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1章
3. クローゼットの先には
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前世のローズは、それはもう、今とはまるで違う存在だった。
日本、という国に生まれた「木下蕾」という名前の女。
絶望的なほど容姿に恵まれなかった上、グズでのろまという非常に残念な女。
醜い上に愚鈍な子供が、同じ年頃の子からどういう扱いを受けるかは、明白だ。
特に男子は酷かった。蕾に向かって聞くに堪えない罵声を何度も浴びせた。目が合えば「目が腐る」、ぶつかれば「バカがうつる」。掃除中にゴミ箱の中身をぶちまけられ、机に花瓶を置かれた。――蕾は何一つ、悪いことはしていないのに。醜く愚鈍ということは、これほどの仕打ちを受けるほど、罪なのか。理不尽な扱いに、蕾は徐々に他人に対して心を閉ざしていった。もちろん、友達など作れるはずもないし、男性恐怖症になったのは言うまでもない。
小学校時代も、中学生時代も、さんざんだった。
無機質なコンクリートで囲われた、無慈悲な牢獄――彼女にとって、学校とはそういう場所だった。
息をひそめ、一日を無事にやり過ごすことだけをひたすら祈って過ごした日々。
やがて高校を卒業し、経済的な事情で進学をあきらめた蕾は、地元の機械製品を扱う工場にフルタイムのパートとして就職した。本当は正社員の職が欲しかったが、何社受けても彼女を雇ってくれる会社はなかったのだ。
その工場で彼女は修道女のようにひっそりと、淡々と時間をやり過ごした。
青春など望むべくもなく。同じ年頃の女の子が経験するような恋愛は、蕾にとって遥か遠く手の届かない贅沢品だった。
どんなにか、憧れただろう。
どれほど、渇望しただろう。
――私だって、おしゃれして誰か素敵な人とデートしてみたい。
何度そう思ったか知れない。
現実世界で実現不可能な願望を、蕾は仮想世界の中に求めた。
ゲームの世界は、とても心地よかった。誰も蕾を傷つけない。クリアできるように作られているから、必ず報われる。
たくさんの乙女ゲームの中でも、特に「野ばらのクローゼット~運命の貴公子とワルツを」――略して「ばらクロワルツ」はお気に入りだった。
美しいドレスがたくさん登場し、好きなように着せ替えて楽しめる。たっぷりのフリルとたくさんのリボン、赤にピンクに純白――リアルでは絶対に似合わないし、ましてや着る機会もない豪華なドレスを、自分の分身として操作する可愛いヒロインに着せるのは、とても楽しく心が躍った。
ローズとして転生し、魔女ヴァネッサに出会ってから、ぼんやりしていた前世の記憶は次第にはっきりと浮かび上がってくるようになった。
バラバラだった記憶は時系列にそって組みたてられ、ローズは自分の前世がどんなに惨めな存在だったかを、克明に思い出した。
だからこそ――ローズは裕福な貴族の美しい令嬢に生まれ変わったことに、歓喜した。しかも富と美貌だけでなく、優秀な頭脳まで具わっていた。ローズは記憶力に優れ、一度学習した内容はすぐに覚えることが可能で、しかも忘れない。前世の「蕾」とは大違いだ。「蕾」は、どんなに努力しても覚えたことをすぐにボロボロ忘れていった。「私の脳みそはザル仕様に違いない。何もとどめておくはできなんだ」とまで思ったほどだ。
最高の器に生まれ変わった自分に、ローズはどれほど神に感謝したことか。
今度は幸せになれる、そう思った。
「それなのに……。それなのに、どうして悪役令嬢なの?!」
ローズは両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。
ここが「ばらクロワルツ」の世界なら、ローズは間違いなく破滅への道をたどるだろう。この世界は、ヒロインであるシャーロットを幸福に導くために用意された世界なのだから。つまりローズは、どう足掻いても幸せにはなれない。
「そんなの嫌!嫌!嫌ぁっ!!」
絶望感が胸を浸食してゆく中、ひとつだけ希望の明かりが灯っていることに気が付いた。
『何か困ったことがあれば、いつでも訪ねておいで。お嬢ちゃんには特別にいつでも会ってあげよう。何といっても、面白いからね』
そう言ってククク、ヒャヒャヒャと笑った魔女ヴァネッサ。
「ヴァネッサ……そうだ、彼女に会いに行こう。何か助言をしてくれるかもしれない」
ヴァネッサは「蝶の森への道を作っておいてあげる」と言って、ローズのクローゼットの一つに魔法をかけた。
ローズは涙を拭うと、そのクローゼットの前に立った。
そして取っ手に手をかけると魔女に教わった通り「魔女ヴァネッサの元に続く道を開いて!」と叫び、扉を開ける。
「!!」
クローゼットの中にあるドレスの隙間から、光が零れている。ドレスを掻き分けてその向こうを覗き込むと、蝶の飛び交う森がそこにあった。
「あ……なんか、見たことある、これ。前世で見た映画化されたハイファンタジーで、こういうの、あった。クローゼットの先が別の場所に繋がっているってやつ……」
ローズはそう呟いて、クローゼットの中に足を踏み入れた。さっきまで沈み込んでいた心が、少し浮上する。あの物語は、前世で大好きだった。ワクワクしてきた。
『この宇宙には無数に異なった世界が存在して、互いに影響し合っている』――魔女は確か、そう言っていた。クローゼットが別の場所にリンクしている現象も、その結果なのだろうか?
クローゼットの中をくぐり抜けると、蝶の舞う幻想的な美しい森が広がっていた。
その美しさを見てローズは少し元気になり、この先に希望が示されることを期待して歩みを進めた。
日本、という国に生まれた「木下蕾」という名前の女。
絶望的なほど容姿に恵まれなかった上、グズでのろまという非常に残念な女。
醜い上に愚鈍な子供が、同じ年頃の子からどういう扱いを受けるかは、明白だ。
特に男子は酷かった。蕾に向かって聞くに堪えない罵声を何度も浴びせた。目が合えば「目が腐る」、ぶつかれば「バカがうつる」。掃除中にゴミ箱の中身をぶちまけられ、机に花瓶を置かれた。――蕾は何一つ、悪いことはしていないのに。醜く愚鈍ということは、これほどの仕打ちを受けるほど、罪なのか。理不尽な扱いに、蕾は徐々に他人に対して心を閉ざしていった。もちろん、友達など作れるはずもないし、男性恐怖症になったのは言うまでもない。
小学校時代も、中学生時代も、さんざんだった。
無機質なコンクリートで囲われた、無慈悲な牢獄――彼女にとって、学校とはそういう場所だった。
息をひそめ、一日を無事にやり過ごすことだけをひたすら祈って過ごした日々。
やがて高校を卒業し、経済的な事情で進学をあきらめた蕾は、地元の機械製品を扱う工場にフルタイムのパートとして就職した。本当は正社員の職が欲しかったが、何社受けても彼女を雇ってくれる会社はなかったのだ。
その工場で彼女は修道女のようにひっそりと、淡々と時間をやり過ごした。
青春など望むべくもなく。同じ年頃の女の子が経験するような恋愛は、蕾にとって遥か遠く手の届かない贅沢品だった。
どんなにか、憧れただろう。
どれほど、渇望しただろう。
――私だって、おしゃれして誰か素敵な人とデートしてみたい。
何度そう思ったか知れない。
現実世界で実現不可能な願望を、蕾は仮想世界の中に求めた。
ゲームの世界は、とても心地よかった。誰も蕾を傷つけない。クリアできるように作られているから、必ず報われる。
たくさんの乙女ゲームの中でも、特に「野ばらのクローゼット~運命の貴公子とワルツを」――略して「ばらクロワルツ」はお気に入りだった。
美しいドレスがたくさん登場し、好きなように着せ替えて楽しめる。たっぷりのフリルとたくさんのリボン、赤にピンクに純白――リアルでは絶対に似合わないし、ましてや着る機会もない豪華なドレスを、自分の分身として操作する可愛いヒロインに着せるのは、とても楽しく心が躍った。
ローズとして転生し、魔女ヴァネッサに出会ってから、ぼんやりしていた前世の記憶は次第にはっきりと浮かび上がってくるようになった。
バラバラだった記憶は時系列にそって組みたてられ、ローズは自分の前世がどんなに惨めな存在だったかを、克明に思い出した。
だからこそ――ローズは裕福な貴族の美しい令嬢に生まれ変わったことに、歓喜した。しかも富と美貌だけでなく、優秀な頭脳まで具わっていた。ローズは記憶力に優れ、一度学習した内容はすぐに覚えることが可能で、しかも忘れない。前世の「蕾」とは大違いだ。「蕾」は、どんなに努力しても覚えたことをすぐにボロボロ忘れていった。「私の脳みそはザル仕様に違いない。何もとどめておくはできなんだ」とまで思ったほどだ。
最高の器に生まれ変わった自分に、ローズはどれほど神に感謝したことか。
今度は幸せになれる、そう思った。
「それなのに……。それなのに、どうして悪役令嬢なの?!」
ローズは両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。
ここが「ばらクロワルツ」の世界なら、ローズは間違いなく破滅への道をたどるだろう。この世界は、ヒロインであるシャーロットを幸福に導くために用意された世界なのだから。つまりローズは、どう足掻いても幸せにはなれない。
「そんなの嫌!嫌!嫌ぁっ!!」
絶望感が胸を浸食してゆく中、ひとつだけ希望の明かりが灯っていることに気が付いた。
『何か困ったことがあれば、いつでも訪ねておいで。お嬢ちゃんには特別にいつでも会ってあげよう。何といっても、面白いからね』
そう言ってククク、ヒャヒャヒャと笑った魔女ヴァネッサ。
「ヴァネッサ……そうだ、彼女に会いに行こう。何か助言をしてくれるかもしれない」
ヴァネッサは「蝶の森への道を作っておいてあげる」と言って、ローズのクローゼットの一つに魔法をかけた。
ローズは涙を拭うと、そのクローゼットの前に立った。
そして取っ手に手をかけると魔女に教わった通り「魔女ヴァネッサの元に続く道を開いて!」と叫び、扉を開ける。
「!!」
クローゼットの中にあるドレスの隙間から、光が零れている。ドレスを掻き分けてその向こうを覗き込むと、蝶の飛び交う森がそこにあった。
「あ……なんか、見たことある、これ。前世で見た映画化されたハイファンタジーで、こういうの、あった。クローゼットの先が別の場所に繋がっているってやつ……」
ローズはそう呟いて、クローゼットの中に足を踏み入れた。さっきまで沈み込んでいた心が、少し浮上する。あの物語は、前世で大好きだった。ワクワクしてきた。
『この宇宙には無数に異なった世界が存在して、互いに影響し合っている』――魔女は確か、そう言っていた。クローゼットが別の場所にリンクしている現象も、その結果なのだろうか?
クローゼットの中をくぐり抜けると、蝶の舞う幻想的な美しい森が広がっていた。
その美しさを見てローズは少し元気になり、この先に希望が示されることを期待して歩みを進めた。
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