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二章 入学旅行二日目
2-14b アデル、キリの癒術に父親の面影を重ねる 2
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キリは、ギュッと拳を握り締め、泣いている男の子を悲痛な目で眺めている。その表情を見て、アデルは驚いた。
いつもふざけた調子で冗談ばかり言っている、大人なのか子供なのか分からない、変わり者のダリアの一族――アデルが思うキリはそんな人物だったが、目の前の彼女は、今までとは別人のようだった。
ひどく青ざめたその顔には、泣き叫ぶ男の子と同じ苦痛を味わっているかのような、沈痛な表情が浮かんでいる。そしてその黒い瞳には、憎しみと怒りが入り混じったような暗い炎が揺らめき、わななく唇は、何かに耐えるようにきつく引き結ばれていた。
キリの異変は、それだけではない。
アデルはごくりと喉を鳴らし、緊張した。
少しでもキリに触れれば、彼女の感情の発露に巻き込まれ切り裂かれてしまうのではと思うほどの、そんな不穏な空気を、キリは纏っていたのだ。
アデルは動くことができず、キリにかけようとしていた声を呑み込むしかなかった。
そうしてアデルが戸惑っていると、キリは突然『辞典』を開き、いきなり男の子のそばにしゃがみ込んだ。
アデルは呪縛から解かれたように身じろぎし、やっと声が出せるようになるや、キリに問いかける。
「キリ、何をするつもりなの?」
キリはアデルを見ると、「チェカみたいにできるかわからないけど……やってみる」と静かに言って、薄く微笑んだ。
そうして息を吸い込むと、キリは言葉を紡ぎ出す。
「大地よ、豊かな恵みでこの子の体を癒し、育め」
キリのその言葉に呼応して、『辞典』から湧き出すように、大地の言獣が現れた。その土色のゴツゴツした体から、温かい息吹があふれ出し、男の子の体に活力を注ぎ込んでゆく。その熱は対流を呼び、部屋中を巡り、心地よい空気で部屋を満たしていった。
アデルを始め、その場にいた誰もが、驚いた。
キリが唱えたのは癒術と言われる辞典魔法で、対象者の心身を速やかに治療し、健全な状態へと導くものだ。
その効果は、通常の医療よりも遥かに高い。
そして今キリの『辞典』から呼び出した大地の言獣は、いわゆる自然現象系言獣と言われる類。
癒術の中でも自然現象系言獣を使う魔法は、とても難易度が高く、この魔法を完璧に唱えることができる者は、正規の辞典魔法士や癒術士の中でも少数しかいない。
キリはそれほど高度な辞典魔法を、まさに今、実行しているのだ。
アデルは心底、驚いた。
体が震え、心臓が高鳴る。
(え……嘘でしょ、キリ、スピリッツを呼び出してる! お父さんがやってたのと、同じ! 癒術の中でもめちゃくちゃ高度なやつ! 信じられない!)
通常、辞典魔法は『辞典』を開いたときに現れる立体ホログラムに、『辞典』から選出した言葉を入れ込んで完成させるが、スピリッツを呼び出したときは、その作業をすべて省略することができる。スピリッツたちはとても賢く、主の紡いだ言葉を理解し、的確な魔法を編み出してくれるのだ。
便利な反面、スピリッツたちは大変気難しいので、制御が難しい。
しかしキリの『辞典』から現れたスピリッツたちは、とても素直にキリに従っていて、アデルもリリエンヌも更に驚いた。老夫婦もまた、珍しいスピリッツによる癒術に見入っている。
みなが息を呑んで見守る中、キリは辞典魔法を続けた。
「水よ、世界に満ちるあらゆる善きことで、この子の心を潤せ」
水を司るスピリッツが現れ、泣いていた男の子を優しく包み、安らぎを与える。その途端、男の子は、ピタリと泣きやんだ。
キリは続けた。
「風よ、この子の耳を、父親の罵詈雑言が届かぬよう守れ。願わくばこの子が大人になるまで、ずっと」
今やすっかり笑顔となった子供の周りを、軽やかな風のスピリッツが飛び回り、子供の耳にフゥッと守りの魔法を吹きかける。男の子はくすぐったいと、クスクス笑っている。
「火よ、漲る強い意志で、あらゆる逆境を超える力をこの子に与えよ」
揺らめく炎の形をした火のスピリッツが、男の子の精神に働きかけると、男の子の目に力強い輝きが灯った。
男の子はすっかり落ち着きを取り戻し、キリを見つめながら屈託のない微笑みを浮かべた。男の子の『辞典妖精』が嬉しそうにスピリッツたちと戯れ、何かを男の子の耳に告げる。男の子は頷くと、キリに言った。
「ありがとう、おばちゃん。僕はもう、すっかりいい気分になったよ。うん、僕、信じるよ。きっとお母さんは、もうすぐ目を覚ます。そうしたら、僕、お母さんによくがんばったね、って言ってあげるんだ。そして僕は、強くなってお母さんを守れるように、これからいっぱいいっぱいがんばるんだ」
男の子の健気な言葉に、キリの目が優しく細められる。キリは魔法を維持しながら、男の子に言った。
「うん。でも、無理するほどがんばらなくていいぞ? みんなが助けてくれるから。それに、泣きたいときは、泣いていい。あたしぐらい大人になったって、泣いちゃうことはいっぱいあるんだから、小さな君は、いくらでも泣いていいんだ。あと、あたしはおばちゃんじゃなくて、こう見えておねえちゃんだ、な?」
それだけは訂正してもらう、とばかりに付け加えられたキリの最後のセリフに、見ていた面々がクスリと微苦笑する。
「うん、わかった、おねえちゃん!」
元気よくそう言って、男の子はにっこり笑った。
キリは男の子に頷くと、最後に、癒術の中で最も難しく、最も強い効果を及ぼす光のスピリッツを呼び出した。
途端に、辺りが燦然と輝きだす。
いつもふざけた調子で冗談ばかり言っている、大人なのか子供なのか分からない、変わり者のダリアの一族――アデルが思うキリはそんな人物だったが、目の前の彼女は、今までとは別人のようだった。
ひどく青ざめたその顔には、泣き叫ぶ男の子と同じ苦痛を味わっているかのような、沈痛な表情が浮かんでいる。そしてその黒い瞳には、憎しみと怒りが入り混じったような暗い炎が揺らめき、わななく唇は、何かに耐えるようにきつく引き結ばれていた。
キリの異変は、それだけではない。
アデルはごくりと喉を鳴らし、緊張した。
少しでもキリに触れれば、彼女の感情の発露に巻き込まれ切り裂かれてしまうのではと思うほどの、そんな不穏な空気を、キリは纏っていたのだ。
アデルは動くことができず、キリにかけようとしていた声を呑み込むしかなかった。
そうしてアデルが戸惑っていると、キリは突然『辞典』を開き、いきなり男の子のそばにしゃがみ込んだ。
アデルは呪縛から解かれたように身じろぎし、やっと声が出せるようになるや、キリに問いかける。
「キリ、何をするつもりなの?」
キリはアデルを見ると、「チェカみたいにできるかわからないけど……やってみる」と静かに言って、薄く微笑んだ。
そうして息を吸い込むと、キリは言葉を紡ぎ出す。
「大地よ、豊かな恵みでこの子の体を癒し、育め」
キリのその言葉に呼応して、『辞典』から湧き出すように、大地の言獣が現れた。その土色のゴツゴツした体から、温かい息吹があふれ出し、男の子の体に活力を注ぎ込んでゆく。その熱は対流を呼び、部屋中を巡り、心地よい空気で部屋を満たしていった。
アデルを始め、その場にいた誰もが、驚いた。
キリが唱えたのは癒術と言われる辞典魔法で、対象者の心身を速やかに治療し、健全な状態へと導くものだ。
その効果は、通常の医療よりも遥かに高い。
そして今キリの『辞典』から呼び出した大地の言獣は、いわゆる自然現象系言獣と言われる類。
癒術の中でも自然現象系言獣を使う魔法は、とても難易度が高く、この魔法を完璧に唱えることができる者は、正規の辞典魔法士や癒術士の中でも少数しかいない。
キリはそれほど高度な辞典魔法を、まさに今、実行しているのだ。
アデルは心底、驚いた。
体が震え、心臓が高鳴る。
(え……嘘でしょ、キリ、スピリッツを呼び出してる! お父さんがやってたのと、同じ! 癒術の中でもめちゃくちゃ高度なやつ! 信じられない!)
通常、辞典魔法は『辞典』を開いたときに現れる立体ホログラムに、『辞典』から選出した言葉を入れ込んで完成させるが、スピリッツを呼び出したときは、その作業をすべて省略することができる。スピリッツたちはとても賢く、主の紡いだ言葉を理解し、的確な魔法を編み出してくれるのだ。
便利な反面、スピリッツたちは大変気難しいので、制御が難しい。
しかしキリの『辞典』から現れたスピリッツたちは、とても素直にキリに従っていて、アデルもリリエンヌも更に驚いた。老夫婦もまた、珍しいスピリッツによる癒術に見入っている。
みなが息を呑んで見守る中、キリは辞典魔法を続けた。
「水よ、世界に満ちるあらゆる善きことで、この子の心を潤せ」
水を司るスピリッツが現れ、泣いていた男の子を優しく包み、安らぎを与える。その途端、男の子は、ピタリと泣きやんだ。
キリは続けた。
「風よ、この子の耳を、父親の罵詈雑言が届かぬよう守れ。願わくばこの子が大人になるまで、ずっと」
今やすっかり笑顔となった子供の周りを、軽やかな風のスピリッツが飛び回り、子供の耳にフゥッと守りの魔法を吹きかける。男の子はくすぐったいと、クスクス笑っている。
「火よ、漲る強い意志で、あらゆる逆境を超える力をこの子に与えよ」
揺らめく炎の形をした火のスピリッツが、男の子の精神に働きかけると、男の子の目に力強い輝きが灯った。
男の子はすっかり落ち着きを取り戻し、キリを見つめながら屈託のない微笑みを浮かべた。男の子の『辞典妖精』が嬉しそうにスピリッツたちと戯れ、何かを男の子の耳に告げる。男の子は頷くと、キリに言った。
「ありがとう、おばちゃん。僕はもう、すっかりいい気分になったよ。うん、僕、信じるよ。きっとお母さんは、もうすぐ目を覚ます。そうしたら、僕、お母さんによくがんばったね、って言ってあげるんだ。そして僕は、強くなってお母さんを守れるように、これからいっぱいいっぱいがんばるんだ」
男の子の健気な言葉に、キリの目が優しく細められる。キリは魔法を維持しながら、男の子に言った。
「うん。でも、無理するほどがんばらなくていいぞ? みんなが助けてくれるから。それに、泣きたいときは、泣いていい。あたしぐらい大人になったって、泣いちゃうことはいっぱいあるんだから、小さな君は、いくらでも泣いていいんだ。あと、あたしはおばちゃんじゃなくて、こう見えておねえちゃんだ、な?」
それだけは訂正してもらう、とばかりに付け加えられたキリの最後のセリフに、見ていた面々がクスリと微苦笑する。
「うん、わかった、おねえちゃん!」
元気よくそう言って、男の子はにっこり笑った。
キリは男の子に頷くと、最後に、癒術の中で最も難しく、最も強い効果を及ぼす光のスピリッツを呼び出した。
途端に、辺りが燦然と輝きだす。
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