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15話
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1月8日の水曜日は冬心の誕生日で大学院試験を終えたジャンが東京に来る日。朝からワクワク胸を躍らせている冬心と祖母、知加子は大掃除をして美味しい料理も作って忙しく動いていた。日本はフランスよりオメガ保護法律が弱いので、勝手に写真を撮っても、付き纏っても法的に強く縛るケースが少ない。
ユーチューブにより、ジャンの顔も公開されていたので、ジャンのお願いで羽田空港に出迎えに行くことは諦めることにした。ジャンは一人で空港リムジンバスに乗って行けるから、迎いに来ないでねと言ったのだ。
祖母、知加子は冬心の21歳の誕生日を記念にして、冬心の好物のキムチチャーハンとカルビチムを準備しておいた。羽田空港に午前10時30分に着いたジャンは急いで星空駅行きの空港リムジンバスに乗って、燦々と光り出す日差しを浴びながらパリより温かい東京の風景を楽しんでいた。40分走って到着した星空駅は清潔感があるお洒落な町だった。
大きなマスクをかけたジャンはスマホのマップでたどたどしく歩ぎだし、40階のピース高層タワーマンションを見つけた。星空駅から歩いで15分程で、閑散とした綺麗な住宅街だった。パリではよく見かけない高いビルだ。エントランスに入ってインターフォンを押したら、冬心の透き通った声音が聞こえた。
ジャンが7階にある冬心の家に入ったら、82歳の矍鑠としている祖母、知加子と清爽な笑みを含んだ綺麗な冬心が迎えてくれる。ジャンは祖母知加子に礼儀正しくお辞儀をして自己紹介をした。祖母知加子は絶えない穏やかな笑顔で「よく来てくれてありがとう。腹減ったんでしょ。じゃ、ご飯にしょう」と優しい弧を描いた口元で言った。
キムチチャーハンとカルビチムと野菜炒めと味噌汁など、美味しい料理がずらりと並んでいて、食欲がそそられたジャンは遠慮せずいっぱいたいらげてしまった。食事後、荷物を解いて整理したジャンはお土産として蜂蜜とチョコレートを祖母知加子に渡す。嬉しそうに受け取った祖母知加子はお礼を言って、ちょっと散歩に行ってくると言い出した。冬心とジャンも一緒に行きたいと言いかけたが、察しのいい祖母知加子は二人の時間を楽しんでねと言ってさっさと出ていく。
二人きりになって、ジャンは冬心をきゅっと抱きしめて熱いキスを注いだ。暫く冬心の甘い唇を堪能していたジャンはセックスしたいと言って、冬心の服を脱がす。真っ白な冬心のダブルベッドで、裸になった二人は無我夢中でお互いの体温と感触に浸って、恍惚感に沈んでいった。
1時間も及んだ激烈なセックスの後、二人は一緒にお風呂に入る。シャワーの後、ジャンは部屋着で着替えて冬心の手をそっと握り、ポケットからきらきら光る銀色の小さなボックスを取り出した。目を丸くして見つめている冬心の大きな目を見据えながら、ジャンが片膝をついて銀色のボックスを開けて、温かい語感で言う。
「冬心。愛してる。一生一緒に生きていきたい」
不意打ちのサプライズにびっくりした冬心は急に目頭が熱くなり、涙腺が緩んだ。
「うん、愛してる」
冬心が潤んだ音色で返事したら、ジャンがホワイトゴールドの指輪を冬心の薬指にはめた。つい大粒の涙を零した冬心にジャンは優しくキスをする。
1月初めに、仕事の都合でソフィアが一人でパリに帰った。15日間の入院を終えて、1月8日の水曜日、ジャンダ教授はポールを抱えてやっと退院することができた。春馬が大きい車を持ってきて、ポールを抱えているジャンダ教授とアンナを乗せて、ピース高層タワーマンションに向かう。
久しぶりの家に入ったら、赤ちゃんのポールがねぇ~んと泣き始める。ジャンダ教授は浴室に入って手を丁寧に洗ってきて、赤ちゃんのポールにおっぱいを食わせた。春馬は車からたくさんの荷物を運んでいる。アンナは荷物を片付けるため、せっせと動き回った。白いレースのカーテンの間から眩い日差しが差し込んできて、観葉植物の大きな葉っぱに浮かんだ陰影を揺らした。
荷物の片付けが終わったアンナは動物ホテルに預けていた猫のポールを迎えに出かけた。春馬はジャンダ教授の寝室の赤ちゃんのベットでぐっすり寝ている赤ちゃんのポールのふやふや頬を撫でていた。浴室から戻ってきたジャンダ教授は春馬にもう帰ってくださいと無味乾燥な声音で言った。
春馬は昨年7月25日以降、ジャンダ教授に対する恋情で誰ともセックスをしていない。5か月間、ジャンダ教授を想いながら密かにオナニーだけをした。フェロモンの不調で欲求不満な春馬は最近、ジャンダ教授の授乳のために、おっぱいを吸ってあげたから、ジャンダ教授に対する欲情が燃えていた。
ジャンダ教授に一歩ずつ近寄る春馬の光っている瞳をみて、背中がぞっとする恐怖心を抱いたジャンダ教授はおそるおそる後ずさりして、寝室から逃げようとした途端に、春馬が華奢なジャンダ教授を強く抱き締めてベットに連れて行った。「止めて-」と叫んで嗚咽するジャンダ教授を力で押し込んで大量のフェロモンを噴出してジャンダ教授のワンピースを脱がす。
もう抵抗もできないほど、ひるんでしまったジャンダ教授はポールを起こさないように、声を殺して泣いている。春馬が燃えるくらい発熱を起こして、チクチクする塩辛いフェロモンを大量に出しているのは、やっぱりラットだった。
極度に興奮した春馬はもう理性の欠片もない。長い間、過度なストレスに抗っていた春馬はジャンダ教授の妊娠のことで抑制剤を飲み忘れ、アルファの発情期、ラットが来てしまったのだ。春馬は理性の人間ではなく、本能に吠える狼になった。ジャンダ教授は豹変した春馬の塩辛いフェロモンを嗅いで春馬がラットにはまったのを察した。
アルファのラットに出くわしたオメガには逃げ場がない。アルファが性欲を解消してフェロモン熱が収まるまでセックスの相手をしてくれるしか方法はない。絶望に落ちたジャンダ教授は瞼を瞑って、自分がオメガだという現実を恨む。
春馬はジャンダ教授を執拗に貪って、激しく征服していった。ジャンダ教授は身体の芯が痺れて、オメガの本能を抑えられなくなった。1時間が経った頃、赤ちゃんのポールがうぇんと泣き出した。火照ってる婬猥な体を春馬の欲しいままに任せていたジャンダ教授の朦朧としていた意識がぱちゅっーばちゅんっーと突っ込んで抉っている春馬の巨大な男根とジャンダ教授のエロい後孔の淫乱な摩擦の大きな音の中に、鋭く閃いた。
「ポール。。。ポール。。。あーぁーちょっーとー退いーてぇー」
息を苦しく喘ぎながら、言葉にならない言葉の欠片を必死に発して、ポールに行きたくてジャンダ教授は悶えている。その時だった。猫のポールを連れてきたアンナが攻撃的な強い塩辛いフェロモンが家中に充満しているのを感じて異変に気付き、心配になってジャンダ教授の寝室のドアを開ける。
ベットの上で裸の春馬が裸のジャンダの上に乗って、激しく律動していた。狂いそうな呻き声と高い嬌声が交える中、隣の赤ちゃんのベットで赤ちゃんのポールが大きい声でおぇんと泣いていた。一瞬たじろいで悲惨な気持ちに暮れたアンナは春馬のラットを察知した。もう、手助けることができない状況なのを悟ったアンナは赤ちゃんのポールを抱き上げて溢れる諦念の涙を零しながら寝室から出る。
アンナは念のために病院からオメガ用のミルクを貰ってきてよかったと思いながら、赤ちゃんのポールのオムツを交換した。泣き止まないポールを抱っこして優しくあやす。猫のポールがにゃんと鳴きながら寄ってきて、赤ちゃんのポールを見上げている。
やっと赤ちゃんのポールを寝かせたアンナは6本のミネラルウォーターと果物をトレイに載せて寝室に入った。ジャンダのエロチックに喘ぐ嬌声が二人の体の激烈な摩擦音に交り、重たいフェロモンが部屋を満ちていた。テーブル上にトレイを置いたアンナは悲しい心情でそっと部屋を後にした。
アンナは若い頃、ルイのラットの時に一緒に過ごした時があって、アルファのラットがどんなに強力で恐ろしいかを知り尽くしていた。ラットを一緒に過ごしたら、番の解除手術をしたジャンダすら春馬のフェロモンに囚われる恐れがある。
ラットに入ったアルファの性交を無理やりに止めさせたら、フェロモンの不調で熱が極限に上がり、アルファの命が危険になる。最悪の場合は死に至るのだ。その故、アンナはジャンダと春馬を見過ごすしかできなかった。ラットのアルファは性交にハマって跳梁跋扈する。アンナはジャンダが可哀想で可哀想で悲痛な気持ちに落ちて、涙を絶えずに流していた。
狂気に満ちた熱がやっと収まった春馬は死んだようにぐったりして涙と汗ですっかり濡れているジャンダ教授を見下ろした。すると、ラットを一緒に過ごしてくれたジャンダ教授に対して感謝の念と罪悪感が込み上げてきた。ジャンダ教授は疲れ果てて気絶してしまった。
起き上がった春馬がスマホを見たら、もう9日の午後6時だった。ジャンダ教授のお陰でラットが一日だけで、早く終わってしまった。春馬はラット中にも、ジャンダ教授を切なく思い、再び番の契約だけはやりたくなくて、項を噛みたい欲望を必死に殺すために、自分と厳しい戦いをした。1回、番の解除手術をしたので、2回目の番の解除手術はジャンダ教授の身体に大きな負担になり、健康を損なう恐れがあるからだ。
体が軽やかですっきりした春馬はジャンダ教授を抱き上げて浴室に入る。ドアが開く音やすたすたと歩く音を拾い聞きしたアンナは痛嘆の心情を鎮めて寝室に入って窓を開け、掃除を始めた。
ジャンダ教授が深い眠りに入って目覚めないから、春馬は従兄の淳に電話をして事情を説明し、助けを求めた。アンナはジャンダの様子を見ながら、主人のルイに今度のことを話した方がいいかどうかを悩んでいた。
夜10時過ぎでもジャンダ教授は昏睡状態で屍のようだった。急ぎ足で大きな緊急ボックスとトートバッグを肩に提げてきた淳はアンナに深くお辞儀をして、ジャンダ教授を精密に検診し、過労だと言い出してオメガ用点滴を行った。アンナが既にオムツは穿かせていたので、淳はアンナの凛として落ち着いている仕種を見て、貫禄ある素敵なオメガだと感じた。淳は頭を深く下げて、アンナに何回か申し訳ございませんでしたと謝った。
アンナはだた大丈夫ですと静かに言うだけで、鬱憤の言葉も叱責の言葉も一言も出さなかった。淳は沈黙で赤ちゃんのポールを抱っこしているアンナが恐れ多くて頭が上がらない。
夜12時頃、淳は明日の朝に様子を見にまた来ますと言って、礼儀正しくお辞儀をして出た。春馬は明日のフィンランドへの冬キャンプのために、やむを得ずしぶしぶと家に帰った。アンナは一睡も眠れず、切ない心持ちでジャンダ教授を看病した。
冬心はジャンダ教授にジャンを紹介したくて、ラインや電話で連絡をしたが繋がらなかった。ちょっと不安になった冬心は春馬にラインしたが、やっぱり何の返事もなかった。
1月13日の月曜日、冬心はジャンを連れてピース大学付属病院へ定期健診に行った。鈴木先生にジャンを紹介したいと思い、ジャンも診察室に入って鈴木先生と挨拶した。びっくりした鈴木先生はお似合いですねとにっこりしながら言った。冬心がいろいろ検診を受けるうちに、ジャンは廊下の椅子に座り、スマホを見ている。
1時間以上経ってから、診察室の扉が開き、ちょっと頬を桜色に染めた冬心がジャンも入って来るようにと言った。ジャンはちょっと意外なことできょとんとしながら診察室に入る。
「ジャン、ベータ性だと言いましたね。確実なことですか?」
優しい笑みを含んだ鈴木先生が落ち着いた語感で尋ねた。
「はい、ベータ性です。うん、実は劣性アルファでしたが、15歳の頃、スキー場で大怪我しちゃって、ベータ性になりました。その後、ずっとベータ性でいます」
頷きながら鈴木先生が真摯な形相で言い出す。
「おめでとうございます。冬心は妊娠しています。多分、怪我でフェロモン線とホルモン線で異常があって、フェロモンも塞がれていたと思いますが、極優性オメガの冬心の強いフェロモンで触発されてフェロモン線が刺激され、以前の劣性アルファ性が挽回したと思われます。稀のケースですが、あり得ることなんです。ご自身がベータ性だと思っていたから、避妊もしなかったんでしょうね。これから、形質検査をして、冬心と一緒に産婦人科に行って、エコー検査をしてください。冬心はフェロモンも体調も安静しているので、妊娠前兆もなく過ごせていて、妊娠のことに気づかれなかったと思います。二人でよく話し合ってくださいね」
びっくりしてぽかんとしているジャンに冬心はどう話しかけたらいいか戸惑っている。でも、ジャンは直ぐ状況を察して満面の笑みでありがとうございます!と溌溂として言った。ジャンは形質検査室で検査を受けて、劣性アルファだと検査結果を貰った。
二人は産婦人科に行って、超音波検査をして妊娠7週目だっと言われ、小さなクマグミみたいな可愛い赤ちゃんの映像も確認した。二人は目尻を濡らして喜んで、医師から注意事項や5月4日及び5日が出産予定日であることなど親切な説明を聞き、オメガの妊娠手帳とオメガの妊娠と出産説明書を頂いて出た。
二人とも大きなマスクで顔を覆って隠していたが、それでも長身で光悦茶色のヘアのジャンと栗皮色の髪の冬心に目を向く人々は多かった。冬心が病院の前のタクシー乗り場に行こうとしたら、ジャンがどこかカフェでも行って静かに話したいと言い出した。冬心はどこがいいかなとスマホで検索してみたが、人々の目が気になり、母校のピース大学のカフェに行くことにする。
冷たい天つ風でも眩しく揺れる日差しは温かくて校庭のベンチでは複数の学生たちが談笑を楽しんでいた。人文学部棟のカフェに入った二人はお腹も空いてきたので、イチゴのショットケーキとかぼちゃのキッシュとほうれん草のキッシュを選んで、ホットコーヒーとほうじ茶も注文した。
暫く無言のまま、イチゴのショットケーキとキッシュを食べていた二人は誰もいないカフェが気楽でほっとした。
「冬心。ごめん。俺、無意識にノッティングしちゃったみたい。ベータ性だと思ったから、いくらノッティングしても妊娠できないと思ってさぁ。。。これからどうしたいの。冬心に任せたい」
へこんでいるジャンの言葉に冬心は意を決めてジャンの優しい目を見据える。
「私たちの子だよ。産むに決まってるんでしょ。私はとても嬉しいの」
冬心の明朗な声に心を打たれたジャンは嬉しさを帯びて輝かしい笑みを描いた。
「ありがとう。俺、冬心とすぐ結婚する。頑張っていい父ちゃんになって見せる。早く出てきて欲しいな、赤ちゃん」
薄っすらと引っ張っていた緊張感が消えて、普段通り、ぽかぽかな雰囲気に和まれた二人は手をそっと重なって微笑んでいた。
冬心とジャンはピース大学と木槿丘町周辺を散策してから夜6時頃に家に戻った。祖母、知加子がすき焼き鍋を準備しておいて待っていたから、ジャンは美味しそうなすき焼き鍋を見て喜んで祖母、知加子を抱き付いた。三人はいろいろ話しながらすき焼き鍋を美味しく平らげた。
食事後、ホットほうじ茶を飲みながらテレビのドラマを見ていたら、冬心が部屋に入って何かを持って戻った。頬を薄桜色に染めた冬心が祖母、知加子にオメガ妊娠手帳を渡す。不意に受け取った祖母、知加子はオメガ妊娠手帳に椿冬心と書いてある表紙を見て、目をパチクリしてページを捲ったら、小さな豆みたいな赤ちゃんのエコー写真があった。
「冬心。まさかー、本当なの。7週間だって。まぁー」
ぽかんと開けられた口が塞がらず、目を大きく開いた祖母、知加子は冬心の顔とジャンの顔を交互に見ながら、言葉が詰まって困惑していた。
「冬心と赤ちゃんのために頑張りますので、冬心と結婚させてください」
ジャンが逞しく頭を下げて祖母、知加子にはきはきと言った。暫く言葉を失くして戸惑っていた祖母、知加子が口元を緩んで優しく言葉をかける。
「冬心をよろしくお願いします」
祖母、知加子はパリに行ってから冬心の表情が明るくなって、年相応の活気が見られて安心していた。ジャンと恋愛していると打ち明けられた時、冬心は本当に幸せそうに笑ったので、心の奥からほっとした。辛いレイプのトラウマを乗り越えて愛せる人と出会った冬心を応援したいと思った。
ジャンダ教授は3日後にやっと目が覚めた。よく泣いた赤ちゃんのポールをあやす為に、アンナは眠っていたジャンダのおっぱいを赤ちゃんのポールに吸わせて安静させた。春馬の従兄の淳は毎日朝晩に訪れてきて、ジャンダ教授の手当てを一生懸命に行った。
12日の土曜日の午後1時にふっと瞼を上げたジャンダ教授は胸にくっついておっぱいを飲んでいる赤ちゃんのポールを見て、温かい涙がぽつんと零れ落ちた。赤ちゃんのポールを抱いて支えていたアンナがジャンダ教授の開いた目を見て、喜んで「ジャンダ、目覚めてよかったよ。どこか痛いところはない?」と涙を堪えて訊く。ジャンダ教授はゆっくり頷いて弱った両手で赤ちゃんのポールを抱きしめて暫くおっぱいを飲ませる。
ジャンダ教授は障害児童施設で歌った童謡を清らかな声で歌い始めた。赤ちゃんのポールは気持ちよくおっぱいを飲みながら、母の綺麗な歌声で眠くなった。その時インターフォンが鳴り、医師の淳が訪れてきた。昨日の夜勤で今日は遅く訪れたのだ。起き上がれて赤ちゃんにおっぱいを飲ませてあげているジャンダ教授をみて、安心した淳は大きなトートバッグから白い薬箱を取り出して、おずおずと言葉を述べる。
「大変申し訳ございません。春馬がやったことはいくら謝ってもお詫びの言葉もございません」
淳は土下座して真摯に謝った。驚いたジャンダ教授は歌うのを止めて静かに言葉を紡ぐ。
「もう、いいです。貴方が謝る必要はないです」
淳は充血した涙目を上げ、白い薬箱を持ち上げて震える声で言う。
「これ、オメガ用のアフターピルです。性行為後160時間以内に内服できると98%以上妊娠を阻止できる優れた新薬です。副作用も少なく、出産後でも直ぐ飲める避妊薬です。実は入手するには、医師の処方箋とオメガ医療局の承認が必要となりますが、解雇される覚悟で手にしました。どうかご自分を大切にしてください」
淳の父親はエンライトメント公立大学付属病院の院長で、母親はエンライトメント公立大学付属病院の形質者産婦人科の医師だ。淳は母に相談して父には気づかれないように、オメガ用のアフターピルを不正な手段で手に入れてしまった。これがバレたら、逮捕されて20年の禁固刑が科され、医師免許を取り消される危険がある。すべてを察していたジャンダ教授はおっぱいを飲み終えた赤ちゃんのポールの背中を軽く擦ってゲップをさせてから言った。
「覚悟はしています。産むつもりですのでその薬は元に戻してください」
ビックリした淳は躊躇って言葉が詰まったが、直ぐ目を吊り上げて強い語勢で言う。
「もう51歳で再び出産するんなんてむっちゃ過ぎますよ。今回の出産も大変だったと聞きました。ご自分の体を大事にしてください」
ふっと目頭が熱くなって、一粒の涙を零してしまった淳は頬を赤く染めて震えていた。真剣にジャンダ教授を心配してくれている誠実な淳を見て、ジャンダ教授は唇に丸く弧を描いて優しく言う。
「ありがとうございます。私の人生に起きた出来事は誰のせいでもありません。私に訪れたご縁は大切にしたいです。宇宙の摂理の観点から見れば、自分の波動に合わせて引き起こせる出来事を通して魂の成長のために、受け入れることと手放していくことで人生を成しています。自分がいるから相手もいるんです。ラットだったので、もう妊娠は確定だと分かっています。私は大丈夫です。今までありがとうございました」
淳は土下座したまま、息を殺して嗚咽した。淳が帰った後、ジャンダ教授は風呂に入ってから、温かいミネストローネを食べている。ジャンダ教授の向かいに座っていたアンナは少し躊躇ってから重い口を開いた。
「ジャンダ、2番目の子も産むつもりだね。そうだったら、パリに戻ったらどうです?」
「ありがとう。お母さん、でも、日本にいます。お父さんに迷惑をかけたくないです」
「お父さんは迷惑だと思ってないわよ。ジャンダを愛しているのよ。オメガ一人手で二人の子供を育てるのは大変なことです。私が傍についてあげたいの」
「ありがとう。でも、日本もオメガ育児支援が分厚くて大丈夫です。心配かけてごめんなさい。お母さん、お願いがあります。当分の間、妊娠したことは誰にも言わないで欲しいです。今回はお父さん、ただでは済まないと思うから。ごめんなさい」
その言葉を最後に、ジャンダ教授は静かにミネストローネを食べている。アンナは自分はオメガとして小さい頃から、ボティーガードが付き添っていたから、安全だったと考えた。大手のローゼグループの父親が警備を厳しく取り込んでいたから、運がよかった。フランスでも昔は稀少なオメガを狙った集団レイプ等があって、法律を厳しくして取り締まっていく雰囲気になってから、今は安全で住みやすく変わった。
ジャンダは絶世美人と呼ばれていて、その美しい容姿に惹かれて色んな男が寄ってきた。それに懸念を抱いたルイがボティーガードを雇ってジャンダを保護した。日本もオメガに安全で平穏な国だから、アンナは安心していたが、まさか有名な春馬選手がレイプするなんて夢にも思わなかった。
アンナはジャンダをパリに連れて行きたかった。でも、ジャンダの人生だから、無理やりに強要はできない。アンナは静かにミネストローネを食べているジャンダを悲哀の感情に揺さぶられながらじっと見つめていた。
ユーチューブにより、ジャンの顔も公開されていたので、ジャンのお願いで羽田空港に出迎えに行くことは諦めることにした。ジャンは一人で空港リムジンバスに乗って行けるから、迎いに来ないでねと言ったのだ。
祖母、知加子は冬心の21歳の誕生日を記念にして、冬心の好物のキムチチャーハンとカルビチムを準備しておいた。羽田空港に午前10時30分に着いたジャンは急いで星空駅行きの空港リムジンバスに乗って、燦々と光り出す日差しを浴びながらパリより温かい東京の風景を楽しんでいた。40分走って到着した星空駅は清潔感があるお洒落な町だった。
大きなマスクをかけたジャンはスマホのマップでたどたどしく歩ぎだし、40階のピース高層タワーマンションを見つけた。星空駅から歩いで15分程で、閑散とした綺麗な住宅街だった。パリではよく見かけない高いビルだ。エントランスに入ってインターフォンを押したら、冬心の透き通った声音が聞こえた。
ジャンが7階にある冬心の家に入ったら、82歳の矍鑠としている祖母、知加子と清爽な笑みを含んだ綺麗な冬心が迎えてくれる。ジャンは祖母知加子に礼儀正しくお辞儀をして自己紹介をした。祖母知加子は絶えない穏やかな笑顔で「よく来てくれてありがとう。腹減ったんでしょ。じゃ、ご飯にしょう」と優しい弧を描いた口元で言った。
キムチチャーハンとカルビチムと野菜炒めと味噌汁など、美味しい料理がずらりと並んでいて、食欲がそそられたジャンは遠慮せずいっぱいたいらげてしまった。食事後、荷物を解いて整理したジャンはお土産として蜂蜜とチョコレートを祖母知加子に渡す。嬉しそうに受け取った祖母知加子はお礼を言って、ちょっと散歩に行ってくると言い出した。冬心とジャンも一緒に行きたいと言いかけたが、察しのいい祖母知加子は二人の時間を楽しんでねと言ってさっさと出ていく。
二人きりになって、ジャンは冬心をきゅっと抱きしめて熱いキスを注いだ。暫く冬心の甘い唇を堪能していたジャンはセックスしたいと言って、冬心の服を脱がす。真っ白な冬心のダブルベッドで、裸になった二人は無我夢中でお互いの体温と感触に浸って、恍惚感に沈んでいった。
1時間も及んだ激烈なセックスの後、二人は一緒にお風呂に入る。シャワーの後、ジャンは部屋着で着替えて冬心の手をそっと握り、ポケットからきらきら光る銀色の小さなボックスを取り出した。目を丸くして見つめている冬心の大きな目を見据えながら、ジャンが片膝をついて銀色のボックスを開けて、温かい語感で言う。
「冬心。愛してる。一生一緒に生きていきたい」
不意打ちのサプライズにびっくりした冬心は急に目頭が熱くなり、涙腺が緩んだ。
「うん、愛してる」
冬心が潤んだ音色で返事したら、ジャンがホワイトゴールドの指輪を冬心の薬指にはめた。つい大粒の涙を零した冬心にジャンは優しくキスをする。
1月初めに、仕事の都合でソフィアが一人でパリに帰った。15日間の入院を終えて、1月8日の水曜日、ジャンダ教授はポールを抱えてやっと退院することができた。春馬が大きい車を持ってきて、ポールを抱えているジャンダ教授とアンナを乗せて、ピース高層タワーマンションに向かう。
久しぶりの家に入ったら、赤ちゃんのポールがねぇ~んと泣き始める。ジャンダ教授は浴室に入って手を丁寧に洗ってきて、赤ちゃんのポールにおっぱいを食わせた。春馬は車からたくさんの荷物を運んでいる。アンナは荷物を片付けるため、せっせと動き回った。白いレースのカーテンの間から眩い日差しが差し込んできて、観葉植物の大きな葉っぱに浮かんだ陰影を揺らした。
荷物の片付けが終わったアンナは動物ホテルに預けていた猫のポールを迎えに出かけた。春馬はジャンダ教授の寝室の赤ちゃんのベットでぐっすり寝ている赤ちゃんのポールのふやふや頬を撫でていた。浴室から戻ってきたジャンダ教授は春馬にもう帰ってくださいと無味乾燥な声音で言った。
春馬は昨年7月25日以降、ジャンダ教授に対する恋情で誰ともセックスをしていない。5か月間、ジャンダ教授を想いながら密かにオナニーだけをした。フェロモンの不調で欲求不満な春馬は最近、ジャンダ教授の授乳のために、おっぱいを吸ってあげたから、ジャンダ教授に対する欲情が燃えていた。
ジャンダ教授に一歩ずつ近寄る春馬の光っている瞳をみて、背中がぞっとする恐怖心を抱いたジャンダ教授はおそるおそる後ずさりして、寝室から逃げようとした途端に、春馬が華奢なジャンダ教授を強く抱き締めてベットに連れて行った。「止めて-」と叫んで嗚咽するジャンダ教授を力で押し込んで大量のフェロモンを噴出してジャンダ教授のワンピースを脱がす。
もう抵抗もできないほど、ひるんでしまったジャンダ教授はポールを起こさないように、声を殺して泣いている。春馬が燃えるくらい発熱を起こして、チクチクする塩辛いフェロモンを大量に出しているのは、やっぱりラットだった。
極度に興奮した春馬はもう理性の欠片もない。長い間、過度なストレスに抗っていた春馬はジャンダ教授の妊娠のことで抑制剤を飲み忘れ、アルファの発情期、ラットが来てしまったのだ。春馬は理性の人間ではなく、本能に吠える狼になった。ジャンダ教授は豹変した春馬の塩辛いフェロモンを嗅いで春馬がラットにはまったのを察した。
アルファのラットに出くわしたオメガには逃げ場がない。アルファが性欲を解消してフェロモン熱が収まるまでセックスの相手をしてくれるしか方法はない。絶望に落ちたジャンダ教授は瞼を瞑って、自分がオメガだという現実を恨む。
春馬はジャンダ教授を執拗に貪って、激しく征服していった。ジャンダ教授は身体の芯が痺れて、オメガの本能を抑えられなくなった。1時間が経った頃、赤ちゃんのポールがうぇんと泣き出した。火照ってる婬猥な体を春馬の欲しいままに任せていたジャンダ教授の朦朧としていた意識がぱちゅっーばちゅんっーと突っ込んで抉っている春馬の巨大な男根とジャンダ教授のエロい後孔の淫乱な摩擦の大きな音の中に、鋭く閃いた。
「ポール。。。ポール。。。あーぁーちょっーとー退いーてぇー」
息を苦しく喘ぎながら、言葉にならない言葉の欠片を必死に発して、ポールに行きたくてジャンダ教授は悶えている。その時だった。猫のポールを連れてきたアンナが攻撃的な強い塩辛いフェロモンが家中に充満しているのを感じて異変に気付き、心配になってジャンダ教授の寝室のドアを開ける。
ベットの上で裸の春馬が裸のジャンダの上に乗って、激しく律動していた。狂いそうな呻き声と高い嬌声が交える中、隣の赤ちゃんのベットで赤ちゃんのポールが大きい声でおぇんと泣いていた。一瞬たじろいで悲惨な気持ちに暮れたアンナは春馬のラットを察知した。もう、手助けることができない状況なのを悟ったアンナは赤ちゃんのポールを抱き上げて溢れる諦念の涙を零しながら寝室から出る。
アンナは念のために病院からオメガ用のミルクを貰ってきてよかったと思いながら、赤ちゃんのポールのオムツを交換した。泣き止まないポールを抱っこして優しくあやす。猫のポールがにゃんと鳴きながら寄ってきて、赤ちゃんのポールを見上げている。
やっと赤ちゃんのポールを寝かせたアンナは6本のミネラルウォーターと果物をトレイに載せて寝室に入った。ジャンダのエロチックに喘ぐ嬌声が二人の体の激烈な摩擦音に交り、重たいフェロモンが部屋を満ちていた。テーブル上にトレイを置いたアンナは悲しい心情でそっと部屋を後にした。
アンナは若い頃、ルイのラットの時に一緒に過ごした時があって、アルファのラットがどんなに強力で恐ろしいかを知り尽くしていた。ラットを一緒に過ごしたら、番の解除手術をしたジャンダすら春馬のフェロモンに囚われる恐れがある。
ラットに入ったアルファの性交を無理やりに止めさせたら、フェロモンの不調で熱が極限に上がり、アルファの命が危険になる。最悪の場合は死に至るのだ。その故、アンナはジャンダと春馬を見過ごすしかできなかった。ラットのアルファは性交にハマって跳梁跋扈する。アンナはジャンダが可哀想で可哀想で悲痛な気持ちに落ちて、涙を絶えずに流していた。
狂気に満ちた熱がやっと収まった春馬は死んだようにぐったりして涙と汗ですっかり濡れているジャンダ教授を見下ろした。すると、ラットを一緒に過ごしてくれたジャンダ教授に対して感謝の念と罪悪感が込み上げてきた。ジャンダ教授は疲れ果てて気絶してしまった。
起き上がった春馬がスマホを見たら、もう9日の午後6時だった。ジャンダ教授のお陰でラットが一日だけで、早く終わってしまった。春馬はラット中にも、ジャンダ教授を切なく思い、再び番の契約だけはやりたくなくて、項を噛みたい欲望を必死に殺すために、自分と厳しい戦いをした。1回、番の解除手術をしたので、2回目の番の解除手術はジャンダ教授の身体に大きな負担になり、健康を損なう恐れがあるからだ。
体が軽やかですっきりした春馬はジャンダ教授を抱き上げて浴室に入る。ドアが開く音やすたすたと歩く音を拾い聞きしたアンナは痛嘆の心情を鎮めて寝室に入って窓を開け、掃除を始めた。
ジャンダ教授が深い眠りに入って目覚めないから、春馬は従兄の淳に電話をして事情を説明し、助けを求めた。アンナはジャンダの様子を見ながら、主人のルイに今度のことを話した方がいいかどうかを悩んでいた。
夜10時過ぎでもジャンダ教授は昏睡状態で屍のようだった。急ぎ足で大きな緊急ボックスとトートバッグを肩に提げてきた淳はアンナに深くお辞儀をして、ジャンダ教授を精密に検診し、過労だと言い出してオメガ用点滴を行った。アンナが既にオムツは穿かせていたので、淳はアンナの凛として落ち着いている仕種を見て、貫禄ある素敵なオメガだと感じた。淳は頭を深く下げて、アンナに何回か申し訳ございませんでしたと謝った。
アンナはだた大丈夫ですと静かに言うだけで、鬱憤の言葉も叱責の言葉も一言も出さなかった。淳は沈黙で赤ちゃんのポールを抱っこしているアンナが恐れ多くて頭が上がらない。
夜12時頃、淳は明日の朝に様子を見にまた来ますと言って、礼儀正しくお辞儀をして出た。春馬は明日のフィンランドへの冬キャンプのために、やむを得ずしぶしぶと家に帰った。アンナは一睡も眠れず、切ない心持ちでジャンダ教授を看病した。
冬心はジャンダ教授にジャンを紹介したくて、ラインや電話で連絡をしたが繋がらなかった。ちょっと不安になった冬心は春馬にラインしたが、やっぱり何の返事もなかった。
1月13日の月曜日、冬心はジャンを連れてピース大学付属病院へ定期健診に行った。鈴木先生にジャンを紹介したいと思い、ジャンも診察室に入って鈴木先生と挨拶した。びっくりした鈴木先生はお似合いですねとにっこりしながら言った。冬心がいろいろ検診を受けるうちに、ジャンは廊下の椅子に座り、スマホを見ている。
1時間以上経ってから、診察室の扉が開き、ちょっと頬を桜色に染めた冬心がジャンも入って来るようにと言った。ジャンはちょっと意外なことできょとんとしながら診察室に入る。
「ジャン、ベータ性だと言いましたね。確実なことですか?」
優しい笑みを含んだ鈴木先生が落ち着いた語感で尋ねた。
「はい、ベータ性です。うん、実は劣性アルファでしたが、15歳の頃、スキー場で大怪我しちゃって、ベータ性になりました。その後、ずっとベータ性でいます」
頷きながら鈴木先生が真摯な形相で言い出す。
「おめでとうございます。冬心は妊娠しています。多分、怪我でフェロモン線とホルモン線で異常があって、フェロモンも塞がれていたと思いますが、極優性オメガの冬心の強いフェロモンで触発されてフェロモン線が刺激され、以前の劣性アルファ性が挽回したと思われます。稀のケースですが、あり得ることなんです。ご自身がベータ性だと思っていたから、避妊もしなかったんでしょうね。これから、形質検査をして、冬心と一緒に産婦人科に行って、エコー検査をしてください。冬心はフェロモンも体調も安静しているので、妊娠前兆もなく過ごせていて、妊娠のことに気づかれなかったと思います。二人でよく話し合ってくださいね」
びっくりしてぽかんとしているジャンに冬心はどう話しかけたらいいか戸惑っている。でも、ジャンは直ぐ状況を察して満面の笑みでありがとうございます!と溌溂として言った。ジャンは形質検査室で検査を受けて、劣性アルファだと検査結果を貰った。
二人は産婦人科に行って、超音波検査をして妊娠7週目だっと言われ、小さなクマグミみたいな可愛い赤ちゃんの映像も確認した。二人は目尻を濡らして喜んで、医師から注意事項や5月4日及び5日が出産予定日であることなど親切な説明を聞き、オメガの妊娠手帳とオメガの妊娠と出産説明書を頂いて出た。
二人とも大きなマスクで顔を覆って隠していたが、それでも長身で光悦茶色のヘアのジャンと栗皮色の髪の冬心に目を向く人々は多かった。冬心が病院の前のタクシー乗り場に行こうとしたら、ジャンがどこかカフェでも行って静かに話したいと言い出した。冬心はどこがいいかなとスマホで検索してみたが、人々の目が気になり、母校のピース大学のカフェに行くことにする。
冷たい天つ風でも眩しく揺れる日差しは温かくて校庭のベンチでは複数の学生たちが談笑を楽しんでいた。人文学部棟のカフェに入った二人はお腹も空いてきたので、イチゴのショットケーキとかぼちゃのキッシュとほうれん草のキッシュを選んで、ホットコーヒーとほうじ茶も注文した。
暫く無言のまま、イチゴのショットケーキとキッシュを食べていた二人は誰もいないカフェが気楽でほっとした。
「冬心。ごめん。俺、無意識にノッティングしちゃったみたい。ベータ性だと思ったから、いくらノッティングしても妊娠できないと思ってさぁ。。。これからどうしたいの。冬心に任せたい」
へこんでいるジャンの言葉に冬心は意を決めてジャンの優しい目を見据える。
「私たちの子だよ。産むに決まってるんでしょ。私はとても嬉しいの」
冬心の明朗な声に心を打たれたジャンは嬉しさを帯びて輝かしい笑みを描いた。
「ありがとう。俺、冬心とすぐ結婚する。頑張っていい父ちゃんになって見せる。早く出てきて欲しいな、赤ちゃん」
薄っすらと引っ張っていた緊張感が消えて、普段通り、ぽかぽかな雰囲気に和まれた二人は手をそっと重なって微笑んでいた。
冬心とジャンはピース大学と木槿丘町周辺を散策してから夜6時頃に家に戻った。祖母、知加子がすき焼き鍋を準備しておいて待っていたから、ジャンは美味しそうなすき焼き鍋を見て喜んで祖母、知加子を抱き付いた。三人はいろいろ話しながらすき焼き鍋を美味しく平らげた。
食事後、ホットほうじ茶を飲みながらテレビのドラマを見ていたら、冬心が部屋に入って何かを持って戻った。頬を薄桜色に染めた冬心が祖母、知加子にオメガ妊娠手帳を渡す。不意に受け取った祖母、知加子はオメガ妊娠手帳に椿冬心と書いてある表紙を見て、目をパチクリしてページを捲ったら、小さな豆みたいな赤ちゃんのエコー写真があった。
「冬心。まさかー、本当なの。7週間だって。まぁー」
ぽかんと開けられた口が塞がらず、目を大きく開いた祖母、知加子は冬心の顔とジャンの顔を交互に見ながら、言葉が詰まって困惑していた。
「冬心と赤ちゃんのために頑張りますので、冬心と結婚させてください」
ジャンが逞しく頭を下げて祖母、知加子にはきはきと言った。暫く言葉を失くして戸惑っていた祖母、知加子が口元を緩んで優しく言葉をかける。
「冬心をよろしくお願いします」
祖母、知加子はパリに行ってから冬心の表情が明るくなって、年相応の活気が見られて安心していた。ジャンと恋愛していると打ち明けられた時、冬心は本当に幸せそうに笑ったので、心の奥からほっとした。辛いレイプのトラウマを乗り越えて愛せる人と出会った冬心を応援したいと思った。
ジャンダ教授は3日後にやっと目が覚めた。よく泣いた赤ちゃんのポールをあやす為に、アンナは眠っていたジャンダのおっぱいを赤ちゃんのポールに吸わせて安静させた。春馬の従兄の淳は毎日朝晩に訪れてきて、ジャンダ教授の手当てを一生懸命に行った。
12日の土曜日の午後1時にふっと瞼を上げたジャンダ教授は胸にくっついておっぱいを飲んでいる赤ちゃんのポールを見て、温かい涙がぽつんと零れ落ちた。赤ちゃんのポールを抱いて支えていたアンナがジャンダ教授の開いた目を見て、喜んで「ジャンダ、目覚めてよかったよ。どこか痛いところはない?」と涙を堪えて訊く。ジャンダ教授はゆっくり頷いて弱った両手で赤ちゃんのポールを抱きしめて暫くおっぱいを飲ませる。
ジャンダ教授は障害児童施設で歌った童謡を清らかな声で歌い始めた。赤ちゃんのポールは気持ちよくおっぱいを飲みながら、母の綺麗な歌声で眠くなった。その時インターフォンが鳴り、医師の淳が訪れてきた。昨日の夜勤で今日は遅く訪れたのだ。起き上がれて赤ちゃんにおっぱいを飲ませてあげているジャンダ教授をみて、安心した淳は大きなトートバッグから白い薬箱を取り出して、おずおずと言葉を述べる。
「大変申し訳ございません。春馬がやったことはいくら謝ってもお詫びの言葉もございません」
淳は土下座して真摯に謝った。驚いたジャンダ教授は歌うのを止めて静かに言葉を紡ぐ。
「もう、いいです。貴方が謝る必要はないです」
淳は充血した涙目を上げ、白い薬箱を持ち上げて震える声で言う。
「これ、オメガ用のアフターピルです。性行為後160時間以内に内服できると98%以上妊娠を阻止できる優れた新薬です。副作用も少なく、出産後でも直ぐ飲める避妊薬です。実は入手するには、医師の処方箋とオメガ医療局の承認が必要となりますが、解雇される覚悟で手にしました。どうかご自分を大切にしてください」
淳の父親はエンライトメント公立大学付属病院の院長で、母親はエンライトメント公立大学付属病院の形質者産婦人科の医師だ。淳は母に相談して父には気づかれないように、オメガ用のアフターピルを不正な手段で手に入れてしまった。これがバレたら、逮捕されて20年の禁固刑が科され、医師免許を取り消される危険がある。すべてを察していたジャンダ教授はおっぱいを飲み終えた赤ちゃんのポールの背中を軽く擦ってゲップをさせてから言った。
「覚悟はしています。産むつもりですのでその薬は元に戻してください」
ビックリした淳は躊躇って言葉が詰まったが、直ぐ目を吊り上げて強い語勢で言う。
「もう51歳で再び出産するんなんてむっちゃ過ぎますよ。今回の出産も大変だったと聞きました。ご自分の体を大事にしてください」
ふっと目頭が熱くなって、一粒の涙を零してしまった淳は頬を赤く染めて震えていた。真剣にジャンダ教授を心配してくれている誠実な淳を見て、ジャンダ教授は唇に丸く弧を描いて優しく言う。
「ありがとうございます。私の人生に起きた出来事は誰のせいでもありません。私に訪れたご縁は大切にしたいです。宇宙の摂理の観点から見れば、自分の波動に合わせて引き起こせる出来事を通して魂の成長のために、受け入れることと手放していくことで人生を成しています。自分がいるから相手もいるんです。ラットだったので、もう妊娠は確定だと分かっています。私は大丈夫です。今までありがとうございました」
淳は土下座したまま、息を殺して嗚咽した。淳が帰った後、ジャンダ教授は風呂に入ってから、温かいミネストローネを食べている。ジャンダ教授の向かいに座っていたアンナは少し躊躇ってから重い口を開いた。
「ジャンダ、2番目の子も産むつもりだね。そうだったら、パリに戻ったらどうです?」
「ありがとう。お母さん、でも、日本にいます。お父さんに迷惑をかけたくないです」
「お父さんは迷惑だと思ってないわよ。ジャンダを愛しているのよ。オメガ一人手で二人の子供を育てるのは大変なことです。私が傍についてあげたいの」
「ありがとう。でも、日本もオメガ育児支援が分厚くて大丈夫です。心配かけてごめんなさい。お母さん、お願いがあります。当分の間、妊娠したことは誰にも言わないで欲しいです。今回はお父さん、ただでは済まないと思うから。ごめんなさい」
その言葉を最後に、ジャンダ教授は静かにミネストローネを食べている。アンナは自分はオメガとして小さい頃から、ボティーガードが付き添っていたから、安全だったと考えた。大手のローゼグループの父親が警備を厳しく取り込んでいたから、運がよかった。フランスでも昔は稀少なオメガを狙った集団レイプ等があって、法律を厳しくして取り締まっていく雰囲気になってから、今は安全で住みやすく変わった。
ジャンダは絶世美人と呼ばれていて、その美しい容姿に惹かれて色んな男が寄ってきた。それに懸念を抱いたルイがボティーガードを雇ってジャンダを保護した。日本もオメガに安全で平穏な国だから、アンナは安心していたが、まさか有名な春馬選手がレイプするなんて夢にも思わなかった。
アンナはジャンダをパリに連れて行きたかった。でも、ジャンダの人生だから、無理やりに強要はできない。アンナは静かにミネストローネを食べているジャンダを悲哀の感情に揺さぶられながらじっと見つめていた。
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