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黒狼の魔妖

あれは、俺のものだ

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 夜がざわりとうねる。
「やれやれ」
 ひそやかな視線がテントを射貫いている。アリストラムは読んでいた本から眼を上げた。

 仕掛けておいた結界の罠が、こともなげに壊され、踏みつぶされてゆく。
 近づく足音。

「せっかくゆっくり本が読めると思っていたのに、とんだ賓客だ」

 しおり代わりの押し葉を挟み、かろやかな音を立てて本を閉じる。
 灯りが揺れた。

 アリストラムは身体をあずけていた揺り椅子から起きあがった。蒼と金に縁取られた聖神官のコートに腕を通し、けわしい顔で首に掛けた護符の感触を確かめ、銀の杖を手にテントを歩み出る。
 周囲を見回して杖を突き鳴らす。

 魔法で取り出したテント、椅子、書棚、猫足のテーブル。森を照らすランタン。優雅な紅茶のセット。ベルの音とともに、すべてが一瞬で煙となって消え失せる。

 空気の臭いが変わった。
 風もない森に、ねっとりと獣脂の臭いが澱み始める。
 アリストラムは乾いた紫紅の瞳をほそめ、深い闇を見やった。
 無言で指先の印を結ぶ。
 爪の先に、まるく押し込められた火が生まれた。ガラスのきらめきを放ちながら、火は、交差する周回楕円軌道を描いて回り始める。

 アリストラムはかすかなほほえみを浮かべて口を開いた。
「……相手をお間違えでは?」
聖銀アージェンは殺す」
 獰猛な唸り声が反響する。

「ずいぶんと物騒な主義だ」
 アリストラムは口元を引き締めた。その目にはもう、戯れひとつない。

「魔妖と言うだけで殺し歩くを是とする狂信者どもに戯言を抜かされる謂われはない」

 白い火の照らすあやういゆらめき。
 目には見えない、強力な光の結界の幕をやすやすと突き破り、払いのけて。
 漆黒の狼が近づいてくる。

 四足で忍び歩く獰猛な黒狼が、人に近似した姿へとなめらかに変化する。
 鉄鋲を打った漆黒のコート。スパイクの鳴る分厚いブーツ。黒光る毛並みから三角に飛び出した、毛先だけが白い耳。太い漆黒の尻尾が音を立ててくねる。

 狼の魔妖。
 ざわめきが風に吹きやられた。

 アリストラムは微動だにせず、綽然とした微笑みで応じる。

「またお会いしましたね。《キイス》さんとおっしゃいましたか」
 黒狼の魔妖は足下の草を踏みにじって立ち止まった。喉の奥深くからもれる唸りがぞっとする空気の振動を伝える。
 探るようなまなざしが、アリストラムに突き立てられた。

「ミシアはどこだ」
 アリストラムはうなずいた。適当に鎌を掛けてみたが、どうやら正解だったようだ。

「レオニスに奪われました」
「返せ」
「我々もレオニスに攻撃されて、おいそれとは手が出せない状態です」
「あの雌犬はお前のものか」
「そんな者はいません」
「もう一度言う。ミシアを返せ。あれは、俺のものだ」

 漆黒の瞳が憎悪にくるめいている。唸るたびに、長い犬歯がのぞいた。
 アリストラムは息をつき、銀の髪を払った。

「もう一度言います。私はレオニスとは違う」

 輪を束ねた銀の杖で地を突く。杖は楽器のような澄んだ音をたてた。翼めく光の粒子が、しゃらり、しゃらりと尾を引いて闇に回る。

「これはレオニスの罠です。レオニスは、貴方が彼女を取り戻しにくるのを待ち受けている」

 魔妖は苛立たしげに耳をふるわせた。喉の奥から低いうなりが漏れる。

「ミシアは今、刻印の力でレオニスの命じるがままに操られている。その呪縛を解くには、彼女自身の手で、貴方を殺すしかないのです。私は、ミシアにそんなことをさせたくない」
「知ったことか。刃向かう奴は全員、皆殺しにするまでだ。……ミシアだろうが、誰だろうが」

 黒狼の魔妖、キイスは残忍な恍惚にほそめた眼をアリストラムへと向けた。
 なめずる視線が、アリストラムの杖から顔へ、そして、刻印の秘め隠された首筋へと伝い走る。

「貴様の刻印を使ってな」

 視線がぴたりとアリストラムの刻印の位置を捉えている。
 アリストラムはくちびるをゆがめた。突き出した杖で視線を遮る。

「何の事でしょうか」

 キイスは野性的な黒の蓬髪を風に吹きなびかせた。圧倒的な優位を確信した仕草で笑う。
「思い出させてやろう」
 声を放った瞬間、魔狼の姿がかき消える。
 闇に風がなだれ込んだ。

 アリストラムは杖をまばゆく光らせ、結界の銀糸を張り巡らせた。
 杖の先端から、かみそりの刃ほどに細い銀の光糸が空に解き放たれ、放射状の波紋を描いて伝い走る。
 漆黒の姿が闇に紛れる。目にも留まらない。
 一瞬、キイスの行方を見失う。
 アリストラムは四方に目を走らせた。
 土を蹴立てる足音が、左から右へ駆け抜ける。

「そこか」
 アリストラムは銀糸を光矢に変え、続けざまに連射した。飛ぶように走るキイスの痕跡を追って、爆発の火柱が横一列に上がる。
 木の葉が滝のような音を立てて降りしきる。

「それが聖銀の戦い方か?」

 キイスの嘲笑が響き渡る。
 突如、頭上から落ちてきた巨大な枝が、視界を遮った。

「《上を見ろ》、聖銀」

 声を追い、頭上を振り仰ぐ。
 群雲に覆われかけた月が見えた。
 キイスの姿はない。

「どこを見ている」

 真後ろから声が響く。アリストラムは振り返りざまに杖を振り下ろした。
 疾風の銀糸に撫で斬られた闇が、断層と化す。無数の輪切りにされた大樹が、ばらばらの輪となってなだれ落ちた。
「遅い」
 嘲笑の声が間近に迫る。
「《当てられるものなら当ててみろ》」

 アリストラムは掌に銀の炎を貯め、気配を嗅ぎ取った一点へと向けて叩き込んだ。
 炎に包まれた黒い影が、短い咆吼を放って空中で身をよじる。
 何かが地面に落ちる音がした。
 再び、森が闇に塗り込まれる。荒ぶる獣の呼吸が聞こえた。 

「たかが一発程度、かすめたぐらいで悦に入るなよ」
 憎々しい声が吐き捨てる。
「別に、貴方を狙って撃っているわけではありません」
 アリストラムは杖を振った。
 ゆらめく銀炎を防御の楯のようにまとわせながら、かすれた笑いをあげる。

「これだけの騒ぎを起こせば、ラウも、レオニスも気付くでしょう。いくら貴方でも、三対一で戦うのは不可能です」

 青白い霧が足元を吹き流れてゆく。

「それはどうかな」
 キイスは薄笑いを浮かべた頬に暗い影を踊らせた。
「この俺が何の策もなく、聖銀の神官に近づくと思うか?」
 黒く伸びた爪が、三日月のように鋭くアリストラムの刻印を指し示す。
「……《後ろを見ろ》、聖銀」
 アリストラムは言われるがままに振り向こうとして、顔をこわばらせた。

 無意識に身体が反応している──

「しまっ……!」
 身体が硬直しきっている。声が続かない。

「杖から手を放せ、聖銀。そして俺が良しと言うまで、《呼吸するな》」

 冷酷な笑いがくつくつと忍び込む。
 アリストラムは、意に反して開いてゆく手を呆然と見つめた。
 杖が地面に倒れる。絶望の音が響いた。
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