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何も終わっていない

幸せ

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「ラウ」
 アリストラムは声を振り絞った。
「今すぐ」
 伝えなければと思う声がとぎれる。黒ずんだ何かがべっとりと視界を覆い尽くした。半狂乱の闇に塗り込まれる。何も見えなくなる前に、何も分からなくなる前にせめてその一言だけを──



 アリストラムの手から、山刀がこぼれ落ちた。

 瞬間、狼は身をよじってアリストラムの腕から逃れた。
 耳をそばだて、身を低くしてアリストラムの背後を睨む。

 首筋の毛が威嚇のかたちに逆立ち、膨らんだ。
 アリストラムは動かない。ふいにその手が山刀をまさぐり当てた。両手で柄を掴み、無言のまま自らの首筋に突き立てようとする。
 狼はするどく吠え、アリストラムの身体に体当たりした。
 山刀が手から弾かれて飛んだ。金属の甲高い音を立てて地面に跳ねる。音が反響した。

 翡翠の瞳がぎらりと瞬く。

 突然。
 轟音にも似た突風が飛び込んできて、狼を蹴り上げた。甲高い悲鳴が散る。
 狼の身体は毛玉のように跳ねて転がった。
 岩壁にぶつかり、跳ね返る。

 割れた壁の残骸が瓦礫となって、がらがらと音をたててくずれた。狼の身体を埋める。
 土煙が視界を汚す。

「役立たずが。狼一匹殺せないとは」
 土煙を振り払って現れたキイスが唾棄する。

 黒の革コートを肩から滑り落とし、背後に投げ捨てる。太い尻尾が、感情のさざ波をかきたてるかのようにくねった。
 狼を見据える。冷たい軽蔑がキイスの頬に浮かんだ。

 狼はぶるぶると身体をふるって起きあがった。よろめく身体で身構え、折れた牙を剥き、唸りをあげる。
 キイスは眼を細めた。

「人間の飼い犬に成り下がった狼など、生きる価値もない」
 狼は身体をたわめ、吠えた。キイスの姿が漆黒にまぎれ、かき消える。
「消え失せろ」

 狼はあっけなく蹴飛ばされる。
 血まみれの姿が地面にもんどり打って転がる。床にたたきつけられた濡れ雑巾のようだった。黒い血が地面にしぶく。子犬めいた甲高い声がつんざいた。


 その様子を、アリストラムは呆然と見つめていた。助けなければと思いつつ、身体も、心も一向に動かない。
 光を無くした虚ろな目が、生気をなくした灰色の目が、ぼやけた狼の姿を捉える。


 ……憎悪だけが、生き延びる糧だった。

 記憶も、ゾーイへの思いも、すべてに蓋をし、偽りの感情で塗り隠してきた。
 幼いラウを愛おしみつつ、がんじがらめに聖銀の封印で縛り付け、魔妖としての成長を阻害し、無力なまま支配し続けようとした。

 刻印を穿ったゾーイを。
 そのゾーイを殺した自分を。
 憎んで、憎んで、憎み抜いて、そのすべてを滅ぼすためだけに、ラウを犠牲にしようとした。

 逃れ得ぬ真実に苛まれながらも自らのあやまちをどうしても認められず、許せず、かと言ってどうすることもできないまま、存在しない真実を探し出すためだけにラウを利用してきた。
 ラウがゾーイの仇を捜していると知っていながら、素知らぬふりをして、黙っていた。

 どれほど刻印に冒涜されても死ねなかった理由を、ようやく思い出す。

 自らの意志で死んではならなかった。
 この、どうしようもなくおぞましく醜い妄執を断ち切るためには。このどうしようもなくおぞましく醜い罪をあがなうためには。

 ラウ自身の手で。

 ラウ自身の声で。

 死を、命じられなければならなかった。

 なのに、あのとき全てが変わってしまった。ラウに刻印の罪を教えた、あのとき。
 気付いてしまった。

 いつからだろう。心の中のゾーイが消えていることに気付いたのは。
 ずっと悔やみ、絶望し、苛まれつつ追いかけてきたはずの面影が、いつの間にかラウに変わっている。

 ちいさなラウが泥だらけになって大笑いしながらそこら中駆け回っているのを。
 信じられないぐらいの勢いで猛烈に食事を平らげてゆくのを。
 それを見守っているだけで、たゆたうような一日がいつの間にか過ぎているのを。


 幸せ、だなどと思ってしまった。


 ラウから全てを奪っておきながら。

 何も知らぬラウを腕に抱いて眠って。翌朝また、目覚めて。暖かな朝の陽射しにまどろみながら、ラウのぬくもりに寄りかかって。

 そうやって日和っていれば、いつしかラウも自分への復讐を棄ててくれるかもしれない、などと。
 そうすれば、ずっとこうしてラウと一緒にいられるかもしれない、などと。

 そんな不相応な願いを、抱くようになっていた。

 絶対に許されるはずもない──おぞましくも罪深い思いを。

 ゆがんだ想いが、心を引き裂いてゆく。
 そんなこと、できるはずがない。
 できるはずも、なかったのに。
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