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18話
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紫陽花が綺麗に咲いて、その魅力を引き立てる6月になり、春馬はピース大学を休学した。毎日、記者やカメラマンがどこまでも追いかけてついてくるから、春馬は家に引きこもった。
母、桂子は壊れていく一人息子にそっけなくされても、放っておけなくて、結局手を回して、知り合いの紹介で有名な探偵に会った。元々警視庁特別捜査官だった探偵は60歳過ぎて見えても、巨躯で鋭い目つきが飄々としていて、只者ではないオーラが漂っている。事務所を設けて公にやっていない。ただ、政治家や芸能人など、事情を明らかにできない者を対象にして、密かに動いているだけだ。桂子の話を聞きながら、ジャンダ教授の写真を見ていた探偵はやっと重い口を開く。
「単刀直入に言いますが、この依頼はお断りします」
ビックリした桂子は慌てて、表情を取り繕いながらも勇気を振り絞って訊く。
「お金ならいくらでも出します。お願いしますので、助けてください」
表情一つ変えない貫禄のある探偵は桂子を見つめたまま、言葉を続く。
「私はお金で動かないです。自分がやりたいことだけ承っています。気の毒な事情がある場合のみ、行動します。このオメガは被害者で自ら逃げ出したから、彼の幸せのためなら、放っておくのがいいでしょう」
探偵は話の全貌をじっくり聞いて、道理に合わないケースは断る。今回の件は春馬のレイプの被害に遭ったオメガが可哀そうだけだ。もう、関わることではないと判断した探偵はすっと立ちあがる。
「では、失礼します」
探偵はお辞儀をして、ホテルのビップルームから出ていった。桂子は絶望に落ちてただただ涙を零す。静寂が辺りを包み込む。
6月に入って、冬空はボールを投げたり、離乳食も美味しく食べたり、歩き出したりして、活発になった。そして、母、アンナと妹、ソフィアがジャンダ教授の出産に合わせて来日した。
アンナとソフィアは元気で大きくなった冬空が可愛くて笑顔が絶えない。さらに、今回の妊娠では、ジャンダが悪阻も浮腫みもなく、順調な妊活をしていたから、なによりも安心した。
ジャンダは週に1回に山形市の産婦人科に行って、診察を受け、新しいアルファフェロモンの治療も受けていたから、体調は良い。父親である春馬のフェロモンがいちばん効果はあるけれど、番がいないオメガのために、長年にわたる臨床使用経験等を踏まえて、新しいアルファフェロモン治療方法が確立されたからだ。
齋藤教授(ジャンダ教授)は6月17日の出産予定日に向かって、いろいろ手を打っておいた。アンナとジャンダが冬空と猫のポールを連れて、最上公園まで散歩に行った間に、ソフィアはテレビをつけておいて、大掃除をしている。その時、テレビで元アイスホッケー日本代表選手だった春馬・パンサーは今は自粛しており。。。というアナウンスが流れて、床拭きをしていたソフィアの手がぴったと止まる。
ソフィアはテレビに釘付けになって見入る。春馬の現状を知ってしまったソフィアは胸が苦しくなる。いくらダメ男でも、冬空の父親だからだ。ソフィアは春馬がこんなに落ちぶれるなんて、想像もしなかった。たぶん、ジャンダも知っているはずなのに。。。何も言わないジャンダの気持ちを察して、ソフィアはしらばっくれることにしようと決める。
春馬は家に籠って、酒に浸っていた。父、マイクはアメリカのゴルフ試合のため、先月、アメリカに渡った。母、桂子も新しい書道展の準備で忙しい。家ではお手伝いさんの三人のおばさんがいるだけで、静かだ。春馬は友達の卜部に連絡して、セックスを楽しめる相手を紹介してもらった。外出できないなら、家へ呼んだらいいと思った春馬は母がいない昼間に卜部を通して、女を招いてセックスを楽しんだ。
お手伝いさんは春馬が毎日女性を招き入れるから困惑している。桂子さんに伝えたほうがいいかどうか迷っていると、春馬から母に告げ口したら、タダじゃ済まさないぞと脅かされた。
アンナは最上ニュータウンが凄く気に入った。緑豊かな自然と人々の人情溢れる温かい雰囲気が良い。アンナとソフィアがいるから、冬空は保育所にはいかず、家で過ごす。アンナは元気でよく笑う冬空が小さい頃のジャンダと似ていて、胸がキュンとする。
天命は冬心の出産の報告を受けて、嬉しかった。母子共に元気で良かった。自分ができることはもうないかと思った天命は秘書、橘を呼んで、パリのガードマンを冬心の保護の仕事から、パリのピース電子工業社の保安部に移動させるように命令する。著名人になった冬心はもう、自分の手に負えないから、親離れさせるべきだと判断した。天命の硬い顔がビクッとひきつった。
堕落に溺れる春馬は近くにいけば、噛みつきかねない神経質な猫のように、精神がすり減って、怒りんぼうと言わんばかりに、段々、変わり果ててしまった。
春馬の祖母、イザベルはジャンダ教授の捜索を諦めず、6月に入っても、捜している。イザベルはフランスだけではなく、日本でも有能な探偵に捜索を依頼していた。いくら時間と金がかかっても、何もしないで、待つことだけはしたくなかった。可愛いポールとまだ生まれていない曾孫がいるからだ。イザベルはジャンダ教授の心境より、春馬の幸せを優先に考えてしまう。負う子より抱いた子だ。
燦々と散り踊る光の粒子が美しく描かれている6月9日の月曜日、齋藤教授は大きく膨らんだお腹を抱えて、国際教育部棟の3階の研究室に入る。
「おはよう。清水君。。。」
助教、清水きららの痣だらけの顔を見た途端、齋藤教授は言葉を失った。
「おはようございます。先生、掃除は終わりましたので、黒豆茶を淹れますね」
きららは細い首をタートルネックで隠していたが、首を絞めた痕は隠せ切れなかった。状況を察して、齋藤教授が恐る恐る口を開く。
「清水君、体は大丈夫ですか?何があったのですか?」
齋藤教授は心配で、しわを寄せて訊いた。きららは神妙な面持ちで、静かに言う。
「あー、ちょっと、友達とふざけて怪我しただけです」
そんな甘い言い訳には騙されない齋藤教授だが、ケロッとしている彼を気兼ねして、これ以上訊けなかった。齋藤教授は助教、きららがぎごちなく歩いているのを心配そうな眼差しで見つめる。
6月16日の月曜日、ジャンダ教授を母、アンナと妹、ソフィアと冬空が付き添って、山形市の山形大学付属病院の形質者産婦人科に入る。山形県では、形質者産婦人科を山形市の山形大学付属病院だけが設けていたから、新庄市から新幹線を乗って、山形市まできた。
高齢で相方のフェロモンを直接吸収できない状況なので、帝王切開の手術を決めた。入院して、手術同意書を確認し、産母のバイタルサインを測定され、胎児の健康をチェックされた。特別個室に入院したので、夜はアンナもソフィアも冬空も一緒に過ごせた。
翌日、朝10時に手術室に入ったジャンダ教授は3時間後、無事に病室に運ばれた。麻酔から覚めて、健康状態も異常はなかった。6月17日、12時12分、3800グラムの男の子、風馬が生まれた。
入院中は光出版社の望月編集長と齋藤助教と清水助教のみ、お見舞いにきた。
望月編集長は18日の水曜日の午後3時にお見舞いに来た。冬空の可愛さに惚れこんだ望月編集長は、冬空をずっと抱っこして離さない。母子とも健康そうで、嬉しくなった望月編集長はパリの冬心にビデオ通話をかける。モニター越しに冬心が現れ、ジャンダ教授と赤ちゃん、風馬を見ては、嬉しい笑顔で無事な出産をお祝いした。
助教、きららは21日の土曜日の午後1時頃、まだ残っている痣の顔で赤ちゃんの可愛いパジャマを買ってきた。きららはブロンドでエメラルドブルー瞳の綺麗な冬空を見ては、齋藤先生(ジャンダ教授)と瓜二つだと感じ、ブラウン髪でブラウン瞳のふっくらとした風馬は齋藤先生と全然似ていないので、多分、父親似だと思った。
きららは風馬が元気そうにおっぱいを飲むのを見ながら、齋藤先生(ジャンダ教授)に授業の状況を報告していると、コンコンとノックの音がする。アンナがどうぞと言って、扉を開いたら、恰幅のいい齋藤助教が花束を持って入る。
「先生。おめでとうございます。遅れて来てすいません。お元気ですか?」
「ありがとう。齋藤君。本当に久しぶりだね。こっち、来てよ。齋藤風馬だよ。男の子」
「わー、可愛いです。本当に元気そうでよかったです」
齋藤助教は満面の笑みを含みながら、潤みがちな瞳で風馬を見つめる。齋藤教授(ジャンダ教授)が清水助教に齋藤助教を紹介する。齋藤助教はやっときららに気づいて、はにかみながら挨拶をする。きららも頭を垂らして、挨拶を返した。アンナがお盆いっぱいにメロンとさくらんぼを盛ってきた。皆は冬空と風馬の可愛さに和まれて、話の花を咲かせる。
清水きららと齋藤翼は午後5時までみっちり楽しんだ後、お辞儀をして病室を出た。エレベーターを一緒に乗って、1階についたら、きららが先に口を開く。
「今日はありがとうございました。私はちょっと寄り道するので、ここで失礼します」
礼儀正しく、挨拶をしたきららに齋藤助教は真剣な眼差しでお願いをする。
「ちょっと、大事な話がありますので、少しお時間をいただけますでしょうか?」
初対面の齋藤助教からの唐突なお願いに戸惑ったきららはどう返事すればいいか、躊躇っていた。きららの気持ちを察知した齋藤助教は意を決して突入する。
「齋藤先生に関してのお話です。ここではちょっと言い難いですので、院内のカフェでも行きたいですが、いかかでしょうか?」
きららは今日初めて会った齋藤助教が、齋藤先生と赤ちゃんを愛情溢れる優しい態度で接したことを思い出す。齋藤先生との親密な師弟関係で、齋藤先生からの信頼も厚い。大きな体と違って、繊細で情深い温情な人だと思われ、頭を頷いた。二人は1階の奥にあるカフェに入る。
ジャンダ教授は28日の土曜日に元気に退院した。来週からはオンラインで講義を開始する。大学の配慮で3か月間の産休を取っても良かったものの、責任感あるジャンダ教授は産休を12日間のみとって、オンライン授業で復帰することにした。
7月4日の金曜日、午後3時頃、春馬はモデルのスミレとセックスに浸っている。母、桂子は冬の書道展の準備で忙しい中、ジャンダ教授とポールと生まれてきたかもしれない孫のことが頭から離れなくて、悶々としていた。事務所での打ち合わせを終わらせて、気が滅入ったので、一休みしたくてひのき坂の家に寄る。
シンと静まっている家に入ると、桂子の急な来宅で慌てた使用人たちが出てきて、挨拶をする。桂子は会釈だけして、3階に上る。その時、使用人たちは何か言いかけていたが、恐れ多くて押し黙った。
3階の春馬の部屋の前でノックをした桂子は何か唸り声が漏れていたので、嫌な予感がして、パッとドアを開ける。桂子は一瞬言葉を失う。真裸の春馬と女がベットの上で絡まっていたからだ。二人は桂子の気配すら気づかずに、二人の閨事だけに沈んでいる。仏頂面の桂子はそっとドアを閉めて出る。
1階に戻った桂子は使用人の佐々木さんを呼んだ。佐々木さんにいつから春馬が女を連れ込んできたかを訊いたが、彼女は困った表情で、何も言えない。状況を察知した桂子が誰にも言わないから、話してくださいと丁寧に頼んだ。その優しい声掛けに感心した佐々木さんはこれまでの全容を打ち明けた。
午後、6時くらい、春馬がスミレと一緒に1階のダイニングルームに入って、ご飯を頼む。二人は笑いながら、佐々木さんが出してくれたメロンを食べる。その時、桂子が静かに入ってきたから、春馬はふと挨拶をする。
「母ちゃん、今日は早いこと。スミレ、俺の母ちゃん。ここはスミレだ」
「初めまして。スミレと申します。テレビでよく見ました」
愛想よく挨拶するスミレはモデルらしく、スラっとしていて、薄ピンクの髪が目立った。桂子は何も言わずに、ダイニングルームを出る。春馬はスミレと一緒にはしゃぎながら、楽しく夜ご飯を食べる。
スミレが帰った後、桂子は春馬の部屋に行った。春馬は煩いロックンロール音楽をつけていて、ソファで寛いでいる。
「春馬、家で女、連れ込むのはやめて。自粛の期間にしっかりしないと、これからどうするつもりなの?」
春馬は何も言わずに、ほっといてよ、どうでもいいでしょと目で訊く。暫く二人は無言のまま、睨み合っていた。堪忍袋の緒を切らした桂子が再び口を開く。
「このまま、人生をダメにする気なの。アイスホッケーに復帰したくないの?」
むくれている春馬は欠伸をして、部屋から出ていく。桂子は震える体を抑えるのに必死だった。
母、桂子は壊れていく一人息子にそっけなくされても、放っておけなくて、結局手を回して、知り合いの紹介で有名な探偵に会った。元々警視庁特別捜査官だった探偵は60歳過ぎて見えても、巨躯で鋭い目つきが飄々としていて、只者ではないオーラが漂っている。事務所を設けて公にやっていない。ただ、政治家や芸能人など、事情を明らかにできない者を対象にして、密かに動いているだけだ。桂子の話を聞きながら、ジャンダ教授の写真を見ていた探偵はやっと重い口を開く。
「単刀直入に言いますが、この依頼はお断りします」
ビックリした桂子は慌てて、表情を取り繕いながらも勇気を振り絞って訊く。
「お金ならいくらでも出します。お願いしますので、助けてください」
表情一つ変えない貫禄のある探偵は桂子を見つめたまま、言葉を続く。
「私はお金で動かないです。自分がやりたいことだけ承っています。気の毒な事情がある場合のみ、行動します。このオメガは被害者で自ら逃げ出したから、彼の幸せのためなら、放っておくのがいいでしょう」
探偵は話の全貌をじっくり聞いて、道理に合わないケースは断る。今回の件は春馬のレイプの被害に遭ったオメガが可哀そうだけだ。もう、関わることではないと判断した探偵はすっと立ちあがる。
「では、失礼します」
探偵はお辞儀をして、ホテルのビップルームから出ていった。桂子は絶望に落ちてただただ涙を零す。静寂が辺りを包み込む。
6月に入って、冬空はボールを投げたり、離乳食も美味しく食べたり、歩き出したりして、活発になった。そして、母、アンナと妹、ソフィアがジャンダ教授の出産に合わせて来日した。
アンナとソフィアは元気で大きくなった冬空が可愛くて笑顔が絶えない。さらに、今回の妊娠では、ジャンダが悪阻も浮腫みもなく、順調な妊活をしていたから、なによりも安心した。
ジャンダは週に1回に山形市の産婦人科に行って、診察を受け、新しいアルファフェロモンの治療も受けていたから、体調は良い。父親である春馬のフェロモンがいちばん効果はあるけれど、番がいないオメガのために、長年にわたる臨床使用経験等を踏まえて、新しいアルファフェロモン治療方法が確立されたからだ。
齋藤教授(ジャンダ教授)は6月17日の出産予定日に向かって、いろいろ手を打っておいた。アンナとジャンダが冬空と猫のポールを連れて、最上公園まで散歩に行った間に、ソフィアはテレビをつけておいて、大掃除をしている。その時、テレビで元アイスホッケー日本代表選手だった春馬・パンサーは今は自粛しており。。。というアナウンスが流れて、床拭きをしていたソフィアの手がぴったと止まる。
ソフィアはテレビに釘付けになって見入る。春馬の現状を知ってしまったソフィアは胸が苦しくなる。いくらダメ男でも、冬空の父親だからだ。ソフィアは春馬がこんなに落ちぶれるなんて、想像もしなかった。たぶん、ジャンダも知っているはずなのに。。。何も言わないジャンダの気持ちを察して、ソフィアはしらばっくれることにしようと決める。
春馬は家に籠って、酒に浸っていた。父、マイクはアメリカのゴルフ試合のため、先月、アメリカに渡った。母、桂子も新しい書道展の準備で忙しい。家ではお手伝いさんの三人のおばさんがいるだけで、静かだ。春馬は友達の卜部に連絡して、セックスを楽しめる相手を紹介してもらった。外出できないなら、家へ呼んだらいいと思った春馬は母がいない昼間に卜部を通して、女を招いてセックスを楽しんだ。
お手伝いさんは春馬が毎日女性を招き入れるから困惑している。桂子さんに伝えたほうがいいかどうか迷っていると、春馬から母に告げ口したら、タダじゃ済まさないぞと脅かされた。
アンナは最上ニュータウンが凄く気に入った。緑豊かな自然と人々の人情溢れる温かい雰囲気が良い。アンナとソフィアがいるから、冬空は保育所にはいかず、家で過ごす。アンナは元気でよく笑う冬空が小さい頃のジャンダと似ていて、胸がキュンとする。
天命は冬心の出産の報告を受けて、嬉しかった。母子共に元気で良かった。自分ができることはもうないかと思った天命は秘書、橘を呼んで、パリのガードマンを冬心の保護の仕事から、パリのピース電子工業社の保安部に移動させるように命令する。著名人になった冬心はもう、自分の手に負えないから、親離れさせるべきだと判断した。天命の硬い顔がビクッとひきつった。
堕落に溺れる春馬は近くにいけば、噛みつきかねない神経質な猫のように、精神がすり減って、怒りんぼうと言わんばかりに、段々、変わり果ててしまった。
春馬の祖母、イザベルはジャンダ教授の捜索を諦めず、6月に入っても、捜している。イザベルはフランスだけではなく、日本でも有能な探偵に捜索を依頼していた。いくら時間と金がかかっても、何もしないで、待つことだけはしたくなかった。可愛いポールとまだ生まれていない曾孫がいるからだ。イザベルはジャンダ教授の心境より、春馬の幸せを優先に考えてしまう。負う子より抱いた子だ。
燦々と散り踊る光の粒子が美しく描かれている6月9日の月曜日、齋藤教授は大きく膨らんだお腹を抱えて、国際教育部棟の3階の研究室に入る。
「おはよう。清水君。。。」
助教、清水きららの痣だらけの顔を見た途端、齋藤教授は言葉を失った。
「おはようございます。先生、掃除は終わりましたので、黒豆茶を淹れますね」
きららは細い首をタートルネックで隠していたが、首を絞めた痕は隠せ切れなかった。状況を察して、齋藤教授が恐る恐る口を開く。
「清水君、体は大丈夫ですか?何があったのですか?」
齋藤教授は心配で、しわを寄せて訊いた。きららは神妙な面持ちで、静かに言う。
「あー、ちょっと、友達とふざけて怪我しただけです」
そんな甘い言い訳には騙されない齋藤教授だが、ケロッとしている彼を気兼ねして、これ以上訊けなかった。齋藤教授は助教、きららがぎごちなく歩いているのを心配そうな眼差しで見つめる。
6月16日の月曜日、ジャンダ教授を母、アンナと妹、ソフィアと冬空が付き添って、山形市の山形大学付属病院の形質者産婦人科に入る。山形県では、形質者産婦人科を山形市の山形大学付属病院だけが設けていたから、新庄市から新幹線を乗って、山形市まできた。
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翌日、朝10時に手術室に入ったジャンダ教授は3時間後、無事に病室に運ばれた。麻酔から覚めて、健康状態も異常はなかった。6月17日、12時12分、3800グラムの男の子、風馬が生まれた。
入院中は光出版社の望月編集長と齋藤助教と清水助教のみ、お見舞いにきた。
望月編集長は18日の水曜日の午後3時にお見舞いに来た。冬空の可愛さに惚れこんだ望月編集長は、冬空をずっと抱っこして離さない。母子とも健康そうで、嬉しくなった望月編集長はパリの冬心にビデオ通話をかける。モニター越しに冬心が現れ、ジャンダ教授と赤ちゃん、風馬を見ては、嬉しい笑顔で無事な出産をお祝いした。
助教、きららは21日の土曜日の午後1時頃、まだ残っている痣の顔で赤ちゃんの可愛いパジャマを買ってきた。きららはブロンドでエメラルドブルー瞳の綺麗な冬空を見ては、齋藤先生(ジャンダ教授)と瓜二つだと感じ、ブラウン髪でブラウン瞳のふっくらとした風馬は齋藤先生と全然似ていないので、多分、父親似だと思った。
きららは風馬が元気そうにおっぱいを飲むのを見ながら、齋藤先生(ジャンダ教授)に授業の状況を報告していると、コンコンとノックの音がする。アンナがどうぞと言って、扉を開いたら、恰幅のいい齋藤助教が花束を持って入る。
「先生。おめでとうございます。遅れて来てすいません。お元気ですか?」
「ありがとう。齋藤君。本当に久しぶりだね。こっち、来てよ。齋藤風馬だよ。男の子」
「わー、可愛いです。本当に元気そうでよかったです」
齋藤助教は満面の笑みを含みながら、潤みがちな瞳で風馬を見つめる。齋藤教授(ジャンダ教授)が清水助教に齋藤助教を紹介する。齋藤助教はやっときららに気づいて、はにかみながら挨拶をする。きららも頭を垂らして、挨拶を返した。アンナがお盆いっぱいにメロンとさくらんぼを盛ってきた。皆は冬空と風馬の可愛さに和まれて、話の花を咲かせる。
清水きららと齋藤翼は午後5時までみっちり楽しんだ後、お辞儀をして病室を出た。エレベーターを一緒に乗って、1階についたら、きららが先に口を開く。
「今日はありがとうございました。私はちょっと寄り道するので、ここで失礼します」
礼儀正しく、挨拶をしたきららに齋藤助教は真剣な眼差しでお願いをする。
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「齋藤先生に関してのお話です。ここではちょっと言い難いですので、院内のカフェでも行きたいですが、いかかでしょうか?」
きららは今日初めて会った齋藤助教が、齋藤先生と赤ちゃんを愛情溢れる優しい態度で接したことを思い出す。齋藤先生との親密な師弟関係で、齋藤先生からの信頼も厚い。大きな体と違って、繊細で情深い温情な人だと思われ、頭を頷いた。二人は1階の奥にあるカフェに入る。
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7月4日の金曜日、午後3時頃、春馬はモデルのスミレとセックスに浸っている。母、桂子は冬の書道展の準備で忙しい中、ジャンダ教授とポールと生まれてきたかもしれない孫のことが頭から離れなくて、悶々としていた。事務所での打ち合わせを終わらせて、気が滅入ったので、一休みしたくてひのき坂の家に寄る。
シンと静まっている家に入ると、桂子の急な来宅で慌てた使用人たちが出てきて、挨拶をする。桂子は会釈だけして、3階に上る。その時、使用人たちは何か言いかけていたが、恐れ多くて押し黙った。
3階の春馬の部屋の前でノックをした桂子は何か唸り声が漏れていたので、嫌な予感がして、パッとドアを開ける。桂子は一瞬言葉を失う。真裸の春馬と女がベットの上で絡まっていたからだ。二人は桂子の気配すら気づかずに、二人の閨事だけに沈んでいる。仏頂面の桂子はそっとドアを閉めて出る。
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午後、6時くらい、春馬がスミレと一緒に1階のダイニングルームに入って、ご飯を頼む。二人は笑いながら、佐々木さんが出してくれたメロンを食べる。その時、桂子が静かに入ってきたから、春馬はふと挨拶をする。
「母ちゃん、今日は早いこと。スミレ、俺の母ちゃん。ここはスミレだ」
「初めまして。スミレと申します。テレビでよく見ました」
愛想よく挨拶するスミレはモデルらしく、スラっとしていて、薄ピンクの髪が目立った。桂子は何も言わずに、ダイニングルームを出る。春馬はスミレと一緒にはしゃぎながら、楽しく夜ご飯を食べる。
スミレが帰った後、桂子は春馬の部屋に行った。春馬は煩いロックンロール音楽をつけていて、ソファで寛いでいる。
「春馬、家で女、連れ込むのはやめて。自粛の期間にしっかりしないと、これからどうするつもりなの?」
春馬は何も言わずに、ほっといてよ、どうでもいいでしょと目で訊く。暫く二人は無言のまま、睨み合っていた。堪忍袋の緒を切らした桂子が再び口を開く。
「このまま、人生をダメにする気なの。アイスホッケーに復帰したくないの?」
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