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──堕ちてゆく

愛をむさぼるキスはひどく手慣れた感があって

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 優しい声。腰に回された腕の力が少しずつ強くなってゆく。ラウはたまらず尻尾をぱたぱたと振り──
 ぎゅ、っとそそるように抱かれて、また、少しぞくりと震えた。

(う、うん)
(だから、良いのですよ)
(……うん)
(……来てください)

 そろりと触れる指の淡い感触。
 思わずはっと身構えそうな驚きすら感じながら、募る思いのままに、くん、くぅんと鼻を鳴らす。

(……あ、あのね、アリス)

 もっと、どきどき、したくて。
 恥ずかしいけど……でも、もっと、きゅってなりそうな心地に、してもらいたくて。
 喉をのばして、ほっぺたを、甘えた仕草でこすりつける。

(はい)
(……ちょっと……はずかしい……)
(狼は、普通、そんな細かなことを気にしないものです)

 ふっ、とやわらかに笑いかけられる。まぶしかった。いつものアリストラムと何が違うのか、本当にアリストラム本人と話しているのかどうか、それすらもよく分からない。分からないけれど、でも、もしこれが夢なら。

(で、でも、恥ずかしい……けど、あの)
(……何ですか? 言って下さい)
 くすぐるような笑顔が降ってくる。

(……きもちいい……)
(それはよかったですね)

 ラウは、また、顔をこころもち赤くさせて、もじもじと口ごもった。指の先をつん、と突き合わせて、うつむき、ちらっとまた見上げて。
 ちょっとだけ、でいいから……
 ちゅっ、てして……くれないかな?
 ふいに耳元を熱い吐息がかすめた。アリストラムが身をかがめてくる。

(えっ……?)
 微笑みが近づいてくる。
(えっ、えっ……?)
 指先で顎を持ち上げられ、こころもとない角度で見上げさせられて。

(逢いたかった)

 目の前でつぶやいた唇が、視界を完全に奪ってゆく。
 意地悪なほど深く、長く、優しく、愛をむさぼるキスはひどく手慣れた感があって、恐いぐらい大人の味がした。
 絶え間なく続く甘いせせらぎ。
 遠い風の音。ざわめく木の葉の波。微笑みが風となって、アリストラムの髪をまた、いたずらに舞い散らしている。柔らかな銀の光が目に染みて、映る。
 いっせいに揺れなびいて青く輝く、一面の草原。

(ゾーイ)

 笑う声が遠ざかってゆく。光に呑み込まれる。
 何を言おうとしたのだろうか。続いて出てくるはずの言葉を、切ない指先がふさぐ。
 着ているものを。
 一枚ずつ。
 優しい手が取り払ってゆく。
 ラウのようでラウではない、別の──

 違う。

 どれほど叫んでも。
 声にならない。
 抱きしめられて。
 ささやかれる。
 何度も、何度も。
 違うゾーイの名を呼ばれる。
 聞きたくない。見たくない。そんな顔をするのはやめて。おねがい。笑わないで。優しくしないで。

 

 どうせ嘘だと──すべてが、偽りだと、本当はもう気が付いていたはずだったのに。

 ふいに、全身を熱性の痙攣が走った。
 身体は全く言うことを聞かない。堅く引きつけながら、のけぞる。手足が躍り、幾度となくばたついて、切羽詰まった水しぶきを散らした。

「あ……あっ……!」
 砕け散りそうな悲鳴が漏れた。背後の固い岩のくぼみに全身を強く押し込まれ、抱きすくめられる。
「ラウ。動かないで。どうか落ち着いてください……ラウ……ラウ!」

 悲痛に叫ぶ声が耳に突き刺さる。
 意味が分からなかった。うわずった声の調子そのものが恐ろしかった。
 暴れ、もがき、吠える。
 噛みつく。
 爪を立て、掻きむしる。
 引き裂く。
 ラウは嫌悪に身をよじった。茹だるような灼熱の痙攣が襲いかかってくる。

 喉がささくれ立ったかのように痛い。

 吠えれば吠えるほど血の味がこみ上げてくる。魔力の入り混じった銀の吐息が近すぎるほどに迫っていた。人間に支配される恐怖に耐えきれず、反射的に相手の唇を噛み切る。
 血の味があふれた。

「……っ!」
 銀の軋む味と血の甘みとが入り混じって流れ込んでくる。毒に犯された血が喉につまり、突沸してふきこぼれそうなほど膨れ上がった。
 足りない。何もかもが足りなかった。愛も、憎しみも、真実も。
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