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罪深く、柔らかく。触れられて、ふるえて。
罪の吐息
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どれほど、そうしていたのか。
ラウは、ようやくアリストラムの刻印からくちびるを離した。
「……アリス……」
ラウの声に、アリストラムはかすんだ眼を開けた。
手を伸ばし、そっとラウの頬に触れる。
濡れた髪をゆっくりと撫で、梳くように指を差し入れて、やわらかくとがった狼の耳を愛撫してくれる。
ラウはしばらくぼうっとアリストラムの手すさびに身をあずけ、また、うつらうつらとしかけて、ふと眼を瞬かせた。
断片的な記憶が戻ってくる。
ずっと、耳元で、誰かが悲痛に泣いていた。
抱きしめられていた。
でも、その優しさが、なぜか。
憎くてたまらなかった──
アリストラムの手は、相変わらず一定の優しさを保ったまま、そろりと肌をまさぐっている。
何も、言ってはくれない。
怖いぐらいに静まり返っている。
「ねえ、どうして……黙ってるの……?」
ふと、岩を打つ水滴の音が響き渡った。まるで溶け落ちた瞬間、滴が凍りついたかのようだった。水の跳ねる、するどい音が耳を突き刺す。
それ以外には何の音もしない。狂気にも似た水の音だけが、永遠に。
ふいに、その静けさすらもが恐ろしくなった。
先ほどまであれほど猛り狂っていた飢餓感が、今はまったく感じられなくなっている。
それどころか、全身に銀の炎を浴びた痕跡も、痛みも、何一つとして残っていなかった。
ラウは愕然と自分の手を見下ろし、明らかな変化に気付いて眼を押し開いた。
見慣れた大きさの、やわらかな子供の手では、ない。
それどころか拳の背にうっすらと獣の毛が生えていた。あわてて掌を返す。
血に汚れた漆黒の爪が見えた。思わず悲鳴を上げそうになる。
「な、何、何で爪が……!」
まだろくに爪も牙も生えそろっていない、むくむくした子犬みたいな幸せに包まれていたあのころ。
こんな手で、ゾーイはラウの頭をいつも撫でてくれた。
妖艶な翡翠の眼を愛おしそうにほそめ、獲物を引き裂いたばかりの熱い血に濡れた爪で、喉を、こう、くすぐるようにころころと撫でさすって。
いつも、ねだるとその血を舐めさせてくれた。
身体中から甘ったるい血の匂いをさせていた。優しくて残忍なゾーイ。
人の世界とは共存できなかったゾーイ。
その手と同じように、血に濡れた──自分の手。
ラウは思わずぶるぶると震え上がった。他にどうしたらいいか分からず、アリストラムにすがりつこうとする。
「あ、ありす、ねえっ、これ、ど、ど、どうしたらいいの……って、う、うわあっ!?」
視界を一瞬とんでもない重みが遮った。胸が熟れた果物のように揺れている。
まるで水の入ったたぷたぷの袋をふたつも首からぶら下げたみたいだった。ラウは自分の身体にくっついている、見たこともない丸い柔らかなかたまりに仰天した。
「な、何これ、重っ……!? え、やだ、うそ、これあたしのじゃないって、どうなってんのこの邪魔なおっぱいみたいなの……って、おっぱい!? う、うわ、うああんどうしよ胸が腫れちゃってる、やだ、何これ、困るって……」
アリストラムのひくい笑いが聞こえた。
「本当に……似ていますね……あの人と……見分けがつかない……ぐらいに」
「え」
ラウはぎくりとした。
何が何だか分からないまま、自分の手を右、左と見比べ、あたふたと隠しごまかそうとして、ようやく我に返る。
いつも神経質なほど身だしなみに気を遣っていたアリストラムが、ありえないほどぞっとする姿で──泥に汚れ、血にまみれ、半ば命を放棄したかのような有り様で横たわっている。
「アリス!」
ラウはアリストラムにしがみついた。
「何、何があったの、ねえ、誰がこんな」
叫びかけて、ラウは絶句した。
アリストラムの首に浮かび上がった血の刻印に目を奪われる。
誰がいつ刻んだのか。
くろぐろとうねる蛇のような刻印の影が、アリストラムの首筋から心臓の上あたりに至るまで、黴の根のように這い回っている。
「何これ、どうして……何で……ゾーイ……って書いてあるの?」
ラウの声に気付いたのか。アリストラムは闇に蝕まれた吐息をもらした。
「それは、これがゾーイの刻印だからです」
ふっ、と気配が変わる。幽鬼のような手が伸びて、そろそろと頬を撫でた。
まるで骨だけの手に触れられているかのようだった。
アリストラムは、ふいに全てを吐き出すかのような苦い息をもらした。
うつろに欠けた笑みを作って口の端に浮かべる。
「こちらへ、来てください」
ラウの首に手を回し、引き寄せる。罪の吐息がつめたく吹きかかった。毒に犯されたような匂いが立ちこめる。
「逢いたかった」
ぞっとする喜色まじりの声が忍び入る。ラウはびくりと身体をふるわせた。
何か、おかしい──
アリストラムはゆがんだ笑みをラウに近づけ、くちびるを押し当てた。
「……本当に……逢いたかった……」
何度も執拗に同じ言葉を繰り返す。
餓えたような深いくちづけがからみついた。青白く痩け落ちた顔がなおいっそうやつれ、病んで見える。
「な、何……してるの……アリス……ぁっ……やだ……」
「動かないで」
アリストラムの眼はもうラウを見てはいなかった。
「そんなとこ……触らな……いで……ぅううん、や、やだ……アリス何……す……!」
熱く上気し、息をつくたび苦しくも上下する胸を、アリストラムの手が包み込むようにしてゆるゆると揺らす。
身体中が、波に揺られるかのようだった。
「ふ……ぁ……!」
罪深く、柔らかく。触れられて、ふるえて。
ラウは、ようやくアリストラムの刻印からくちびるを離した。
「……アリス……」
ラウの声に、アリストラムはかすんだ眼を開けた。
手を伸ばし、そっとラウの頬に触れる。
濡れた髪をゆっくりと撫で、梳くように指を差し入れて、やわらかくとがった狼の耳を愛撫してくれる。
ラウはしばらくぼうっとアリストラムの手すさびに身をあずけ、また、うつらうつらとしかけて、ふと眼を瞬かせた。
断片的な記憶が戻ってくる。
ずっと、耳元で、誰かが悲痛に泣いていた。
抱きしめられていた。
でも、その優しさが、なぜか。
憎くてたまらなかった──
アリストラムの手は、相変わらず一定の優しさを保ったまま、そろりと肌をまさぐっている。
何も、言ってはくれない。
怖いぐらいに静まり返っている。
「ねえ、どうして……黙ってるの……?」
ふと、岩を打つ水滴の音が響き渡った。まるで溶け落ちた瞬間、滴が凍りついたかのようだった。水の跳ねる、するどい音が耳を突き刺す。
それ以外には何の音もしない。狂気にも似た水の音だけが、永遠に。
ふいに、その静けさすらもが恐ろしくなった。
先ほどまであれほど猛り狂っていた飢餓感が、今はまったく感じられなくなっている。
それどころか、全身に銀の炎を浴びた痕跡も、痛みも、何一つとして残っていなかった。
ラウは愕然と自分の手を見下ろし、明らかな変化に気付いて眼を押し開いた。
見慣れた大きさの、やわらかな子供の手では、ない。
それどころか拳の背にうっすらと獣の毛が生えていた。あわてて掌を返す。
血に汚れた漆黒の爪が見えた。思わず悲鳴を上げそうになる。
「な、何、何で爪が……!」
まだろくに爪も牙も生えそろっていない、むくむくした子犬みたいな幸せに包まれていたあのころ。
こんな手で、ゾーイはラウの頭をいつも撫でてくれた。
妖艶な翡翠の眼を愛おしそうにほそめ、獲物を引き裂いたばかりの熱い血に濡れた爪で、喉を、こう、くすぐるようにころころと撫でさすって。
いつも、ねだるとその血を舐めさせてくれた。
身体中から甘ったるい血の匂いをさせていた。優しくて残忍なゾーイ。
人の世界とは共存できなかったゾーイ。
その手と同じように、血に濡れた──自分の手。
ラウは思わずぶるぶると震え上がった。他にどうしたらいいか分からず、アリストラムにすがりつこうとする。
「あ、ありす、ねえっ、これ、ど、ど、どうしたらいいの……って、う、うわあっ!?」
視界を一瞬とんでもない重みが遮った。胸が熟れた果物のように揺れている。
まるで水の入ったたぷたぷの袋をふたつも首からぶら下げたみたいだった。ラウは自分の身体にくっついている、見たこともない丸い柔らかなかたまりに仰天した。
「な、何これ、重っ……!? え、やだ、うそ、これあたしのじゃないって、どうなってんのこの邪魔なおっぱいみたいなの……って、おっぱい!? う、うわ、うああんどうしよ胸が腫れちゃってる、やだ、何これ、困るって……」
アリストラムのひくい笑いが聞こえた。
「本当に……似ていますね……あの人と……見分けがつかない……ぐらいに」
「え」
ラウはぎくりとした。
何が何だか分からないまま、自分の手を右、左と見比べ、あたふたと隠しごまかそうとして、ようやく我に返る。
いつも神経質なほど身だしなみに気を遣っていたアリストラムが、ありえないほどぞっとする姿で──泥に汚れ、血にまみれ、半ば命を放棄したかのような有り様で横たわっている。
「アリス!」
ラウはアリストラムにしがみついた。
「何、何があったの、ねえ、誰がこんな」
叫びかけて、ラウは絶句した。
アリストラムの首に浮かび上がった血の刻印に目を奪われる。
誰がいつ刻んだのか。
くろぐろとうねる蛇のような刻印の影が、アリストラムの首筋から心臓の上あたりに至るまで、黴の根のように這い回っている。
「何これ、どうして……何で……ゾーイ……って書いてあるの?」
ラウの声に気付いたのか。アリストラムは闇に蝕まれた吐息をもらした。
「それは、これがゾーイの刻印だからです」
ふっ、と気配が変わる。幽鬼のような手が伸びて、そろそろと頬を撫でた。
まるで骨だけの手に触れられているかのようだった。
アリストラムは、ふいに全てを吐き出すかのような苦い息をもらした。
うつろに欠けた笑みを作って口の端に浮かべる。
「こちらへ、来てください」
ラウの首に手を回し、引き寄せる。罪の吐息がつめたく吹きかかった。毒に犯されたような匂いが立ちこめる。
「逢いたかった」
ぞっとする喜色まじりの声が忍び入る。ラウはびくりと身体をふるわせた。
何か、おかしい──
アリストラムはゆがんだ笑みをラウに近づけ、くちびるを押し当てた。
「……本当に……逢いたかった……」
何度も執拗に同じ言葉を繰り返す。
餓えたような深いくちづけがからみついた。青白く痩け落ちた顔がなおいっそうやつれ、病んで見える。
「な、何……してるの……アリス……ぁっ……やだ……」
「動かないで」
アリストラムの眼はもうラウを見てはいなかった。
「そんなとこ……触らな……いで……ぅううん、や、やだ……アリス何……す……!」
熱く上気し、息をつくたび苦しくも上下する胸を、アリストラムの手が包み込むようにしてゆるゆると揺らす。
身体中が、波に揺られるかのようだった。
「ふ……ぁ……!」
罪深く、柔らかく。触れられて、ふるえて。
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