいんだ」

「東京のアパートはどうするんだ」

 卓也は、おせちをつまみに酒を呑んでいた。

「こっちで仕事が決まったら、引っ越すよ」

「お前は浮き草みたいだな。バイトなんかしないで、うちの会社で働こうとは思わないのか」

 卓也がさかずきを傾けた。

「……自由に生きたいんだ」

「いいでねえの。英征の好きなようにさせてあげよまいか」

 ほたるいか生姜しょうが煮を食べながら、綾子が卓也を見た。

「おふくろがそう言うんなら、構わないが」

 英征を一瞥いちべつすると、ぶりの照り焼きを口にした。

 柊子は、鱈子たらこ昆布巻きを食べながら、柔らかな笑みを英征に向けていた。


 それは、仕事始めの当日だった。卓也は会社に、綾子は暁雄が運転する車で年始回りに、扶美は買い物に出掛けていた。柊子が寝室に掃除機をかけている時だった。突然、後ろから口を塞がれた。

「うっ」

 振り向くこともできないほどの力で押さえられ、身動きできなかった。どうやって逃れようかと考えたが、掃除機の音が邪魔して、冷静な判断ができなかった。

「うう……」

 力の限りにこばんだが、男の力は緩まなかった。だが、その指がスカートの中に入った瞬間、柊子は火事場の馬鹿力を出すと、思い切り身をよじって離れた。

 振り向いたそこには予想どおりの男がいた。柊子は悔しそうに唇を噛むと、横を向いている英征の頬を平手で打った。

「あなたが今したことは、卓也さんを冒涜ぼうとくしたのよ。分かってるの?」

「……」

 英征は頬に手を置いたまま、目を合わせなかった。

「……ごめん」

 英征はぽつりとそう言うと、げるように出ていった。柊子はため息と共に肩の力を抜くと、掃除機のスイッチを切った。――間もなくして、英征は家を出ていった。


 数日後、柊子に一本の電話があった。

「若奥様、お電話です」

 扶美の声で居間を出ると、廊下を行った。

「どなた?」

「佐々木とおっしゃる女の方です」

「……佐々木?」

 心当たりがなかったが扶美から受話器を受け取った。

「もしもし、お電話代わりました」

「しゅうこさんですか」

 若い女の声だった。

「はい、そうですが」

「代わりますので、ちょっと待ってください」

「あ、はい」

「……英征」

「! ……」

「ウエイトレスに電話してもらった。アパート決まったから住所言う。母さんと兄さんには内緒で」

「あら、ようこ? 久し振り。元気だった? ……分かったわ。どうぞ言って」

 居間にいる綾子に、相手が英征だと悟られまいとして、友人からの電話の振りをした。そして、電話台のメモ用紙に、筆圧を弱くして住所を書くと、跡が残らないように数枚を剥がした。

「じゃ、明日会おうか? 何時頃がいい?」

「一日中いる」

「了解。じゃ、お昼でも食べましょう」

「うん」

「それじゃ、明日ね」

 柊子は受話器を置くと、考える顔をした。……会ってはいけない。だが、会わなければ何度も電話を寄越すだろう。やはり、一度会ってちゃんと話をするべきだ。

 電話の相手が英征だと悟られたのではないかと、戦々恐々せんせんきょうきょうとしながら居間に戻ると、綾子は、

「お友達?」

 と、上目で一言訊いて、刺繍ししゅうの続きをした。


 翌日、綾子に友人に会うと嘘をいて出掛けた。英征のアパートに向かう途中にあったスーパーで食料を買うと、鉄筋コンクリートの二階の〈小山内〉と表札のあるドアをノックした。ドアスコープで覗いたのか、鍵を開ける音がした。開いたドアの向こうには、少年のような英征の笑顔があった。

「食事作りに来ましたわ、若お坊ちゃま」

 皮肉まじりに言った。

「ありがとう」

 悪びれる様子もなく、当然のように答えた。

 フローリングのワンルームには、真新しい組み立て式のベッドと小さなテーブル、それと小型の冷蔵庫があった。流しの横には炊飯器とトースターがあって、コンロの上には片手鍋とフライパンが置いてあった。

「料理、作ってる?」

 冷蔵庫に肉や野菜を入れながら訊いた。

「うん。インスタントラーメンや目玉焼きぐらいだけど」

「何食べたい?」

「何でも。任せる」

 英征はテーブルに置いた煙草を一本抜くと、アイボリーの丸いクッションに胡座あぐらをかいた。色々訊きたかったが、食後に話すことにした。

 買ってきた白飯でチャーハンを作ると、英征は「うまい!」と言って、あっという間に平らげた。コーヒーが好きな柊子は、一緒に買ったドリッパーとフィルターでモカを淹れた。

「……東京に帰ったんじゃないの?」

 コーヒーを飲みながら訊いた。

「……あんなことして居づらいから出たまでさ」

 煙草をくゆらせながら横を向いた。

「……私とどうしたいの?」

「……欲しい」

 目を見ないで呟いた。

「自分で何を言ってるか分かってるの?」

「分かってる。……覚悟もしてる」

「何を?」

「家族と縁を切る覚悟……」

「どうして? どうしてそこまで私に執着するの? 卓也さんを裏切ってまで……」

「好きになるのに理由が要るかよ」

 子供のように向きになって、柊子を睨んだ。

「どうしてそんな偏屈な物の考え方をするの? 私が訊いているのは、私は仮にもあなたの兄さんの妻よ。非常識だとは思わないの?」

「兄さんが好きになった人を俺が好きになって当然じゃないか。兄弟なんだから……」

「……え?」

 柊子は何が何だか訳が分からなくなっていた。自分の考える道徳というものが果たして本当の道徳なのか。理不尽りふじんに思える英征の言うことが正論なのか……。
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