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第三章 口腹の幸福

49.嫌な男 ― 3

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 ベルトリウスはイセラの後ろ姿……大きな尻を眺めながら、やりきれない気持ちでいっぱいになった。
 この後の展開を想定して自身も湯から上がると、部屋の隅に積まれたタオルの山から一枚手に取り、肌を流れ落ちる雫を拭き取り始めた。

 様子見から戻ってきたイセラは、ズボンに足を通して腰のひもを黙々と結んでいるベルトリウスに不安そうな面持ちで伝えた。

「あなたのお友達、何かやっちゃったみたい」
「ああ、そうじゃないかと思ったんだ。難しい奴だからな。もっと君といたかったのに残念だ」
「……」

 一瞥いちべつもくれずに淡々と告げるベルトリウスに、イセラの胸にチリッと小さな痛みが走る。
 あの甘い言葉が嘘であったかのように、気のない態度を取るベルトリウスへの怒りか……はたまた生娘のように外見や身の上話に惑わされて期待を寄せてしまった自分への苛立ちか。
 イセラはベルトリウスをとがめるような目で見た。

「身請けの話はもうおしまい? 今までのお客の中で最速のね」
「蹴ってないさ! 連れが問題を起こしたんだ、今はとにかく店を出ていかなくちゃいけないだろう? 街にはしばらく滞在する予定だから一緒にご飯でも行こうよ。同伴料金は勿論支払うからさ。何とか俺だけでも出禁できんにならないように、イセラからも店の人間に頼んでみてくれないかな?」

 ベルトリウスはズボンの紐を結び終えると、イセラの前でかがみ、触れるだけのキスをした。
 彼女は言葉を詰まらせてから、静かに頷いて了承した。
 そうして一時の別れを惜しむ口付けを何度か繰り返していると、部屋の扉がバンッ!と勢いよく開けられ、入店時に案内をしてくれた店員の男が大慌てで中に入ってきた。

「おい、あんたのツレがやらかしたんだ!! 出てってくれっ!!」
「はいはい、そんなに怒鳴らなくたって今行くよ……じゃあ、イセラ。危ないかもしれないからここで」
「ええ、またね……」

 上着を身に着ける前に退室する羽目になったベルトリウスは、イセラと手を振り合った後、店員に背中を押されて店の玄関まで戻ることとなった。

 廊下に出ると、一層大きな金切り声が響いて聞こえる。
 絶え間なく紡がれる罵倒ばとうを辿るように帳場に向かえば、別の男の店員に羽交い締めにされている娼婦しょうふのミースと、反対に一人で大人しく突っ立っているケランダットがいた。

「急に首をめたらしくてね。うちはそういう危険な遊びは許可してないんだ。お友達連れて帰ってくんな」

 こういった類いの揉め事に慣れている店員は、退店を促すだけで事を荒立てようとはしなかった。

 被害者であるミースは整えられた髪が乱れるのもお構いなしに、手足をばたつかせて羽交い締めから抜け出そうと暴れていた。
 首に残る赤いあとを見れば、彼女がケランダットに殴り掛かりたくなる気持ちも分かるというものだ。当事者のくせに、”自分は関係ありません”といった風に冷たく見下ろしてくる者がいれば、誰だってやり返したくなるだろう。

「こんのッ……いい加減なんとか言えよッ!! ふざけんじゃないよ不能野郎がッ!! 立ちもしねぇ腐った棒ぶら下げやがってッ、恥ずかしくねーのかよいい歳こいてさぁッ!? ―― 店長もぉ!! 早くこいつを兵士に突き出してよッ!? 殺人よッ、サ、ツ、ジ、ンッ!!」
「まあまあ落ち着けミース……殺人って言っても、お前さんは死んでないわけだし……」
「殺されかけてどう落ち着けってのよッ!?」

 ミースのもっともらしい訴えに、店長らしき男はヘラヘラと笑ってごまかした。
 彼女の言い方からして、ケランダットは事を起こしてからずっと我関せずの態度を取っているのだろう。こんな娯楽施設でも問題を発生させる相棒に、ベルトリウスは小さく溜息を吐いた。

 ギャーギャーと騒ぐミースの後ろを通り抜け、ベルトリウスはケランダットに手招きをして共に店を出た。
 外に出るやいなや、大人しく後ろを付いてきていたケランダットはいきなりベルトリウスの首根っこを掴み、すぐ横の路地に投げ倒して、倒れ込んだ腹に思い切り足を踏み降ろした。

 急な衝撃に驚くよりも、”またか”と諦めに似た感情が先に訪れた。
 何度か同じ箇所に足蹴を食らうが、今回は食後の逆上時と異なり、無表情で暴行を加えるケランダットの気が済むまで一通り甘んじて受け入れることにした。
 ベルトリウスは攻撃が落ち着いた頃を見計らって体を起こすと、前回と同じように間近で直立して憤りを露わにしているケランダットを見上げて、動物を制するように”どうどう”と両の手のひらを見せてゆっくりと語り掛けた。

「そう怒んなよ……あれか? 女にイチモツの形でも茶化されたか? あいつ性格キツそうな顔してたもんな。そういう時はハズレの女だと割り切って、さっさと済―― マ”ァ”ッ”!!??」

 品のない推測と助言を並べるベルトリウスへ返されたのは、言葉ではなく”かかと”だった。
 男の急所目掛けて振り下ろされた靴の硬い部分が、竿さお睾丸こうがんに命中して、”ゴリッ”と聞くもおぞましい音を立てる。
 これが強化された肉体でなければ、大切な場所に何かしらの障害が残っていただろう……ベルトリウスは息を呑む痛みもさることながら、男として気の遠くなる精神的苦痛に思わず股間を押さえて後ずさりした。

「タ、タマはいいけどたまはやめてくれ……っ! 俺達仲間なんだから、少しは考えて狙ってくれよ……!?」
「あの女……俺の体をベタベタと触りやがって……く、口で……」
「あ、うん……そりゃそういう店だしな。それでビビって首絞めちまったのか? うぶにしたって暴走しすぎだろ、ったく……」

 悪態を吐くベルトリウスの声は、ケランダットには届いていなかった。
 彼は遠い目をしながら、ポツリポツリと漏らした。

けがれてる……相手を選ばずびへつらって……毒婦は人間じゃない、獣だ。獣とまぐわえるはずがない……」
「毒婦って……こじらせてんなぁ~。金払ってんのに勿体ねぇ、せっかくだからヤるだけヤりゃあよかったのに。本当につまんねぇ奴……ん?」

 ベルトリウスはケランダットの股間辺りの生地が、常時より明らかに膨らんでいることに気が付いた。
 鎖帷子くさりかたびらの裾に隠れていたお陰で、周囲に知られずに済んだのだろう。低位置からのみ覗くことのできたそのは、本人の台詞とは裏腹に強く起立していた……。

「お前……不能だなんだとののしられてたくせに、女の首絞めておっててやがったのか? ―― ぐはっ!! いい趣味してんじゃねぇかっ、こりゃ傑作だっ!! 夜店に連れて来てよかったなぁ!? ぁっははははははっ―― !!!!」

 ベルトリウスはヒーヒーと腹を抱えて爆笑し始めた。その声でケランダットは若干呆けていた意識を呼び戻され、はずかしめを受けたのだと明確に認識し始めると、収まりかけていた真っ赤な怒りの渦がまたも心中を掻き乱した。
 何がそこまで面白いのか、目尻に涙を浮かべるベルトリウスに何度目かの渾身の蹴りを食らわせてみるも、足元の男の笑い声がやむことはなかった。

 十発目の蹴りでみぞおちをえぐると、足はそのままベルトリウスにがっしりと掴まれ、ニヤケ顔で”落ち着けよ”とたしなめられた。
 ケランダットは止まらない激情から大きく舌打ちを鳴らすと、見ていて胸糞悪くなる友に背を向けて、深く息を吸って吐いた。

 度重なる暴力の雨に打たれたベルトリウスは、笑みを絶やすことなく倒れた状態から立ち上がり、壁に向き合うケランダットの肩を掴んで話し掛けた。

「はっははっ! 前言撤回だ、結構おもしれぇとこあんじゃねぇかケランダットよぉ! あ~あ、失敗したなぁ? 特殊な性癖は先に注文付けて多めに金を払っとかないといけねぇんだ。そしたら専門の子を出してくれっから……お前の好みを聞いてから店に入ればよかったな、ごめんな? あんまり聞くとまたキレるかと思ってさぁ、次はそういう趣向の店を選ぶよ!」

 褒めているのか、からかっているのか分からぬ謝罪に、ケランダットは複雑な気持ちで壁を睨み付けた。
 そもそも自分はそんな変態的な性的嗜好は持ち合わせていない。他にも言いたいことは山ほどあるが、熱のこもった頭では言葉が上手く出てこず仕方なしに黙っていると、ベルトリウスは無神経にもシモの話を続けた。

 そんな時、二人が立つ路地の横手側……先程利用した店の一室の小窓がガタッと音を立てて開けられ、中から一枚の薄手のタオルが路地に向かって投げられた。

「濡れてるでしょ? あげる。店には内緒にしてね」

 それはイセラの声だった。
 小窓はすぐに閉められた。ベルトリウスは地面に落ちたタオルを拾って鼻に当て、室内の湿気を含んだ独特のニオイを鼻腔びこういっぱいに吸い込んだ。

「はぁぁぁ~~~っ……いい子だっ、今日のうちにヤリたかったなぁ……!! 部屋着いてすぐにおっ始めりゃよかった……!! 」

 ベルトリウスはイセラの素朴な面と豊満な体を思い出して悔やんだ。そんな肩を落とす半裸男の後ろ姿を、今度はケランダットが目で追いかけていた。
 純粋に、自身が嫌悪している女性という生き物に何故こうも入れ込めるのかという疑問と、数秒前までこちらに向けられていた注目が、ほんのひと時過ごしただけの人間に奪われたことへの嫉妬心。
 変な意味はない。ケランダットはただ、ベルトリウスには他の男女よりも自分を優先してほしいだけなのだ。何にも代え難い存在……それが”友人”というものだからだ。

 しかし、こうして機会さえあれば体を重ねようとするのが下々の男の習性なのだと考えると、拒絶する己の方が異質に感じられ、ベルトリウスの悪態にもいくらか溜飲を下げることができた。


 落ち着いたケランダットと、ニオイを堪能するベルトリウスの視線がバチリと合う。
 ベルトリウスはタオルを鼻から離し、やむを得ずといった表情で口を開いた。

「ご無沙汰とは言え、こんな布切れ一枚でガキみてぇに興奮するとはな……物足んねぇから裏で抜いてくるわ。お前も付いてくる? そんなもんぶら下げて街歩くのはそれこそ恥ずかしいだろ」
「はっ……?」

 予想だにしていなかった提案に、ケランダットは心から驚いた声を出した。

「夜店の裏はな、建物から漏れるヤらしい声や湯気のニオイをオカズにする奴らの溜まり場なんだよ。誰がナニしてても、誰も気にしねぇ」
「きっ……もち悪ぃっ……! 野郎が集まってどう……処理するってんだ……!?」
「んなの各々勝手にシゴくんだよ。経験がないとはいえ、自分で慰めたことぐらいはあるだろ? 好きに出して、すっきりしたら帰る……それだけだ。案外悪くないぜ? 盛りのついた負け犬の集会場はよぉ。店に行く金はねぇ……かと言って、日常で相手してくれる女もいねぇ……そんな汚ぇ底辺共が店の壁に張り付いて息を荒らげてんの。独特の敗北感っつーのかな? あの何とも言えねぇ空間は結構興奮するぜ。ほら、聞こえんだろ? 裏からヨガる声がさ……」

 ……確かに耳を澄ませば、店の裏側から男達の荒い息遣いがかすかに聞こえた。
 夜街ならではの楽しみ方を説くベルトリウスには悪いが、その内容は育ちの良いケランダットの理解の範ちゅうを超えていた。

 ゾワゾワと虫唾むしずが走るのを何とかこらえながら、ケランダットは断りを入れようと、とにかく言葉をしぼり出した。

「俺は、カマ野郎じゃねぇ……」
「あそこで一発出したからってカマ野郎になるわけじゃねぇよ。あそこは雰囲気を味わう所だ。惨めで情けねぇ周りの野郎共をさげすんだり、そんな奴らに交じってる自分に酔ったりする所だ。夜店とはまた違った楽しさがあるぜ」

 たたみ掛けるように語るベルトリウスに押し負けてしまったケランダットは、ついに肩に腕を回され、強引に首を引っ張られる形で建物の裏へ同行することとなった。
 近付いてくる野太い声色に、もう二度と夜遊びの誘いには乗らないと固く誓いながら鳥肌を立たせた。
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