喪家の狼

直射日光

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第二話

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 先代・武帝。真の名を張傑という。

 猛爾元――当時はナツァグドルジ、或いはドルジと呼ばれていた――が時の人である武帝と出会ったのは、彼がまだ少年の頃だった。

 最初は反逆から始まった。




 ドルジの出身は曄国の東北を支配する東方三民族と呼ばれた三つの部族のうち『ビュレ』を自称する部族である。ビュレは三民族を束ねて他の二族――即ちトゥルケとヨルワスを従え、曄の国境付近で活動していた。

 曄は侵略と呼んだ。
 事実、ビュレたちは曄の国境周辺の家畜や人民を攫ったり、農作物を奪ったりと掠奪を繰り返していた。

 寒冷な辺境の土地は湿潤な曄の華南平原に比べ生活が厳しい。一定の家畜と農作物を常時確保しておらなければ、部族もろとも滅亡の淵に立たされる。
 三部族は多く半農半牧だが、勤勉に働いても旱や冷害により家畜は死に、作物は実を結ばない。彼らの生活は自然に内包されており、自然は人知を超えた者の手でなければ操れぬ。
 神々や精霊の御心次第で今日明日の生死を左右されるというのに、曄による支配の拡大で旧来三部族が遊牧していた牧草地が縮小。これが曄への掠奪をより激しいものにした一因だった。

 時の王・武帝は諡号からも分かるように、在位中は武によって辺境を制圧し、領土拡大に意欲的だった。武勇は天涯の下隅々まで響き渡ると謳われている。
 彼は北方の遊牧民族たちを表面上の兄弟の契りによって支配下に置き、朝貢を条件に自治を認め、道を切り開いて石畳を敷き、曄との交易を奨励し、盛んに関市をたてた。

 曄は豊富で多様な物資――そこには曄で作られたものもあれば、遠く南方や西方からの舶来品も多くあった――を見せつけることで遊牧民族たちの興味や感動を掻き立て、敵対心や反骨心を懐柔した。あくまで友好的に接し、対等の立場で交渉ができたとそれぞれの胸で反芻できるように仕向けたのだった。遊牧民たちがいかに辺境の蛮族であると見下していることなど露とも見せずに。豊富な物資につられ、靡く部族は多かった。不必要なものこそが豊の証しである、と。

 しかし、だからといってすべての部族が曄に膝を折るわけではなかった。東方三民族、とりわけビュレがその一つだった。

 ある時、武帝はビュレが度々侵略してくる国境付近の砦に数万の家畜を放った。
 おびき出されていることは明白であったが、斯様な千載一遇の機会をみすみす見逃すはずはない。夏にひでりで多くの家畜が死んでしまったため、一族を養うため背に腹はかえられなかったのだ。
 だが、当時の長であったドルジの祖父をはじめ、百を超える男衆が家畜を捕まえようとする隙をつかれ、何百、何千と放たれた弓矢に討ち取られた。矢は豪雨のようだったという。遺体には無数の穴が開き、無残な姿のものが少なくなかった。

 武帝にはもはや懐柔の意思はなかった。ただ、まつろわぬ者がおれば消すのみ、と。
 これまでも武帝の仕打ちに対する遊牧民たちの不平不満はよく耳にしていたが、ドルジが彼個人に明確な憎悪を抱いたのはこれが初めてだった。

 ドルジの祖父の弔い合戦が起こったのはすぐだった。
 卑怯な手により弑されたとして、東方三民族が結束した。掠奪の一軍に参加するよりも早く、ドルジの初いくさとなった。
 突然の侵攻に曄は手も足も出ないだろう。何せ戦の準備などしていないのだから。
 そう甘く見積もっていた時点で三部族の敗北は決していた。曄は三部族が打って出てくるのを待ちかまえていたのである。東方三民族の一万六千騎を遥か上回る三万騎を、まつろわぬ遊牧民族を掃討する為に充ててきたのだ。

 齢十二だったドルジは、総大将である父に随従したが、ビュレ軍を覆いかぶすような曄の軍勢に体が強張ったのを深く記憶している。山津波に呑み込まれるようだった。
 『弓の神童』と誉れ高く渾名されていた力の片鱗を遂ぞ披露せぬまま、父の討死をきっかけに戦況は悲劇的に壊滅した。そして、同盟を結んだトゥルケ・ヨルワスが降伏したことにより東方三民族は完全に瓦解した。




 首謀者はドルジの父・オュントゥルフールとされた。

 実際は三部族それぞれの長の合意の元、それぞれの酋長がそれぞれ総大将を担っていたが、総指揮官は三部族を常時まとめ上げているビュレの長とされたのだった。

 乱ののち、トゥルケ・ヨルワスは即座に恭順を申し出、長一族の男の首と女の体を引き換えに曄の傘下に入ることを許された。ただし、反乱を起こしたゆえに自治は認められず、男は炭坑と陵墓造営の労役に取られ、女子供や老人も故郷に帰るまでにほとんど離散の憂き目にあった。

 ビュレの残党は曄の都・凰都の牢へ送られ、王宮前の広場で公開処刑を待った。
 ビュレは一族を誅す触れが出た。郷里では処刑人が派遣され、女子供に至るまで悉く処刑され、草原に累々と積みあがる遺体はまるで石積みオボーのようだったと衛兵が嗤う。仮にいち早く逃げた者も、見つかればたたでおかれるはずはなかった。

 ドルジは牢の中で次々に広場に連れ行かれる仲間を見送った。痛みに対する恐れはなかった。ドルジは若輩ながら弓の名手であり、伝説にあやかり『メルゲン』の誉れ名を頂く戦士だからだ。かといって、敗戦の徒の運命さだめと諦めたり、死して精霊の仲間となり残った者たちの支えとなるなどと達観したりはできなかった。

 ドルジの身の内側には未だ憎悪の炎が絶えず火花を散らしてめらめらと燃え盛っていた。
 死を前にして、炎の長い舌はより一層延び、彼の心臓を包み込み、魂を邪悪な精霊に堕落させそうなほど勢いを増していた。
 祖父の無念、父の無念、仲間の無念が彼を憑代に憎しみの炎を燃え盛らせていた。
 最後の一人になって、彼は牢の外に連れ出された。一矢報いる最期の名案は後ろ手に手錠を挟まれては思い付くはずもなかった。深き恨みが念となり、武帝、ひいては曄の呪詛になるだろうか。きつく奥歯を噛み、歩みの一歩一歩に呪いをこめるドルジだったが、どういうわけか、その道の先は処刑場ではなかった。

 長い回廊を経て待っていたのは燦然と輝く豪奢な王座に座る青年だった。






――髪の色が気に入った。

 そう笑った頬のうちに秘めているのは明らかに嘲りだった。

「輝く灰の髪。狼のようではないか。そういえば貴様らはその獣を守護神と崇めていたな。さもありなん」

 お前のほうがよっぽど獣ではないか。ドルジは奥歯を噛んだ。王・張傑が唇の端をつり上げたよう思えたのが腹立たしかった。
 壇下で衛兵に力づくで跪かされたドルジには、はじめ王座と王の足しか見ることができなかった。
 頭を押さえつけられた狭い視野に飛び込んできたのは、昇り龍の彫金に様々な貴石がはめ込まれた脚の王座と、その上で組まれた傑の足のみだ。王の全貌を見ることがかなったのは、数度目に叩頭の礼を拒否して衛兵に暴力を振るわれた時だった。
 不敬のかどで顔を殴られ、仰向けになったドルジの青い目に映ったのは山犬のように毛を逆立てた一人の男だった。

 およそ「王」と聞いて想像するよりは若く、まだ弱冠をすぎたばかりの青年と思われた。
 逆立つ黒髪を乱暴に纏めて、王座に肘をつき、足を組んでいる。
 纏めているのに四方に散った髪がまるで棘のようであり、獣のようでもある印象を受けるが、顔の部位のひとつひとつは端正であり、歴代王が美女を囲い、子を産ませてきた歴史が窺えた。
 金銀の糸を刺繍した煌びやかな服も決して御仕着せられたように不釣り合いではない。ただ、王自身の持つ性質――暴力的ともとれる気風が、貴族然とした慎み深さや華やかさに有り余って、血や肉のかおりを放っていた。
 射るような視線、とはよく言うが、彼の場合はそんなものではなかった。見ることで相手のみぞおちを抉るようだった。
 ドルジは炎のような性質の持ち主だ、と思った。
 故郷の古老がいにしえの神の話に、火の山より生まれいでし溶岩色の山犬がいると話していた。まるでその悪魔の獣が具現したかのようだ。

「灰色を貴様らは『蒼』と呼ぶそうだが、余の国では『蒼』には天という意味がある」

 傑はドルジを壇上から見下ろす。
 王座を立ち、ゆっくりとした足取りで階を降り、腰に佩いた宝剣を抜く。吸い込まれるような湖面の色をした刃がドルジの褐色の頬に触れた。炎の性質の者が持つ剣は、反対に恐ろしく冷たい。

「天の命は余の手中ということだ」
「俺の仲間にしたように、その汚れた刃で殺せばいい」

 ドルジは唾棄した。彼を押さえつける兵とは別の男がドルジを蹴った。傑は相変わらず口の端をつり上げたままだった。

「好い」

 傑は宝剣の切っ先を頭上にあげ、素早く振り下ろす。死んで視界が途切れるその時まで、決して王から目を離してなるものか。邪視の呪いにかかるが良い。
 そう思って睨みつけた傑の剣は、しかし、ドルジの額の前でぴたと止まり、眉間までたった一分を縦に切っただけであった。

「北狼部族長オュントゥルフールの嫡子、ボルジギン・オュントゥルフール・ナツァグドルジ」
 王は命じた。
「余の禁軍に入れ」

 馬鹿なことを。何故王を殺したいと願う者を王の宿衛に取り立てるのか。反論の声さえ上がらぬが、整列した兵や文官たちが色めき立つようすが床に伏せたドルジにも手に取るように分かった。
 ドルジは答えなかった。傑を睨み付けることで抵抗の意思とした。

「王、恐れながら奏上いたします」
「何だ」
 高位の文官と思しき官服の男が叩頭する。
「我が曄の禁軍が上層二等戸以上の家柄の者を選別することと国家大綱に――」
「余に反論するか」
「いえ、そういうわけではございませんが、禁軍に純血の戎(じゅう)が入ったとなれば貴族たちの反発は――」
 免れない、という前に、傑は一歩踏み込んで宝剣を凪いだ。
「ひぃっ!」

 よもや、文官を切り殺したか。
 ドルジはぞっと額に汗をかいたが、宝剣は絹を裂いたのみであった。
 殺してしまっては、後に代わる人材に困るためか、力で制するも、少なくともそういった考えはできるらしい。

「余が天子である! 即ち、余が大綱である!」
 傑の怒号に王の間にいたすべての武官、文官が膝をついた。
「この蒼穹刀は神の意志を示すもの。むやみに人民の血で穢されるものではない。余にこれ以上剣を振るわすつもりか」

 これ以上反論する者はいなかった。

「ナツァグドルジ。貴様に戯れを許そう。禁軍に入り、好きな時に余の寝首をかきに来るが良いわ」

 ドルジは禁軍に配属された。王直属の中央軍である。
 皮肉な運命だった。
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