上 下
37 / 69
罪深く、柔らかく。触れられて、ふるえて。

「一緒にいたいの。傍にいてほしいの」

しおりを挟む
 もう、元の自分ではないことを。
 悟られたくなかった。

 昨日までは、どんなに手を伸ばしてもアリストラムの身長に届かなかった。
 一度、ぶらあんと首根っこを掴まれてしまえば、どんなにじたばた暴れても地面に足が着かなかった。

 アリストラムが作った美味しい料理をお腹ぱんぱんになるまで食べられればそれで幸せだった。

 一緒に寝て、一緒に起きて。あれこれ口うるさく叱られながらも、良い子だ、よしよしと微笑まれ撫でられたら、もう逆らえなかった。

 良いようにあしらわれっぱなしの、ちっちゃな、可愛い、何も知らないこどもの狼。

 ずっとそのままでいられたら、むしろどんなにか幸せだっただろう。
 束縛と隷属の首輪を付けられて、妖気を押さえつけられて。
 何も知らずに、馬鹿みたいにぱたぱたと尻尾を振って、きゅんきゅん鳴いて、でれでれとなついて。

 飼われていたことに気付かずにいた。

 優しい仮面で冷酷な支配者の顔を隠す人間に、犬みたいに、手なずけられていた――

「違うってば」
 ラウは自分の中から噴き上がってくる叛旗の思いを必死に否定しながらアリストラムにしがみつき続けた。
「違うって言ってよ。ぜんぜん分かんない、アリスが何言ってんのか全然……ぜんぜん分かんない」

「ラウ」
 ゆるやかに近づく、銀の香り。
 悲痛な思いで張り裂けそうだったラウの背中に、ひた、と冷たい掌が押しあてられた。
「私は、ゾーイと」
「やだ」

 濡れた銀の髪が、異様な冷たさで貼り付いてくる。ラウはとっさに耳を塞いだ。

「いやだ、聞きたくない」

 アリストラムは黙り込んだ。
 ラウは、なぜかひどくいやな寒気を感じてアリストラムを見返した。
 刻印のゆらめきが黒い影となって、アリストラムの半身を闇へと塗り込めている。

「言うなと言うなら、言いません」

 自嘲気味の声が吐き捨てられる。
 アリストラムは顔をそむけ、ふいにそっけなく笑った。

「もう、貴女には逆らえないのだから」

 アリストラムは眉をひそめて自身のこめかみを指先で押さえた。整った顔立ちがかすかな痛みにゆがむ。
 ラウは胸を衝かれて口ごもった。
 何を言えばいいのか分からない。うつむいて、また顔を上げる。

 アリストラムの胸から首筋にかけて、仄暗い翡翠の色に浮かび上がる刻印は、ミシアの胸にあった刻印とほとんど同じ。

 もちろん完全に同じではない。
 ミシアの刻印はキイスと読めた。だがアリストラムのそれは――

 ラウの視線に気付いたのか、アリストラムは自らの肩へと視線を落とし、刻印の光へと軽侮の目線をやってため息をついた。
 そっと腕を持ち上げ、ラウの頬に指を滑らせて、髪へと細い指先を差し入れる。

「痛いところはありませんか。火傷の具合は」
 聞かれてラウはおずおずと首を振った。
「分かんない」

「そうですか。やはり魔妖は回復力が人間とは違いますね。無事で良かった」
 とりつくろった柔和なまなざしで四方を見渡す。岩剥き出しの洞窟は暗く、ひんやりと冷たい。濡れた肌にざらりと鳥肌が立っていた。

「火を起こしたほうがよさそうですね」
「……うん」

 アリストラムは指を鳴らした。
 何もない空間にぽつんと白い火が漂い始める。

 丸く閉じこめられた火は、しゃぼん玉のようにふわふわと漂いながら中空に留まって四方を照らした。洞窟の壁面を淡い虹色に染め上げる。

「この程度ではあまり暖まる気もしませんが、でも決して直接触らないようにしてくださいね。結界で包んではいますが聖銀の火ですから、油断して触るとまた傷を負います」
「うん、気をつける」

 ラウは居たたまれない気持ちでうつむいた。
 自分が傷を負えば、きっとアリストラムはまた自らの魔力をラウの回復のために注ぎ込もうとするだろう。
 たとえラウが拒んでも、だ。

 ゆらめく白い火影に、アリストラムが全身に負った凄惨な爪傷が浮かび上がって見えた。
 くちびるを噛み切ったのか、唇もまた赤黒く腫れている。
 ラウは痛ましい傷から眼をそらし、丸く燃える銀の火を見つめた。
 すっ、と息を吸い込む。
 銀の火のしゃぼん玉がラウの息に引き寄せられ、ふわふわと動き出す。

 暖かかった。
 湿った空気を通して、じわりと暖かみが滲み込んでくる。
 ラウは尻尾をちいさく振り、ひざを抱えて眼を閉じた。

「ありがと、アリス。暖かい」
「それは良かった」

 アリストラムは言いながら汚れた聖神官のコートを羽織った。

「とはいえ、たぶん、貴女には本当の火のほうがいいでしょう。何か燃やせるものを探してきます」
 アリストラムは立ち上がろうとした。
 ラウはアリストラムの動きを眼で追いながら思わず声を上げた。

「どっか行っちゃうの……?」
「乾いた薪を探しに行ってきます。どうせ山の中ですし、すぐに拾って戻ってきますよ」
「……いいよ、そんな無理に薪なんか拾いに行かなくても」
「大丈夫です、すぐに戻ります。それにきっと貴女のことですから、お腹も空いているでしょう」

 ラウはアリストラムの手を掴んだ。
「い、いいってば。座ってて。何もいらないから」

 アリストラムは困ったように小首を傾げた。
「でも、それでは体力がつかないでしょう」
「お、お腹なんて空いてないから!」

 言った端から、ぐぅぅぅぅぅぅぅ……、とお腹が鳴る。
 ラウは顔を赤くした。
 どう言えばアリストラムがどこにも行かずこのまま足を止めてくれるのか、他に何かうまい言い方があればともどかしく思いつつ、結局、何と言えばいいのか分からず、思った通りのことを口にした。

「いいからここにいて。アリスと一緒にいたいの。傍に……いてほしいの」

 それまで痛いぐらい張りつめていた気持ちが、ぷちん、と切れる。

 丸い銀の火がふいにゆらめいた。
 白く燃えあがって、消え去ってゆく流星のような、はかない一瞬の残像を描く。
 アリストラムの眼が、ラウを映し込んで暗く揺れ動いている。

「ええ、分かりました。貴女がそう望むなら」

 低すぎる声。アリストラムの声ではないように聞こえる。
 魂を縛る刻印がゆらりと黒い光を滲ませる。
 まるで、別の誰かが、心にもない言葉を口にさせているかのようだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

傲慢令嬢は、猫かぶりをやめてみた。お好きなように呼んでくださいませ。愛しいひとが私のことをわかってくださるなら、それで十分ですもの。

石河 翠
恋愛
高飛車で傲慢な令嬢として有名だった侯爵令嬢のダイアナは、婚約者から婚約を破棄される直前、階段から落ちて頭を打ち、記憶喪失になった上、体が不自由になってしまう。 そのまま修道院に身を寄せることになったダイアナだが、彼女はその暮らしを嬉々として受け入れる。妾の子であり、貴族暮らしに馴染めなかったダイアナには、修道院での暮らしこそ理想だったのだ。 新しい婚約者とうまくいかない元婚約者がダイアナに接触してくるが、彼女は突き放す。身勝手な言い分の元婚約者に対し、彼女は怒りを露にし……。 初恋のひとのために貴族教育を頑張っていたヒロインと、健気なヒロインを見守ってきたヒーローの恋物語。 ハッピーエンドです。 この作品は、別サイトにも投稿しております。 表紙絵は写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

【完結】婚約者は自称サバサバ系の幼馴染に随分とご執心らしい

冬月光輝
恋愛
「ジーナとはそんな関係じゃないから、昔から男友達と同じ感覚で付き合ってるんだ」 婚約者で侯爵家の嫡男であるニッグには幼馴染のジーナがいる。 ジーナとニッグは私の前でも仲睦まじく、肩を組んだり、お互いにボディタッチをしたり、していたので私はそれに苦言を呈していた。 しかし、ニッグは彼女とは仲は良いがあくまでも友人で同性の友人と同じ感覚だと譲らない。 「あはは、私とニッグ? ないない、それはないわよ。私もこんな性格だから女として見られてなくて」 ジーナもジーナでニッグとの関係を否定しており、全ては私の邪推だと笑われてしまった。 しかし、ある日のこと見てしまう。 二人がキスをしているところを。 そのとき、私の中で何かが壊れた……。

宮廷外交官の天才令嬢、王子に愛想をつかれて婚約破棄されたあげく、実家まで追放されてケダモノ男爵に読み書きを教えることになりました

悠木真帆
恋愛
子爵令嬢のシャルティナ・ルーリックは宮廷外交官として日々忙しくはたらく毎日。 クールな見た目と頭の回転の速さからついたあだ名は氷の令嬢。 婚約者である王子カイル・ドルトラードを長らくほったらかしてしまうほど仕事に没頭していた。 そんなある日の夜会でシャルティナは王子から婚約破棄を宣言されてしまう。 そしてそのとなりには見知らぬ令嬢が⋯⋯ 王子の婚約者ではなくなった途端、シャルティナは宮廷外交官の立場まで失い、見かねた父の強引な勧めで冒険者あがりの男爵のところへ行くことになる。 シャルティナは宮廷外交官の実績を活かして辣腕を振るおうと張り切るが、男爵から命じられた任務は男爵に文字の読み書きを教えることだった⋯⋯

婚約破棄された検品令嬢ですが、冷酷辺境伯の子を身籠りました。 でも本当はお優しい方で毎日幸せです

青空あかな
恋愛
旧題:「荷物検査など誰でもできる」と婚約破棄された検品令嬢ですが、極悪非道な辺境伯の子を身籠りました。でも本当はお優しい方で毎日心が癒されています チェック男爵家長女のキュリティは、貴重な闇魔法の解呪師として王宮で荷物検査の仕事をしていた。 しかし、ある日突然婚約破棄されてしまう。 婚約者である伯爵家嫡男から、キュリティの義妹が好きになったと言われたのだ。 さらには、婚約者の権力によって検査係の仕事まで義妹に奪われる。 失意の中、キュリティは辺境へ向かうと、極悪非道と噂される辺境伯が魔法実験を行っていた。 目立たず通り過ぎようとしたが、魔法事故が起きて辺境伯の子を身ごもってしまう。 二人は形式上の夫婦となるが、辺境伯は存外優しい人でキュリティは温かい日々に心を癒されていく。 一方、義妹は仕事でミスばかり。 闇魔法を解呪することはおろか見破ることさえできない。 挙句の果てには、闇魔法に呪われた荷物を王宮内に入れてしまう――。 ※おかげさまでHOTランキング1位になりました! ありがとうございます! ※ノベマ!様で短編版を掲載中でございます。

とある虐げられた侯爵令嬢の華麗なる後ろ楯~拾い人したら溺愛された件

紅位碧子 kurenaiaoko
恋愛
侯爵令嬢リリアーヌは、10歳で母が他界し、その後義母と義妹に虐げられ、 屋敷ではメイド仕事をして過ごす日々。 そんな中で、このままでは一生虐げられたままだと思い、一念発起。 母の遺言を受け、自分で自分を幸せにするために行動を起こすことに。 そんな中、偶然訳ありの男性を拾ってしまう。 しかし、その男性がリリアーヌの未来を作る救世主でーーーー。 メイド仕事の傍らで隠れて淑女教育を完璧に終了させ、語学、経営、経済を学び、 財産を築くために屋敷のメイド姿で見聞きした貴族社会のことを小説に書いて出版し、それが大ヒット御礼! 学んだことを生かし、商会を設立。 孤児院から人材を引き取り育成もスタート。 出版部門、観劇部門、版権部門、商品部門など次々と商いを展開。 そこに隣国の王子も参戦してきて?! 本作品は虐げられた環境の中でも懸命に前を向いて頑張る とある侯爵令嬢が幸せを掴むまでの溺愛×サクセスストーリーです♡ *誤字脱字多数あるかと思います。 *初心者につき表現稚拙ですので温かく見守ってくださいませ *ゆるふわ設定です

【完結】愛を知らない伯爵令嬢は執着激重王太子の愛を一身に受ける。

扇 レンナ
恋愛
スパダリ系執着王太子×愛を知らない純情令嬢――婚約破棄から始まる、極上の恋 伯爵令嬢テレジアは小さな頃から両親に《次期公爵閣下の婚約者》という価値しか見出してもらえなかった。 それでもその利用価値に縋っていたテレジアだが、努力も虚しく婚約破棄を突きつけられる。 途方に暮れるテレジアを助けたのは、留学中だったはずの王太子ラインヴァルト。彼は何故かテレジアに「好きだ」と告げて、熱烈に愛してくれる。 その真意が、テレジアにはわからなくて……。 *hotランキング 最高68位ありがとうございます♡ ▼掲載先→ベリーズカフェ、エブリスタ、アルファポリス

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

処理中です...