上 下
13 / 32

13.懐古② レイル

しおりを挟む


 ああ、空とはこんなに澄んで青かっただろうか。美しかっただろうか。そんな風に感じたのは、どのくらいぶりだろう。
 ひ弱なレイルは、いつも家に引きこもって、狭く褪せた世界の中で俯いてばかりいたから。
 顔を上げれば、視界に飛び込んでくる色と少女は、目が覚めるほどに鮮明で鮮烈で。そんな当たり前のことすら忘れていた。
 ステラリアが、弾けそうな熟れた果実みたいに屈託なく相好を崩した。
 その一瞬の光景は、まるで一枚の絵画のようにレイルの脳裏に焼き付いた。

「ステラ、レイくんのこと好きだよ。だから、レイくん、わたしといっしょに好きなこと作って、自分のいいところをいっぱい見つけていこうよ! そしたらきっと、やだなーってことよりずっと楽しくなるよ!」
「……一緒に?」
「うん! だって、レイくんとわたしは、お友達でしょう?」

 レイルは目を見開いた。
 ふわっと。
 風が吹いたかのようだった。爽やかで柔らかい、不安を吹き飛ばすほどの、一陣の風が。

「それにね、やだなーってなるの、レイくんだけじゃないよ。わたしもねー、刺繍が下手だし、男の子にいじめられたりするし、女の子らしくしなさいって、お母様によくしかられているもん」
「そうなの?」
「うん。あ、ねえ、みてみて、これ、わたしが刺繍したの! がんばったんだよ!」
「これは……」
「お花!」
「お花」

 ステラリアが取り出した白い絹のハンカチの隅に、よれよれの刺繍が刺されている。赤と茶と緑の糸で作られた意匠は、花といわれればかろうじて花に見えなくもないが斬新だ。

「チュ、チューリップ、かな?」
「アネモネ!」
「アネ、モネ…………?」

 難易度が高い。間違えて冷や汗をかきそうになったが、ステラリアは特に気にしていなさそうで、レイルはほっとした。
 誤りはしたものの、ステラリアが不器用ながらにも、真剣に針を刺したのはよく伝わってくる。
 拙くたどたどしい刺繍。でも、何故だか、レイルには眩しく見えた。

「……ステラは刺繍、嫌い?」
「ううん、好きだよ。むずかしいし、ならったばっかりでまだお母様みたく全然上手にできないから、もーっとがんばらなくちゃだけど」
「そっか……」

 へへと、恥ずかしそうにはにかむステラリアは、苦手でも、下手でも、それを卑下したりしない。全身で楽しさを訴えている。
 ああ、そうか。
 これは、ステラの努力がたくさん詰まった軌跡だから、輝いてみえるのか。
 レイルは糸をそっとなぞった。この不器用で温かみのある刺繍が、酷く愛おしいもののように思えた。
 自分は、ステラが決して上手いとは言えない刺繍を腐らず取り組んだように、果たして懸命に頑張ったことはあっただろうか。
 虚弱だという己の境遇を呪うばかりで、事態を改善をしようと励んだことがあっただろうか。
 言い訳を重ねて、拗ねて、甘えて、諦めて、何もせずに逃げてばかりではなかっただろうか。
 レイルの未来は、まだまだこれからだというのに。

「ねえ、ステラ。このハンカチ、僕にくれないかな? 絶対に大切にするから……!」
「うん、いいよ! じゃあ、お友達になったきねんに、レイくんにあげる!」
「あ、ありがとう。ステラ、僕、絶対に頑張るからね」

 ステラリアにとっても思い入れのある一品だろうに、快く譲ってもらえたことが嬉しくてたまらなくて、自然とレイルの唇が緩む。

「あっ、レイくん笑った! かわいい!」

 それは、わずかではあったものの、表情に乏しいレイルにとって、笑顔と呼べるものだった。




 こうして迎えたその日の晩のこと。

「父上、母上、お願いがあります。体力作りも合わせて、僕にきちんと侯爵家の教育を受けさせてください。最初は、へとへとに疲れたり、倒れたりするかもしれません。でも、どうしても頑張りたいから、見守っていて欲しいのです」

 そう決意表明をして、普段食の細いレイルが料理を頬張り始めた姿に、両親がそろって目を丸くしたのは、今でもイングラム家で話題にのぼる定番だ。
 両親は急に成長を見せ、毅然としたレイルに喜び、全面的に教育のバックアップをしてくれた。
 少しずつでもいい、あの眩いステラリアに並び立てる男になりたかった。
 だけど、早くしないと、魅力的な彼女の隣が他の誰かに奪われてしまうかもしれないから、そこはこっそり父に頼んで権力を行使した。ステラリアだけが、知らない秘密だ。
 ステラリアはレイルをお友達だと言ってくれたが、それだけでは物足りない。恋に落ちるのは一瞬だった。


 こうして、ステラリア・ガルシアに出会ったその日、レイル・イングラムは一つ大人の階段を上ったのだ。


* * *


「おや、それは、確かステラリア様が初めてレイル様に下さった、刺繍入りのハンカチですね」
「懐かしいだろう?」
「…………ポピーでしたっけ?」
「アネモネだ」
「全然わかりません……。婚約記念の侯爵家の家紋も、未だにわかりませんが」
「いいんだ、わからなくても。これはアネモネ」

 誰に理解されなくても、このアネモネの花は、レイルとステラリアがわかっていればいい。
 あの時、初めて感じた愛しい想いは、今もなお鮮やかにレイルの胸に咲き誇っている。
 赤のアネモネの花言葉は、『君を愛する』。
 アネモネは、レイルにとって特別な花になった。

「ふふ。あの頃のレイル様は、本当に必死でおかわいらしかったですね。ステラリア様の後についてちょこまか動くレイル様は、使用人の間でもひよこのようだと微笑ましく見守られて……」
「言うな……。とはいえ、ステラに釣り合う人間になりたくて頑張ったから、今の俺がある」
「はい。やや頑張りすぎたきらいはありますが」

 マクベスはそう苦笑するが、自分からするとまだまだだ。
 あれから、ステラリアは宣言通り頻繁に侯爵邸に遊びに来ては、レイルの体調に合わせて内に外に遊びに興じた。
 レイルも体力をつけるために、幾度となくくたくたになりながらも、死に物狂いで身体を鍛えた。
 虚弱を脱すると共に、遅れていた貴族としての学習やマナーにも積極的に取り組み、魔法や武芸だけでなく、様々な知識や流行を詰め込んで、涙ぐましいほどひたすら努力を積み重ねた。

 ある程度の教育が済み、胸を張って侯爵家の後継者と言えるまでに1年かかったが、そこで矢も楯もたまらずステラリアと婚約を結んでもらった。
 ステラリアの婚約者、という響きがあまりにも甘美で。嬉しくて、嬉しくて、枕を胸にベッドに横たわりながら、いてもたってもいられずゴロゴロと身を悶えさせた。
 それが何故かしっくりきて、以来ベッドの上で転がりながら、ステラリアへの想いを叫んでいる。
 当初、目を白黒させ、物凄い複雑な顔をしていたマクベスも、やがて主人の奇行にも慣れ、腹を割って話せる友であり側近になった。
 彼女と一緒に見つけてきた「好き」は、これでもかというほどにあげつらえる。
 学ぶこと全般を初めとして、ガーデニング、乗馬、魔術、観劇、紅茶などなど、レイルの興味は多岐に渡る。意外にも、自分は旅行を好んだ。
 読書が好きなステラリアと一緒にたくさんの本を読み、彼女が素敵だとうっとり頬を染めた令嬢と騎士の恋愛小説もきっちりチェックして、ステラの好きなタイプを参考にしたりもした。マクベスに「現実と小説は違いますよ……」なんて呆れた風に突っ込まれたが、そんなの痛いくらいわかっている。実際の自分が、物語の騎士のようにスマートに愛を囁けるわけがなく、よく凹んだ。
 そんな風に、どれだけ好きなものを見つけたとて、レイルのただ一つ、否、ただ一人の「好き」は、絶対に変わらない。レイルの人生に影響を多大に与え、活力になっている。

 そうして自らを磨くべく打ち込んでいるうちに、いつの間にか幼少の評判なんて最初からなかったかのような、氷の貴公子という通り名がついた。不思議なことに気の合った王太子クリストファーの側近に取り立てられ、益々多くの称賛と秋波を浴びた。
 けれども、そんなうわべだけのもの、レイルにとっては何の価値もない。

 レイルの努力は、いつだってしるべをくれたただ一人のためだけに。




 ――これは、レイルとステラリアが婚約する少しの前のお話。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

側妃、で御座いますか?承知いたしました、ただし条件があります。

とうや
恋愛
「私はシャーロットを妻にしようと思う。君は側妃になってくれ」 成婚の儀を迎える半年前。王太子セオドアは、15年も婚約者だったエマにそう言った。微笑んだままのエマ・シーグローブ公爵令嬢と、驚きの余り硬直する近衛騎士ケイレブ・シェパード。幼馴染だった3人の関係は、シャーロットという少女によって崩れた。 「側妃、で御座いますか?承知いたしました、ただし条件があります」 ********************************************        ATTENTION ******************************************** *世界軸は『側近候補を外されて覚醒したら〜』あたりの、なんちゃってヨーロッパ風。魔法はあるけれど魔王もいないし神様も遠い存在。そんなご都合主義で設定うすうすの世界です。 *いつものような残酷な表現はありませんが、倫理観に難ありで軽い胸糞です。タグを良くご覧ください。 *R-15は保険です。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈 
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

そろそろ前世は忘れませんか。旦那様?

氷雨そら
恋愛
 結婚式で私のベールをめくった瞬間、旦那様は固まった。たぶん、旦那様は記憶を取り戻してしまったのだ。前世の私の名前を呼んでしまったのがその証拠。  そしておそらく旦那様は理解した。  私が前世にこっぴどく裏切った旦那様の幼馴染だってこと。  ――――でも、それだって理由はある。  前世、旦那様は15歳のあの日、魔力の才能を開花した。そして私が開花したのは、相手の魔力を奪う魔眼だった。  しかも、その魔眼を今世まで持ち越しで受け継いでしまっている。 「どれだけ俺を弄んだら気が済むの」とか「悪い女」という癖に、旦那様は私を離してくれない。  そして二人で眠った次の朝から、なぜかかつての幼馴染のように、冷酷だった旦那様は豹変した。私を溺愛する人間へと。  お願い旦那様。もう前世のことは忘れてください!  かつての幼馴染は、今度こそ絶対幸せになる。そんな幼馴染推しによる幼馴染推しのための物語。  小説家になろうにも掲載しています。

【完結】記憶を失くした貴方には、わたし達家族は要らないようです

たろ
恋愛
騎士であった夫が突然川に落ちて死んだと聞かされたラフェ。 お腹には赤ちゃんがいることが分かったばかりなのに。 これからどうやって暮らしていけばいいのか…… 子供と二人で何とか頑張って暮らし始めたのに…… そして………

やり直すなら、貴方とは結婚しません

わらびもち
恋愛
「君となんて結婚しなければよかったよ」 「は…………?」  夫からの辛辣な言葉に、私は一瞬息をするのも忘れてしまった。

私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです

こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。 まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。 幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。 「子供が欲しいの」 「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」 それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。

私がいなくなった部屋を見て、あなた様はその心に何を思われるのでしょうね…?

新野乃花(大舟)
恋愛
貴族であるファーラ伯爵との婚約を結んでいたセイラ。しかし伯爵はセイラの事をほったらかしにして、幼馴染であるレリアの方にばかり愛情をかけていた。それは溺愛と呼んでもいいほどのもので、そんな行動の果てにファーラ伯爵は婚約破棄まで持ち出してしまう。しかしそれと時を同じくして、セイラはその姿を伯爵の前からこつぜんと消してしまう。弱気なセイラが自分に逆らう事など絶対に無いと思い上がっていた伯爵は、誰もいなくなってしまったセイラの部屋を見て…。 ※カクヨム、小説家になろうにも投稿しています!

【完結】捨てられ正妃は思い出す。

なか
恋愛
「お前に食指が動くことはない、後はしみったれた余生でも過ごしてくれ」    そんな言葉を最後に婚約者のランドルフ・ファルムンド王子はデイジー・ルドウィンを捨ててしまう。  人生の全てをかけて愛してくれていた彼女をあっさりと。  正妃教育のため幼き頃より人生を捧げて生きていた彼女に味方はおらず、学園ではいじめられ、再び愛した男性にも「遊びだった」と同じように捨てられてしまう。  人生に楽しみも、生きる気力も失った彼女は自分の意志で…自死を選んだ。  再び意識を取り戻すと見知った光景と聞き覚えのある言葉の数々。  デイジーは確信をした、これは二度目の人生なのだと。  確信したと同時に再びあの酷い日々を過ごす事になる事に絶望した、そんなデイジーを変えたのは他でもなく、前世での彼女自身の願いであった。 ––次の人生は後悔もない、幸福な日々を––  他でもない、自分自身の願いを叶えるために彼女は二度目の人生を立ち上がる。  前のような弱気な生き方を捨てて、怒りに滾って奮い立つ彼女はこのくそったれな人生を生きていく事を決めた。  彼女に起きた心境の変化、それによって起こる小さな波紋はやがて波となり…この王国でさえ変える大きな波となる。  

処理中です...