透明な心にて

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25話

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冷静で無心な時間は待ってくれない。春の眺めが差し掛かる3月になり、東京もパリも陽気に浮いた活気で満ち溢れている。冬心は博士論文が合格されて卒業したものの、アーラン教授の圧倒的な推薦でフランスロイヤル大学の文学研究所に研究員として働くことになった。

春の気配を帯びた蒼昊で澄んだ空気が甘たるい午後の山形文化大学の校庭には大勢の学生たちが久しぶりの日向ぼっこを楽しんでいた。国際教育棟の1階のカフェテラスで齋藤教授ときらら助教はランチを楽しんでいる。

「本当に良かったね。速やかに離縁申請が受理されて、元の伊織に戻られて何よりだね」

ブリートを口いっぱいに頬張っている齋藤教授はもぐもぐしながら、透き通った声を出す。

「先生方のお陰です。そんなにすんなりと養子縁組解消に応じてくれるとは思ってませんでした。パク先生に恩を着ました」

「そうね、パク教授の友人が助けてくれて素早く解決できたね。もう心配不要でこんなに嬉しいことはない!」

満面に笑みを浮かべて食べている齋藤教授は52歳に相応しくない天真爛漫な空気を感じさせる輝きがあった。きららも燦々と光り出される陽射しの温もりで嬉しくて楽しくて話を進める。

「パク先生の友人が代理で全部手続きしてくれて、義父とは一切会わずに済ませました。もう、近寄る光沢組員もいないし、義父とは全然連絡もしないでいます」

「そうね、私もパク教授から真相を聞かれて、ビックリした。本当に良かったね!」

パク教授は光沢組長と齋藤教授を合わせると約束をしてしまった。清水忠徳を説得するには光沢組の力が必要だと判断したからだ。稲盛が清水忠徳の店を訪れて話は容易く完結された。光沢組員から連絡をもらった忠徳は稲盛が現れたら、何も言わずに離縁申請書にハンコを押すつもりだった。

光沢組員からは二度ときららに近寄らないよう警告を受けた。12年間のきららの苦労を勘案して借金は返せなくてもいいと言われて、安心した。これで損はないと計算がついた。清水忠徳は俗っぽいかつ卑劣な男なのだ。清水のバーに入った稲盛はお洒落で綺麗なバーの内部を見て、結構経営が順調だと感じた。

意想外に痩せ型の目立たない地味な印象の忠徳はオーナーバーテンダーとして真面目に働いていた。平日の木曜日なのに、席はほとんど埋まっていた。夜6時から12時までの営業で稲盛を含む4人の従業員が働いている。

事務的に話を進めて直ぐに捺印も貰って、全てが終わった。最後に稲盛は硬そうな仏像面で忠徳に質問を投げる。

「長年苦しんだきらら君に謝ってください」

不愛想な表情を浮かんでいた忠徳は口を吊り上げて苦そうに笑った。

「おらはきららのためさ、今まで小遣いや家賃やらも払ってるんだず。彼暮らすてるアパートは新庄市で一番綺麗で整備も最新式でなんぼだど思いやっす?12万円もするんだず。おらはやんべぎごどはやったじぇ、ほんて?」

不機嫌な表情でガミガミ言う忠徳に稲盛は呆れて語勢を強めて言い返す。

「お前がやったことは決して許せない。きらら君が優しいから、訴えないが、提訴したら懲役20年で求刑するのは朝飯だ」

言葉を吐き出して軽蔑する眼差しを忠徳に投げた後、稲盛はバーを出た。ヒンヤリとしている空気を吹雪が畳み込んでいた。稲盛は速足で駐車場まで走った。

燦爛たる太陽の眩しい光が久しぶりに現れてゆらゆらと踊ってるピース大学の校庭は大勢の学生たちの活気で熱々く賑わっていた。ランチを終えた春馬は速足で久しぶりに人文学部棟の3階の前ジャンダ教授の研究室だった現ルイス・マルタン教授の研究室を訪れた。

トントン。ノックする音がした。齋藤助教は椅子から立ち上がり、ドアを開ける。

「久しぶりです。ジャンダ教授から連絡はありましたか?」

相変わらずデカい春馬の突然の出現で齋藤助教はビックリした。

「先生が退職されてから音信不通です」

春馬は落ち着いて淡々と話す齋藤助教の顔を怪訝そうな目で見つめてから口を開いた。

「分かりました。ありがとうございました」

お礼を言ってあっさりと踵を返す春馬の背中をみて、齋藤助教は胸を撫で下ろした。まだ、ジャンダ教授の安全のためなら、絶対言わないと意を固めた。

春馬は見事にピース大学の医学部に首席で入学した。噂が出て、新聞やテレビのエンタメ欄に春馬・パンサーが更生してピース大学の医学部に首席入学したという話題が一面を飾った。春馬の淫らな性生活の批判は収まっていたので、各メディアは春馬の自制的な態度を讃えて新しい活動を期待するとも言い添えた。

春馬はスミレと今も仲良く付き合っている。スミレは20歳になって、凄く人気が上がり、映画も出演することになって撮影に忙しい日々を送っている。だが、偶には春馬と会って密会を楽しんでいた。春馬はスミレが気楽で好きだ。でも、ジャンダ教授のように深く愛していない。春馬の心にはジャンダ教授の恋心のみ占めていて誰も入れないのだ。春馬は辛うじて想愁による、哭恋による、怒涛の日々に耐えている。

燦々と光る温かい陽射しに包まれた春馬は医学部棟に向かって元気なく重い足取りでダラダラ歩く。彼の大きな後姿には悲しい、否、淋しい陰影が濃く沁みていた。

3月末の日曜日、齋藤教授は昼飯の後片付けを終えて、最上公園にお散歩に行くことにした。冬空も風馬も喜んでポールをケージに入れて玄関を出た途端、インターフォンが鳴った。齋藤教授はインターフォンのモニターに映る春馬の祖母、イザベル・マルソーを見て、凍りついたビスクドールのように動けなくなった。

やや躊躇した後、直ぐ我に返った齋藤教授は落ち着いた声音を出す。

「お久しぶりです。お入りください」

お散歩を楽しんでいる冬空と風馬は大きな門を開けて入ってくるイザベルを見ては、目を丸くして大きな声を出す。

「こんにちは!誰ですか?」

「こんにちは!なぜ、風馬の家にきたの?」

曾孫たちの可愛い姿と元気な挨拶で心を打たれたイザベルは目頭が熱くなり、色んな思いがグッと込み上げてきた。玄関からちょうど出てきた齋藤教授が冬心と風馬の頭を撫でながら、笑顔で言う。

「この方は、遠い親戚です。わざわざ遠いところから、君たちに会うにいらしたの。じゃ、お散歩は後にして、まずはお客様におもてなしをしなくちゃね」

「はい!お散歩はいいの。このおばあちゃんと遊ぶ」

ただ突っ立って熱くなった眼を細めていたイザベルは齋藤教授の案内に従って玄関に入る。広々とした和風のリビングルームはヒノキとベージュ色をベースに植物や子供のぬいぐるみで綺麗に飾られていた。大きな窓から温かい陽射しがゆらゆらと陰影を描きながらキラキラと輝いている。

「こちらにお掛けください。何かお飲みになります?」

予想外に親切で自然に接してくれる齋藤教授に緊張が緩んだイザベルは手持ちの大きな紙袋を差し出す。

「ありがとう。何でもいいです。これ、ささやかですが、子供たちのプレゼントです」

綺麗な花々が描かれているブルーの紙袋を受け取りながら齋藤教授は感謝の言葉を述べた。紙袋の中には、子供用のおもちゃが入っていた。ふわふわの猫のぬいぐるみと大きな恐竜が入っていた。冬空と風馬はそれぞれのプレゼントを受け取って大きな声でありがとうございますとお礼を言った。

齋藤教授がお茶の準備のために、キッチンに入ってる間、イザベルは冬空と風馬と楽しい会話を始める。二人とも言葉が上手で、体格も普通の年頃の子より大きい。二人とも人見知りもしないで、ニコニコしながら玩具箱から取り出したいろんなおもちゃについてイザベルに喋りまくっていた。イザベルは夢心地に酔って有頂天に至っている。

齋藤教授が温かいお茶を持ってきてイザベルにお勧めする。イザベルは温かいお茶を啜りながら、子供たちを凝視している。冬空と風馬が積み木で遊んでいる中、イザベルは向かいに座っている齋藤教授に目を合わせてゆっくり口を開いた。

「急にお邪魔してすみません。早く子供たちに会いたくて失礼ながら来ました」

イザベルに対して僅かな恨みや嫌みもなかった齋藤教授は落ち着いた笑顔を見せながら、言葉を返す。

「どうやって居場所が分かったのですか?」

「実は、昨年からずっと捜しました。運よく凄腕の探偵にあって年末にパリにいらしたことを知られました。本当なら、貴方が静かに暮らせるように黙っているつもりでした。でも、子供たちが見たくて見たくて厚かましく来ました。春馬には言わないから、心配しないでちょうだい。春馬がやったことは許せないから。でも、偶には子供たちの成長だけは見たいです」

「冬空は大きくなりつつ、私にそっくりです。風馬は春馬君にそっくりです。男前の性格すら似てますね」

優しい齋藤教授の言葉に胸が熱く蠢いたイザベルは溢れ出す涙をやっと堪えて手を伸ばし、齋藤教授の白くて細い手を握った。

「ありがとう。一人でこんなに立派に育ててくれてありがとう。本当に大きくなったね」

隣で積み木で遊んでいた冬空と風馬はママから”春馬君”という単語が発された瞬間、耳をそば立てて”春馬”という言葉を脳裏に刻み込んだ。冬空も風馬もパパはきっと春馬という人だと確信した。

子供たちが昼寝に入っているうちに、イザベルと齋藤教授は春馬の不祥事や医学部入学のことなどいろいろ話し合った。時間のせいなのか、齋藤教授はもう春馬を恨んでいない。時間の流れは辛い鬱憤も痒い憎しみも無感覚に薄めてくれる。

大きなエメラルドブルーの瞳は美しいく柔らかな光を帯びていて52歳とは思わせない綺麗な輝きが漂っている齋藤教授(ジャンダ教授)をじっと見ながら話していたイザベルはなぜ春馬がそんなに惹かれハマったかを再び再確認した。午後5時過ぎに、子供たちが昼寝から覚めたので、イザベルはそろそろ帰ろうかと思い、帰る支度をする。

「おばあちゃん、一緒に夜ごはん食べよう!」

冬空がイザベルの手を握り、お日様みたいな明るい笑顔で誘ってくれた。隣でいた齋藤教授も笑顔で言い出す。

「そうですね。折角ですから、一緒に食べたいです」

自然に優しく接してくれる齋藤教授に感謝しながら、イザベルはいいよと明るく返事する。齋藤教授とイザベルがキッチンで五目炊き込みご飯とわかめの味噌汁を作っているうちに、冬空と風馬は色鉛筆で絵を描きながら遊んだ。

食卓いっぱいに美味しい和食が並んでいて、イザベル、齋藤教授、冬空、風馬は楽しく話しながら美味しくご飯を食べる。久しぶり心が綻ぶ温もりを満喫しながら、イザベルは誓った。絶対この家族を守りたいと。。。


夜10時過ぎに、最上川旅館へ戻ってきたイザベルはお腹も心も幸せでいっぱいで満腹だった。お別れの時、冬空が密かに渡してくれた手紙には、かわいい絵とくねくねした字が描いてあった。今も何回読んでいたが涙が止まらない。冬空と風馬が書いた手紙には、
”パパ、待ってます”と書いてあって、齋藤教授、冬空、風馬の顔絵が可愛く描いてあった。

本当に愛おしい子供たちだと感心し、目は熱い涙で緩んでいるものの、嬉しさに吊り上げられている唇が下がらないイザベルだった。まだ寒い夜、温かい露天風呂に入ったイザベルは春馬は気の毒だと思われるが、齋藤教授と曾孫たちのためなら、誰にも齋藤一家の居場所は絶対言わないと強く心を決めた。

イザベルを旅館まで送ってきてから齋藤教授は冬空と風馬とお風呂に入った。楽しくはしゃいでる子供たちを見つめて齋藤教授は複雑な気持ちを静めていた。こんなに早くも居場所を見つけられるとは思いも及ばなかった。イザベルが約束通り春馬に何も言わなくても、いつか春馬が見つけてしまたらどうするかなと憂慮に沈む気持ちだ。

翌月曜日、齋藤教授は冬空と風馬をイザベルが泊まっている旅館に連れて行った。齋藤教授が働く間、イザベルが曾孫たちと過ごしたいと頼んだから、心優しい齋藤教授は出勤前に最上川旅館によって子供たちを預けることにした。イザベルを見ては、華やかな笑顔で抱きつく子供たちは嬉しそうにはしゃいだ。

子供たちに抱かれたイザベルはこの世では感じられない至福の気持ちになった。初めてきた温泉旅館が興味深かった子供たちは遊びたくてムズムズしていた。イザベルと子供たちが齋藤教授に手を振って見送ってくれた。大学に向かう齋藤教授は久しぶりポールを思い出す。本当に申し分のないパートナーだった。淡い哀愁を抱えて車のハンドルを回していく齋藤教授の蒼白な顔はほろ苦い色を帯びっていた。


























































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