16 / 25
16話
しおりを挟む
冬心と祖母、知加子とジャンは宮城県の鳴子温泉まで旅をした。人目を気にせず、のんびりしたかったので、鳴子温泉の旅館を予約した。三人は新幹線の中で和風弁当を食べ、窓からの冬景色を楽しんだ。1時間30分位を走って仙台についた三人は仙台駅周辺を散策していた。
ジャンも冬心も帽子と大きなマスクで顔を隠していたが、通り過ぎる人々が足を止めて振り向いて見る。199センチの長身のジャンは日本では見かけない巨躯だからだ。ジャンが牛タンが食べたいというから、三人は牛タン専門店によって、30分くらい並んでやっと牛タン定食を食べられた。ジャンは凄く美味しいーと言って大満足した。
15時発の高速バスに乗って16時25分に鳴子温泉駅前についた。既に暗くなって景色がよくわからないだが、何か昔風の趣がある落ち着いた雰囲気で気持ち良かった。また、10分くらい歩いて鳴子温泉ホテルについた。フロントに行って、チェックインをすると、受付のスタッフが冬心だと気づいてビックリした表情でサインくださいと言った。困った冬心は「ごめんなさい、サインはしない主義ですので、代わりに一緒に写真を撮ってもいいですよ」と優しく言った。スタッフは喜んでジャンと冬心と写真を撮る。
その時、店長が現れて深く頭を下げて家のスタッフが勝手な真似をして申し訳ございませんと言いながら謝った。冬心は大丈夫ですと言って、予約しておいた部屋に向う。店長が手荷物を持って案内してくれた。落ち着いた和風の広々した個別室は別の部屋と離れていて和風の部屋が二つに居間と露天風呂もあった。
この部屋がすっかり気に入った二人は荷物を押入れに整理しておいて露天風呂に入った。気持ちが弾んだ二人は祖母、知加子が隣でいても気にせず抱き合ったり、キスしたりしていちゃいちゃする。祖母、知加子はよくお似合いだねと思いながら、微笑んだ。
冷たい北風が皮膚をひりひりと疼く1月27日の月曜日、ジャンダ教授は赤ちゃんのポールを抱っこして大きなトートバッグを肩に提げて久しぶりにピース大学に行った。地下2階の駐車場で車を停めて3階の研究室に入る。華やかな笑顔で迎えてくれた齋藤助教は赤ちゃんのポールのふやふや頬っぺたを撫でながら、今までの仕事や連絡事項について詳細に説明する。
齋藤助教はジャンダ教授が何の話もなく、大学に出て来ないから心配になって数回かラインをしたが、ジャンダ教授に送ったメッセージは既読がつかないまま未読でいたから不安になり、冬心にラインをした。冬心からジャンダ教授の出産の話を聞くなり、ピース大学付属病院にお見舞いに駆けつけた。
前よりずっと痩せているジャンダ教授を見て、齋藤助教が急に泣きだしたから、隣でいた冬心も愛子も樹里も悲しくなり齋藤助教を優しく宥めた。そんな優しい齋藤助教を思うと、ジャンダ教授は心が痛かった。でも、意を決めたジャンダ教授は齋藤助教に春馬との出来事やこれからの事を率直に話した。
赤ちゃんのポールを抱いてあやしていた齋藤助教は思いもよらず話に心臓が引き締める痛みを感じた。でも、話を静かに聞き終えた齋藤助教は真剣な眼差しで何にがあっても先生を応援しますと誠実に言った。ジャンダ教授はありがとうといい、ジャンダ教授の代わりに任命されたルイス教授について話す。
ジャンダ教授は学長と学部教授会の会長に電話をして、退職することを伝えた。辞めないで休職にしてくださいと言われたが出産のことで身体も弱くなったので、辞めたいと言ったのだ。それで、ジャンダ教授の事情を察知した学長の宇宙天弥が山形県の新庄市の山形文化大学の学長と相談してジャンダ教授にフランス語教育学科を担当する教授職を紹介した。
地方に行きたかったジャンダ教授にはうってつけの仕事場だった。給料は有名なピース大学より半分以下で安いけれど、東京から離れたところに行きたかったので気に入った。学部は専門教育部と国際教育部のみで、学科も専門教育部ではシステム工学科とグラフィックデザイン学科があり、国際教育部では英語教育学科、フランス語教育学科、韓国語教育学科、中国語教育学科だけがある小規模な学校で創立90年の由緒がある。
実はジャンダ教授は春馬から逃げ出したくて田舎に行きたかったのだ。フランス文学の研究のためには、現在のピース大学校が研究力も高い環境で有名なセミナーの機会も多くて、色んな面では有利だが、誰も知らない静かな所で人生をやり直したい気持ちがあったので、新しい仕事を受け入れた。母のアンナに相談したら、母も快く同意してくれた。
後任のルイス教授とメールのやり取りをして、講義に関してもセミナーに関しても、たくさんの話をした。また、齋藤助教の博士コースの指導も頼んでおいた。フランスロイヤル大学の恩師のアーラン教授からパリに戻ってきて一緒に働こうと誘わられたが、有名なフランスロイヤル大学で働いたら、直ぐ個人情報が大学のホームページに記載されるので、春馬にバレる危険がある。それで、アーラン教授には申し訳ないけれど依頼を断った。
ジャンダ教授はインターネット不動産屋に頼んで、新庄市のアパートを探したが、お気に入りの物件がなかなか見つからなくて悩んでいた。数日後、不動産屋の担当者から新庄市から車で20分程の最上町という所で最上ニュータウンとして複数の新築2階建ての日本家屋を分譲しているから目を通してくださいというメールに写真とビデオが添付されてきた。
自然豊かな最上ニュータウンでは学校、病院、公園、行政の出張所、スーパー、商店街などが揃って不便なく暮らせるように最上町が長年、力を入れて完成させた街つくり政策だった。30戸の住宅が集まって道路も拡大させた。複数の写真とビデオを見た瞬間、ジャンダ教授はここで住みたいと直ぐに決めた。
4泊5日の鳴子温泉旅行はとっても楽しかった。ジャンも雪景色に惚れ込んでまた来たいと喜んだ。其の後、冬心とジャンと祖母、知加子は京都府最北西に位置する京丹後市の久美浜のいっぺん庵という隠れ宿に行った。離れの客室からは恋人岬と蒲井浜が見下ろせてステキな海景観を満喫した。オーシャンビューの露天風呂では至福の一時を愉しんだ。
人目が届かない所ばかりだけ探して旅を楽しんでいた冬心とジャンと祖母、知加子は4泊5日の京都の旅を終えて東京に戻った。愛想のいいジャンは祖母、知加子にべったりしてよくおしゃべりしたり、祖母、知加子から色んな昔話を聞いたりして喜んだ。特に、ジャンは人出が少ない夜に近所のスーパーでの買い物を気に入っていた。
スーパーで多彩な食品と総菜を見ては、これ食べたいなーと冬心に強請ったり、甘えたりした。祖母、知加子が疲れた時には二人だけに出て、買い物した。それで、声をかけられる事がよくあったが、優しい近所住民は挨拶だけして、握手と写真は遠慮して言えなかった。星空町はプライバシーを尊重する風潮が深く根付いていたから、オメガや芸能人が多く住んでいたからだ。
1月30日の木曜日、今日はジャンダ教授とアンナと赤ちゃんのポールが冬心の家に遊びに来る日だ。何回かラインして漸くジャンダ教授と日程が合わさったのだ。祖母、知加子は可愛いポールが見られるなんて嬉しくなって、母乳にいいと言われる豚汁、サバの味噌煮、鶏とかぼちゃのカレーソテー、蒸し野菜サラダ、ひじきの煮物、たけのこの土佐煮、高野豆腐の含め煮、切り干し大根、大根葉の混ぜご飯など、手を込んでたくさんの料理を作った。
午前11頃、燦々と降り注ぐ日光の中、ジャンダ教授が赤ちゃんのポールを抱えて母、アンナと現れる。冬心はジャンを紹介して、妊娠していることも伝える。ジャンダ教授は素敵な笑顔で祝福してくれる。1か月の赤ちゃんのポールは体重が増えて肉づきがよくなり、手足をバタバタと動かしたり、大きなエメラルドブルー目をキョロキョロしていた。とっても可愛いと言いながらジャンと祖母、知加子は赤ちゃんのポールから目を離せない。
美味しいランチを終えて、彩り豊かなフルーツゼリーをデザートで食べながら、アンナは冬心の手作りのフルーツゼリーを賛称した。ジャンダ教授は赤ちゃんのポールにおっぱいを飲ませながら、春馬の発情期のラットのこと、妊娠3週目のこと、退職したこと、山形県新庄市の山形文化大学に行くこと、最上町に引っ越しすること等々、淡々とした語気で話を紡いだ。
冬心と祖母、知加子は春馬から逃げ出したくて決めたというジャンダ教授の逃避行にびっくりして暫く緘黙していた。やっと事情を理解した祖母、知加子が目尻を濡らして、「何があったら、いつでも連絡してね。あんたは息子みたいなもんだからね」と優しく言って、ジャンダ教授の華奢な背中を優しく擦ってあげる。
隣で静かにジャンダ教授の事情を聞いていたジャンは業腹だった。当節、オメガのレイプはどこの国も厳しく罰するから滅多に聞いたことがない。稀にアフリカやインドなどで起きているらしい。レイプの被害者なのに、理不尽な目に遭って、人生の軌道を逸らして逃げ出すなんて、気の毒で我慢できない。
冬心は悲哀な思いで心臓がチクチク痛くなった。底の見えない深淵に迷っているような憂心で不意に大粒の涙が零れ落ちた。ジャンダ教授は赤ちゃんのポールの体調を配慮して午後1時くらいにおいとました。
1月31日の金曜日の朝、冬心はピース財団の事務局から第40回全国大学生文芸創作コンテストの優秀賞当選のお知らせの連絡を貰う。大学1年生の11月に公募が発表されたが、2年に1回開催されることになっているので、今頃結果発表が行ったのだ。2月4日の火曜日、ピース財団の本部で授賞式を行う予定なので参加してほしいとのことだった。
嬉しくなった冬心はピース財団からのメールをジャンに見せる。目を大きく開いたジャンは急いでテレビのリモコンを弄る。朝ドラマを見ていた祖母、知加子はビックリして「何なの。ドラマ見てるのに。。。」と呆れて言った。ジャンが笑いながら「ごめんなさい。ちょっと待ってください」と言って、朝のニュース番組にチャネルを止める。
暫く一般のニュースが流れて、やっとアナウンサーが「速報をお伝えします。第40回全国大学生文芸創作コンテストの当選者が発表されました。賞金100万円の優秀賞はピース大学文学部フランス語文学科だった椿冬心が当選されました。賞金50万円の特別賞はエンライトメント公立大学の文学部文芸創作学科の藤間春樹が当選されました。ちなみに優秀賞の椿冬心は昨年、フランスの第50回ブーゴー新人作家賞を日本人初で受賞しました。主催側のピース財団は来る2月4日の火曜日に。。。」とはっきりした発音が流れたら、祖母、知加子が喜んで冬心をひしと抱き締める。
1月31日に第40回全国大学生文芸創作コンテストの当選者が発表された途端に、冬心のスマホが煩わしくメロディーを鳴らす。ジャンダ教授を始め、愛子、樹里、鈴木先生、学長、齋藤助教、望月編集長、高橋店長などなど色んな知人からお祝いの電話とラインメッセージが殺到した。
2月4日の火曜日、冬心は白いストライプスーツを着こなしで肩まで伸びた髪を結いあげて纏めた。ジャンは凄く綺麗いと褒めまくってキスをする。祖母、知加子もお洒落なブルーのツイードワンピースを羽織ってピンク色のリップも塗った。
11時の授賞式に合わせてピース財団からお迎えの車がきて、コスモス坂のピース財団ビルに向かう。1時間くらい走って到着したピース財団ビルの前には大勢の報道陣がカメラを提げて待っていた。戸惑っている冬心にジャンがそっと冬心の手を包んで大丈夫だよと優しく囁き、車のドアを開ける。
ぴかぴかとカメラのフラッシュが華麗に光って、大きなマスクをかけていたジャンと祖母、知加子は眩しくて目を細める。主催側のガードマンたちが近寄ってきて、式典会場まで安全にエスコートしてくれた。
ピースグループの常務の宇宙天命は第40回全国大学生文芸創作コンテストの授賞式のために、既に会場についていた。11時の10分前、白いストライプスーツで髪を結いあげた綺麗な冬心が恋人と手を繋いで式典会場に入ってきた。一瞬、集った関係者たちや記者たちが一斉に冬心を見つめる。
相変わらず美しくて、輝いている冬心を久しぶり目に据えた天命の心拍数は早く飛び上がった。やっぱり、冬心が大好きだ。
冬心が指定席に座ってから授賞式が始められる。司会者の挨拶から始め、ピースグループの常務の宇宙天命の祝辞、ピーズ財団会長の祝辞、日本作家協会の会長の祝辞、審査委員長の当選作の説明などが述べられて、特別賞の受賞者の藤間春樹が呼ばれる。ピーズ財団会長から特別賞の銀メダルを受け取った彼が演台で謝辞の言葉を述べる。
次に冬心が呼ばれてピースグループの常務の宇宙天命から金メダルを受け取ってから、カメラの前で謝辞を述べる。その後も拍手が鳴り止まない熱狂的な支持で記者会見が開かれた。
冬心が演台に立ったら、たくさんの記者たちが手を上げて質問しようとする。貫禄ある司会者が落ち着いた声音で順序的に会見を導いる。
冬心の受賞作、冬のセレナーデに関しての質問より、恋人のジャンに関しての質問が多かったので、司会者が仲介して記者会見は早めに終了した。授賞式後、式典会場の隣の広間で食事会が行われた。優雅なクラシック音楽が流れてる中、彩り豊かな料理が並ぶブッフェを見て、ジャンはとても喜んだ。
冬心は審査委員の文学界の巨匠たちと本について話を盛り上げている。天命はピーズ財団会長と審査委員長と一緒に食事を楽しんでいた。天命が食事を終える頃、やっと冬心が歩み寄って、明るく挨拶をする。審査委員の作家たちに捕まえて話が長引いてしまって今頃、天命の席に来られたのだ。
「挨拶が遅くなり、申し訳ございません。本日は大変ありがとうございました」
「あ、おめでとうございます。謝らなくていいです。皆さん、椿作家に会えて嬉しくて、離してくれないんですね。ご飯は食べましたか?美味しいですよ」
無表情で冷静に見えた天命が穏やかな笑みを見せて話すから、冬心は緊張の紐が解かれて、気楽になった。
「まだ食べてないんです。実はお腹空いたんです。これから食べるに行きます。では、先に失礼いたします。」
お辞儀をして冬心がジャンと祖母、知加子の席に向かう。簡単な挨拶だけ交わしたが、天命は5年前より、もっと凛として品のある色っぽさが感じられる大人になった冬心を近くて見られて大満足だった。冬心は3時間も及んだ食事会を終えてそろそろ帰ろうとしたら、かっちりした巨躯のガードマンが近寄って宇宙常務からの指示ですのでお家まで送ってあげますと言い出した。冬心は天命にお礼を伝えたくて、食事会の会場を見回したが、天命は既に会場を去っていた。
2月14日の金曜日、腰までくる長い髪をバッサリと短くカットしたジャンダ教授は赤ちゃんのポールを抱っこして、母、アンナと一緒に山形県新庄市行きの新幹線に身を乗せる。27年間暮らした東京を離れて行ったこともない新天地で生きる喜びを求めて、前向きに生きたいと思った。
春馬はフィンランドからたくさんのメールや赤ちゃんのポールのお土産を送ってきた。春馬の母、桂子も何回か訪れてきて、赤ちゃんのポールの成長を喜んでくれた。新庄市行きの新幹線に乗る前に、ジャンダ教授は携帯ショップに行って、既存のスマホを解約して、新しい番号の新規のスマホを契約した。もう、春馬と彼の家族には二度と会いたくないと切実に思った。
最上ニュータウンは木々に囲まれてヒノキの木を使った畳やふすまなどが和風にインテリアされた日本伝統家屋が30戸も集まっていた。1階は畳の大きな居間、浴室、台所、部屋が2つがあり、2階では寝室が4つ、浴室が1つあった。東京のマンションより広々して、中庭もあって子育てに適した環境だ。
冬心はジャンと一緒に愛子と樹里に会ってランチを楽しむ。長身でハンサムなジャンを見て、愛子はモデルみたいだと称賛して、たくさんの写真を撮りまくる。ジャンと冬心の恋愛話を興味深々で、話し合っていた四人は自然の流れで気の毒なジャンダ教授の退職の話に波乗った。愛子は春馬が憎たらしくて、許せないと怒りを表せた。冬心は念のために、ジャンダ教授の転職先や引っ越し先のことは言わなかった。
愛子と樹里が大好きで信頼している。樹里はアメリカで留学しているし、口も重いし、思慮深いで察しがいいから安心できるけれど、愛子は心脆いほど、情に溺れやすいからつい口がすべって秘密を漏らしたこともあったので、心配で何も言えなかった。ちょっとの余計な一言が、取り返しのつかない事態に発展する恐れもあるので、冬心は愛子と樹里には申し訳ないけれど、ジャンダ教授の居場所は絶対言わないと心決める。
2月21日の金曜日のパリの出発前、冬心は光出版社に訪れて望月編集長と小・中・高学生時の作文の出版に向けて話し合う。小学校の詩作は”心の童謡”というタイトを冬心がつけて9歳で描いた家族の絵を表紙にすることが決められた。中学校の詩作は”魂の夢心地”というタイトルで、14歳頃に描いた動物たちの絵を表紙にして、高校生の詩作は”パラレル宇宙のシンパシー”というタイトルで表紙は18歳に描いた太陽系の絵に決められた。
ジャンダ教授と仲良しの望月編集長は「ジャンダ教授の事、できるかぎりサポートするから心配いらん!」と言い、冬心を元気付けてくれる。冬心は周りに優しい人ばかりいて、とても恵まれているなと思い、その縁を大切にしていきたいと思った。
2月21日の金曜日の朝8時20分の飛行機に乗って、冬心とジャンはパリに向かう。祖母、知加子は望月編集長と一緒に涙を堪えて二人を見送りする。羽田空港に集まったファンたちと記者たちの温かい雅量に冬心は感謝の気持ちで温情を抱いて、パリ行きの飛行機に乗った。
時間が悠々と流れて3月の新学期が始まった。ジャンダ教授は赤ちゃんのポールを車のベビーシートに載せて新庄市に向かう。車で20分くらい、まだ雪が積もっている冬景色が心地よいだが、気温は東京より寒い。山形文化大学内の保育所で赤ちゃんのポールを預けて国際教育部棟の3階にある自分の研究室に入る。
背が低くてスラっとした可愛い童顔の助教、清水きららが先に来て、窓を開けて掃除をしている。先月、仕事の打ち合わせで何回か会ったので、少しは仲良くなった。助教、きららはベータ性の30歳で博士コースを勉強している。男としては背の低い167センチで45キロのひょろいゲイだ。
ジャンダ教授が先週の月曜日に初めて山形文化大学に来て清水助教に出会った時には、清水助教の右目に紫色の大きな痣があり、頬も腫れていたので、心配したけれど、今日は痣は薄くなり、顔の腫れも引いたからジャンダ教授はほっとした。
山形文化大学は地方の大学らしく、学部棟2つと総合施設建物1つだけの小規模なのだが、敷地は広くて建物も綺麗で快適な環境だった。山形県ではオメガが7人しかいなくて、その中、男性のオメガは一人もいないから、男性の劣性オメガのジャンダ教授が東京から移住してきた時には、山形県庁と最上町役場は嬉しくて大騒ぎになった。
それで、分厚い支援を見直して住宅補助金、育児補助金、出産補助金を前より上回る金額で調整したく、東京のオメガ管理局に申請もした。山形県にはオメガ支援施設がなくて、隣の宮城県に東北オメガ支援施設があった。ジャンダ教授は山形県庁にオメガ安全保護のために、オメガ個人情報保護管理法のオメガ秘密保持契約を申請した。そのため、ジャンダ教授の個人情報は公にできなくなり、勝手に写真を撮るのも禁止で、ジャンダ教授の個人情報をブログやSNSなどのソーシャルメディアに掲載するのも法律で禁止される。
ジャンダ教授は教授会の先生たちも活気ある学生たちも真面目で、この新しい大学がすっがり気に入ってしまった。大学内では、美しい絶世美人のジャンダ教授の噂が持ちきりになり、学生たちがうっかり魂を抜かれそうな美しいジャンダ教授を見に、国際教育部棟の3階にわざわざ足を運んできた。
ジャンダ教授は山形県庁の協力により、山形文化大学では男性の劣性オメガであることを秘密にして働いている。ジャンダ教授は女性と見なされているから、女性らしい服を着て、一般の女性らしく振舞っていた。
フィンランドで冬の訓練に励んていた春馬は2月14日からジャンダ教授の電話が急に「おかけになった電話番号は現在使われておりません。番号をお確かめになって、もう一度おかけ直し下さい」とアナウンスが流れ、繋がらなくなり、ラインもできなくなって戸惑った。不安になった春馬は冬心に電話をかけたが、冬心は出なかった。それで、ラインでメッセージを残したが、冬心からは返信がなかった。しぶしぶと愛子に電話したが、愛子は知らないと言うばかりで何も得ることができなかった。
焦燥感に駆けられた春馬は母に連絡する。桂子は暫く黙っていたが、ふっと溜息をついて、ジャンダ教授が引っ越しして身を隠したことを打ち明けた。桂子はもうジャンダ教授を諦めて、それぞれの人生を歩むべきだと春馬を切実に説得する。でも、春馬は何も言わずに電話を切った。
春馬は3月10までのフィンランド冬キャンプなのに、緊急の事情があるとコーチに伝えて、2月21日の金曜日に東京行きの飛行機に一人で乗り込んだ。ざわつく胸騒ぎを堪えながら、13時間のフライト時間を苦しい思いで過ごし、東京についた。
春馬は東京につくなり、木槿丘のピース高層タワーマンションに駆けつけて、ジャンダ教授の号室のインターフォンを押す。でも、暫く待っても何の返事もなかった。冷汗が出た春馬はエントランスの管理室のボタンを押して、平静を装って、コンシェルジュにジャンダ教授のことを訊く。春馬を覚えていたコンシェルジュはジャンダ教授が2月14日に引っ越ししたことや新居は知らないと言うだけだった。
春馬は憤懣やるかたない心で目が眩んで手が震えてきた。暫く考え込んだ春馬は目をキリッとして踵を返す。
ジャンも冬心も帽子と大きなマスクで顔を隠していたが、通り過ぎる人々が足を止めて振り向いて見る。199センチの長身のジャンは日本では見かけない巨躯だからだ。ジャンが牛タンが食べたいというから、三人は牛タン専門店によって、30分くらい並んでやっと牛タン定食を食べられた。ジャンは凄く美味しいーと言って大満足した。
15時発の高速バスに乗って16時25分に鳴子温泉駅前についた。既に暗くなって景色がよくわからないだが、何か昔風の趣がある落ち着いた雰囲気で気持ち良かった。また、10分くらい歩いて鳴子温泉ホテルについた。フロントに行って、チェックインをすると、受付のスタッフが冬心だと気づいてビックリした表情でサインくださいと言った。困った冬心は「ごめんなさい、サインはしない主義ですので、代わりに一緒に写真を撮ってもいいですよ」と優しく言った。スタッフは喜んでジャンと冬心と写真を撮る。
その時、店長が現れて深く頭を下げて家のスタッフが勝手な真似をして申し訳ございませんと言いながら謝った。冬心は大丈夫ですと言って、予約しておいた部屋に向う。店長が手荷物を持って案内してくれた。落ち着いた和風の広々した個別室は別の部屋と離れていて和風の部屋が二つに居間と露天風呂もあった。
この部屋がすっかり気に入った二人は荷物を押入れに整理しておいて露天風呂に入った。気持ちが弾んだ二人は祖母、知加子が隣でいても気にせず抱き合ったり、キスしたりしていちゃいちゃする。祖母、知加子はよくお似合いだねと思いながら、微笑んだ。
冷たい北風が皮膚をひりひりと疼く1月27日の月曜日、ジャンダ教授は赤ちゃんのポールを抱っこして大きなトートバッグを肩に提げて久しぶりにピース大学に行った。地下2階の駐車場で車を停めて3階の研究室に入る。華やかな笑顔で迎えてくれた齋藤助教は赤ちゃんのポールのふやふや頬っぺたを撫でながら、今までの仕事や連絡事項について詳細に説明する。
齋藤助教はジャンダ教授が何の話もなく、大学に出て来ないから心配になって数回かラインをしたが、ジャンダ教授に送ったメッセージは既読がつかないまま未読でいたから不安になり、冬心にラインをした。冬心からジャンダ教授の出産の話を聞くなり、ピース大学付属病院にお見舞いに駆けつけた。
前よりずっと痩せているジャンダ教授を見て、齋藤助教が急に泣きだしたから、隣でいた冬心も愛子も樹里も悲しくなり齋藤助教を優しく宥めた。そんな優しい齋藤助教を思うと、ジャンダ教授は心が痛かった。でも、意を決めたジャンダ教授は齋藤助教に春馬との出来事やこれからの事を率直に話した。
赤ちゃんのポールを抱いてあやしていた齋藤助教は思いもよらず話に心臓が引き締める痛みを感じた。でも、話を静かに聞き終えた齋藤助教は真剣な眼差しで何にがあっても先生を応援しますと誠実に言った。ジャンダ教授はありがとうといい、ジャンダ教授の代わりに任命されたルイス教授について話す。
ジャンダ教授は学長と学部教授会の会長に電話をして、退職することを伝えた。辞めないで休職にしてくださいと言われたが出産のことで身体も弱くなったので、辞めたいと言ったのだ。それで、ジャンダ教授の事情を察知した学長の宇宙天弥が山形県の新庄市の山形文化大学の学長と相談してジャンダ教授にフランス語教育学科を担当する教授職を紹介した。
地方に行きたかったジャンダ教授にはうってつけの仕事場だった。給料は有名なピース大学より半分以下で安いけれど、東京から離れたところに行きたかったので気に入った。学部は専門教育部と国際教育部のみで、学科も専門教育部ではシステム工学科とグラフィックデザイン学科があり、国際教育部では英語教育学科、フランス語教育学科、韓国語教育学科、中国語教育学科だけがある小規模な学校で創立90年の由緒がある。
実はジャンダ教授は春馬から逃げ出したくて田舎に行きたかったのだ。フランス文学の研究のためには、現在のピース大学校が研究力も高い環境で有名なセミナーの機会も多くて、色んな面では有利だが、誰も知らない静かな所で人生をやり直したい気持ちがあったので、新しい仕事を受け入れた。母のアンナに相談したら、母も快く同意してくれた。
後任のルイス教授とメールのやり取りをして、講義に関してもセミナーに関しても、たくさんの話をした。また、齋藤助教の博士コースの指導も頼んでおいた。フランスロイヤル大学の恩師のアーラン教授からパリに戻ってきて一緒に働こうと誘わられたが、有名なフランスロイヤル大学で働いたら、直ぐ個人情報が大学のホームページに記載されるので、春馬にバレる危険がある。それで、アーラン教授には申し訳ないけれど依頼を断った。
ジャンダ教授はインターネット不動産屋に頼んで、新庄市のアパートを探したが、お気に入りの物件がなかなか見つからなくて悩んでいた。数日後、不動産屋の担当者から新庄市から車で20分程の最上町という所で最上ニュータウンとして複数の新築2階建ての日本家屋を分譲しているから目を通してくださいというメールに写真とビデオが添付されてきた。
自然豊かな最上ニュータウンでは学校、病院、公園、行政の出張所、スーパー、商店街などが揃って不便なく暮らせるように最上町が長年、力を入れて完成させた街つくり政策だった。30戸の住宅が集まって道路も拡大させた。複数の写真とビデオを見た瞬間、ジャンダ教授はここで住みたいと直ぐに決めた。
4泊5日の鳴子温泉旅行はとっても楽しかった。ジャンも雪景色に惚れ込んでまた来たいと喜んだ。其の後、冬心とジャンと祖母、知加子は京都府最北西に位置する京丹後市の久美浜のいっぺん庵という隠れ宿に行った。離れの客室からは恋人岬と蒲井浜が見下ろせてステキな海景観を満喫した。オーシャンビューの露天風呂では至福の一時を愉しんだ。
人目が届かない所ばかりだけ探して旅を楽しんでいた冬心とジャンと祖母、知加子は4泊5日の京都の旅を終えて東京に戻った。愛想のいいジャンは祖母、知加子にべったりしてよくおしゃべりしたり、祖母、知加子から色んな昔話を聞いたりして喜んだ。特に、ジャンは人出が少ない夜に近所のスーパーでの買い物を気に入っていた。
スーパーで多彩な食品と総菜を見ては、これ食べたいなーと冬心に強請ったり、甘えたりした。祖母、知加子が疲れた時には二人だけに出て、買い物した。それで、声をかけられる事がよくあったが、優しい近所住民は挨拶だけして、握手と写真は遠慮して言えなかった。星空町はプライバシーを尊重する風潮が深く根付いていたから、オメガや芸能人が多く住んでいたからだ。
1月30日の木曜日、今日はジャンダ教授とアンナと赤ちゃんのポールが冬心の家に遊びに来る日だ。何回かラインして漸くジャンダ教授と日程が合わさったのだ。祖母、知加子は可愛いポールが見られるなんて嬉しくなって、母乳にいいと言われる豚汁、サバの味噌煮、鶏とかぼちゃのカレーソテー、蒸し野菜サラダ、ひじきの煮物、たけのこの土佐煮、高野豆腐の含め煮、切り干し大根、大根葉の混ぜご飯など、手を込んでたくさんの料理を作った。
午前11頃、燦々と降り注ぐ日光の中、ジャンダ教授が赤ちゃんのポールを抱えて母、アンナと現れる。冬心はジャンを紹介して、妊娠していることも伝える。ジャンダ教授は素敵な笑顔で祝福してくれる。1か月の赤ちゃんのポールは体重が増えて肉づきがよくなり、手足をバタバタと動かしたり、大きなエメラルドブルー目をキョロキョロしていた。とっても可愛いと言いながらジャンと祖母、知加子は赤ちゃんのポールから目を離せない。
美味しいランチを終えて、彩り豊かなフルーツゼリーをデザートで食べながら、アンナは冬心の手作りのフルーツゼリーを賛称した。ジャンダ教授は赤ちゃんのポールにおっぱいを飲ませながら、春馬の発情期のラットのこと、妊娠3週目のこと、退職したこと、山形県新庄市の山形文化大学に行くこと、最上町に引っ越しすること等々、淡々とした語気で話を紡いだ。
冬心と祖母、知加子は春馬から逃げ出したくて決めたというジャンダ教授の逃避行にびっくりして暫く緘黙していた。やっと事情を理解した祖母、知加子が目尻を濡らして、「何があったら、いつでも連絡してね。あんたは息子みたいなもんだからね」と優しく言って、ジャンダ教授の華奢な背中を優しく擦ってあげる。
隣で静かにジャンダ教授の事情を聞いていたジャンは業腹だった。当節、オメガのレイプはどこの国も厳しく罰するから滅多に聞いたことがない。稀にアフリカやインドなどで起きているらしい。レイプの被害者なのに、理不尽な目に遭って、人生の軌道を逸らして逃げ出すなんて、気の毒で我慢できない。
冬心は悲哀な思いで心臓がチクチク痛くなった。底の見えない深淵に迷っているような憂心で不意に大粒の涙が零れ落ちた。ジャンダ教授は赤ちゃんのポールの体調を配慮して午後1時くらいにおいとました。
1月31日の金曜日の朝、冬心はピース財団の事務局から第40回全国大学生文芸創作コンテストの優秀賞当選のお知らせの連絡を貰う。大学1年生の11月に公募が発表されたが、2年に1回開催されることになっているので、今頃結果発表が行ったのだ。2月4日の火曜日、ピース財団の本部で授賞式を行う予定なので参加してほしいとのことだった。
嬉しくなった冬心はピース財団からのメールをジャンに見せる。目を大きく開いたジャンは急いでテレビのリモコンを弄る。朝ドラマを見ていた祖母、知加子はビックリして「何なの。ドラマ見てるのに。。。」と呆れて言った。ジャンが笑いながら「ごめんなさい。ちょっと待ってください」と言って、朝のニュース番組にチャネルを止める。
暫く一般のニュースが流れて、やっとアナウンサーが「速報をお伝えします。第40回全国大学生文芸創作コンテストの当選者が発表されました。賞金100万円の優秀賞はピース大学文学部フランス語文学科だった椿冬心が当選されました。賞金50万円の特別賞はエンライトメント公立大学の文学部文芸創作学科の藤間春樹が当選されました。ちなみに優秀賞の椿冬心は昨年、フランスの第50回ブーゴー新人作家賞を日本人初で受賞しました。主催側のピース財団は来る2月4日の火曜日に。。。」とはっきりした発音が流れたら、祖母、知加子が喜んで冬心をひしと抱き締める。
1月31日に第40回全国大学生文芸創作コンテストの当選者が発表された途端に、冬心のスマホが煩わしくメロディーを鳴らす。ジャンダ教授を始め、愛子、樹里、鈴木先生、学長、齋藤助教、望月編集長、高橋店長などなど色んな知人からお祝いの電話とラインメッセージが殺到した。
2月4日の火曜日、冬心は白いストライプスーツを着こなしで肩まで伸びた髪を結いあげて纏めた。ジャンは凄く綺麗いと褒めまくってキスをする。祖母、知加子もお洒落なブルーのツイードワンピースを羽織ってピンク色のリップも塗った。
11時の授賞式に合わせてピース財団からお迎えの車がきて、コスモス坂のピース財団ビルに向かう。1時間くらい走って到着したピース財団ビルの前には大勢の報道陣がカメラを提げて待っていた。戸惑っている冬心にジャンがそっと冬心の手を包んで大丈夫だよと優しく囁き、車のドアを開ける。
ぴかぴかとカメラのフラッシュが華麗に光って、大きなマスクをかけていたジャンと祖母、知加子は眩しくて目を細める。主催側のガードマンたちが近寄ってきて、式典会場まで安全にエスコートしてくれた。
ピースグループの常務の宇宙天命は第40回全国大学生文芸創作コンテストの授賞式のために、既に会場についていた。11時の10分前、白いストライプスーツで髪を結いあげた綺麗な冬心が恋人と手を繋いで式典会場に入ってきた。一瞬、集った関係者たちや記者たちが一斉に冬心を見つめる。
相変わらず美しくて、輝いている冬心を久しぶり目に据えた天命の心拍数は早く飛び上がった。やっぱり、冬心が大好きだ。
冬心が指定席に座ってから授賞式が始められる。司会者の挨拶から始め、ピースグループの常務の宇宙天命の祝辞、ピーズ財団会長の祝辞、日本作家協会の会長の祝辞、審査委員長の当選作の説明などが述べられて、特別賞の受賞者の藤間春樹が呼ばれる。ピーズ財団会長から特別賞の銀メダルを受け取った彼が演台で謝辞の言葉を述べる。
次に冬心が呼ばれてピースグループの常務の宇宙天命から金メダルを受け取ってから、カメラの前で謝辞を述べる。その後も拍手が鳴り止まない熱狂的な支持で記者会見が開かれた。
冬心が演台に立ったら、たくさんの記者たちが手を上げて質問しようとする。貫禄ある司会者が落ち着いた声音で順序的に会見を導いる。
冬心の受賞作、冬のセレナーデに関しての質問より、恋人のジャンに関しての質問が多かったので、司会者が仲介して記者会見は早めに終了した。授賞式後、式典会場の隣の広間で食事会が行われた。優雅なクラシック音楽が流れてる中、彩り豊かな料理が並ぶブッフェを見て、ジャンはとても喜んだ。
冬心は審査委員の文学界の巨匠たちと本について話を盛り上げている。天命はピーズ財団会長と審査委員長と一緒に食事を楽しんでいた。天命が食事を終える頃、やっと冬心が歩み寄って、明るく挨拶をする。審査委員の作家たちに捕まえて話が長引いてしまって今頃、天命の席に来られたのだ。
「挨拶が遅くなり、申し訳ございません。本日は大変ありがとうございました」
「あ、おめでとうございます。謝らなくていいです。皆さん、椿作家に会えて嬉しくて、離してくれないんですね。ご飯は食べましたか?美味しいですよ」
無表情で冷静に見えた天命が穏やかな笑みを見せて話すから、冬心は緊張の紐が解かれて、気楽になった。
「まだ食べてないんです。実はお腹空いたんです。これから食べるに行きます。では、先に失礼いたします。」
お辞儀をして冬心がジャンと祖母、知加子の席に向かう。簡単な挨拶だけ交わしたが、天命は5年前より、もっと凛として品のある色っぽさが感じられる大人になった冬心を近くて見られて大満足だった。冬心は3時間も及んだ食事会を終えてそろそろ帰ろうとしたら、かっちりした巨躯のガードマンが近寄って宇宙常務からの指示ですのでお家まで送ってあげますと言い出した。冬心は天命にお礼を伝えたくて、食事会の会場を見回したが、天命は既に会場を去っていた。
2月14日の金曜日、腰までくる長い髪をバッサリと短くカットしたジャンダ教授は赤ちゃんのポールを抱っこして、母、アンナと一緒に山形県新庄市行きの新幹線に身を乗せる。27年間暮らした東京を離れて行ったこともない新天地で生きる喜びを求めて、前向きに生きたいと思った。
春馬はフィンランドからたくさんのメールや赤ちゃんのポールのお土産を送ってきた。春馬の母、桂子も何回か訪れてきて、赤ちゃんのポールの成長を喜んでくれた。新庄市行きの新幹線に乗る前に、ジャンダ教授は携帯ショップに行って、既存のスマホを解約して、新しい番号の新規のスマホを契約した。もう、春馬と彼の家族には二度と会いたくないと切実に思った。
最上ニュータウンは木々に囲まれてヒノキの木を使った畳やふすまなどが和風にインテリアされた日本伝統家屋が30戸も集まっていた。1階は畳の大きな居間、浴室、台所、部屋が2つがあり、2階では寝室が4つ、浴室が1つあった。東京のマンションより広々して、中庭もあって子育てに適した環境だ。
冬心はジャンと一緒に愛子と樹里に会ってランチを楽しむ。長身でハンサムなジャンを見て、愛子はモデルみたいだと称賛して、たくさんの写真を撮りまくる。ジャンと冬心の恋愛話を興味深々で、話し合っていた四人は自然の流れで気の毒なジャンダ教授の退職の話に波乗った。愛子は春馬が憎たらしくて、許せないと怒りを表せた。冬心は念のために、ジャンダ教授の転職先や引っ越し先のことは言わなかった。
愛子と樹里が大好きで信頼している。樹里はアメリカで留学しているし、口も重いし、思慮深いで察しがいいから安心できるけれど、愛子は心脆いほど、情に溺れやすいからつい口がすべって秘密を漏らしたこともあったので、心配で何も言えなかった。ちょっとの余計な一言が、取り返しのつかない事態に発展する恐れもあるので、冬心は愛子と樹里には申し訳ないけれど、ジャンダ教授の居場所は絶対言わないと心決める。
2月21日の金曜日のパリの出発前、冬心は光出版社に訪れて望月編集長と小・中・高学生時の作文の出版に向けて話し合う。小学校の詩作は”心の童謡”というタイトを冬心がつけて9歳で描いた家族の絵を表紙にすることが決められた。中学校の詩作は”魂の夢心地”というタイトルで、14歳頃に描いた動物たちの絵を表紙にして、高校生の詩作は”パラレル宇宙のシンパシー”というタイトルで表紙は18歳に描いた太陽系の絵に決められた。
ジャンダ教授と仲良しの望月編集長は「ジャンダ教授の事、できるかぎりサポートするから心配いらん!」と言い、冬心を元気付けてくれる。冬心は周りに優しい人ばかりいて、とても恵まれているなと思い、その縁を大切にしていきたいと思った。
2月21日の金曜日の朝8時20分の飛行機に乗って、冬心とジャンはパリに向かう。祖母、知加子は望月編集長と一緒に涙を堪えて二人を見送りする。羽田空港に集まったファンたちと記者たちの温かい雅量に冬心は感謝の気持ちで温情を抱いて、パリ行きの飛行機に乗った。
時間が悠々と流れて3月の新学期が始まった。ジャンダ教授は赤ちゃんのポールを車のベビーシートに載せて新庄市に向かう。車で20分くらい、まだ雪が積もっている冬景色が心地よいだが、気温は東京より寒い。山形文化大学内の保育所で赤ちゃんのポールを預けて国際教育部棟の3階にある自分の研究室に入る。
背が低くてスラっとした可愛い童顔の助教、清水きららが先に来て、窓を開けて掃除をしている。先月、仕事の打ち合わせで何回か会ったので、少しは仲良くなった。助教、きららはベータ性の30歳で博士コースを勉強している。男としては背の低い167センチで45キロのひょろいゲイだ。
ジャンダ教授が先週の月曜日に初めて山形文化大学に来て清水助教に出会った時には、清水助教の右目に紫色の大きな痣があり、頬も腫れていたので、心配したけれど、今日は痣は薄くなり、顔の腫れも引いたからジャンダ教授はほっとした。
山形文化大学は地方の大学らしく、学部棟2つと総合施設建物1つだけの小規模なのだが、敷地は広くて建物も綺麗で快適な環境だった。山形県ではオメガが7人しかいなくて、その中、男性のオメガは一人もいないから、男性の劣性オメガのジャンダ教授が東京から移住してきた時には、山形県庁と最上町役場は嬉しくて大騒ぎになった。
それで、分厚い支援を見直して住宅補助金、育児補助金、出産補助金を前より上回る金額で調整したく、東京のオメガ管理局に申請もした。山形県にはオメガ支援施設がなくて、隣の宮城県に東北オメガ支援施設があった。ジャンダ教授は山形県庁にオメガ安全保護のために、オメガ個人情報保護管理法のオメガ秘密保持契約を申請した。そのため、ジャンダ教授の個人情報は公にできなくなり、勝手に写真を撮るのも禁止で、ジャンダ教授の個人情報をブログやSNSなどのソーシャルメディアに掲載するのも法律で禁止される。
ジャンダ教授は教授会の先生たちも活気ある学生たちも真面目で、この新しい大学がすっがり気に入ってしまった。大学内では、美しい絶世美人のジャンダ教授の噂が持ちきりになり、学生たちがうっかり魂を抜かれそうな美しいジャンダ教授を見に、国際教育部棟の3階にわざわざ足を運んできた。
ジャンダ教授は山形県庁の協力により、山形文化大学では男性の劣性オメガであることを秘密にして働いている。ジャンダ教授は女性と見なされているから、女性らしい服を着て、一般の女性らしく振舞っていた。
フィンランドで冬の訓練に励んていた春馬は2月14日からジャンダ教授の電話が急に「おかけになった電話番号は現在使われておりません。番号をお確かめになって、もう一度おかけ直し下さい」とアナウンスが流れ、繋がらなくなり、ラインもできなくなって戸惑った。不安になった春馬は冬心に電話をかけたが、冬心は出なかった。それで、ラインでメッセージを残したが、冬心からは返信がなかった。しぶしぶと愛子に電話したが、愛子は知らないと言うばかりで何も得ることができなかった。
焦燥感に駆けられた春馬は母に連絡する。桂子は暫く黙っていたが、ふっと溜息をついて、ジャンダ教授が引っ越しして身を隠したことを打ち明けた。桂子はもうジャンダ教授を諦めて、それぞれの人生を歩むべきだと春馬を切実に説得する。でも、春馬は何も言わずに電話を切った。
春馬は3月10までのフィンランド冬キャンプなのに、緊急の事情があるとコーチに伝えて、2月21日の金曜日に東京行きの飛行機に一人で乗り込んだ。ざわつく胸騒ぎを堪えながら、13時間のフライト時間を苦しい思いで過ごし、東京についた。
春馬は東京につくなり、木槿丘のピース高層タワーマンションに駆けつけて、ジャンダ教授の号室のインターフォンを押す。でも、暫く待っても何の返事もなかった。冷汗が出た春馬はエントランスの管理室のボタンを押して、平静を装って、コンシェルジュにジャンダ教授のことを訊く。春馬を覚えていたコンシェルジュはジャンダ教授が2月14日に引っ越ししたことや新居は知らないと言うだけだった。
春馬は憤懣やるかたない心で目が眩んで手が震えてきた。暫く考え込んだ春馬は目をキリッとして踵を返す。
1
お気に入りに追加
15
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
熱しやすく冷めやすく、軽くて重い夫婦です。
七賀ごふん
BL
【何度失っても、日常は彼と創り出せる。】
──────────
身の回りのものの温度をめちゃくちゃにしてしまう力を持って生まれた白希は、集落の屋敷に閉じ込められて育った。二十歳の誕生日に火事で家を失うが、彼の未来の夫を名乗る美青年、宗一が現れる。
力のコントロールを身につけながら、愛が重い宗一による花嫁修業が始まって……。
※シリアス
溺愛御曹司×世間知らず。現代ファンタジー。
表紙:七賀
傲慢令嬢は、猫かぶりをやめてみた。お好きなように呼んでくださいませ。愛しいひとが私のことをわかってくださるなら、それで十分ですもの。
石河 翠
恋愛
高飛車で傲慢な令嬢として有名だった侯爵令嬢のダイアナは、婚約者から婚約を破棄される直前、階段から落ちて頭を打ち、記憶喪失になった上、体が不自由になってしまう。
そのまま修道院に身を寄せることになったダイアナだが、彼女はその暮らしを嬉々として受け入れる。妾の子であり、貴族暮らしに馴染めなかったダイアナには、修道院での暮らしこそ理想だったのだ。
新しい婚約者とうまくいかない元婚約者がダイアナに接触してくるが、彼女は突き放す。身勝手な言い分の元婚約者に対し、彼女は怒りを露にし……。
初恋のひとのために貴族教育を頑張っていたヒロインと、健気なヒロインを見守ってきたヒーローの恋物語。
ハッピーエンドです。
この作品は、別サイトにも投稿しております。
表紙絵は写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。


王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる