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彼らには翼がある

なおいっそう、どきんどきんして、ぱたぱたして、さらにどきどきして、ぱたぱたして。

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 地底湖の洞窟から脱出すると、外はもう、夜だった。

 キイスとミシアはドッタムポッテン村へは戻らず、南の国へ駆け落ちするという。ありあわせの服や路銀のいくらかをミシアにゆずって身支度を調えさせると、別れを惜しむ間はもう幾ばくもなかった。
 ともに手を取り合って去ってゆく二人の姿は、森の木々に遮られ、すぐに見えなくなる。

 今度こそ、二人きりだった。

「私たちも、行きましょうか」
 静かな風が吹きすぎる。ずっと見送っていたアリストラムが、気を取り直したように振り返った。
「うん」
 胡乱に答えはしたものの、ラウ自身は、自分たちがいったいどこへ向かえばいいのか、よく分からなかった。

 何とはなしに肩を落とし、アリストラムのあとについて夜の森を抜ける道を、そぞろに歩く。

 割れた朽ち木の匂い。土の匂い。積み重なった枯れ葉と苔と青草の匂い。さまざまな匂いが生暖かく入り混じっっている。森本来の息吹が肌にまとわりつくかのようだった。

 ざわ、ざわ、と、風に身をゆだねた枝葉が大きく森をうねらせている。そこかしこで騒ぎ立てている虫は、ラウとアリストラムが傍を通るたびにぴたりと鳴き止み、十分に遠ざかった背後から鳴き始める。

 夜の鳥が鳴く。
 ふと森が切れた。
 樹冠にかかる月が明るい。
 夜空の縁に濃い灰色の雲が流れている。東の空に赤く針のように光る強い星が見えた。

 満天の夜空。水晶の輝きと見まごう星が数限りなく散り敷かれ、瞬いている。
 渓流の水音が心地よく耳に届いた。川面の風がさわりと頬を撫でる。

「ずいぶんと遠くまで来てしまったような気がしますね」
 先に行っていたアリストラムが、ラウを待つかのように立ち止まっていた。

「こっちへいらっしゃい、ラウ」
 穏やかに手招かれる。
 ラウは走り出した。尻尾をなびかせてアリストラムの傍らに飛び込む。

「どうかした? 何か用?」
「いいえ、別に」

 アリストラムは口元をほころばせた。

「水辺まで出られたことですし、今夜はもう、このあたりでテントを張って休もうかと思うのですが」
「うん、いいよ。ごはんも食べたいしね!」
「そうでしょうね」

 アリストラムはうなずいた。少し小高い、平らな場所を見つくろって休憩所に選び、掌を地面へとかざす。
 アリストラムがぱきんと指を鳴らすと、ちいさな三角のテントが現れた。

 カバーのかかったテーブル、帽子の付いたランタンには灯がともっている。それから椅子が二脚、食器、ランチョンマット、斜めに傾いたワインバスケットやカトラリーのはいったかご。ティーセットにサンドイッチ、フルーツの皿がピラミッドのように重なったスタンドが彩りを添える。

「もう、釣りも狩りもできる時間ではないので、軽いお夜食で済ませてしまいたいのですが、かまいませんか?」
「うん」

 アリストラムが指を鳴らすたび、沢山の鍋やフライパンや料理道具などが踊りながら降ってくる。愉快な、騒々しい音を立てて積み重なってゆく様子にラウは歓声を上げた。

「ラウ、先にお茶を沸かしていて下さい」
「うん」
「ちゃんと手を洗ってきましたか」
「うん!」
「では、いただきましょう」

 アリストラムが眼を閉じて神に祈っている間、ラウは大自然の女神様に今日も一日美味しいゴハンをありがとういただきます! と頭の中でまくしたて、さっそくぱくぱく食べ始めた。

「ところで、いつも不思議なんだけど、魔法でゴハン出すのって、どこから出してるの?」
 アリストラムは柔和に眼を細めた。
「企業秘密です」
「食べたいものなら何でも出せる?」
「まさか」

 アリストラムは困ったような微笑を浮かべた。ミモフタモナイ言葉でまとめる。

「あとでハンターギルドから魔法飲食代として請求書がくるのです」
「うっ……何てせちがらい世の中なんだ」
「それは当然でしょう」

 言いかけて、アリストラムは急に口をつぐんだ。スープのカップをかたんと置いて、まじまじとラウを見つめる。

「ところで、怪我の具合はいかがです? 言われるがままに夕食を出してしまいましたが、そんなにがつがつ食べて大丈夫なのですか」

 そんなふうに言われると何となく不安な心地になる。
 ラウは炙ったベーコンを分厚く切ってはさんだライ麦のオープンサンドをぱくりとまるごとくわえ、開いた両手で服をめくりあげた。
 包帯に覆われたおなかがぺろんとあらわになる。
 なぜか、既にぽこん、とふくらんでいる。

「……またタヌキになって」

 くびれたウェストなどどこにもない。アリストラムは幻滅の遠い目をしながら、手際よく包帯をほどいた。
 解き終わった包帯が、はらはらと地面にほどけて落ちる。
 ラウは腹鼓を叩いてみた。見事な音がする。

「治ってるみたい」
「心配して損しました」

 アリストラムはため息をついてみせた。
 ラウもつられて笑い出しそうになった。が、ふと心配になってアリストラムの顔をのぞき込む。

 刻印の支配から逃れるためとはいえ、自らの肩を剣で突いたのだ。たとえ治癒魔法を掛けたとしても完全に傷が癒えるには相当の時間がかかるだろう。
 人間の回復力は魔妖と比べてかなり低い。普段通りの振る舞いをしてみせてはいるが、やはりどこかに不調が残っているのか、顔色は冴えない。

 見つめる視線に気づいたのか、微笑んで頭を振ろうとするアリストラムの額に、ラウは、ぴとっと手をあててみた。自分のおでこの熱と計り比べてみる。

「ちょっと熱があるんじゃない? 魔法でいろいろ出したから疲れちゃったとか」
 アリストラムは倦いたふうに肩を落とし、息をついた。
「そうかもしれませんね」
 両瞼を挟むようにして指で押さえ、ゆっくりと揉みほぐしている。

「もう休む?」
「そうですね」

 だがアリストラムは動こうとしなかった。額の上のラウの手に、そっと自分の手を重ねる。

「ごはんをお腹の中に片づけながらで構いませんので、ちょっと、一緒に座って休憩してもらえませんか」
「うん」

 ラウはアリストラムの隣へ椅子を持っていって並べ、腰を下ろした。
 ゆったりと寄り添う。アリストラムはおだやかに眼を閉じた。

「確かに、少し、疲れているのかもしれません」

 ため息のようにつぶやく。
 どきり、とした。
 と、思いも寄らぬ暖かさと大きさで、指全体を包み込むようにぎゅっと握られた。
 以前のアリストラムとは違う握り方。
 心許なさと同時に、おだやかな心地よさが伝わってくる。
 ラウは、アリストラムの手を握り返した。

 手と、手。
 指先と、指先。
 相手をいたわるように、力を入れすぎないように、ぬくもりを求めて手を取り合う。

 ラウは眼をしばたたかせた。
 とくん、と、心臓が跳ねる。
 隣に、アリスが座っている。黙って手を握られ──じっとしている、だけなのに。

 手を、つないでいるだけ。その微妙な距離感が、何ともいえずもどかしい。
 どうせなら肩ごと全部、むぎゅうっ、てしてくれればいいのに、とも思うけれど。
 でも、さすがにそれを自分から要求するのは、ちょっと気が引ける、というか。
 今まで、さんざんバカだのヘンタイだの陰険腹黒だのと口汚く言い散らかしてきたことを思い返すと、言いたいことも言えず、気恥ずかしく。自分からお願いするのも何だか悔しい気がして、はばかられる。

 でも。
 今は、ワガママは言えない。

 レオニスと戦ってひどい怪我をしたばかりだし。口に出しては言おうとしないけれど、本当は今もすごく疲れているはずだ。
 迷いためらっているうちに、ほのかな乳香の香りが鼻をくすぐった。
 アリストラムの香り。
 うっとりと甘ったるい誘いの香りに、つい、ぽわわん……、としてしまう。

 やっぱり、もう少し、近づきたい。

 鼻を近づけて、くんくん、匂いを嗅いで。差し出された手を、ぺろぺろしたい。尻尾を振って、だいすき、って甘えたい。遊んでもらいたい。

 でも、無理をさせてはいけない。
 尻尾が、ぱた、ぱた、大きく左右に振れている。

 椅子をはたくその音が、あまりにせわしない気がしてラウは顔を赤くした。
 せっかく一息入れているアリストラムの腰に、尻尾がばしばし当たっている。緊張すればするほど尻尾の揺れが大きくなる。

 まずい、どうしよう、ヤバイ……。

 うるさい音が邪魔になりはしないか、ぺしぺし当たる尻尾が邪魔になりはしないかと、ただそればかりが気になって、こんどは、心臓がやたらどきどきしはじめて。

 休憩しているつもりが、まるで落ち着かない。
 何を今さら、手を握られたぐらいでドキドキしなくちゃいけないんだろ、とも思うけれど、でも、何だか、急にどぎまぎして、顔が勝手に赤くなってきて。

 じっとしていなくちゃ。
 いい子にしていなくちゃ。
 なのに、胸も、尻尾も。
 なおいっそう、どきんどきんして、ぱたぱたして、さらにどきどきして、ぱたぱたして。
 心騒がせてゆく。
 どんどん、心臓の音が高くなってくる。

「アリス」

 つい、聞こえるか、聞こえないかの、蚊の泣くような声で思わず名を呼んでしまう。
 アリストラムは、答えない。眼を閉じたままだ。
 眠っているのだろうか。
 今のところ、うわずったラウの声に気づく様子は、ない。

 ラウはかすかに苦笑いし、ほぅっ、と胸を撫で下ろした。

「き、聞こえてなかった……。よかった」

 アリストラムは、ゆるやかな吐息に胸をゆったりと上下させている。
 完璧な横顔が、白く、闇に浮かび上がっている。
 思いもよらず、近い。

「いいえ、聞こえていますよ」
 アリストラムはいきなり眼を開けてラウを見返した。
「何か御用でも?」

 不意打ちで問いかける声のあまりの近さに、ラウは心臓が口から転げ出しそうなほど驚いた。
「起きてたの!?」
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