月に影なす柳

紫 李鳥

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月に影なす柳

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 チントンシャン

「よその~夢見る~浮気な主に~貸して~悔しい~膝枕~」

 チントンシャン

「一日~逢わぬも~苦労の種よ~逢えば~涙の~しゃくの種~」

 チントンシャン

「舟は~出て行く~帆かけて走る~茶屋の~女は~出て招く~」

 チントンシャン


「相変わらずいい声だな」

 脇息きょうそくに片肘をついた御影耿之介みかげきょうのすけは、おのう都々逸どどいつに聴き惚れながらさかずきを干した。

「聴いてくれるのが耿之介さまだから、喉がうなるんですわ」

 三味線を置いたお濃は、耿之介に寄り添うと銚子を手にした。耿之介は盃を差し出すと、お濃のうなじに目を留めた。

「……今夜は泊まっていくぞ」

 その言葉に、お濃は一瞬顔を曇らせたが、すぐに表情を緩めた。

「……うれしい」

 耿之介の腕にすがった。



 ーー行灯あんどんあかりを消すと、月光が障子一面を照らした。そこには、風に揺れる柳が影をなしていた。



 ー月に影なす柳ー



 南町奉行所・同心、御影耿之介は、妻のある身でありながら、料理茶屋を営むお濃と恋仲であった。

 耿之介、二十五歳。お濃、二十八歳。


 お濃の紅から離れぬほつれ毛を優しく摘まむと、耿之介は月明かりに輝く枕元の鼈甲べっこうかんざしに視線をずらした。簪の輝きは、お濃の唇が放つ光沢と同様に妖美に映った。やがて、耿之介が胸に抱えていた道理なる物をにわかに失せさせた。

 ……われとて生身の男。色に溺れて何が悪い。

 酒が入った耿之介は、四角四面の性分とは反意していた。その、人目を忍ぶ逢瀬は、熱い想いをこのときとばかりにし、火炎の如く燃え上がらせた。ーー


 午前様で屋敷に帰ると、新妻のお櫁が眠い目を擦っていた。

「お帰りなさいませ」

「うむ……番所で寝てしまった」

 耿之介は、訊かれもせぬのに言い訳を口にして、寝間着のお櫁に目をやると、黒巻羽織を手渡した。三つ下のお櫁は世間の垢も知らぬ箱入り娘。耿之介は親が決めた妻をめとらねばならぬ身の上だった。

 ……嫁とめかけは別物。

 後ろめたさからか、そんな男の身勝手を正論にしていた。


 それから間もなくして、お櫁が身籠みごもった。お櫁の両親は大層喜んだ。吉報を胸に納めるのは難儀なもの。ましてや、初孫となれば、口に出さないはずがなかった。その噂はたちまち、同心番所にも届いた。


 お濃の耳に入るのも時間の問題だった。

「御影さまの奥方がご懐妊なさったそうじゃ」

 馴染み客の話を耳にした途端、お濃は愁色を浮かべた。

 ……耿之介さまは他人ひとのお方。それを承知で惚れた人。……だけど、私の心の片隅には、耿之介さまと夫婦になれるかもしれないという、微かな望みがあった。だが懐妊に因って、私の夢は幻に終わった。このまま、耿之介さまに逢っては虚しくなるばかり。一層の事、身を引こうか……。



「旦那っ、てぇへんでぃっ!」

 岡っ引の三吉が血相を変えて、番所に駆けつけた。

「どうした?三吉」

「お、女の土左衛門どざえもんでっせ」

「何っ!女だ?」

 耿之介は急いで散緒ばらお雪駄せったを履いた。


 呉座ござを捲って顔を見た途端、耿之介は目を丸くした。そこには、まるで寝顔のように安らかなお濃の横顔があった。その頬に、しずくを垂らすほつれ毛がまとわりついていた。それは、耿之介の腕に抱かれるときのお濃を思い起こさせた。

「お……」

 思わず、お濃の名を口走りそうになって堪えた。そして、一筋のほつれ毛を優しく摘まんだ。

「……旦那、知ってるんですかい」

「……いや。……ただ、これ程に美しくありながら、なぜ、身を投げたのかと、……不憫ふびんに思って」

 耿之介は声を殺して泣いた。



 それから間もなくして、耿之介の姿が消えた。





 料理茶屋の二階の障子には、月明かりに柳が影をなしていた。風に揺れる柳の影はまるで、愛する人に抱かれる淑女のように窈窕ようちょうあでやかだった。ーー






   了
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