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12話
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スイスでの最後の夜はもやもやして気まずかった。でも、心の広いジャンは何もなかったように装って普段通り、冬心に接した。ドイツに向かう列車に乗ってやっと眠りに入ったジャンを見て冬心は昨夜のことが気になって、ジャンに申し訳ない気持ちでいっぱいだった。れっきとした恋人なのにセックスの中、急に拒否するのは不躾だと感じだ。冬心は適時になったら、素直に話すことを覚悟し、ジャンの隣で翻訳の仕事をする。
ドイツ、ベルギー、オランダ、デンマークを旅する中、二人は普段通りに笑ったり、話したり、ワクワクしながら情景を楽しんで充実な日々を堪能した。そして、最後の旅行地のイタリアのローマへ飛行機で向かった。コロッセオ、バチカン美術館を忙しく回って、ホテルに戻った二人はそれぞれの部屋に入ってゆったりと寝ることにした。
ホテルの自分の部屋で翻訳の仕事をしていた冬心はスイスでの最後の夜のできことが気掛かりで、ずっと心が重い鎖に縛られているもどかしさを抱いていた。もう、夜11時過ぎ、冬心は隣のジャンの部屋をノックする。スマホで友達とラインをしていたジャンが起き上がり、ドアを開けた。恥ずかしそうにはにかんで立ている冬心を見てジャンは嬉しくなり、どうぞと言った。
小さな部屋だが、綺麗でお洒落なルネサンス式の古風なインテリアが居心地良さをそそる。ジャンは何か飲むかと訊き、ミネラルウォーターを用意してくれた。どこから話せばいいか、戸惑ている冬心を察して、先にジャンが本日訪れたバチカン美術館のミケランジェロの天井画の話題を振って”アダムの創造”が印象的で神とアダムの触れんばかりの指先は有名で、映画”E.T”など様々な作品に模倣されている等々、愉快に話した。
静かに聞き入っていた冬心がやっと腹を据えて口を開く。
「ジャン、話がある。あのースイスでの最後の夜、辛い思いをさせてしまってごめんなさい。ジャンのことは大好きだよ。でも、まだ過去のトラウマから離れないみたい」
静かに冬心の大きな目を見つめているジャンは優しく頷いた。
「辛かったら、話さなくてもいい。俺、ずっと待たせてもいいんだ。どんなに辛かったか、俺には計り知れない、けど、俺、冬心の記憶が楽しい思い出で上書きされて辛い記憶が這い上がらないように消してあげたい。いつまでも待てるから」
優しい眼差しで見つめてくれるジャンがとても愛おしくて冬心の目尻がうるんと濡れてきた。
「私、高校1年生頃、レイプされたことがある。学校の先輩で普段はいい人だったけど、豹変する先輩を見て余りも怖くて声も出ず、凍り付いてしまって、泣いてばかりで何にもできなかった。運よく、女性のオメガ先輩が助けてくれて病院に運ばれて入院された。その後、男性、特にアルファが怖くなった。近寄って来る人は全部断って恋愛とは縁を持ちたくなかった。でも、ジャンと出会って自然に好きな感情がさざ波のように寄せてきた。もっとジャンのそばにいたいと思った。初めてのキスも甘くて、脳裏でじんじんと電流が走る感覚で、初めて感じる刺激が気持ち良くて、その日は全然眠れなかった。それで、あの時も、身体がもぞもぞしてもっと欲しいと思った。でも、ジャンがあそこを触ったら、昔の怖い記憶が蘇ってきて思わず拒絶してしまったの」
「大丈夫、冬心。どんなに辛かったんだ。何もできなくてごめん。何かできることがあったら全力で尽くしたい。俺は、ずっと一緒にいたい」
穏やかな微笑みで口角を丸くして話すジャンを見て冬心は胸がぎゅっと熱く揺れた。とうとう冬心の目尻から涙がぽつんと零れて視界を奪っていった。ジャンは鼓動が波打つのを感じながら淡く揺れる冬心をひっそり抱きつく。暫く二人は切実に抱き合っていた。ジャンは揺れる冬心の淡い瞳に誘われて、透き通る頬に両手を添えて優しくキスをする。
ジャンは世界で唯一無二の極優性オメガの冬心をレイプに曝したら、無期懲役は確定でニュースでも騒がれていたはずなのに、そんなニュースは見たことも、聞いたこともなかったことに気づく。絶滅危惧種のオメガに関しては国際オメガ保護法によって徹底的に規制している。ジャンは好奇心より鬱憤が勝り、痛切な怒りを抑えて、バツが悪そうに頭を掻きながら冷静に訊く。
「法律的に守秘義務があったとしても、ビッグニュースになったと思うけど、それで加害者はどうなったの。刑務所には入れたか。重罪でしょ」
「うん、まだ未成年者だったから許すことにした。4人とも、アメリカに留学された」
呆れた形相を浮かべてジャンが言葉を述べる。
「あり得ない、冬心。4人も加わったが。。。くそっ、ぶっ殺してやるべきだ」
顔を赤くして憤慨しているジャンを見て、冬心は慌てて言いつける。
「全員が犯す前に女子先輩が助けてくれたから。。。一人目の先輩が無理やりにやったけど、5分ほどで女子先輩が部屋に入ってきて助けてくれた。今も香織先輩とはラインやっている。本当に命の恩人でいい人だよ」
「でも、同意なしにやったことは既に犯罪だ。許すべきじゃなかった。今は、一般人さえレイプの法律は厳しいんだ。オメガだったら、極限厳しく罰するはず。俺は理解できんねぇー」
気持ちを損なっているジャンが可哀そうだと思われた冬心は1か月間入院していた頃の話を淡々と打ち明けた。アメリカに立つ前、4人とも謝罪に来たことや彼らの親たちの献身的な見舞いなど、許すことによって、自分の現実と向き合えることができて、一歩前に踏み込まれることができたことも言った。冬心の悲しい話を苦しく聴いていたジャンは華奢な冬心を抱きしめる。
翌朝、二人はジャンのベットで目を覚ました。昨夜、冬心と抱き合って眠ってしまったジャンは爽やかな気持ちで鼻歌を口遊んでいた。今日は、スペイン広場で散策する予定だ。軽くシャワーを浴びてホテルのレストランで朝食を終えて地下鉄に乗る。スパーニャ駅で降り、舟の噴水の前で写真を撮って、有名な階段を上り、広場を眺めながらヨーロッパ式の古風な街並みを楽しんだ。
そのあと、トレヴィの泉に行って町風景を存分に楽しんだ後、ヨーロピアン的格式が反映されているカフェ・グレコに行ってレモネード、カプチーノ、エスプレッソコーヒーとティラミスを注文した。ローマでは最古のカフェらしく、大理石の丸テーブル、赤いベルベットの張られた椅子、壁にかかる壮烈な絵画等に囲まれてゆったりとした素敵な時間を過す。
次はパンテオンに行って壮大な建築に圧倒されて胸を躍らせた。3日目は列車に乗ってミラノに入る。ミラノ大聖堂を楽しんだ後に、ホテルに泊まった。4日目はブレラ絵画館によって中世の美術品を吟味してから、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアに行って、ショッピングを楽しんだ。これで、1か月間の旅は終止符を打つことになる。二人はミラノから飛行機を乗って8月28日の日曜日、8か国の旅を終えて、パリに戻った。
ジャンと別れるのは心寂しいだが、17区のソレイユ通りの大理石造のオスマン様式の3階の豪邸を見たら、ジェラール、マクソンス、ミレイユと猫たちに会える期待で、冬心の胸がわくわくしてきた。ジャンと一緒に家に入ったら、ソフィアさんとご主人のジャックと子供たちと猫たちが迎えてくれた。冬心の荷物を運んでくれたジャンは夜ご飯を一緒に食べようと誘うソフィアさんの提案を丁寧に断って、冬心に優しいキスをして玄関を出た。
冬心はソフィアさんの家族と使用人たちにお土産を渡して夕飯を楽しむ。旅先の思い出を楽しく話しながら、熱い短夜に漂う温もりを分かち合い、親切なソフィアさんの家族に感謝の念で胸がふわっと充満した。
楽しく食事を終えて、3階の部屋に入ってシャワーを浴びた冬心はジャンダ教授に久しぶりにビデオ通話をかける。最近、ジャンダ教授は忙しいみたいでラインのやり取りはしているが、ビデオ通話は1か月以上したことがなかった。先の夕食の時、ソフィアさんはジャンダ教授が10日間パリで滞在していたが、久しぶり会ったジャンダ教授の顔色が悪くて痩せていたことが気になると言った。
それで、心配になった冬心はビデオ通話をすることを決めた。ここが夜10時くらいだから、東京は午後3時位のはずだ。ビデオ通話をかけて、暫く待っても出てこないから焦りながらずっと待っていたら、綺麗なジャンダ教授がモニターに現れた。
「先生、お久しぶりです。お元気ですか」
穏やかでふわりと微笑みを含んだジャンダ教授が返事する。
「久しぶり、冬心。私はお陰様で元気です。無事に帰ってきてよかったね。旅行は楽しかったの」
ジャンダ教授の柔らかい笑顔を見た途端、冬心は突然、胸騒ぎがした。少し頬が細って痩せて見えたが、明るい口調で話すジャンダ教授を配慮して、冬心は平静を装って、自ら進んで旅行話を明るく喋る。ジャンダ教授は笑顔で傾聴してから、冬心が訪れた8か国のとっておきの穴場について親切に話してくれた。
ジャンダ教授は続いて、星空町のピース高層タワーマンションへの引っ越しのこと、祖母、知加子が新居をとても気に入っていらっしゃること、冬心の希望通り、新居の内装施工ができたこと、祖母、知加子の健康診断で健康状態が良好のこと、印税で入った数十憶万円の寄付件、新しい本の出版件などいろいろ話した。二人は30分ほど話し合って、疲れて見えるジャンダ教授を配慮して通話を切った。
ジャンダ教授にはいつも大変お世話になっているので、ジャンダ教授の健康状態が気になった。オランダの旅の時、アメリカにいる樹里から春馬の様子が変だというラインがきた。春馬が夏訓練で忙しいことは承知のことだが、ラインの既読もつかないし、返信もないことは始めてて、樹里は心配だと言った。
この前のことだが、ドイツの旅の時にも、愛子から春馬が蒸発したとラインがきた。愛子は7月の末から、春馬と連絡が全然繋がらないと言った。勘が鋭い愛子と樹里は口を合わせて、ジャンダ教授と関連があるみたいだと言った。
冬心の直感も春馬とジャンダ教授の色恋沙汰の予感がした。冬心も旅先で複数回、電話をかけたり、ラインもしたが春馬とは全然繋がらなかった。それで、心配になった愛子が日曜日の教会のミサで春馬の母に会って、春馬の消息を尋ねたら、夏訓練が忙しくて連絡が取れないみたいだと言われたそうだ。
何か隠そうとしているかも知れないとふと思われるのは、敏感なのかぁと考えを巡りながら冬心は春馬を思い出す。春馬はほしい物を手に入れるなら、手に入るまでブレずに突き進んでいく質だ。よく言えば、信念を貫く性格で辛抱強いのだ。ジャンダ教授に一目惚れで、そう簡単に諦めはしないはずだ。冬心の心底がちりちりと波打った。
9月に入り、2学期が始まり、ピース大学の校庭は柔らかい日差しを求めて、学生たちの群れで賑やかな日を迎えていた。相手のフェロモンの欠如で悪阻が収まらないジャンダ教授は辛うじて教壇に立て講義を続けていた。齋藤助教は8月頃から急激に痩せて体調を崩しているジャンダ教授を見て、心配で悶々としていた。
一緒に食べれるランチの時も、ジャンダ教授は吐き気を起こして、何も口にしないで野菜ジュスのみ飲んでいた。齋藤助教はジャンダ教授に病院に行って診てくるよう話しかけたが、ジャンダ教授は蒼白な顔で優美な微笑みをたたえ、胃もたれだと言い残し、トイレに行ってしまった。不安に駆けられながら、静かにジャンダ教授を見守るしかできない齋藤助教は切ない気持ちで藻掻いていた。
博士コースを勉強している齋藤翼はベータでも頭脳が良くて頑張って勉強して、26歳で早くも博士コースに進学できた。貧困家庭でも勉強のみが灯りで、苦しい人生を照らしてくれる希望だった。大学院の進学を経済理由で躊躇っていた時に、ジャンダ教授が助教として採用してくれて助けられた。綺麗で優しいジャンダ教授は学生間で人気があって、皆が憧れるアイドルみたいな存在だ。
ジャンダ教授のフィアンセが6年前に亡くなってからは、ジャンダ教授の哄笑する明るい形相は見たことがない。ジャンダ教授に対して淡い恋情が燃え上がったが、親と同じ年だし、道徳的に逸れない気質の齋藤助教はジャンダ教授を深く尊敬するようになった。
9月から春馬選手が毎日研究室に訪れてきて、ジャンダ教授に会いたいと申し出た。でも、ジャンダ教授は強く拒否して、春馬選手がジャンダ教授の研究室に入るのを拒んだ。でも、めけずに訪れてくる春馬選手をジャンダ教授は学校のオメガハラスメント防止本部に相談して、春馬選手が校内でジャンダ教授に近づけないように、接近禁止命令が下された。その命令を違反したら、選手資格を剥奪されて、懲役刑5年の実刑が下される。
齋藤助教は体育部の春馬選手と文学部のジャンダ教授の連結が分からなくて、疑問は膨らんでいた。幸いに、接近禁止命令後、春馬選手はもう、ジャンダ教授に訪れてこなかった。
渺々たる蒼空が高くて清らかなそよ風が靡かせる全てが媚びる10月になり、ピース大学の校庭は朱色と緋色に染まり始めるノムラモミジの葉っぱが鮮やかな彩色を描いていた。講義を終えたジャンダ教授は講義準備や学会の準備で夜10時まで研究室にいた。そろそろ片付けて帰る支度をしたジャンダ教授は悪阻が酷くて、一日中ジュス以外には何も食べれなかった。
齋藤助教と人文学部棟を出たら、気持ちよく吹く夜風が清々しく新鮮で、気持ちが軽くなった。齋藤助教を家まで送り、再び木槿丘のピースタワーマンションに着いたジャンダ教授が速度を下げて地下駐車場に入ろうとする時だった。急に大きな人がフロントに体当たりをして、どんとぶつかった。驚いたジャンダ教授は運転席から出て倒れている人影に近寄って声をかける。
大きな人は直ぐ立ち上がると、ジャンダ教授の腕を掴んだ。不意を突かれてびっくりしたジャンダ教授は思わず悲鳴を上げた。春馬だったのだ。春馬は夜7時から駐車場の入り口で見張っていた。また、大声を出そうとするジャンダ教授の口を塞いて車の助手席に座らせて、春馬は運転席に乗る。
震えるジャンダ教授は硬直して言葉も出てこなかった。春馬はジャンダ教授の新しい紫パールのメルセデスベンツを指定駐車席に停めた。ジャンダ教授は7月25日の厄落としをしたくて、車を新しく買ったのだ。
震えるジャンダ教授に春馬はクスっと笑みをこぼして、優しい声で話し出す。
「先生、会いたかった。ご飯、ちゃんと食べとるの。やつれてるな」
「来ないで!警察呼ぶよ」
ジャンダ教授は平常心で言うつもりだが、弱弱しい涙声は酷く震えていた。春馬は何も言わずに、ジャンダ教授を抱きつく。久しぶり鼻腔を突く春馬の濃密なフェロモンの潮風の香りがジャンダ教授の全身を伝って、むかむかしていた悪阻が収まり始める。久々の安定感を感じたジャンダ教授は抗うことも忘れて、温かい春馬の胸で、息を喘いていた。
妊娠初期のオメガはパートナーのフェロモンで安定する必要があった。2か月ぶりに赤ちゃんの父親の春馬のフェロモンに触れて、お腹の赤ちゃんも心地よくなり、悪阻も収まってきた。暫く抱き付いていた春馬はジャンダ教授の鈴蘭香りのフェロモンが出ないことに気付いた。
番の解除手術をすれば、1か月が経ったら通常通り、フェロモンが出るはずだ。アルファの春馬の強いフェロモンで反応しないオメガは今までいなかった。春馬がフェロモンを出せば、その香りに酔い始めるオメガもフェロモンを出す仕組みだ。
でも、何の香りもしないジャンダ教授が珍しく思われて、春馬は鼻をジャンダ教授の項に突っ込んで香りを嗅いだ。やっぱり、ボディソープのサボン系の香り以外に何の香りもしない。
春馬は意図的にフェロモンを大量に放出する。ジャンダ教授はゆったりして、春馬のフェロモンシャワーを喜んで浴びていた。先までは嫌がって震えていたのに、今のジャンダ教授は安らかな表情で、春馬の胸の中で抱き付かれたまま落ち着いていた。
綺麗なジャンダ教授の顔を見つめていた春馬は学校の保健時間で教わった授業内容を不意に思い出す。妊娠したオメガは出産までにはフェロモンが出なくなるし、パートナーのフェロモンに触れなかったら、悪阻や食欲不振など酷い妊娠症状で苦しくなるとのこと。
はっと我に返った春馬はジャンダ教授のお腹に手を当ててみた。華奢な身体にお腹が少し膨らんでいた。8月、9月が過ぎでもお腹は目立つほど、出てこないが10月中旬くらいになったら、結構大きなお腹が出てくるはずだ。生唾を飲んだ春馬はジャンダ教授を抱いたまま、エレベーターに向かう。17階を押して上がるまでも、ジャンダ教授は静かに抱かれていた。久々訪れるジャンダ教授の家は相変わらず清潔でいい匂いがした。
尻尾を大きく振りながらポールがにゃんと鳴いていた。久しぶり会ったポールは相変わらず可愛い。春馬はジャンダ教授をソファに降ろして、綺麗な顔を優しく撫でる。春馬は込み上がる気持ちを抑えて、フェロモンを出す。ジャンダ教授は久しぶりに楽になった身体が嬉しくて、暖かい微睡みの中、静かに意識を手放していた。
「先生、風呂入りますか。ここで寝たら、風邪ひくよ。俺が手伝うから風呂入ろうぜ」
ジャンダ教授は何も言わずに、うとうとしているだけだった。春馬はジャンダ教授の服を丁寧に脱がし、抱き上げて浴室に入る。眠りから目覚ましたジャンダ教授はフェロモンシャワーに酔っていて、反応が鈍い。春馬はジャンダ教授を浴室用の椅子に座らせて、泡立たせたスポンジで丁寧に洗ってあげた。今は腰まで届く長いブロンドヘアを優しく流してあげた。歯磨きも手伝って終わらせ、ジャンダ教授の身体を大きなタオルで拭いて、オメガクリームも万遍なく塗ってあげた。ブロンドヘアをドライして、やっと寝る準備が終わった。
春馬はジャンダ教授を寝室のベットに寝かせてから、そっとリビングルームに出る。ポールはキャットタワーで眠っていた。胸がそわそわして落ち着かなかった春馬は車から持ってきたジャンダ教授のルイスボトンの茶色の革トートバッグについ出来心で手を入れる。トートバッグの中からは手帳、オメガクリームとリップクリームと手鏡と櫛が入ったポーチ、スマホ、初めての育児書、産婦人科薬袋、オメガ妊娠手帳、ハンカチ、消毒用ウェットティッシュが出てきた。目を大きく開いた春馬は震える手で妊娠手帳を捲った。
妊娠3週目から赤ちゃんの超音波写真が貼ってあった。10週間になる写真には結構はっきり赤ちゃんの姿が映されていた。丸い豆みたいに可愛い。突然、春馬の目尻からぽつんと涙が落ちてきた。今まで経験したことのない喜びが込み上げてきて、春馬は悦していた。
今まで、色んなオメガや女子とセックスをしてきたが、一度も妊娠させたことはなかった。相手が注意深く避妊薬を飲んだり、春馬も必ずコンドームを着たから、妊娠させたことはなかった。でも、ジャンダ教授との7月25日のできことは一生忘れられない思い出だ。
春馬は意を決めた。何があってもジャンダ教授と自分の子供は守るんだと意思を燃えた。ジャンダ教授は50歳で高齢出産はいろいろ危ない。傍について助けなければならない。春馬も浴室に入り、シャワーを浴びてから、寝室に入った。くっすり寝ているジャンダ教授はとても美しい。春馬はフェロモンを出しながら、ジャンダ教授をひしと抱きしめる。
翌朝、身体が軽く、気持ちよく起き上がったジャンダ教授は隣で寝ている春馬を見つけて、悲鳴を上げてしまった。その騒ぎで目を開けた春馬はにこりと微笑んだ。
「先生、昨夜のこと、覚えてる?先生のために、フェロモンシャワーした。赤ちゃんも初めて父ちゃんに出会って嬉しくなったかもな」
言葉を失ったジャンダ教授は目を大きく開いて口を窄んでいた。インナーパンツ一丁のみで寝た春馬が起き上がり、服を着始める。ジャンダ教授はお腹が突っ張らないし、悪阻もなかったので、体の調子は久しぶりに良かった。
やっと昨夜のことが思い出せた。車の中で春馬に抱かれて、久々のフェロモンで癒されたことを思い出したのだ。病院でも薬よりパートナーのフェロモンが効果あるから出来ればパートナーのフェロモンに触れて安定させることを勧められた。赤ちゃんの安泰のためなら、春馬のフェロモンが必要だ。避けられない現実に直面したジャンダ教授は何も言わずにドレッシングルームに入る。
ジャンダ教授は久しぶりに食欲がそそり、キッチンに立てサンドイッチを作り始める。春馬はポールと戯れていた。トマト、レタス、チキンの胸肉のステーキ、焼き玉ねぎ、目玉焼きを揃ってサンドイッチを作り置き、ケールとバナナと蜂蜜を入れてさっぱりしたケールジュスも作った。朝食が完成されてジャンダ教授は大理石のテーブルに座る。
何も言わないジャンダ教授だが、サンドイッチもジュスも二人分を作りおき、春馬はジャンダ教授の向かいの椅子に座る。サンドイッチはとても瑞々しく美味しかった。ケールジュスも健康的で甘みもあって美味しい。
満足気にかぶりつく春馬はジャンダ教授の皿には一つのサンドイッチだけなのに、自分の皿にはサンドイッチが3つもあることに気づく。ジュスコップもジャンダ教授は普通のサイズなのに、自分は超ビッグサイズのグラスにジュスがたっぷり入っていた。
ジャンダ教授の優しい気遣いで気持ちいい春馬はジャンダ教授と言葉は交わしていないけれど、一般の熟年夫婦みたいな感じがして、胸がぞくぞくしてこそばゆかった。春馬はジャンダ教授の優美な姿をただただ目に焼き付けていた。
食事を終えて二人はジャンダ教授の車に乗り、ピース大学へ車を発進させる。10分くらい走って、ピース大学の地下駐車場に着くと、不意打ちに春馬が口を開く。
「先生、俺も赤ちゃんに責任ある。一応、父ちゃんだし、何か調子悪くなったら、連絡してくれ。フェロモンで安静するのが大事だから。俺、嬉しい。赤ちゃん、綺麗な先生に似てほしいなぁ。じゃな」
春馬は太陽みたいな燦々な笑顔を見せて、車から消えて行った。ジャンダ教授はお腹の張りも胸のむかつきもなくなり、身体は楽になったが、春馬と関わってしまったことでイラっとした。でも、妊娠してから今まで、真面に食べれなかったから、今朝のサンドイッチはとても美味しく頂けた。
赤ちゃんのためにも、薬に依存せず、春馬のフェロモンで安静する必要がある。暫く悩んですすり泣いたジャンダ教授は詮方無いことだと受け入れて、トートバッグを持って運転席から出た。
ドイツ、ベルギー、オランダ、デンマークを旅する中、二人は普段通りに笑ったり、話したり、ワクワクしながら情景を楽しんで充実な日々を堪能した。そして、最後の旅行地のイタリアのローマへ飛行機で向かった。コロッセオ、バチカン美術館を忙しく回って、ホテルに戻った二人はそれぞれの部屋に入ってゆったりと寝ることにした。
ホテルの自分の部屋で翻訳の仕事をしていた冬心はスイスでの最後の夜のできことが気掛かりで、ずっと心が重い鎖に縛られているもどかしさを抱いていた。もう、夜11時過ぎ、冬心は隣のジャンの部屋をノックする。スマホで友達とラインをしていたジャンが起き上がり、ドアを開けた。恥ずかしそうにはにかんで立ている冬心を見てジャンは嬉しくなり、どうぞと言った。
小さな部屋だが、綺麗でお洒落なルネサンス式の古風なインテリアが居心地良さをそそる。ジャンは何か飲むかと訊き、ミネラルウォーターを用意してくれた。どこから話せばいいか、戸惑ている冬心を察して、先にジャンが本日訪れたバチカン美術館のミケランジェロの天井画の話題を振って”アダムの創造”が印象的で神とアダムの触れんばかりの指先は有名で、映画”E.T”など様々な作品に模倣されている等々、愉快に話した。
静かに聞き入っていた冬心がやっと腹を据えて口を開く。
「ジャン、話がある。あのースイスでの最後の夜、辛い思いをさせてしまってごめんなさい。ジャンのことは大好きだよ。でも、まだ過去のトラウマから離れないみたい」
静かに冬心の大きな目を見つめているジャンは優しく頷いた。
「辛かったら、話さなくてもいい。俺、ずっと待たせてもいいんだ。どんなに辛かったか、俺には計り知れない、けど、俺、冬心の記憶が楽しい思い出で上書きされて辛い記憶が這い上がらないように消してあげたい。いつまでも待てるから」
優しい眼差しで見つめてくれるジャンがとても愛おしくて冬心の目尻がうるんと濡れてきた。
「私、高校1年生頃、レイプされたことがある。学校の先輩で普段はいい人だったけど、豹変する先輩を見て余りも怖くて声も出ず、凍り付いてしまって、泣いてばかりで何にもできなかった。運よく、女性のオメガ先輩が助けてくれて病院に運ばれて入院された。その後、男性、特にアルファが怖くなった。近寄って来る人は全部断って恋愛とは縁を持ちたくなかった。でも、ジャンと出会って自然に好きな感情がさざ波のように寄せてきた。もっとジャンのそばにいたいと思った。初めてのキスも甘くて、脳裏でじんじんと電流が走る感覚で、初めて感じる刺激が気持ち良くて、その日は全然眠れなかった。それで、あの時も、身体がもぞもぞしてもっと欲しいと思った。でも、ジャンがあそこを触ったら、昔の怖い記憶が蘇ってきて思わず拒絶してしまったの」
「大丈夫、冬心。どんなに辛かったんだ。何もできなくてごめん。何かできることがあったら全力で尽くしたい。俺は、ずっと一緒にいたい」
穏やかな微笑みで口角を丸くして話すジャンを見て冬心は胸がぎゅっと熱く揺れた。とうとう冬心の目尻から涙がぽつんと零れて視界を奪っていった。ジャンは鼓動が波打つのを感じながら淡く揺れる冬心をひっそり抱きつく。暫く二人は切実に抱き合っていた。ジャンは揺れる冬心の淡い瞳に誘われて、透き通る頬に両手を添えて優しくキスをする。
ジャンは世界で唯一無二の極優性オメガの冬心をレイプに曝したら、無期懲役は確定でニュースでも騒がれていたはずなのに、そんなニュースは見たことも、聞いたこともなかったことに気づく。絶滅危惧種のオメガに関しては国際オメガ保護法によって徹底的に規制している。ジャンは好奇心より鬱憤が勝り、痛切な怒りを抑えて、バツが悪そうに頭を掻きながら冷静に訊く。
「法律的に守秘義務があったとしても、ビッグニュースになったと思うけど、それで加害者はどうなったの。刑務所には入れたか。重罪でしょ」
「うん、まだ未成年者だったから許すことにした。4人とも、アメリカに留学された」
呆れた形相を浮かべてジャンが言葉を述べる。
「あり得ない、冬心。4人も加わったが。。。くそっ、ぶっ殺してやるべきだ」
顔を赤くして憤慨しているジャンを見て、冬心は慌てて言いつける。
「全員が犯す前に女子先輩が助けてくれたから。。。一人目の先輩が無理やりにやったけど、5分ほどで女子先輩が部屋に入ってきて助けてくれた。今も香織先輩とはラインやっている。本当に命の恩人でいい人だよ」
「でも、同意なしにやったことは既に犯罪だ。許すべきじゃなかった。今は、一般人さえレイプの法律は厳しいんだ。オメガだったら、極限厳しく罰するはず。俺は理解できんねぇー」
気持ちを損なっているジャンが可哀そうだと思われた冬心は1か月間入院していた頃の話を淡々と打ち明けた。アメリカに立つ前、4人とも謝罪に来たことや彼らの親たちの献身的な見舞いなど、許すことによって、自分の現実と向き合えることができて、一歩前に踏み込まれることができたことも言った。冬心の悲しい話を苦しく聴いていたジャンは華奢な冬心を抱きしめる。
翌朝、二人はジャンのベットで目を覚ました。昨夜、冬心と抱き合って眠ってしまったジャンは爽やかな気持ちで鼻歌を口遊んでいた。今日は、スペイン広場で散策する予定だ。軽くシャワーを浴びてホテルのレストランで朝食を終えて地下鉄に乗る。スパーニャ駅で降り、舟の噴水の前で写真を撮って、有名な階段を上り、広場を眺めながらヨーロッパ式の古風な街並みを楽しんだ。
そのあと、トレヴィの泉に行って町風景を存分に楽しんだ後、ヨーロピアン的格式が反映されているカフェ・グレコに行ってレモネード、カプチーノ、エスプレッソコーヒーとティラミスを注文した。ローマでは最古のカフェらしく、大理石の丸テーブル、赤いベルベットの張られた椅子、壁にかかる壮烈な絵画等に囲まれてゆったりとした素敵な時間を過す。
次はパンテオンに行って壮大な建築に圧倒されて胸を躍らせた。3日目は列車に乗ってミラノに入る。ミラノ大聖堂を楽しんだ後に、ホテルに泊まった。4日目はブレラ絵画館によって中世の美術品を吟味してから、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアに行って、ショッピングを楽しんだ。これで、1か月間の旅は終止符を打つことになる。二人はミラノから飛行機を乗って8月28日の日曜日、8か国の旅を終えて、パリに戻った。
ジャンと別れるのは心寂しいだが、17区のソレイユ通りの大理石造のオスマン様式の3階の豪邸を見たら、ジェラール、マクソンス、ミレイユと猫たちに会える期待で、冬心の胸がわくわくしてきた。ジャンと一緒に家に入ったら、ソフィアさんとご主人のジャックと子供たちと猫たちが迎えてくれた。冬心の荷物を運んでくれたジャンは夜ご飯を一緒に食べようと誘うソフィアさんの提案を丁寧に断って、冬心に優しいキスをして玄関を出た。
冬心はソフィアさんの家族と使用人たちにお土産を渡して夕飯を楽しむ。旅先の思い出を楽しく話しながら、熱い短夜に漂う温もりを分かち合い、親切なソフィアさんの家族に感謝の念で胸がふわっと充満した。
楽しく食事を終えて、3階の部屋に入ってシャワーを浴びた冬心はジャンダ教授に久しぶりにビデオ通話をかける。最近、ジャンダ教授は忙しいみたいでラインのやり取りはしているが、ビデオ通話は1か月以上したことがなかった。先の夕食の時、ソフィアさんはジャンダ教授が10日間パリで滞在していたが、久しぶり会ったジャンダ教授の顔色が悪くて痩せていたことが気になると言った。
それで、心配になった冬心はビデオ通話をすることを決めた。ここが夜10時くらいだから、東京は午後3時位のはずだ。ビデオ通話をかけて、暫く待っても出てこないから焦りながらずっと待っていたら、綺麗なジャンダ教授がモニターに現れた。
「先生、お久しぶりです。お元気ですか」
穏やかでふわりと微笑みを含んだジャンダ教授が返事する。
「久しぶり、冬心。私はお陰様で元気です。無事に帰ってきてよかったね。旅行は楽しかったの」
ジャンダ教授の柔らかい笑顔を見た途端、冬心は突然、胸騒ぎがした。少し頬が細って痩せて見えたが、明るい口調で話すジャンダ教授を配慮して、冬心は平静を装って、自ら進んで旅行話を明るく喋る。ジャンダ教授は笑顔で傾聴してから、冬心が訪れた8か国のとっておきの穴場について親切に話してくれた。
ジャンダ教授は続いて、星空町のピース高層タワーマンションへの引っ越しのこと、祖母、知加子が新居をとても気に入っていらっしゃること、冬心の希望通り、新居の内装施工ができたこと、祖母、知加子の健康診断で健康状態が良好のこと、印税で入った数十憶万円の寄付件、新しい本の出版件などいろいろ話した。二人は30分ほど話し合って、疲れて見えるジャンダ教授を配慮して通話を切った。
ジャンダ教授にはいつも大変お世話になっているので、ジャンダ教授の健康状態が気になった。オランダの旅の時、アメリカにいる樹里から春馬の様子が変だというラインがきた。春馬が夏訓練で忙しいことは承知のことだが、ラインの既読もつかないし、返信もないことは始めてて、樹里は心配だと言った。
この前のことだが、ドイツの旅の時にも、愛子から春馬が蒸発したとラインがきた。愛子は7月の末から、春馬と連絡が全然繋がらないと言った。勘が鋭い愛子と樹里は口を合わせて、ジャンダ教授と関連があるみたいだと言った。
冬心の直感も春馬とジャンダ教授の色恋沙汰の予感がした。冬心も旅先で複数回、電話をかけたり、ラインもしたが春馬とは全然繋がらなかった。それで、心配になった愛子が日曜日の教会のミサで春馬の母に会って、春馬の消息を尋ねたら、夏訓練が忙しくて連絡が取れないみたいだと言われたそうだ。
何か隠そうとしているかも知れないとふと思われるのは、敏感なのかぁと考えを巡りながら冬心は春馬を思い出す。春馬はほしい物を手に入れるなら、手に入るまでブレずに突き進んでいく質だ。よく言えば、信念を貫く性格で辛抱強いのだ。ジャンダ教授に一目惚れで、そう簡単に諦めはしないはずだ。冬心の心底がちりちりと波打った。
9月に入り、2学期が始まり、ピース大学の校庭は柔らかい日差しを求めて、学生たちの群れで賑やかな日を迎えていた。相手のフェロモンの欠如で悪阻が収まらないジャンダ教授は辛うじて教壇に立て講義を続けていた。齋藤助教は8月頃から急激に痩せて体調を崩しているジャンダ教授を見て、心配で悶々としていた。
一緒に食べれるランチの時も、ジャンダ教授は吐き気を起こして、何も口にしないで野菜ジュスのみ飲んでいた。齋藤助教はジャンダ教授に病院に行って診てくるよう話しかけたが、ジャンダ教授は蒼白な顔で優美な微笑みをたたえ、胃もたれだと言い残し、トイレに行ってしまった。不安に駆けられながら、静かにジャンダ教授を見守るしかできない齋藤助教は切ない気持ちで藻掻いていた。
博士コースを勉強している齋藤翼はベータでも頭脳が良くて頑張って勉強して、26歳で早くも博士コースに進学できた。貧困家庭でも勉強のみが灯りで、苦しい人生を照らしてくれる希望だった。大学院の進学を経済理由で躊躇っていた時に、ジャンダ教授が助教として採用してくれて助けられた。綺麗で優しいジャンダ教授は学生間で人気があって、皆が憧れるアイドルみたいな存在だ。
ジャンダ教授のフィアンセが6年前に亡くなってからは、ジャンダ教授の哄笑する明るい形相は見たことがない。ジャンダ教授に対して淡い恋情が燃え上がったが、親と同じ年だし、道徳的に逸れない気質の齋藤助教はジャンダ教授を深く尊敬するようになった。
9月から春馬選手が毎日研究室に訪れてきて、ジャンダ教授に会いたいと申し出た。でも、ジャンダ教授は強く拒否して、春馬選手がジャンダ教授の研究室に入るのを拒んだ。でも、めけずに訪れてくる春馬選手をジャンダ教授は学校のオメガハラスメント防止本部に相談して、春馬選手が校内でジャンダ教授に近づけないように、接近禁止命令が下された。その命令を違反したら、選手資格を剥奪されて、懲役刑5年の実刑が下される。
齋藤助教は体育部の春馬選手と文学部のジャンダ教授の連結が分からなくて、疑問は膨らんでいた。幸いに、接近禁止命令後、春馬選手はもう、ジャンダ教授に訪れてこなかった。
渺々たる蒼空が高くて清らかなそよ風が靡かせる全てが媚びる10月になり、ピース大学の校庭は朱色と緋色に染まり始めるノムラモミジの葉っぱが鮮やかな彩色を描いていた。講義を終えたジャンダ教授は講義準備や学会の準備で夜10時まで研究室にいた。そろそろ片付けて帰る支度をしたジャンダ教授は悪阻が酷くて、一日中ジュス以外には何も食べれなかった。
齋藤助教と人文学部棟を出たら、気持ちよく吹く夜風が清々しく新鮮で、気持ちが軽くなった。齋藤助教を家まで送り、再び木槿丘のピースタワーマンションに着いたジャンダ教授が速度を下げて地下駐車場に入ろうとする時だった。急に大きな人がフロントに体当たりをして、どんとぶつかった。驚いたジャンダ教授は運転席から出て倒れている人影に近寄って声をかける。
大きな人は直ぐ立ち上がると、ジャンダ教授の腕を掴んだ。不意を突かれてびっくりしたジャンダ教授は思わず悲鳴を上げた。春馬だったのだ。春馬は夜7時から駐車場の入り口で見張っていた。また、大声を出そうとするジャンダ教授の口を塞いて車の助手席に座らせて、春馬は運転席に乗る。
震えるジャンダ教授は硬直して言葉も出てこなかった。春馬はジャンダ教授の新しい紫パールのメルセデスベンツを指定駐車席に停めた。ジャンダ教授は7月25日の厄落としをしたくて、車を新しく買ったのだ。
震えるジャンダ教授に春馬はクスっと笑みをこぼして、優しい声で話し出す。
「先生、会いたかった。ご飯、ちゃんと食べとるの。やつれてるな」
「来ないで!警察呼ぶよ」
ジャンダ教授は平常心で言うつもりだが、弱弱しい涙声は酷く震えていた。春馬は何も言わずに、ジャンダ教授を抱きつく。久しぶり鼻腔を突く春馬の濃密なフェロモンの潮風の香りがジャンダ教授の全身を伝って、むかむかしていた悪阻が収まり始める。久々の安定感を感じたジャンダ教授は抗うことも忘れて、温かい春馬の胸で、息を喘いていた。
妊娠初期のオメガはパートナーのフェロモンで安定する必要があった。2か月ぶりに赤ちゃんの父親の春馬のフェロモンに触れて、お腹の赤ちゃんも心地よくなり、悪阻も収まってきた。暫く抱き付いていた春馬はジャンダ教授の鈴蘭香りのフェロモンが出ないことに気付いた。
番の解除手術をすれば、1か月が経ったら通常通り、フェロモンが出るはずだ。アルファの春馬の強いフェロモンで反応しないオメガは今までいなかった。春馬がフェロモンを出せば、その香りに酔い始めるオメガもフェロモンを出す仕組みだ。
でも、何の香りもしないジャンダ教授が珍しく思われて、春馬は鼻をジャンダ教授の項に突っ込んで香りを嗅いだ。やっぱり、ボディソープのサボン系の香り以外に何の香りもしない。
春馬は意図的にフェロモンを大量に放出する。ジャンダ教授はゆったりして、春馬のフェロモンシャワーを喜んで浴びていた。先までは嫌がって震えていたのに、今のジャンダ教授は安らかな表情で、春馬の胸の中で抱き付かれたまま落ち着いていた。
綺麗なジャンダ教授の顔を見つめていた春馬は学校の保健時間で教わった授業内容を不意に思い出す。妊娠したオメガは出産までにはフェロモンが出なくなるし、パートナーのフェロモンに触れなかったら、悪阻や食欲不振など酷い妊娠症状で苦しくなるとのこと。
はっと我に返った春馬はジャンダ教授のお腹に手を当ててみた。華奢な身体にお腹が少し膨らんでいた。8月、9月が過ぎでもお腹は目立つほど、出てこないが10月中旬くらいになったら、結構大きなお腹が出てくるはずだ。生唾を飲んだ春馬はジャンダ教授を抱いたまま、エレベーターに向かう。17階を押して上がるまでも、ジャンダ教授は静かに抱かれていた。久々訪れるジャンダ教授の家は相変わらず清潔でいい匂いがした。
尻尾を大きく振りながらポールがにゃんと鳴いていた。久しぶり会ったポールは相変わらず可愛い。春馬はジャンダ教授をソファに降ろして、綺麗な顔を優しく撫でる。春馬は込み上がる気持ちを抑えて、フェロモンを出す。ジャンダ教授は久しぶりに楽になった身体が嬉しくて、暖かい微睡みの中、静かに意識を手放していた。
「先生、風呂入りますか。ここで寝たら、風邪ひくよ。俺が手伝うから風呂入ろうぜ」
ジャンダ教授は何も言わずに、うとうとしているだけだった。春馬はジャンダ教授の服を丁寧に脱がし、抱き上げて浴室に入る。眠りから目覚ましたジャンダ教授はフェロモンシャワーに酔っていて、反応が鈍い。春馬はジャンダ教授を浴室用の椅子に座らせて、泡立たせたスポンジで丁寧に洗ってあげた。今は腰まで届く長いブロンドヘアを優しく流してあげた。歯磨きも手伝って終わらせ、ジャンダ教授の身体を大きなタオルで拭いて、オメガクリームも万遍なく塗ってあげた。ブロンドヘアをドライして、やっと寝る準備が終わった。
春馬はジャンダ教授を寝室のベットに寝かせてから、そっとリビングルームに出る。ポールはキャットタワーで眠っていた。胸がそわそわして落ち着かなかった春馬は車から持ってきたジャンダ教授のルイスボトンの茶色の革トートバッグについ出来心で手を入れる。トートバッグの中からは手帳、オメガクリームとリップクリームと手鏡と櫛が入ったポーチ、スマホ、初めての育児書、産婦人科薬袋、オメガ妊娠手帳、ハンカチ、消毒用ウェットティッシュが出てきた。目を大きく開いた春馬は震える手で妊娠手帳を捲った。
妊娠3週目から赤ちゃんの超音波写真が貼ってあった。10週間になる写真には結構はっきり赤ちゃんの姿が映されていた。丸い豆みたいに可愛い。突然、春馬の目尻からぽつんと涙が落ちてきた。今まで経験したことのない喜びが込み上げてきて、春馬は悦していた。
今まで、色んなオメガや女子とセックスをしてきたが、一度も妊娠させたことはなかった。相手が注意深く避妊薬を飲んだり、春馬も必ずコンドームを着たから、妊娠させたことはなかった。でも、ジャンダ教授との7月25日のできことは一生忘れられない思い出だ。
春馬は意を決めた。何があってもジャンダ教授と自分の子供は守るんだと意思を燃えた。ジャンダ教授は50歳で高齢出産はいろいろ危ない。傍について助けなければならない。春馬も浴室に入り、シャワーを浴びてから、寝室に入った。くっすり寝ているジャンダ教授はとても美しい。春馬はフェロモンを出しながら、ジャンダ教授をひしと抱きしめる。
翌朝、身体が軽く、気持ちよく起き上がったジャンダ教授は隣で寝ている春馬を見つけて、悲鳴を上げてしまった。その騒ぎで目を開けた春馬はにこりと微笑んだ。
「先生、昨夜のこと、覚えてる?先生のために、フェロモンシャワーした。赤ちゃんも初めて父ちゃんに出会って嬉しくなったかもな」
言葉を失ったジャンダ教授は目を大きく開いて口を窄んでいた。インナーパンツ一丁のみで寝た春馬が起き上がり、服を着始める。ジャンダ教授はお腹が突っ張らないし、悪阻もなかったので、体の調子は久しぶりに良かった。
やっと昨夜のことが思い出せた。車の中で春馬に抱かれて、久々のフェロモンで癒されたことを思い出したのだ。病院でも薬よりパートナーのフェロモンが効果あるから出来ればパートナーのフェロモンに触れて安定させることを勧められた。赤ちゃんの安泰のためなら、春馬のフェロモンが必要だ。避けられない現実に直面したジャンダ教授は何も言わずにドレッシングルームに入る。
ジャンダ教授は久しぶりに食欲がそそり、キッチンに立てサンドイッチを作り始める。春馬はポールと戯れていた。トマト、レタス、チキンの胸肉のステーキ、焼き玉ねぎ、目玉焼きを揃ってサンドイッチを作り置き、ケールとバナナと蜂蜜を入れてさっぱりしたケールジュスも作った。朝食が完成されてジャンダ教授は大理石のテーブルに座る。
何も言わないジャンダ教授だが、サンドイッチもジュスも二人分を作りおき、春馬はジャンダ教授の向かいの椅子に座る。サンドイッチはとても瑞々しく美味しかった。ケールジュスも健康的で甘みもあって美味しい。
満足気にかぶりつく春馬はジャンダ教授の皿には一つのサンドイッチだけなのに、自分の皿にはサンドイッチが3つもあることに気づく。ジュスコップもジャンダ教授は普通のサイズなのに、自分は超ビッグサイズのグラスにジュスがたっぷり入っていた。
ジャンダ教授の優しい気遣いで気持ちいい春馬はジャンダ教授と言葉は交わしていないけれど、一般の熟年夫婦みたいな感じがして、胸がぞくぞくしてこそばゆかった。春馬はジャンダ教授の優美な姿をただただ目に焼き付けていた。
食事を終えて二人はジャンダ教授の車に乗り、ピース大学へ車を発進させる。10分くらい走って、ピース大学の地下駐車場に着くと、不意打ちに春馬が口を開く。
「先生、俺も赤ちゃんに責任ある。一応、父ちゃんだし、何か調子悪くなったら、連絡してくれ。フェロモンで安静するのが大事だから。俺、嬉しい。赤ちゃん、綺麗な先生に似てほしいなぁ。じゃな」
春馬は太陽みたいな燦々な笑顔を見せて、車から消えて行った。ジャンダ教授はお腹の張りも胸のむかつきもなくなり、身体は楽になったが、春馬と関わってしまったことでイラっとした。でも、妊娠してから今まで、真面に食べれなかったから、今朝のサンドイッチはとても美味しく頂けた。
赤ちゃんのためにも、薬に依存せず、春馬のフェロモンで安静する必要がある。暫く悩んですすり泣いたジャンダ教授は詮方無いことだと受け入れて、トートバッグを持って運転席から出た。
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