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囚われのアリストラム
……たとえ死んでも貴方には屈しない
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暗闇に吐息が乱れてあふれる。じりじりと燃えくすぶる火が、煙の立ちこめる岩室を赤く照らし出していた。
岩盤に突き立てられた冒涜の十字から吊られた鎖が足元にとぐろを巻く。
わずかに身じろぎするたびに、岩に触れた金属の音が狂おしい悲鳴のように響き渡った。
つめたい水の音が響く。
ゆらめき放たれる翡翠の光。罪深い刻印が、足元に、天上に、血迷った影を踊り狂わせる。
足元を濡らす赤い血のしずくが、また、一滴、一滴としたたって、広がった。
「まだ抗う気か、聖銀」
残忍な魔妖の手が、銀の髪を鷲づかんで引きずり上げた。
強引に上向かせる。血まみれの身体がのけぞった。
重なり合う淫靡な影が、濡れた壁を目まぐるしく描き変えてゆく。
目隠しの黒布を巻かれ、首には鋲の植えられた枷をはめられて。
かつてあれほど美しかった白銀の髪も、すきとおる氷のようだった肌も、もう、血と泥に汚れ、酷いほどに荒れ果てている。
もがくたびに、逆手に吊られた両手を十字に縛りつける鎖が甲高くはりつめて鳴る。
目隠しが半分とれる。この期に及んでなお理知の光を失わぬ紫紅の瞳が、ぎらりと光った。
「……生憎ですね」
喉を震わせるくぐもった自嘲が、残響の余韻を引いて闇に吸い込まれていく。
「たとえ刻印の力を持ってしても、そう簡単に人の心をすべて支配することはできません」
アリストラムは半ばつぶれた紫紅の眼を開け、弱々しい凄惨な笑みを浮かべて首を振った。
「……たとえ死んでも貴方には屈しない」
「それはどうかな」
キイスは冷ややかに嗤った。
漆黒のするどい爪を刻印へと這わせ、そそるように押し当てる。
翡翠色のあやうい光がのたうった。
アリストラムの身体が、びくりと痙攣する。
「貴様が従わぬというなら、この刻印を貴様の血肉ごと抉りちぎって、新たに穿ち直せば済むことだ」
残酷な力を込めて、刻印の宿ったアリストラムの身体を引き裂いてゆく。
アリストラムは苦悶の呻きを漏らした。
「堪えていない振りをしても無駄だ」
キイスは、さらに深く、傷そのものに指をねじ込むようにして刻印を抉る。
「《俺に従え》。逆らえば気がふれるぞ」
熱を帯びた断末魔の喘ぎがもれる。
「……ラウ」
半ばうわごとのように、アリストラムはつぶやいた。その名だけが理性のよすがであるかのように、何度も繰り返す。
「ラウ、ラウ……」
キイスはぞっとする眼でアリストラムを見下ろした。爪がなお深く傷を抉る。拘束の鎖が張りつめた音を立てた。
「っ……!」
「決して叶わぬ望みが絶望へと朽ちてゆくのもまた、一興というもの」
冷ややかな笑みが視界を覆い尽くす。
キイスは、おもむろにアリストラムへとのしかかった。首筋へ牙を突き立てる。皮膚が容易く破れ、法外な血が流れ出した。アリストラムはまた痙攣した。死が間近に見えるほどの痛みを、刻印の快楽にすり替えられ、狂わされてゆく。
「あ、あ……あ……!」
がくがくと膝がふるえる。聖銀の魔力が霧となって散逸した。凄まじいほどの喪失感に、視線がもう、定まらない。
魂がみるみるすさんで、剥がれ堕ちてゆく。
崩壊寸前だった。
拷問のように与えられ続ける激痛は、やがて自暴自棄の悦楽となり。意識を奪い去り、理性を砕き、記憶を焼き尽くしてゆく。
押さえつけられ、屈伏させられ、何度も、何度も、何度も、何度も──精神も、肉体も、すべてを食い荒らされて。
理性を踏みにじられるたび、自我が、誇りが、だらだらと漏れ出るうめきとともに崩れ落ちてゆく。
刻印の支配を欲してしまう。求めてしまう。
いっそ──
狂ってしまえば。
何もかも投げ捨ててしまえば。
ただの人形となって。頭蓋の中まで魔妖の狂気でどろどろに満たして。何も分からなくなってしまえば。
こんな生き恥を曝してまで、耐えずに済む。抗わずに済む。
ラウを、捨てて。
ラウを。
ラウを。
半ば悶え狂いながら、堕ちてゆく自我をかきあつめながら、それでもまだ遠い面影にすがって、悲痛なかぶりをふる。
ラウ。
「強情な」
魔妖は血にまみれた牙を離した。
瞋恚の黒い炎を眼に宿し、苛立ちの舌打ちを鳴らす。
滴る血が、ねっとりした光を放ってこぼれ落ちる。アリストラムは熱を帯びたため息を漏らしかけた。
(……アリス)
なぜか、声が聞こえた。
幻聴だと分かっていた。あるいは幻影、それも魔妖の邪悪な業が見せる悪夢だと。
遠ざかりかけた意識のどこかで真紅の警鐘が鳴り渡る。
だが、心が、甘美なそれをはねつけられなかった。
(アリスうーーー!)
華やいだ声が駆け寄ってくる。奥に刃を隠し持った、無垢なラウの瞳。
甘ったるく鼻を鳴らし、くねらせた身体をすり寄せてくる。尻尾も振らずに。
(ねえ、アリス)
丸い、翡翠色の大きな眼に大人の欲望がひそんでいる。
(アリスの刻印、あたしにちょうだい)
逆らえぬ声が胸を刺す。
違う。《これ》はラウじゃない。ラウがそんなこと言うはずが……
爪の伸びた獣の手が、ゾーイの刻印に傷を付けてゆく。
ちょうだい。ぬめる血がおぼろに光って狂気の淵にいざなう。
ちょうだい。魔妖の手が罪深い闇に濡れて光る。
ちょうだい。掴み出される、命。
「……貴女が……それを望むなら」
刻印が、音を立ててこじ開けられてゆく。深淵が顎を開く。
「私の……命を、貴女に」
刻印に束縛された身体が、悲痛にこぼれる声とともに、内側から魂を裏切ってゆく。
《あのとき》と同じように。
虚無の海に引きずり込まれてゆく。
過去の幻影を暴き立てられ、罪を眼前に突きつけられて、抗えぬままに陥ちる。
誰かの叫びが聞こえる。阿鼻叫喚の血飛沫が飛び散る最中、一直線に駆け寄ってこようとする誰かの声。誰に対し、何と言っているのか。まったく分からなかった。本当のところは見えてさえいなかった。
銀の火に記憶が溶けてゆく。
《奪われた刻印》。
《かき消された真実》。
かぎろいゆらめく涙の彼方に、誰かが立ちつくして。
叫んでいる。
全身血まみれの姿で、足を引きずり、血を吐き、それでも近づいてこようとして、炎の中によろめきくずおれる。
最後まで誰かの名を呼び続けている。
その姿を見下していたのは。
炎につつまれる魔妖の最期を嘲っていたのは。
あれは、誰だったろうか。聖銀の装束をまとった酷薄な後ろ姿。手に、銀槍を持ったあの姿は。
(どうして殺したの)
ラウの声が鼓膜を切り裂く。アリストラムはかぶりを振ろうとした。
(何で黙ってたの)
(嘘つき)
(嘘つき)
(裏切り者)
(おまえなんか)
嘲笑めいた甲高い声が幾重にも反響して耳に突き刺さる。
(死んじゃえばよかったんだ)
そう。
(死ねばよかった)
あの日。
(ゾーイを殺した罪を背負って)
彼女とともに。
(ゾーイのいない世界から)
消えてしまえば、よかった。
アリストラムはうつろな眼を開けた。
刻印から命が流れ出していた。わずかに首をひねって、漆黒にいろどられた肩の刻印を見下ろす。
「新しい支配者を迎え入れた気分はどうだ」
せせら笑う声が耳元から聞こえる。牙が刻印に食い込んだ。抗えない。
「これで、お前は俺の奴隷になった」
アリストラムは長い吐息をついて、視線を宙に彷徨わせた。
「言え。俺に従う、と」
岩盤に突き立てられた冒涜の十字から吊られた鎖が足元にとぐろを巻く。
わずかに身じろぎするたびに、岩に触れた金属の音が狂おしい悲鳴のように響き渡った。
つめたい水の音が響く。
ゆらめき放たれる翡翠の光。罪深い刻印が、足元に、天上に、血迷った影を踊り狂わせる。
足元を濡らす赤い血のしずくが、また、一滴、一滴としたたって、広がった。
「まだ抗う気か、聖銀」
残忍な魔妖の手が、銀の髪を鷲づかんで引きずり上げた。
強引に上向かせる。血まみれの身体がのけぞった。
重なり合う淫靡な影が、濡れた壁を目まぐるしく描き変えてゆく。
目隠しの黒布を巻かれ、首には鋲の植えられた枷をはめられて。
かつてあれほど美しかった白銀の髪も、すきとおる氷のようだった肌も、もう、血と泥に汚れ、酷いほどに荒れ果てている。
もがくたびに、逆手に吊られた両手を十字に縛りつける鎖が甲高くはりつめて鳴る。
目隠しが半分とれる。この期に及んでなお理知の光を失わぬ紫紅の瞳が、ぎらりと光った。
「……生憎ですね」
喉を震わせるくぐもった自嘲が、残響の余韻を引いて闇に吸い込まれていく。
「たとえ刻印の力を持ってしても、そう簡単に人の心をすべて支配することはできません」
アリストラムは半ばつぶれた紫紅の眼を開け、弱々しい凄惨な笑みを浮かべて首を振った。
「……たとえ死んでも貴方には屈しない」
「それはどうかな」
キイスは冷ややかに嗤った。
漆黒のするどい爪を刻印へと這わせ、そそるように押し当てる。
翡翠色のあやうい光がのたうった。
アリストラムの身体が、びくりと痙攣する。
「貴様が従わぬというなら、この刻印を貴様の血肉ごと抉りちぎって、新たに穿ち直せば済むことだ」
残酷な力を込めて、刻印の宿ったアリストラムの身体を引き裂いてゆく。
アリストラムは苦悶の呻きを漏らした。
「堪えていない振りをしても無駄だ」
キイスは、さらに深く、傷そのものに指をねじ込むようにして刻印を抉る。
「《俺に従え》。逆らえば気がふれるぞ」
熱を帯びた断末魔の喘ぎがもれる。
「……ラウ」
半ばうわごとのように、アリストラムはつぶやいた。その名だけが理性のよすがであるかのように、何度も繰り返す。
「ラウ、ラウ……」
キイスはぞっとする眼でアリストラムを見下ろした。爪がなお深く傷を抉る。拘束の鎖が張りつめた音を立てた。
「っ……!」
「決して叶わぬ望みが絶望へと朽ちてゆくのもまた、一興というもの」
冷ややかな笑みが視界を覆い尽くす。
キイスは、おもむろにアリストラムへとのしかかった。首筋へ牙を突き立てる。皮膚が容易く破れ、法外な血が流れ出した。アリストラムはまた痙攣した。死が間近に見えるほどの痛みを、刻印の快楽にすり替えられ、狂わされてゆく。
「あ、あ……あ……!」
がくがくと膝がふるえる。聖銀の魔力が霧となって散逸した。凄まじいほどの喪失感に、視線がもう、定まらない。
魂がみるみるすさんで、剥がれ堕ちてゆく。
崩壊寸前だった。
拷問のように与えられ続ける激痛は、やがて自暴自棄の悦楽となり。意識を奪い去り、理性を砕き、記憶を焼き尽くしてゆく。
押さえつけられ、屈伏させられ、何度も、何度も、何度も、何度も──精神も、肉体も、すべてを食い荒らされて。
理性を踏みにじられるたび、自我が、誇りが、だらだらと漏れ出るうめきとともに崩れ落ちてゆく。
刻印の支配を欲してしまう。求めてしまう。
いっそ──
狂ってしまえば。
何もかも投げ捨ててしまえば。
ただの人形となって。頭蓋の中まで魔妖の狂気でどろどろに満たして。何も分からなくなってしまえば。
こんな生き恥を曝してまで、耐えずに済む。抗わずに済む。
ラウを、捨てて。
ラウを。
ラウを。
半ば悶え狂いながら、堕ちてゆく自我をかきあつめながら、それでもまだ遠い面影にすがって、悲痛なかぶりをふる。
ラウ。
「強情な」
魔妖は血にまみれた牙を離した。
瞋恚の黒い炎を眼に宿し、苛立ちの舌打ちを鳴らす。
滴る血が、ねっとりした光を放ってこぼれ落ちる。アリストラムは熱を帯びたため息を漏らしかけた。
(……アリス)
なぜか、声が聞こえた。
幻聴だと分かっていた。あるいは幻影、それも魔妖の邪悪な業が見せる悪夢だと。
遠ざかりかけた意識のどこかで真紅の警鐘が鳴り渡る。
だが、心が、甘美なそれをはねつけられなかった。
(アリスうーーー!)
華やいだ声が駆け寄ってくる。奥に刃を隠し持った、無垢なラウの瞳。
甘ったるく鼻を鳴らし、くねらせた身体をすり寄せてくる。尻尾も振らずに。
(ねえ、アリス)
丸い、翡翠色の大きな眼に大人の欲望がひそんでいる。
(アリスの刻印、あたしにちょうだい)
逆らえぬ声が胸を刺す。
違う。《これ》はラウじゃない。ラウがそんなこと言うはずが……
爪の伸びた獣の手が、ゾーイの刻印に傷を付けてゆく。
ちょうだい。ぬめる血がおぼろに光って狂気の淵にいざなう。
ちょうだい。魔妖の手が罪深い闇に濡れて光る。
ちょうだい。掴み出される、命。
「……貴女が……それを望むなら」
刻印が、音を立ててこじ開けられてゆく。深淵が顎を開く。
「私の……命を、貴女に」
刻印に束縛された身体が、悲痛にこぼれる声とともに、内側から魂を裏切ってゆく。
《あのとき》と同じように。
虚無の海に引きずり込まれてゆく。
過去の幻影を暴き立てられ、罪を眼前に突きつけられて、抗えぬままに陥ちる。
誰かの叫びが聞こえる。阿鼻叫喚の血飛沫が飛び散る最中、一直線に駆け寄ってこようとする誰かの声。誰に対し、何と言っているのか。まったく分からなかった。本当のところは見えてさえいなかった。
銀の火に記憶が溶けてゆく。
《奪われた刻印》。
《かき消された真実》。
かぎろいゆらめく涙の彼方に、誰かが立ちつくして。
叫んでいる。
全身血まみれの姿で、足を引きずり、血を吐き、それでも近づいてこようとして、炎の中によろめきくずおれる。
最後まで誰かの名を呼び続けている。
その姿を見下していたのは。
炎につつまれる魔妖の最期を嘲っていたのは。
あれは、誰だったろうか。聖銀の装束をまとった酷薄な後ろ姿。手に、銀槍を持ったあの姿は。
(どうして殺したの)
ラウの声が鼓膜を切り裂く。アリストラムはかぶりを振ろうとした。
(何で黙ってたの)
(嘘つき)
(嘘つき)
(裏切り者)
(おまえなんか)
嘲笑めいた甲高い声が幾重にも反響して耳に突き刺さる。
(死んじゃえばよかったんだ)
そう。
(死ねばよかった)
あの日。
(ゾーイを殺した罪を背負って)
彼女とともに。
(ゾーイのいない世界から)
消えてしまえば、よかった。
アリストラムはうつろな眼を開けた。
刻印から命が流れ出していた。わずかに首をひねって、漆黒にいろどられた肩の刻印を見下ろす。
「新しい支配者を迎え入れた気分はどうだ」
せせら笑う声が耳元から聞こえる。牙が刻印に食い込んだ。抗えない。
「これで、お前は俺の奴隷になった」
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