上 下
60 / 69
今、あたし、ビッキビキにみなぎってんの

魔妖よけの煙

しおりを挟む
 どぎつい原色の光が眼の奥で反射し、ねじれ返って、錯乱した渦を巻いていく。
 ラウはこめかみを押さえた。めくるめく香りに視界が傾ぐ。

 あまったるい没薬の匂い。

 いつもアリストラムが魔妖避けに使っていた、あの臭いだ。乳香には、魔妖を酔わせ、その魔力を低下させる力がある。だが、まさか、こんな時にアリストラムが香を焚くはずが──

「う……」
 歯を食いしばり、必死で抗おうとする。
 違う。

 アリストラムがお仕置きだの儀式だのと称してはちょっかいを出していた時のものより、はるかに強烈な効き目だ。香というよりもはや毒を吸い込んでいるに等しい。

 息をするたび、めきめきと音を立てて頭の奥が割れてゆく。ラウは前のめりに倒れ込んだ。膝をつき、砂を掴む。

「息、ができな……」
 むなしく水晶くずを掻いて、砂浜に爪の跡を刻む。

「遅くなりまして申し訳ございません、レオニスさま」

 砂を踏む、白い裸足が見えた。
 静寂を乱す青白い波紋が同心円状に広がる。
 ひそやかに押し殺された声が忍び寄る。ラウは、錆び付いてまるで動かなくなった首を必死にもたげた。身体が石のように重い。

「形勢逆転だな」

 ぎごちない動きで砂を払いながらレオニスが立ち上がった。引きつった含み笑いを放つ。半分にちぎり取られた翼がぼとぼとと血を落とす耳障りな音を立てた。

「ミシア、まずは狼を殺せ」
「……はい、レオニスさま」

 廃墟に吹く風も似た、しわがれた声が答える。
 ラウは呻いた。首筋の毛が恐怖に逆立つ。

 全身を麻痺させる香煙のせいで身体が動かない。凄まじい圧迫感に抗いながら、目線を上げる。黒ずんだ銀の影がラウの視界を覆う。

 銀色の香炉を持ったミシアが、さくり、さくり、と、砂を踏みしめて近づいてくるのが見えた。
 ぬっとりと濃く立ちのぼる乳香の煙に侵されて、視界が斜めにゆがむ。

「その女を殺せるものなら殺してみろ」
 レオニスが嗤った。悪意したたる声が喜悦に裏返る。

 時折、天井に走ったひび割れの残響が、地下の空間全体を低く震わせていた。
 銀の火花が流れ星のように降り落ちる。
 水晶の柱に映し出された光が、ざわめき、揺らいでは映え、あやしくも美しい死の予兆を照らし出す。

「ミシア」
 アリストラムは、肩の傷を押さえながら立ち上がった。押さえた手の下から、まだ赤い血が滲み出ている。

 ミシアはゆっくりと屈み込んで、ラウの手からこぼれ落ちたゾーイの剣を拾った。
 ためつすがめつ、幾度か表裏を返してそのきらめきを確かめている。

 ラウは歯を食いしばった。動きを縛る燻煙が、真綿のように巻き付いてくる。まともに動かせない手が、虚しく砂を掻く。

「返して。それは、ゾーイの……」

「やれ。ミシア」
 レオニスがしゃがれたおぞましい笑い声をあげた。
「さっさとそいつを処刑しろ」

「はい……レオニス……さま」
 ミシアの眼が、呆然と虚ろの闇を見つめている。
 剣に、暗黒が映り込む。

「ミシア」
 ラウは声を振り絞り、ミシアの足元に手を伸ばした。
「あいつの声を聞くな。従っちゃだめだ」

 ミシアは無言でラウを見下ろした。意志のない、うつろな眼で、狙いも定めずに突き下ろす。

「っ!」
 右の手に刃がかすめた。ラウは呻いて身体を丸めた。砂に血が飛ぶ。
「返して。その剣を」
 ラウの声だけが沈痛に反響した。

 遙か頭上から降りしきる水晶のかけらが、青白く燃えて水面に反射しては、溶けるように闇へと吸われてゆく。

「ラウ……さま」
 返り血に濡れたミシアの眼には、まぎれもない恐怖が入り混じっていた。

「もうすぐだ。もう少しで!」
 レオニスは壊れきった笑いをアリストラムへと向けた。肩の深い傷に容赦ない蹴りを入れる。
 アリストラムは呻いてのけぞった。

「そこで無様に這いずりながら、狼が死ぬのを眺めていろ」
 身も蓋もなくけたたましく笑って、あらわになった傷をさらにブーツの踵で踏みにじる。

「今度こそ永遠の牢獄に貴様を叩き落としてやる。終わりのない絶望、死ぬことすら許されぬ永遠のダドエルへと。葬り去ってやる。俺がどんなに望んでも手に入れられなかったものすべてを。奪い取ってやる。何もかも焼き尽くしてやる。魂ひとつ、理性ひとつ、骨片ひとつ、貴様にはくれてやるものか」
 狂乱の高笑いが、けばけばしくまき散らされてゆく。
「殺せ。こいつら全員、《殺せ》! 《殺せ》! 《殺せ》《殺せ》《殺せ》《殺せ》!」

「伏せろ、ラウ!」
 レオニスに蹴られるがままだったアリストラムが、鋭い声を飛ばしざまに掌をかざす。

 銀の光糸が、風を切る矢のような音を立てて放たれた。砂浜を真っ二つに断ち切る白煙を走らせ、ミシアの手めがけて飛ぶ。

 狙い過たず、光の糸はミシアの手に握られた香炉を射落とした。
 続けざまに空打ちの光糸を虚空へと放つ。

 煙をくゆらせていた香炉は水しぶきをあげて地底湖へと落ちた。じゅっ、と音を立てて燃え尽きた後は、そのまま泡沫だけを残して深みへと沈んでゆく。

 煙の効力が薄れる。

 身体がはじかれたように動いた。ラウは跳ね起きてミシアに飛びかかろうとした。その手に握られた剣を奪い取ろうとする。

「巫山戯た真似を」

 レオニスは憎悪にゆがんだ顔を火照らせ、十文字槍から放たれる銀の火を至近距離からアリストラムの顔面に連射し、浴びせかけた。
 アリストラムの身体が爆風にあおられてもんどり打つ。

「しまった、アリス……!」

 ラウはたたらを踏んでつんのめった。アリストラムを助けに駆け戻るか、ミシアを先に止めるか、一瞬の判断が付かず、動きが止まる。

「私に構うな!」

 アリストラムの声が爆炎の彼方から伝わる。水晶柱が乱立する地底湖を、倒れながらアリストラムは確信を持って指さしている。
 ラウは砂を蹴って飛び出した。半ばまろびつつも地底湖へと飛び込む。水しぶきが上がる。

 もう、後に逃げ場はない。

 地底湖からそそり立つ、無数の巨大な水晶柱が、圧倒的な迫力でラウを取り巻いていた。
 どこまで続いているのか、眼では追いきれぬほど遙かな高みにまで、水晶の螺旋が続いている。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。

梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。 あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。 その時までは。 どうか、幸せになってね。 愛しい人。 さようなら。

婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。

束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。 だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。 そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。 全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。 気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。 そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。 すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。

もう彼女でいいじゃないですか

キムラましゅろう
恋愛
ある日わたしは婚約者に婚約解消を申し出た。 常にわたし以外の女を腕に絡ませている事に耐えられなくなったからだ。 幼い頃からわたしを溺愛する婚約者は婚約解消を絶対に認めないが、わたしの心は限界だった。 だからわたしは行動する。 わたしから婚約者を自由にするために。 わたしが自由を手にするために。 残酷な表現はありませんが、 性的なワードが幾つが出てきます。 苦手な方は回れ右をお願いします。 小説家になろうさんの方では ifストーリーを投稿しております。

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

【完結】私は死んだ。だからわたしは笑うことにした。

彩華(あやはな)
恋愛
最後に見たのは恋人の手をとる婚約者の姿。私はそれを見ながら階段から落ちた。 目を覚ましたわたしは変わった。見舞いにも来ない両親にー。婚約者にもー。わたしは私の為に彼らをやり込める。わたしは・・・私の為に、笑う。

砕けた愛は、戻らない。

豆狸
恋愛
「殿下からお前に伝言がある。もう殿下のことを見るな、とのことだ」 なろう様でも公開中です。

旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます

結城芙由奈 
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】 ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。

処理中です...