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前編
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「ジゼル・ヴィオラント侯爵令嬢! 王太子たる私の婚約者にあるまじき所業、胸に手を当てて考えてみるがいい! 本日この時をもって、君との婚約を破棄をさせてもらう!」
「ええ……?」
学院のホールにて、卒業記念のパーティが始まる間際。
このめでたき日を祝い、卒業生も在校生も一同各々さざめきあい、始まりを今か今かと待ちわびていたその時だ。
突如、この学院に在籍する誰しもにとって、耳慣れた声が響いたのは。
強く自信に満ち溢れたその声音は、ノルンディード王国第一王子、ノクティス・セラフ・ノルンディード殿下から発せられた。
浅く刈った淡い金髪に紫の瞳を持つ彼は、一人の女生徒の腰を抱き寄せながら、ホールの中央に躍り出た。
そして、友人と談笑をしていた目の前の少女――婚約者であるはずの私、ジゼル・ヴィオラントを強く見据え、先のような言葉を投げ放ったのだ。
しん……と、水を打ったかのように、パーティ会場は静けさに包まれた。生徒たちは一体何事かと固唾を呑んで、なりゆきを見守っている。
ホール内の視線すべてを集める中、侯爵令嬢として、あるまじき気の抜けた声を漏らしてしまったのは、つきつけられた内容が、あまりにもあまりすぎたから。動揺や緊張などは一切感じていない。私の脳裏に浮かんだのは、ただ一つ。
こいつ、とうとうやりやがった!
ツッコミがいがたくさんあるなと、表向き笑顔を崩さず、私は内心で盛大にため息をついた。
いつか何かをやらかすだろうとは思っていた。
だが、正直、卒業という一大イベントたるこのよき日に、婚約破棄を堂々と宣言されるとは、予想だにしていなかった。
その程度の分別はあると思っていたのだが、買い被りだったようだ。王族を称するなら、空気くらい読んでくれないものだろうか。
そもそも、ノクティス殿下は現時点で王太子ではない。この後執り行われるの立太子の儀を経て初めて、正式に王太子の扱いを受けるのだ
それに、婚約者にあるまじき所業とは、一体何のことだ。
これでも、幼い頃から勉学に励み、教養を身に着け、厳しい王妃教育を乗り越え、王国に咲き誇る淑才女という二つ名までもらった令嬢中の令嬢たる自負はある。
その私に対して、煽るような言い方。正直、心当たりがなさ過ぎて、首を捻ってしまう。
それもこれも、王家にありながら勉学も武術も特筆して秀でたものがなく、生真面目で基本的に悪い人ではないのだが、いまいちぱっとしないノクティス殿下を支えるため。
この婚約が、政略的な意図をもって組まれているのを、彼はきちんと理解しているのだろうか。
理解はしているのだろう。だが、感情が受け付けなかった。恐らくそんなところか。
伊達に長らく付き合ってはいない。彼の行動原理など、ある程度は予測できる。
私は友人に目配せをしてから、凛と背筋を伸ばし、ノクティス殿下に向き直った。ミルクティー色の長い髪が、ふわりと空をたなびく。
何一つとして、恥じることはない。受けてたとう。
「ノクティス殿下、ご自分が何を申されているのか、ご理解されていらっしゃいますか? 一体どういった理由で?」
そう尋ねながら、私はノクティス殿下に身を寄せる少女へと視線を流す。
怯えた風に琥珀色の瞳を潤ませた可愛らしい少女は、緩くウェーブがかったピンクブロンドを揺らしている。
耳たぶと首元に、きらきらと輝くアクセサリーが美しい。パーティーは一律制服参加だが、送り出す側の在校生なのに、卒業生を差し置いて、やたら主張が激しい。男爵令嬢では到底手が出せないほどの高価な宝石は、ノクティス殿下からの贈り物だろうか。
彼女は、マクベル男爵令嬢のディアーナ様。
学院で王子を始めとした男子生徒から人気のある、曰く小鳥のように可憐で愛らしい少女だ。華奢でありながらも出るところは出た豊満な肢体に、甘えるような声、ふわふわと危なっかしくも自由な性格で、庇護欲をそそり男性を虜にしている。私とは正反対。
だが、これがとんだ食わせ物。
ノクティス殿下から絶対に見えない陰で、ディアーナ様は勝ち誇った笑みを浮かべている。この状況で、優越感に浸れるとは、なかなかに図太い。
しかも、柔らかな胸をここぞとばかりに腕に押し付け、セックスアピールをかけているのを、私は見逃していない。仏頂面な殿下の鼻の下が、わずかに伸びている。
今どきこんなあからさまな女に惑わされる令息がいるのかと思っていたら、まんまと自分の婚約者が引っかかったと知ったあの時の私の衝撃と言ったらなかった。
フンと鼻を鳴らしたノクティス殿下は、不愉快げに眉根を顰めた。
「ジゼル、君は、このディアーナ嬢をいじめたそうだな」
「いじめ……ですか? そんな幼稚なことをした覚えは、とんとございませんが」
「誤魔化す気か。彼女の教科書やノートを破ったり、汚水をかけて制服をダメにしたり、彼女を階段から突き落とそうとしたそうじゃないか! あわや大怪我をするところだったんだぞ! 何て悪辣な。大方、愛らしい彼女に嫉妬してのことだろう!」
一人ヒートアップするノクティス殿下に対し、私ははてと小首を傾げる。
いじめ、ねぇ。
もちろん、そんな馬鹿げた真似をした記憶はない。婚約者がいる男性に、不用意に近づくのは淑女としてどうかと軽く注意をした気はするが、それっきりではなかったか。
それに、ノクティス殿下に再三物申しても、「ディアーナ嬢とは友人だ」とか「君は私を疑うのか?」とか何とか言って、右から左に流すだけで、態度を改めようとしない。進言しても無駄だと諦めたのは、果たしていつだったか。
「わ、私……凄く恐くて……ですが、身分的に逆らえなくて……ずっと辛くて……」
「ああ、可哀想に。泣かないでくれ、ディアーナ、私の運命」
「ノクティス様……嬉しい……!」
涙の膜を浮かべ、か細い声を震わせたディアーナ様を、ノクティス殿下がそっと抱き寄せ、二人は周囲を忘れたかのように熱を帯びた瞳で見つめ合う。
うわ、何て恥ずかしい茶番。青筋を浮かべなかった私を、誰か褒めて欲しい。
「そんな幼稚な……」
「ええい、口答えをするな! してよいことと悪いことの区別すらもつかないのか、君は!」
「だから、私じゃないですってば……」
「目撃者もいるんだ。言い逃れはできないぞ。さあ、罪を認めろ!」
ノクティス殿下は、胸を張る。その自信は、果たしてどこからくるのだろう。
何だか頭痛に襲われそうだ。思わず額に指先を当ててしまった。今日は予想外のことが起こりすぎる、斜め下に。
ノクティス殿下とディアーナ様の背後に控える者たちが、その目撃者とやらだろうか。ディアーナ様に熱を上げている男性だったり、甘い汁を啜るべく組する取り巻きだったり、あるいは脅され金を握らされた令嬢だったり。殿下の側近のほとんどが、その場にいないことだけが救いか。
今どき、教科書を破っただの汚水をかけただの、きちんと家で教育を受けた貴族による嫌がらせにしては、あまりにも低俗すぎる。学園入学前の幼い子たちだって、やるか怪しい。階段はさすがに洒落にならないけれども。
でっちあげもいいところだが、すっかり興奮しているノクティス殿下は、聞く耳を持ちそうにもない。
可もなく不可もない男だが、割と頑固で、自分がこうと決めたら絶対にこうという融通のきかなさがある。為政者になるには致命的だと言われていた悪い癖が、如実に現れていた。
ノクティス殿下の頭の中は、ディアーナ様を守り悪を断罪する、物語のヒーローのような展開で占められているのだろう。何ともお花畑で羨ましい。
「お言葉ですが殿下、そんなせせこましくて涙ぐましいいじめなんかせずとも、マクベル男爵家お抱えの商会を、我が家の商会の手で物理的に潰したほうが手っ取り早いです。やるなら徹底的にやらねば舐められます。もちろん、実際するかどうかは別の話になりますが」
私は粛々と事実を述べた。
状況を見守り、ひそひそとざわついていたホールが、ぴしりと固まった空気に変わったのが解せない。
そもそもこれだけ身分差があり、侯爵家は盛大に商売もしている。小癪な手段を取らずとも、ろくな後ろ盾もなく商会一つでどうにか成り立っている男爵家などひとたまりもない。裏から手を回す必要すらもないほどに。第一、件の商会については良い噂を聞かないため、良心も痛まない。
大体、万が一にも、ノクティス殿下の思惑通りに事が運んだとしたら、私は嫉妬で教科書を破って、汚水をかけて、階段から突き落とした罪で婚約破棄をされた令嬢のレッテルを貼られるのだ。ちっちゃい。ちっちゃすぎて、逆に私が恥ずかしいし、私のプライドが許さない。
間諜を忍ばせているであろう近隣諸国に、こんな間抜けな話が知られてみろ。笑い者もいいところである。
「ジゼル! きっ、君は血も涙もないのか!? そんな身分を笠に着るような真似をして! やはり君は王妃にふさわしくない!!」
「ひ、酷いですわ、ジゼル様!!」
「昔から可愛げのない女だと思っていたんだ!」
表情をこわばらせたディアーナ様を守るよう、しっかと抱きしめたノクティス殿下から、忌々し気に睨みつけられる。あんまりな罵りようだが、その言葉そっくり返したい。
正式な婚約者たる私が存在するにもかかわらず、他の女に現を抜かした挙句、身分を笠に着て一方的に公開処刑しているのはどこのどいつだ。
言葉にまとめると、本当に情けないし、王家の人間としてあるまじき醜態だとわからないのか。私は、段々と悲しくなってきた。
とはいえ、ノクティス殿下も、ある意味可哀想な人なのだ。
目に見えるほどの才能に恵まれもしない。努力を重ねても、成果はなかなか出ない。私という出来の良い婚約者をあてがわれ、更に自分よりもよっぽど優秀な弟が控えている。意固地にもなるだろう。
ノクティス殿下が、板挟みに苦悩しているのを、私は知っていた。
それでも、彼には苦境をはね退けて欲しかったのだ。
はね退けなければならなかったのだ。
今は見る影もないが、比較的温厚で生真面目な性格のノクティス殿下の周りには、多くの優秀な人材が集まっていた。彼は一人じゃない。誰の手を借りてもいい。王にはそれぞれ王としてのやり方がある。
けれども、ノクティス殿下はそれを見誤り、この女に付け込まれた。
正直、王家の人間が、いとも容易くハニートラップに引かかるとは。教育係は何をやっていたんだ。
基本優秀で堅実に国を治めてきたノルンディードの王族だが、時折、抜けていたり傲慢だったりする王子王女を産み育ててしまう。直近だと3代前の第二王子とその派閥がしでかした事件は、歴史書に記され、教訓としても新しい。彼は幽閉されたまま、二度と日の目を見ることなく若くして命を落としている。
(……潮時、か)
婚約者としてそれなりの時間をノクティス殿下と共に過ごしてきたから、私ももちろん情がないわけではない。国を治めるパートナーとして、手を取り協力し合っていこうという意識を、お互いに育んできていたはずだ。
だが、さすがにこれは救いようもない。許容範囲を超えている。
さて、どうしたものか。
このままでは膠着状態に陥って、ありもしない罪を押し切られてしまいかねない。馬鹿馬鹿しくはあるものの、事前準備が万端であろう殿下方が有利なのは違いない。
いじめなどしていないと創世神ウィルキオラに誓って言えるが、していない証明は非常に難しいのだ。
「おや、これは一体どうしたんですか?」
――その時だった。
ホール内に、軽やかで高い声が響いたのは。
「ええ……?」
学院のホールにて、卒業記念のパーティが始まる間際。
このめでたき日を祝い、卒業生も在校生も一同各々さざめきあい、始まりを今か今かと待ちわびていたその時だ。
突如、この学院に在籍する誰しもにとって、耳慣れた声が響いたのは。
強く自信に満ち溢れたその声音は、ノルンディード王国第一王子、ノクティス・セラフ・ノルンディード殿下から発せられた。
浅く刈った淡い金髪に紫の瞳を持つ彼は、一人の女生徒の腰を抱き寄せながら、ホールの中央に躍り出た。
そして、友人と談笑をしていた目の前の少女――婚約者であるはずの私、ジゼル・ヴィオラントを強く見据え、先のような言葉を投げ放ったのだ。
しん……と、水を打ったかのように、パーティ会場は静けさに包まれた。生徒たちは一体何事かと固唾を呑んで、なりゆきを見守っている。
ホール内の視線すべてを集める中、侯爵令嬢として、あるまじき気の抜けた声を漏らしてしまったのは、つきつけられた内容が、あまりにもあまりすぎたから。動揺や緊張などは一切感じていない。私の脳裏に浮かんだのは、ただ一つ。
こいつ、とうとうやりやがった!
ツッコミがいがたくさんあるなと、表向き笑顔を崩さず、私は内心で盛大にため息をついた。
いつか何かをやらかすだろうとは思っていた。
だが、正直、卒業という一大イベントたるこのよき日に、婚約破棄を堂々と宣言されるとは、予想だにしていなかった。
その程度の分別はあると思っていたのだが、買い被りだったようだ。王族を称するなら、空気くらい読んでくれないものだろうか。
そもそも、ノクティス殿下は現時点で王太子ではない。この後執り行われるの立太子の儀を経て初めて、正式に王太子の扱いを受けるのだ
それに、婚約者にあるまじき所業とは、一体何のことだ。
これでも、幼い頃から勉学に励み、教養を身に着け、厳しい王妃教育を乗り越え、王国に咲き誇る淑才女という二つ名までもらった令嬢中の令嬢たる自負はある。
その私に対して、煽るような言い方。正直、心当たりがなさ過ぎて、首を捻ってしまう。
それもこれも、王家にありながら勉学も武術も特筆して秀でたものがなく、生真面目で基本的に悪い人ではないのだが、いまいちぱっとしないノクティス殿下を支えるため。
この婚約が、政略的な意図をもって組まれているのを、彼はきちんと理解しているのだろうか。
理解はしているのだろう。だが、感情が受け付けなかった。恐らくそんなところか。
伊達に長らく付き合ってはいない。彼の行動原理など、ある程度は予測できる。
私は友人に目配せをしてから、凛と背筋を伸ばし、ノクティス殿下に向き直った。ミルクティー色の長い髪が、ふわりと空をたなびく。
何一つとして、恥じることはない。受けてたとう。
「ノクティス殿下、ご自分が何を申されているのか、ご理解されていらっしゃいますか? 一体どういった理由で?」
そう尋ねながら、私はノクティス殿下に身を寄せる少女へと視線を流す。
怯えた風に琥珀色の瞳を潤ませた可愛らしい少女は、緩くウェーブがかったピンクブロンドを揺らしている。
耳たぶと首元に、きらきらと輝くアクセサリーが美しい。パーティーは一律制服参加だが、送り出す側の在校生なのに、卒業生を差し置いて、やたら主張が激しい。男爵令嬢では到底手が出せないほどの高価な宝石は、ノクティス殿下からの贈り物だろうか。
彼女は、マクベル男爵令嬢のディアーナ様。
学院で王子を始めとした男子生徒から人気のある、曰く小鳥のように可憐で愛らしい少女だ。華奢でありながらも出るところは出た豊満な肢体に、甘えるような声、ふわふわと危なっかしくも自由な性格で、庇護欲をそそり男性を虜にしている。私とは正反対。
だが、これがとんだ食わせ物。
ノクティス殿下から絶対に見えない陰で、ディアーナ様は勝ち誇った笑みを浮かべている。この状況で、優越感に浸れるとは、なかなかに図太い。
しかも、柔らかな胸をここぞとばかりに腕に押し付け、セックスアピールをかけているのを、私は見逃していない。仏頂面な殿下の鼻の下が、わずかに伸びている。
今どきこんなあからさまな女に惑わされる令息がいるのかと思っていたら、まんまと自分の婚約者が引っかかったと知ったあの時の私の衝撃と言ったらなかった。
フンと鼻を鳴らしたノクティス殿下は、不愉快げに眉根を顰めた。
「ジゼル、君は、このディアーナ嬢をいじめたそうだな」
「いじめ……ですか? そんな幼稚なことをした覚えは、とんとございませんが」
「誤魔化す気か。彼女の教科書やノートを破ったり、汚水をかけて制服をダメにしたり、彼女を階段から突き落とそうとしたそうじゃないか! あわや大怪我をするところだったんだぞ! 何て悪辣な。大方、愛らしい彼女に嫉妬してのことだろう!」
一人ヒートアップするノクティス殿下に対し、私ははてと小首を傾げる。
いじめ、ねぇ。
もちろん、そんな馬鹿げた真似をした記憶はない。婚約者がいる男性に、不用意に近づくのは淑女としてどうかと軽く注意をした気はするが、それっきりではなかったか。
それに、ノクティス殿下に再三物申しても、「ディアーナ嬢とは友人だ」とか「君は私を疑うのか?」とか何とか言って、右から左に流すだけで、態度を改めようとしない。進言しても無駄だと諦めたのは、果たしていつだったか。
「わ、私……凄く恐くて……ですが、身分的に逆らえなくて……ずっと辛くて……」
「ああ、可哀想に。泣かないでくれ、ディアーナ、私の運命」
「ノクティス様……嬉しい……!」
涙の膜を浮かべ、か細い声を震わせたディアーナ様を、ノクティス殿下がそっと抱き寄せ、二人は周囲を忘れたかのように熱を帯びた瞳で見つめ合う。
うわ、何て恥ずかしい茶番。青筋を浮かべなかった私を、誰か褒めて欲しい。
「そんな幼稚な……」
「ええい、口答えをするな! してよいことと悪いことの区別すらもつかないのか、君は!」
「だから、私じゃないですってば……」
「目撃者もいるんだ。言い逃れはできないぞ。さあ、罪を認めろ!」
ノクティス殿下は、胸を張る。その自信は、果たしてどこからくるのだろう。
何だか頭痛に襲われそうだ。思わず額に指先を当ててしまった。今日は予想外のことが起こりすぎる、斜め下に。
ノクティス殿下とディアーナ様の背後に控える者たちが、その目撃者とやらだろうか。ディアーナ様に熱を上げている男性だったり、甘い汁を啜るべく組する取り巻きだったり、あるいは脅され金を握らされた令嬢だったり。殿下の側近のほとんどが、その場にいないことだけが救いか。
今どき、教科書を破っただの汚水をかけただの、きちんと家で教育を受けた貴族による嫌がらせにしては、あまりにも低俗すぎる。学園入学前の幼い子たちだって、やるか怪しい。階段はさすがに洒落にならないけれども。
でっちあげもいいところだが、すっかり興奮しているノクティス殿下は、聞く耳を持ちそうにもない。
可もなく不可もない男だが、割と頑固で、自分がこうと決めたら絶対にこうという融通のきかなさがある。為政者になるには致命的だと言われていた悪い癖が、如実に現れていた。
ノクティス殿下の頭の中は、ディアーナ様を守り悪を断罪する、物語のヒーローのような展開で占められているのだろう。何ともお花畑で羨ましい。
「お言葉ですが殿下、そんなせせこましくて涙ぐましいいじめなんかせずとも、マクベル男爵家お抱えの商会を、我が家の商会の手で物理的に潰したほうが手っ取り早いです。やるなら徹底的にやらねば舐められます。もちろん、実際するかどうかは別の話になりますが」
私は粛々と事実を述べた。
状況を見守り、ひそひそとざわついていたホールが、ぴしりと固まった空気に変わったのが解せない。
そもそもこれだけ身分差があり、侯爵家は盛大に商売もしている。小癪な手段を取らずとも、ろくな後ろ盾もなく商会一つでどうにか成り立っている男爵家などひとたまりもない。裏から手を回す必要すらもないほどに。第一、件の商会については良い噂を聞かないため、良心も痛まない。
大体、万が一にも、ノクティス殿下の思惑通りに事が運んだとしたら、私は嫉妬で教科書を破って、汚水をかけて、階段から突き落とした罪で婚約破棄をされた令嬢のレッテルを貼られるのだ。ちっちゃい。ちっちゃすぎて、逆に私が恥ずかしいし、私のプライドが許さない。
間諜を忍ばせているであろう近隣諸国に、こんな間抜けな話が知られてみろ。笑い者もいいところである。
「ジゼル! きっ、君は血も涙もないのか!? そんな身分を笠に着るような真似をして! やはり君は王妃にふさわしくない!!」
「ひ、酷いですわ、ジゼル様!!」
「昔から可愛げのない女だと思っていたんだ!」
表情をこわばらせたディアーナ様を守るよう、しっかと抱きしめたノクティス殿下から、忌々し気に睨みつけられる。あんまりな罵りようだが、その言葉そっくり返したい。
正式な婚約者たる私が存在するにもかかわらず、他の女に現を抜かした挙句、身分を笠に着て一方的に公開処刑しているのはどこのどいつだ。
言葉にまとめると、本当に情けないし、王家の人間としてあるまじき醜態だとわからないのか。私は、段々と悲しくなってきた。
とはいえ、ノクティス殿下も、ある意味可哀想な人なのだ。
目に見えるほどの才能に恵まれもしない。努力を重ねても、成果はなかなか出ない。私という出来の良い婚約者をあてがわれ、更に自分よりもよっぽど優秀な弟が控えている。意固地にもなるだろう。
ノクティス殿下が、板挟みに苦悩しているのを、私は知っていた。
それでも、彼には苦境をはね退けて欲しかったのだ。
はね退けなければならなかったのだ。
今は見る影もないが、比較的温厚で生真面目な性格のノクティス殿下の周りには、多くの優秀な人材が集まっていた。彼は一人じゃない。誰の手を借りてもいい。王にはそれぞれ王としてのやり方がある。
けれども、ノクティス殿下はそれを見誤り、この女に付け込まれた。
正直、王家の人間が、いとも容易くハニートラップに引かかるとは。教育係は何をやっていたんだ。
基本優秀で堅実に国を治めてきたノルンディードの王族だが、時折、抜けていたり傲慢だったりする王子王女を産み育ててしまう。直近だと3代前の第二王子とその派閥がしでかした事件は、歴史書に記され、教訓としても新しい。彼は幽閉されたまま、二度と日の目を見ることなく若くして命を落としている。
(……潮時、か)
婚約者としてそれなりの時間をノクティス殿下と共に過ごしてきたから、私ももちろん情がないわけではない。国を治めるパートナーとして、手を取り協力し合っていこうという意識を、お互いに育んできていたはずだ。
だが、さすがにこれは救いようもない。許容範囲を超えている。
さて、どうしたものか。
このままでは膠着状態に陥って、ありもしない罪を押し切られてしまいかねない。馬鹿馬鹿しくはあるものの、事前準備が万端であろう殿下方が有利なのは違いない。
いじめなどしていないと創世神ウィルキオラに誓って言えるが、していない証明は非常に難しいのだ。
「おや、これは一体どうしたんですか?」
――その時だった。
ホール内に、軽やかで高い声が響いたのは。
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