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第一話
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宝鈷杜。曄朝末期の武将。北狼部族の人。渾名は猛爾元。妻は文玲公主。子は宝剛。色黒く身長高い。姿貌の持ち主。十三代孝武皇帝に仕え、北方の領土拡大政策に従軍した。武帝の死後、孝平皇帝に仕えたが、東方三部族に従軍した白鷹族の阿尓頓に捕えられ刑死。
――『曄書』列伝 巻七十五
*
草が燃えている。
城堡の朱塗りの蔀戸から曄国大将軍・猛爾元は城下を眺める。祭り騒ぎに似た喧噪の中、赤い❝草❞が城下の石畳を駆け抜ける。舞い上がっては消え、再びえにしを結んで首都・凰都の空を赤々と染め上げていく。
――何という赤焼けの空か。
猛爾元は真っ赤に燃え上がった空に息をのんだ。
秋の高い空を眇める。このように見事な朱に染まった夕焼けは、かつて少年だった時代に故郷近くのフフ草原で見て以来久方ぶりのことだ。
凰都に住んで数十年、美しい夕焼けは何度も首都の空に錦を広げたが、命を燃やすような朱は初めてだ。両翼に伸びた巻雲がさながら鳳凰の如き様相で、風に乗っては翼の形を変えて羽ばたき、薄く残った筋雲が生命の軌跡として輝いているようだった。
しかし、鳳凰の運気は曄を見限り、今まさに城下を燃やす草の追い風となっている。
――何故このようになってしまったのか。
猛爾元は夕焼け空から目を背け、石畳の敷かれた王の間を一瞥する。まだ十ばかりの小さな少年がその身に釣り合わぬ冕冠を被り玉座に在る。
「猛爾元、城下はどうだ」
少年が小声で尋ねた。
「火の手が上がり、賊が民を巻き込んで乱戦となっているようです」
猛爾元は略礼をとって城堡から見てとった戦況を述べる。
「我々の戦況は?」
「芳しくなく」
「そうか」
偽りのない報告に少年は拳を強く握りしめた。
王・張祐。後に諡号によって平帝と名を残す。先代武帝の死後に勃発した王位継承の争いののち、運命的に掌に天命を押し付けられた少年。第四妃の子で母子共々王位に興味がなかった――というのが猛爾元の印象だった。
先王の在位中より王位継承の争いの渦中におらず、ひっそりと室に籠っては琴を弾き、書に耽る物静かな君子で、様々な因果ののち、皮肉にも望みであった平穏とは正反対の望まぬ王座に座ることとなった。
帝王学を学んだことのない祐は、故に執政の力も無ければ、気力も無かった。最初こそ書物で得た知をもとに政に挑んだが、すぐに権力と財に堕落した官吏と外戚によって嫩い芽を摘み取られてしまった。
虹色に輝いた瞳は今や曇天の如く濁り、いつも大雨に濡れて凍えたような顔つきをしていた。彼はもはや玉座に飾られている傀儡人形だった。
祐に能力がない。故に、事は急速に成っていった――と、そう単純なことではなかった。
もとより、先王・武帝の時代に既に官吏がまつりごとを掌握してしまっていたのだ。否、武帝時代の官吏の為だけではない。武帝自身にも咎があり、猛爾元は傍らに立ちながら止めることができなかった。
(なるべくしてなったのだ)
それは、武力の研鑽のみを励み、政の世界を門外漢として遠ざけてきた己の咎でもあった。事実、武帝を諌めても、官吏や外戚を諌めても、猛爾元の言葉には力がなかった。彼にできたのはただ武帝を宥めるのみで、戦や戦支度においては重用された猛爾元も、政においては下官に及ばなかった。猛爾元の力は騎馬と武器を以て行動を捩じ伏せるのみであり、政治的、精神的には何者の心を動かすことができなければ、自由を封ずることもできなかった。
曄国の綻びは真夏の強い陽の光に似た武帝という絶対的な力によって隠されていただけなのだ。即ち、武帝の威光がかげれば、自ずと目を背けられてきた闇が台頭し始める。武帝という重石がなくなった後、蒼天の蓋した井戸の底に絶えず渦巻いていた潮流はあっという間に溢れ出した。
暴かれた闇に、民衆が失望するのは早い。
城下は反乱軍を名乗る賊が民衆を吸収し、大きな群れとなって曄軍の兵士を翻弄している。一群はもはや抑えようのないうねりとなった。王宮にそのうねりが到達するのも時間の問題であろう。
猛爾元は再び王に視線を遣った。
――真の人形であればいくらかは報われたであろうか。
動乱の世は温和で実直な王に報いることなく、死出の道のみを送った。民衆が失望し、王を信じず、誰が王座についても変わるまいと考えても、祐は己の責務を果たそうと王座に座る。今この時も、おもてを蒼白に染めながら、凍える体を抱きしめようともせずに椅子に肘を置く。
「皇上、ご心配召されるな。私がお守り申し上げます」
猛爾元は祐を哀れんでいた。
「ああ、頼りにしている」
祐は俯いていた顔をやや挙げて、猛爾元の眼を見つめる。言葉とは裏腹に表情は恐怖に引きつり、瞳はゆらゆらと所在げなく揺蕩っていた。猛爾元はもう一度言った。
「私がお守り申し上げます」
今は居らぬかつての王に。
――『曄書』列伝 巻七十五
*
草が燃えている。
城堡の朱塗りの蔀戸から曄国大将軍・猛爾元は城下を眺める。祭り騒ぎに似た喧噪の中、赤い❝草❞が城下の石畳を駆け抜ける。舞い上がっては消え、再びえにしを結んで首都・凰都の空を赤々と染め上げていく。
――何という赤焼けの空か。
猛爾元は真っ赤に燃え上がった空に息をのんだ。
秋の高い空を眇める。このように見事な朱に染まった夕焼けは、かつて少年だった時代に故郷近くのフフ草原で見て以来久方ぶりのことだ。
凰都に住んで数十年、美しい夕焼けは何度も首都の空に錦を広げたが、命を燃やすような朱は初めてだ。両翼に伸びた巻雲がさながら鳳凰の如き様相で、風に乗っては翼の形を変えて羽ばたき、薄く残った筋雲が生命の軌跡として輝いているようだった。
しかし、鳳凰の運気は曄を見限り、今まさに城下を燃やす草の追い風となっている。
――何故このようになってしまったのか。
猛爾元は夕焼け空から目を背け、石畳の敷かれた王の間を一瞥する。まだ十ばかりの小さな少年がその身に釣り合わぬ冕冠を被り玉座に在る。
「猛爾元、城下はどうだ」
少年が小声で尋ねた。
「火の手が上がり、賊が民を巻き込んで乱戦となっているようです」
猛爾元は略礼をとって城堡から見てとった戦況を述べる。
「我々の戦況は?」
「芳しくなく」
「そうか」
偽りのない報告に少年は拳を強く握りしめた。
王・張祐。後に諡号によって平帝と名を残す。先代武帝の死後に勃発した王位継承の争いののち、運命的に掌に天命を押し付けられた少年。第四妃の子で母子共々王位に興味がなかった――というのが猛爾元の印象だった。
先王の在位中より王位継承の争いの渦中におらず、ひっそりと室に籠っては琴を弾き、書に耽る物静かな君子で、様々な因果ののち、皮肉にも望みであった平穏とは正反対の望まぬ王座に座ることとなった。
帝王学を学んだことのない祐は、故に執政の力も無ければ、気力も無かった。最初こそ書物で得た知をもとに政に挑んだが、すぐに権力と財に堕落した官吏と外戚によって嫩い芽を摘み取られてしまった。
虹色に輝いた瞳は今や曇天の如く濁り、いつも大雨に濡れて凍えたような顔つきをしていた。彼はもはや玉座に飾られている傀儡人形だった。
祐に能力がない。故に、事は急速に成っていった――と、そう単純なことではなかった。
もとより、先王・武帝の時代に既に官吏がまつりごとを掌握してしまっていたのだ。否、武帝時代の官吏の為だけではない。武帝自身にも咎があり、猛爾元は傍らに立ちながら止めることができなかった。
(なるべくしてなったのだ)
それは、武力の研鑽のみを励み、政の世界を門外漢として遠ざけてきた己の咎でもあった。事実、武帝を諌めても、官吏や外戚を諌めても、猛爾元の言葉には力がなかった。彼にできたのはただ武帝を宥めるのみで、戦や戦支度においては重用された猛爾元も、政においては下官に及ばなかった。猛爾元の力は騎馬と武器を以て行動を捩じ伏せるのみであり、政治的、精神的には何者の心を動かすことができなければ、自由を封ずることもできなかった。
曄国の綻びは真夏の強い陽の光に似た武帝という絶対的な力によって隠されていただけなのだ。即ち、武帝の威光がかげれば、自ずと目を背けられてきた闇が台頭し始める。武帝という重石がなくなった後、蒼天の蓋した井戸の底に絶えず渦巻いていた潮流はあっという間に溢れ出した。
暴かれた闇に、民衆が失望するのは早い。
城下は反乱軍を名乗る賊が民衆を吸収し、大きな群れとなって曄軍の兵士を翻弄している。一群はもはや抑えようのないうねりとなった。王宮にそのうねりが到達するのも時間の問題であろう。
猛爾元は再び王に視線を遣った。
――真の人形であればいくらかは報われたであろうか。
動乱の世は温和で実直な王に報いることなく、死出の道のみを送った。民衆が失望し、王を信じず、誰が王座についても変わるまいと考えても、祐は己の責務を果たそうと王座に座る。今この時も、おもてを蒼白に染めながら、凍える体を抱きしめようともせずに椅子に肘を置く。
「皇上、ご心配召されるな。私がお守り申し上げます」
猛爾元は祐を哀れんでいた。
「ああ、頼りにしている」
祐は俯いていた顔をやや挙げて、猛爾元の眼を見つめる。言葉とは裏腹に表情は恐怖に引きつり、瞳はゆらゆらと所在げなく揺蕩っていた。猛爾元はもう一度言った。
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今は居らぬかつての王に。
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