Arroganz/アロガンツ

青ちょびれ

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一章/Frieren

7/月の眷族

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 グライブの吸血種は、亜種が増えると統計的に数が減る。淫魔ひとりが生まれた年には不思議に出生率が下がるのだ。亜種に利点を見出し、倫理を度外視に量産したとする。すると吸血種の出生率が下がるのだから種は衰退する。淫魔に繁殖能力は無く、種の存続に支障のあることからグライブでは近親相姦を特に禁じ、不文律を犯す者があれば種族制管理の一環として公爵家指揮の下、貴族が率先して粛正するのであった。
 まだカリヴァルドが淫魔の遺骸をシンメルの堆肥とすることを知る以前、広大なる領地を預かり、グライブの伝統に複数の影響を与えたクディッチ家にあってヴィーケ・クディッチが実兄と通じたのだと発覚した。衝撃を受けたのは嫡子たるカリヴァルドのみであろう。不貞を糾弾した少年に対して、母のヴィーケと当時の当主であったエヒトの揃う食堂は静まり返り、彼らの平静さは姦淫が周知の事実として行われていたことを告げていた。

「家族の愛情と、男女のそれを取り違えるなどあり得ないことだ」

 テーブルクロスの影で、男性としてようやく筋の張ってきた拳をカリヴァルドは固く握り締め、母を睨めつける。

「何がいけないの」

 ヴィーケの答えにカリヴァルドは絶句した。一等親以内の姦通の忌まわしさは心理的嫌悪感に留まらない。貴種として遇され、富を享受しておきながら責任を放棄したことがカリヴァルドには度し難い。
 先祖より相続した遺産と土地を維持し、強力な権力と巨大な責任の均衡を保つ。それが貴種として生まれた者の心得、我が身は常に社会に紐づき、単体で自由に出来るほど軽々しいものではない。
 ヴィーケ・クディッチは病名こそ曖昧だが、生まれついて偏った性質であろうとカリヴァルドも承知している。輝く美貌は彼女の無口さを補ったが、エヒトが妻を連れて公の場に出たのは数える程度。僅かに女主人らしく振る舞っても負担が大きく、長く寝込んで起き上がれなくなる。屋敷にこもりがちで慰問に出向くにも苦労する、漆黒の髪を垂らした病弱な女。
 妻に対して夫のエヒトは窘めもせず、叱りもせず、挨拶や僅かな雑談を交わす知人に似た親切さで彼女をただ囲っていた。時折、エヒトに爵位を譲った叔父のアーベルがやってきてヴィーケと話す。彼等は双子を疑うほど容姿の似通った兄妹で、アーベルは柔和、ヴィーケは儚く、言葉少なに寄り添う兄妹の姿はクディッチ家の見慣れた光景であった。親世代が習慣化した生活様式であり、カリヴァルドの生まれた時には既に当然の事として馴染んできた為、母の脆弱さにも夫婦の他人行儀めいたやりとりにも、兄妹の仲睦まじさにも、多少の疑問こそ覚えても変化を望む気は起らなかった。だが、穏やかさの裏側で叔父と母が通じていたとあっては話が違う。

「叔父を愛することで父や私に累が及ぶとは考えなかったのですか。肉親と愛し合えば他者が苦悩を受け、死を呼ぶというのに」

 道徳を息子が母に語らねばならぬやりきれなさ、悔しさ、怒りの裏にひそむ悲しみがカリヴァルドの声音の厳しさに、微妙な響きを加えていた。
 母の精神が危ういといっても情は理屈を超えると期待した。理解出来ずとも感じることはできるのではないか。叔父と分け合う愛があるなら、夫と息子が死する可能性に痛む情もあるのではと。カリヴァルド自身が怒りを覚えながらも母と対話を試みているからこそ。

「過去を理屈で裁くことは出来ないわ。結果は貴方の言う通りね、だけど過程は渾然一体なのよ。私のわかることは、家族は一番強い愛情で結ばれているということ」

 病弱までは構わないが、自省しない姿勢は消極的な暴力ではないか。どうあっても埋まらぬ溝があり、対岸で女は無法を極めようとする。カリヴァルドが将来に向けて努力しようと相手は彼の事情も命も斟酌しない。
 腹の底から母を嫌悪し、忌まわしき姦婦めが、と吐き捨てた。彼は初めて殺意じみた感情を覚え、血気に逸る片手が整然と陳列した食器を薙ぎ倒す。陶器が床で砕け散り、スープはテーブルクロスに血痕の如く染みを遺した。
 当然に背負うはずの家格、領地、クディッチの系譜が積み上げた周囲との信任。一切を母の不貞で喪う忌まわしさ。その後の状況は殆ど少年の意志を無視し、なるようにしかならずに過ぎ去った。
 処刑の任を帯びたロートヒルデ子爵が私兵を連れて屋敷に踏み込み、彼の剣がカリヴァルドに貫く直前、息子を庇って父のエヒトが致命傷を受けた。遺体となりゆく父を受け止め、流血の重みに嘆く間もなく、屋敷内で最も幼く若いカリヴァルドは執事を含む家僕の助力を得て夜の闇に送り出される。まだ息のある黒馬を駆り、少年は寒気猛る地にて、その身ひとつ、外套すら着ることが間に合わずに凍る夜風のなかを走る。
 彼の背後は森の木々に遮られ、屋敷の遠影は望めない。瓦解した生活と、臓腑に刃を受け入れて父が血泡と共に零した遺言だけがある。父は森に行けと言い、そこに妹がいると遺した。
 カリヴァルドの気性と育った環境からして、惨めに逃げ遂せるなど生き恥でしかない。彼にとって、潔き死の理想像からかけ離れた我が身の有様は、生きるに値しない命であった。命を自ら擲つことが出来ず、介錯しきれぬために心臓が動いているうちは走るしかない。黒馬に跨り、遺言に従う亡霊として森の深部を目指す。
 そして、彼は月光を見出した。淫魔の子供は皆、吸血種には見慣れない銀髪と赤い瞳を持つ。近親相姦の忌み子で、出自は穢れ、殆どは望まれぬ子だという。森の深く、隠れるように建てられた小屋に住まうクラールハイト夫妻は、秘密裏に子供を預かり、育てていた。淫魔は生まれて直ぐに処刑する決まりなのだから、監視のない環境で育てればクラールハイト夫妻の命も危うい。エヒトが子供を預け、夫婦は命懸けで承諾した。幼い命を憐れんだのではない。老夫妻の息子はエヒトで、彼がヴィーケとアーベルの子供を生かすには他に手段が無いとして、両親に孫として育てて欲しいと頼み込んだ、その慈愛に応えたのだ。
 この夜、カリヴァルドの元にはロートヒルデ子爵が差し向けられたが、森のクラールハイト夫妻の元へは伯爵が到着しており、小屋には既に火が付けられていた。この伯爵はデヴォルゲン・ヴィルベリーツァといい、民からは広く尊敬を得ていたが、思考は窺いしれず、重い沈黙を保つ老獪であった。彼は淫魔の子供ごと小屋を燃やして事を終わらせようとしたのだが、そこにカリヴァルドが介入し、火の中で淫魔の子供と対面したのである。
 宵闇を経て業火に照らされた少年は血濡れていた。負傷ではなく、シャツとベストが父の血を吸って染まったのである。粗末な家屋が軋みをあげて限界を訴える中、共に逃げ場のない者同士であるせいか、熱と火の粉に肌を炙られながら両者は奇妙な落ち着きを備えていた。カリヴァルドは立ち竦む子供に向けて片手を差し伸べる。

「家族は一番強い愛情で結ばれているという。俺はお前を迎えに来たのだよ」

 貴族は賞罰に紛動されず、賄賂に靡かず、私欲に乏しい。他者を視野に入れた習慣が根底に染み付き、自分だけの命を持たない。彼は咄嗟に淫魔の関心を惹こうとしたのだろう。無意識下で幼子を篭絡し、庇護すべき対象とすることで無価値な己がどうにか生きていくための、大義名分とするために。
 黒煙が視界を覆い始めているのに、淫魔はカリヴァルドに飛びつくことをしない。気高いのか、臆病なのか。子供に媚びた笑みを維持する間に、カリヴァルドの方が咳き込む。衰弱と疲弊、夜道を走る間に起こった様々な精神的な煩悶が去来し、煙でむせる度に膝の力が抜けていく。母と叔父を幾ら嫌悪しようとも逃れられない。体に影が沿うように、皮膚の下を畜生の血が通う。
 食堂を出た時には、一切が潰えたほうが潔いと決意していた。誰より先に粛清の剣に身を晒し、クディッチの嫡子に相応しき死を遂げる。そういう覚悟でいたはずなのに、煙に噎せて喘ぎ、苦しみながら呼吸をしているのは何故なのか。生き汚いだけではないか。焔に照らされ、溢れるほどの光の只中で彼の意識は昏い。煙でもなく、夜でもない場所から及ぶ翳りが自我を絡めとり、下降させていく。土に受け止められないばかりに、果てのない深さまで。

「死にたくない」

 覇気を無くし、茫然自失となりかけたカリヴァルドの耳朶を子供の声が打つ。母の声より鮮やかで、父の遺言よりも確かに。

「助けて! 私は死にたくない」

 カリヴァルドが己のためには決して認めがたい、死にたくないという原始的な感情。生きるべき価値と意義が見つからないばかりに喉を塞いでいた欲求。彼を見上げる子供の、涙を溜めた双眸を通して覗いた切迫さはカリヴァルドの精神と重なった。彼女の悲鳴は彼の悲鳴でもあったのたのだ。
 突然に血の通う心地がして、自分の為には指先ひとつ動かせないはずの腕があがり、カリヴァルドは子供を抱き上げた。小さな子供を固く胸に抱いて、焔の中を脱する。陽も届かぬ懊悩の闇に差す光として、彼にとっては妹こそが地上に輝く月の眷属といえた。
 始まりこそは窮地が作った状況と打算であれ、妹なくしては一切が立ち行かず、屋敷も領地も他者の手に渡ってしまい、カリヴァルドは多くを諦めたに違いない。廃人として彷徨うか、再起するかの契機を乗り越える活力を妹と生きることで彼は取り戻し、ノウェルズもまた兄に命を救われて夜を超えたのである。
 幼い時代は過ぎ去った。月と陽は重なれば陰り、時の経過に従って片側は地平線に沈む、それが道理であろう。彼らの愛情は今や、決定的な形で歪んでしまった。雲が流れ、風が囁く中、フリーレンのみが朝と夜との区別なく天を貫き存在している。
 空気が白み、宵闇が希釈された頃、ノウェルズ・クディッチは瞼を震わせた。室内は薄灰色に染まり、澄んだ寒さと静寂に満たされている。窓より差し伸べられた光の御手が、ノウェルズの投げ出した手に暖かく重なっていた。
 掛布を捲る。寝台の下を確認するも花瓶の破片は無い。顔をあげたなら、書斎机の上に転がった釦が目に留まる。襟を暴かれた際、行方知れずとなったはずの物だ。着替えた覚えの無いネグリジェの裾を揺らし、彼女はひとり窓辺に立つ。寝台と窓を結ぶ僅かな距離のなんと短く、軽やかな足取りであったことか。目覚めにつきものの倦怠感も、頭痛も、吐き気も、眩暈も、何もない。
 開け放った窓から滑り込むのは、冷ややかな風。見慣れたはずの一切は、回復した五感によって鮮やかな感慨と共に映り、知らず彼女は息を飲む。最も無垢なる光が地平線より現れ、三階から望む風景を変えていく。劇の開幕を迎える様に。

「――朝陽」

 四肢に漲る活力を実感すれば罪悪感も追い付かない。
一夜にして齎されたものは、ノウェルズが遠く置き去りにし、忘れ去っていた本来の生命力、その全てであった。やがてグライブに聳える全ての屋根は光を戴き、室内に設置された家具もその物の色を取り戻すであろう。
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