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二章 入学旅行二日目
2-24c 切実な望み
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大人になった今も、その幼少期の悲惨な記憶は霧を苦しめる。
クズ両親のもとに生まれたという事実は、常に霧の人生に暗い影を落とし続けた。
なぜならそのクズの血が自分の体に流れ、そのクズから無理やり受け継がされた遺伝子が、自分の体に存在するからだ。鏡に映る自分の顔のパーツに、親に似ている部分を発見する度、暗鬱な気分が霧を襲う。声、仕草、苦手な食べ物、好きな食べ物、怠け者で、低能――クズ親との共通点を見つける度、自分を殺してしまいたくなる。そんな自分への嫌悪感と、いつか自分も親にそっくりなクズになるのではないかという恐怖心は、いつも霧を打ちのめす。普通の人生ですら、手が届かない。自分の存在に対する絶望感は、人生への明るい展望はもちろん、「恋愛して結婚し子供を持つ」という当たり前の選択肢すら、霧から奪った。
「まるで呪いだ……。この存在そのものが、呪い……。ああ……いっそ、生まれてこなかった方が……」
何度、そう思ったことか。
いっそ生まれてこなかった方が良かった、と。
霧は泣きながら、ストーリードームを海に向かって放り投げようとして、やめた。
(……環境破壊だな。こんなきれいな海に、ゴミを投げつけるのは)
霧は冷めた気分でそう思い、袖で涙をぬぐう。
その目に、ストーリードームの中の1シーンが映る。物語の主人公である母親の外見は、ある人物を彷彿とさせた。
(ああ……美晴先生だ……。あたしは無意識に、美晴先生をモデルにしたのか……)
霧の記憶が、再び過去を呼び戻す。
不幸中の幸いとも言うべきか。霧で一儲けしようとした父親は、変態顧客たちからより多くの金を搾り取るため、顧客たちが望んだ「本番」を引き延ばした。
その間に学童保育の美晴先生が気付いて助けてくれなければ、霧の人生は今よりも更に悲惨なものになっていただろう。
美晴先生の独断による強引な介入で、霧は悪魔の顎から救い出されたのだ。
(美晴先生……)
彼女のことを思い浮かべるだけで、霧の胸の内に明るい灯がともる。
美晴先生は子供だった霧に手を差し伸べてくれた、唯一の大人だった。
――でも、彼女はもう、どこにもいない。霧が大人になる前に、彼女は病に倒れて帰らぬ人となってしまったのだ。
(ああ……美晴先生に、会いたい……)
霧の目からあふれ出た涙が、頬を滑り、パタパタと、床に落ちてゆく。
美晴先生は、霧の記憶に唯一、明るい光を投げかける大切な思い出。
彼女が自分の母親だったなら、どんなに良かっただろう。子供だった霧はいつもそう思っていた。現実では得られなかった母親という愛に満ちた存在に、憧れていた。そして渇望するあまり、無意識にストーリードームにその姿を投影してしまったのだろう。改めて見ると、このストーリードームに登場する優しい母親は、美晴先生にそっくりだった。
そしてそれに加え、リール先生の要素がプラスされていることに、霧は気付く。
霧の憧れるもう一人の母親像。世話好きで愛情に満ちた、リール先生。ストーリードームの中の母親が辞典魔法を使って戦っているのは、リール先生の投影なのだろう。
それらに気付き、霧はやっぱりこれは捨てずに置いておこうと、手の中に包み込んだ。
そして改めて、目の前に広がる美しい景色を眺め、優しい波の音に耳を傾ける。
「ああ……本当に、美しい……この、世界は。あたしの涙なんかで、汚したくない」
そう呟きながら、霧は今この世界に立っている幸運を、噛みしめた。
生まれてこなかった方が良かった、と苦しみ、いつ終わってもよいと思いながら生きてきた霧だったが、ここにきて、欲が出てきた。
そう、このククリコ・アーキペラゴへの招待状を手にした今。
世界に歓迎され、家族として接してくれるリール先生や、リューエストからの愛を――初めての、家族からの愛を体験した今。
(あたしは、生まれてきて良かったと、思いたい……)
霧は心の底から、切実に、そう願った。
「生まれてきて良かったと、思えるようになりたい」
一語ずつ噛みしめ、その言葉を味わうように、繰り返す。
(この存在が呪いではなく、祝福だと、思えるようになりたい。生まれてきて良かったと、思えるようになりたい)
霧は諦めていた人生への希望を、ここに来て初めて、思い描いた。
満天の星が、その希望を応援するかのように、キラキラと輝いている。
霧はしばらくの間そうして景色を眺めていた。
そのうち、心が落ち着いてくると共に寒さに身を震わせた霧は、温かい部屋に入り、窓を閉めベッドに横たわった。
そして大きく息を吸いこんで吐くと、目を閉じる。
やがて慈悲深い眠りへと落ちていった霧は――知らなかった。
隣りのバルコニー、仕切り板の向こうで同じように景色を眺めていたアデルが、霧の独り言を聞いていたことを。
更に、下の階のバルコニーで、アルビレオもまた、アデルと同じように息をひそめて、霧の泣き声と独り言に、耳を傾けていたことを。
クズ両親のもとに生まれたという事実は、常に霧の人生に暗い影を落とし続けた。
なぜならそのクズの血が自分の体に流れ、そのクズから無理やり受け継がされた遺伝子が、自分の体に存在するからだ。鏡に映る自分の顔のパーツに、親に似ている部分を発見する度、暗鬱な気分が霧を襲う。声、仕草、苦手な食べ物、好きな食べ物、怠け者で、低能――クズ親との共通点を見つける度、自分を殺してしまいたくなる。そんな自分への嫌悪感と、いつか自分も親にそっくりなクズになるのではないかという恐怖心は、いつも霧を打ちのめす。普通の人生ですら、手が届かない。自分の存在に対する絶望感は、人生への明るい展望はもちろん、「恋愛して結婚し子供を持つ」という当たり前の選択肢すら、霧から奪った。
「まるで呪いだ……。この存在そのものが、呪い……。ああ……いっそ、生まれてこなかった方が……」
何度、そう思ったことか。
いっそ生まれてこなかった方が良かった、と。
霧は泣きながら、ストーリードームを海に向かって放り投げようとして、やめた。
(……環境破壊だな。こんなきれいな海に、ゴミを投げつけるのは)
霧は冷めた気分でそう思い、袖で涙をぬぐう。
その目に、ストーリードームの中の1シーンが映る。物語の主人公である母親の外見は、ある人物を彷彿とさせた。
(ああ……美晴先生だ……。あたしは無意識に、美晴先生をモデルにしたのか……)
霧の記憶が、再び過去を呼び戻す。
不幸中の幸いとも言うべきか。霧で一儲けしようとした父親は、変態顧客たちからより多くの金を搾り取るため、顧客たちが望んだ「本番」を引き延ばした。
その間に学童保育の美晴先生が気付いて助けてくれなければ、霧の人生は今よりも更に悲惨なものになっていただろう。
美晴先生の独断による強引な介入で、霧は悪魔の顎から救い出されたのだ。
(美晴先生……)
彼女のことを思い浮かべるだけで、霧の胸の内に明るい灯がともる。
美晴先生は子供だった霧に手を差し伸べてくれた、唯一の大人だった。
――でも、彼女はもう、どこにもいない。霧が大人になる前に、彼女は病に倒れて帰らぬ人となってしまったのだ。
(ああ……美晴先生に、会いたい……)
霧の目からあふれ出た涙が、頬を滑り、パタパタと、床に落ちてゆく。
美晴先生は、霧の記憶に唯一、明るい光を投げかける大切な思い出。
彼女が自分の母親だったなら、どんなに良かっただろう。子供だった霧はいつもそう思っていた。現実では得られなかった母親という愛に満ちた存在に、憧れていた。そして渇望するあまり、無意識にストーリードームにその姿を投影してしまったのだろう。改めて見ると、このストーリードームに登場する優しい母親は、美晴先生にそっくりだった。
そしてそれに加え、リール先生の要素がプラスされていることに、霧は気付く。
霧の憧れるもう一人の母親像。世話好きで愛情に満ちた、リール先生。ストーリードームの中の母親が辞典魔法を使って戦っているのは、リール先生の投影なのだろう。
それらに気付き、霧はやっぱりこれは捨てずに置いておこうと、手の中に包み込んだ。
そして改めて、目の前に広がる美しい景色を眺め、優しい波の音に耳を傾ける。
「ああ……本当に、美しい……この、世界は。あたしの涙なんかで、汚したくない」
そう呟きながら、霧は今この世界に立っている幸運を、噛みしめた。
生まれてこなかった方が良かった、と苦しみ、いつ終わってもよいと思いながら生きてきた霧だったが、ここにきて、欲が出てきた。
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