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わたし、狼になります!
第55話 狼の掟
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外から何やら騒然となる気配が伝わる。怒鳴り声が聞こえた。
「血闘だ」
「何だって。誰と誰だ」
急を告げる叫び声。シェリーは窓へと駆け寄った。戸を押し開けて外を見晴るかす。広場の方向へと走っていく誰かの姿が見えた。口々に怒鳴っている。
「わからん」
「シルヴィの家だ」
シェリーは身体の芯が氷のように冷え固まるのを感じた。ルロイはシルヴィともう一人、名は失念したが、彼らと会う約束があるのだと言って出かけた。頭の中まで白く凍り付く。何も考えられなくなる。
「血闘……どういうこと……?」
呆然とつぶやく。もちろん言葉は聞き取れる。が、その意味するところがシェリーには分からない。だが。
シェリーは強くかぶりを振った。たとえ意味は分からなくても、血なまぐさい言葉の響きと差し迫った村の様相からあらかたの様子は推察できる。
ルロイの身に何かあったにちがいない。
だが。身を翻し、外へ向かおうとする足取りが、なぜか、急に止まった。
怖い。怖かった。ためらいが足取りを萎縮させる。
狼の群れに無力な人間がひとり。ルロイが言ったとおりだ。何もできない自分がバルバロ同士の争いに口を差し挟むなどできるはずがない。いつもはあんなに優しいルロイでさえ、秘密を抱えたままのシェリーに対し、怒りをあらわにして家を飛び出して行ってしまった。相手の気持ちさえろくに分からない、そんな自分に何ができるというのだろう──
ともすればちぢこまろうとする気持ちを押し込め、シェリーは半分濡れたままの服を着込んだ。何か、要りようなものがありはしないかと回りを見回す。
「そうだわ、あれを」
飛びつくようにして戸棚を開け、しまってあった取っ手つきの小箱を取り出す。これさえあれば何とかなる。
そのまま、性急な風に追い立てられるかのように、家の外へと走り出る。
「いったい、どこで」
家から飛び出してから、周囲を見回す。数人が同じ方向へと走ってゆくのが見えた。
「すみません」
シェリーはその後ろ姿に声をかけようとした。
「あの、どなたか、すみません。何があったのか教えてもらえませんか。お願いします……どなたか」
だが、誰も振り向こうとはしない。声の小さなシェリーの存在に気付く者はなかった。次々に追い抜かれる。皆が血相を変え、声を荒らげ、シェリーの存在を無視して駆け去ってゆく。
「邪魔だ。どいてくれ」
すれ違いざまに誰かと肩とぶつかった。シェリーははじき飛ばされ、よろめいた。それでも相手は立ち止まらず走ってゆく。
「すみません……あの、いったい何が起こって……」
誰もシェリーの声を聞いてはいない。シェリーは蚊の鳴くような声を振りしぼろうとして。
何かが、閃光のように頭の中でひらめいた。シェリーはぶつかった肩を手で押さえた。
ぶつかった相手は、シェリーを無視しているわけではないのだ。仲間の身を案じるあまり、この場でうじうじとためらって立ち止まる者を相手にしている時間がないだけのことだった。
「待って」
自分でも驚くほどの、よく通る声が口を衝いて出た。
「血闘の行われている場所はどこです。誰か知りませんか」
怖じけている場合ではなかった。たとえ知らない相手だろうが誰彼構わず、目に付いたバルバロのいかつい背中に向かって声を張り上げる。
ようやく一人が立ち止まった。
「広場だ。シルヴィが立ち会ってるらしい」
「誰と誰が。まさかルロイさんじゃないですよね」
続けざまに問いつめる。相手はわずかにうろたえた。普段はおっとりと羊のように物静かなシェリーが、まるで別人のように険しい口調でするどく問いつめたせいだ。
「分からん。とにかく見に行くしかない。櫓のある広場だ」
「ありがとうございます」
シェリーはひたすら走った。息が切れる。のしかかる不安の重さで、心臓がつぶれそうだった。
▼
ざくりと音を立てて。
刃は、ルロイの喉元すれすれに地面へと突き刺さった。首の皮一枚のところを、鋼の殺気が貫いている。
いつの間に回りに集まってきたものか、周囲で見守っていた村のバルバロたちがどよめきをあげる。
「勝負あった」
「王の勝ちだ」
剣の切っ先で首輪が断ち切られる。鎖と首輪で隠していた黒い紋章があらわになった。ルロイはとっさに首筋を隠す。かっと顔が紅潮した。
血闘が終わったのを見計らい、シルヴィが出てきた。血闘の勝敗を見極めた証として、金の牙を再び黒ずくめのバルバロへと返す。
「あんたの勝ちだ。アドルファー」
シルヴィの後ろから、じゅずつなぎにくっついてきた妹たちは、困ったような顔をして互いに眼を見合わせた。
「おうさまがかち?」
「どっちがおうさま?」
「くろいほうがルロイ?」
「強い方が王だ」
黒ずくめのバルバロは剣を引いた。ルロイは身を起こし、座り込んだまま奥歯をぎりっと噛みしめた。足元の土を睨み付ける。
黒ずくめのバルバロがつけた剣の痕が、地面を生々しくも深くえぐっていた。古い首輪が真っ二つに切り裂かれ、散らばっている。
「山のふもとの森に、人間の兵士どもがうろついているのを見たとの報告を受けた。年寄りと子どもは城に避難させる。戦える者は武器を手に取れ。全員で守りを固めるよう、村の主立ったものに伝えろ」
黒ずくめのバルバロは漆黒の眼に暗い光を宿らせた。
「いいか、ルロイ。貴様には俺の弟として、王族として一族存亡の戦いに身を投じる義務がある。人間はバルバロの敵だ。やつらの奴隷狩りで死んだ仲間の無念に背を向け、貴様一人だけが、のうのうとくだらぬ夢を見るなど許されるわけがない」
ルロイは歯を食いしばり、うつむいた。拳に土を握り込む。爪が深く、手のひらに食い込んだ。手が震える。
無様だった。相手の顔を直視できない。
その目の前の地面に、金のチョーカーが投げ与えられた。金属音が地面に跳ねる。
「王族の証として、これを貴様にくれてやる」
黒ずくめのバルバロは、きびすを返した。
「人間と決別しろ。狼には狼の掟がある。裏切りは許さない。いいな」
後に残されたチョーカーだけが、土にまみれ、むなしくくすんでいる。
それは、完膚無きまでの敗北を意味した。
外から何やら騒然となる気配が伝わる。怒鳴り声が聞こえた。
「血闘だ」
「何だって。誰と誰だ」
急を告げる叫び声。シェリーは窓へと駆け寄った。戸を押し開けて外を見晴るかす。広場の方向へと走っていく誰かの姿が見えた。口々に怒鳴っている。
「わからん」
「シルヴィの家だ」
シェリーは身体の芯が氷のように冷え固まるのを感じた。ルロイはシルヴィともう一人、名は失念したが、彼らと会う約束があるのだと言って出かけた。頭の中まで白く凍り付く。何も考えられなくなる。
「血闘……どういうこと……?」
呆然とつぶやく。もちろん言葉は聞き取れる。が、その意味するところがシェリーには分からない。だが。
シェリーは強くかぶりを振った。たとえ意味は分からなくても、血なまぐさい言葉の響きと差し迫った村の様相からあらかたの様子は推察できる。
ルロイの身に何かあったにちがいない。
だが。身を翻し、外へ向かおうとする足取りが、なぜか、急に止まった。
怖い。怖かった。ためらいが足取りを萎縮させる。
狼の群れに無力な人間がひとり。ルロイが言ったとおりだ。何もできない自分がバルバロ同士の争いに口を差し挟むなどできるはずがない。いつもはあんなに優しいルロイでさえ、秘密を抱えたままのシェリーに対し、怒りをあらわにして家を飛び出して行ってしまった。相手の気持ちさえろくに分からない、そんな自分に何ができるというのだろう──
ともすればちぢこまろうとする気持ちを押し込め、シェリーは半分濡れたままの服を着込んだ。何か、要りようなものがありはしないかと回りを見回す。
「そうだわ、あれを」
飛びつくようにして戸棚を開け、しまってあった取っ手つきの小箱を取り出す。これさえあれば何とかなる。
そのまま、性急な風に追い立てられるかのように、家の外へと走り出る。
「いったい、どこで」
家から飛び出してから、周囲を見回す。数人が同じ方向へと走ってゆくのが見えた。
「すみません」
シェリーはその後ろ姿に声をかけようとした。
「あの、どなたか、すみません。何があったのか教えてもらえませんか。お願いします……どなたか」
だが、誰も振り向こうとはしない。声の小さなシェリーの存在に気付く者はなかった。次々に追い抜かれる。皆が血相を変え、声を荒らげ、シェリーの存在を無視して駆け去ってゆく。
「邪魔だ。どいてくれ」
すれ違いざまに誰かと肩とぶつかった。シェリーははじき飛ばされ、よろめいた。それでも相手は立ち止まらず走ってゆく。
「すみません……あの、いったい何が起こって……」
誰もシェリーの声を聞いてはいない。シェリーは蚊の鳴くような声を振りしぼろうとして。
何かが、閃光のように頭の中でひらめいた。シェリーはぶつかった肩を手で押さえた。
ぶつかった相手は、シェリーを無視しているわけではないのだ。仲間の身を案じるあまり、この場でうじうじとためらって立ち止まる者を相手にしている時間がないだけのことだった。
「待って」
自分でも驚くほどの、よく通る声が口を衝いて出た。
「血闘の行われている場所はどこです。誰か知りませんか」
怖じけている場合ではなかった。たとえ知らない相手だろうが誰彼構わず、目に付いたバルバロのいかつい背中に向かって声を張り上げる。
ようやく一人が立ち止まった。
「広場だ。シルヴィが立ち会ってるらしい」
「誰と誰が。まさかルロイさんじゃないですよね」
続けざまに問いつめる。相手はわずかにうろたえた。普段はおっとりと羊のように物静かなシェリーが、まるで別人のように険しい口調でするどく問いつめたせいだ。
「分からん。とにかく見に行くしかない。櫓のある広場だ」
「ありがとうございます」
シェリーはひたすら走った。息が切れる。のしかかる不安の重さで、心臓がつぶれそうだった。
▼
ざくりと音を立てて。
刃は、ルロイの喉元すれすれに地面へと突き刺さった。首の皮一枚のところを、鋼の殺気が貫いている。
いつの間に回りに集まってきたものか、周囲で見守っていた村のバルバロたちがどよめきをあげる。
「勝負あった」
「王の勝ちだ」
剣の切っ先で首輪が断ち切られる。鎖と首輪で隠していた黒い紋章があらわになった。ルロイはとっさに首筋を隠す。かっと顔が紅潮した。
血闘が終わったのを見計らい、シルヴィが出てきた。血闘の勝敗を見極めた証として、金の牙を再び黒ずくめのバルバロへと返す。
「あんたの勝ちだ。アドルファー」
シルヴィの後ろから、じゅずつなぎにくっついてきた妹たちは、困ったような顔をして互いに眼を見合わせた。
「おうさまがかち?」
「どっちがおうさま?」
「くろいほうがルロイ?」
「強い方が王だ」
黒ずくめのバルバロは剣を引いた。ルロイは身を起こし、座り込んだまま奥歯をぎりっと噛みしめた。足元の土を睨み付ける。
黒ずくめのバルバロがつけた剣の痕が、地面を生々しくも深くえぐっていた。古い首輪が真っ二つに切り裂かれ、散らばっている。
「山のふもとの森に、人間の兵士どもがうろついているのを見たとの報告を受けた。年寄りと子どもは城に避難させる。戦える者は武器を手に取れ。全員で守りを固めるよう、村の主立ったものに伝えろ」
黒ずくめのバルバロは漆黒の眼に暗い光を宿らせた。
「いいか、ルロイ。貴様には俺の弟として、王族として一族存亡の戦いに身を投じる義務がある。人間はバルバロの敵だ。やつらの奴隷狩りで死んだ仲間の無念に背を向け、貴様一人だけが、のうのうとくだらぬ夢を見るなど許されるわけがない」
ルロイは歯を食いしばり、うつむいた。拳に土を握り込む。爪が深く、手のひらに食い込んだ。手が震える。
無様だった。相手の顔を直視できない。
その目の前の地面に、金のチョーカーが投げ与えられた。金属音が地面に跳ねる。
「王族の証として、これを貴様にくれてやる」
黒ずくめのバルバロは、きびすを返した。
「人間と決別しろ。狼には狼の掟がある。裏切りは許さない。いいな」
後に残されたチョーカーだけが、土にまみれ、むなしくくすんでいる。
それは、完膚無きまでの敗北を意味した。
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